広川町誌 上巻(1) 地理篇 災異編 浜口梧陵手記編集委員会主管 広川町教育委員長 石原久男 編集委員 (初代委員長) 浜口恵璋 〃 (後任委員長) 田中重雄 〃 赤桐栄一 〃 山本文次郎 〃 岩崎 厚 〃 岩崎 功 〃 浜口しきぶ 〃 奥 喜義 〃 寺杣懐徳 〃 崎山政千代 〃 野原茂八 〃 渡部藤子 〃 山田雅胤 凡例 1、本書はできるだけ平易な表現を旨としたが、用字は必ずしも当用漢字に拘らなかった。 度量衡は尺貫法とメートル法を随意使用し、敢えて統一を図らなかった。 1、ある1つの事柄についても、執筆者によって見解を異にしている場合がある。執筆者の意見を尊重し、強いて内容の統一を目差さなかった。 1、本書には広川地方史の域を越えた叙述もあるが、絵画のバックと同じく、背景を描いて効果を狙ったのであるが、多少その色が濃きに過ぎたところ少くないのは、却って失敗と言わざるを得ない。 1、本書の執筆には多くの参考文献の助けをかりたが、それを悉く明記しなかったことをおことわりしておきたい。なお、出典はいちいち挙ぐべきであるが、それを省いた場合があるので併せ諒承願いたい。 1、本書編集に際しては、先学は勿論、各方面の方々の御協力を得たことを深く感謝する。その氏名を記して礼を尽すべきであるが、敢えて失礼させていただくことにした。 1、本書の内容に関する一切の責任は、編集委員会、分けても執筆担当者に属し、町当局は何等干渉のなかったことを付記しておきたい。 1、本書は編集委員会の編集に成るものであるが、文責はそれぞれ執筆担当者の負うべきものであるので、その氏名と執筆部門をあとがきに付記することにした。 広川町誌目次 上巻 目次<上巻> 発刊の辞・・・・・・・広川町長 平井正三朗 序文 ・・・・・・・広川町教育長 石原久男 編集委員会 凡例 自然誌 地理篇 1、位置 2、境界 3、面積及び地目 4、地形概観 5、広川町附近の地質 6、気象 生物篇 1、植物 2、動物 3、広川町の天然記念物 災異篇 1、広と津波 梧陵手記 実録稲むらの火 海嘯に関する座談会記録 2、7・18水害とわが郷土 3、防災活動について 地名篇 広川町内の地名について 広川町誌上巻(1)地理篇 災異編 広川町誌上巻(2)考古篇 広川町誌上巻(3)中世史 広川町誌上巻(4)近世史 広川町誌上巻(5)近代史 広川町誌下巻(1) 宗教篇 広川町誌下巻(2)産業史篇 広川町誌下巻(3)文教篇 広川町誌下巻(4)民族資料篇 広川町誌下巻(5)雑輯篇 広川町誌下巻(6)年表 文化誌 考古篇 鷹島遺跡 1 遺跡の発見と調査の経過 2 遺跡位置と環境 3 調査の概要 4 遺構 5 出土遺物 6 総括 歴史篇 1、広川町名の歴史 1 広川町名の由来 2 地名「ひろ」の起源 3 地名「ひろ」その後の歩み 原始・古代史 2、広川地方の原始文化の発祥 1 広川地方原始文化の誕生地 2 海を渡って来た鷹島文化 3 鷹島における原始社会の生活 4 縄文式文化の移動 5 上中野末所遺跡の発見 3、広川古代文化への出発 (1)原始文化から古代文化へ (2)古代文化の開幕 1 鷹島弥生式遺跡 2 上中野末所弥生式遺跡 3 高城山弥生式遺跡 (3)弥生式文化の様相 (4)広川地方周辺の弥生式遺跡 4、池ノ上古墳群が語るものー古代豪族の出現 1 池ノ上古墳群 2 古代豪族の出現 3 古墳時代の農耕社会 4 鷹島遺跡における古墳時代文化 5、万葉時代の広川地方とその周辺 1 万葉歌の大葉山 2 万葉歌に見える広川地方周辺 3 郷地名 4 奈良時代の文化 6、尊勝院文書とその時代―荘園制時代と貴族の熊野信仰― 1 尊勝院文書 2 荘園制時代 3 熊野信仰 7、古寺追想 1 平安仏の遺存 2 光明寺 3 手眼寺 4 仙光寺 中世史 8、蓮華王院領の頃 1 広庄と荘園領主、その荘官など 2 蓮華王院領広・由良庄の濫妨 9、熊野路の昔 1 熊野路往還の地 2 院の熊野詣 3 広川地方熊野路旧跡 4 「熊野詣日記」から 10、謎の在地領主広弥太郎 1 堀ノ内 2 湯浅氏系図に見える広弥太郎宗正 3 承久の変と広弥太郎 4 広弥太郎宗正の惣領家湯浅氏その1門 5 宗正の去就とその後 6 堀ノ内付近の門田と隻6田 11、地名が語る中世広庄豪族群象 1 殿の土居が語るもの 2 西広城主鳥羽氏 3 中野城址と地頭崎山氏 4 公文原 5 猿川城の悪党 12、広川地方八幡神社創建考 1 広川地方における3つの八幡神社 2 八幡神社の源流と推移 3 広川地方八幡神社創建の時代 4 広八幡神社 5 津木八幡神社 6 老賀八幡神社 13、中世高僧の足跡 1 明恵上人と鷹島 2 三光国済国師と能仁寺 3 明秀上人と法蔵寺 14、南北朝の動乱と岩渕の伝説 1 南朝遺臣かくれ里伝説地 2 南北朝時代の前夜 3 南北朝の対立と動乱 4 南北朝合一と後南朝抗争 15、畠山時代 16、中世庶民生活史雑考 1 顕れざる人々 2 庶民の遺したもの 3 山の生活 4 中世仏教と庶民信仰 5 宮座 6 農耕儀礼と有田田楽 7 農耕儀礼と農民社会 8 古銭埋蔵に想うこと 17、中世新仏教の興隆と広川地方 18、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄 1 広庄領主湯川氏の滅亡 2 天正の兵火と広庄内社寺 19、伝承・資料等に現れた広庄土豪群像 1 伝承・資料に遺る土豪達 2 中世の広庄土豪群像 近世史 20、近世への出発 1 近世初期の大名と広庄 2 近世初期の広浦の消長 3 近世初期の農民 4 部落差別の発生 5 村の行政 21、近世の社会と村の生活 1 生かさぬよう殺さぬよう 2 本銀返証文の事その他 3 百姓心得 4 郡奉行春廻り之節読聞書付 5 旧家の記録から 22、広浦往古より成行覚 1 「広浦往古より成行覚」 2 近世初期の漁村広浦 3 近世中期以降の漁村広浦 附大指出帳 23、津木谷柴草山論争のこと 1 当地方山論資料 2 津木谷柴草山論の顛末 24、広浦波止場と近世広浦町人の盛衰 1 広浦町人の発生と活動 2 和田波止場と広浦 3 安政の津波と広浦町人 25、熊野街道宿場の盛衰 26、南紀男山焼 27、昔の交流 1 交通の変遷 2 広川地方周辺の古道 28、近世広町人の文化的活動 近代史 まえがき 29、近代社会への発足 1 近代社会への発足と地方制度の改正 2 民衆近代化への第1歩 30、近代社会の苦難と発展 1 神仏分離廃仏毀釈 2 地租改正 3 近代資本主義 4 国威伸長時代の村民生活 5 近世済世安民の先覚者浜口梧陵 31、近代社会の変貌 1 第1次世界大戦と村民生活 2 米騒動と小作争議とその前後 3 寒村からの脱却 32、近代の迷路と蘇生 1 暗黒時代回顧 2 迷路からの蘇生 3 南海大地震・津波と7・18水害・その他 4 農業転換と広川町 行政史篇 1、藩政時代 2、広川町以前近代の行政組織 3、広川町の誕生から現在まで 広川町誌(上巻) 発刊の辞この町に住みついた私たちの祖先は、遠く縄文時代に遡ることが、鷹島の遺跡調査の結果明らかにされております。 その間幾千年、大自然の禍福に喜びと悲しみをあざない、また幾多の社会の激動の波にもまれながら生き続けてまいっておるのであります。 そこには大自然の猛威を防がんとした偉大な英知の結果の輝きや、また幾多の社会の苦難を克服した郷党の努力や協力の跡が長い歴史を通じ随所にみることができます。 昭和49年は我が広川町の百年の計である広川治水ダムが津木滝原にその雄姿を現わすこととなります。こういう時期に我が町の歴史、地一大集成した町誌を発行できることは誠に意義の深いことであります。 この町誌で明らかにされている通り、私達の祖先先人は幾多の苦難を尊い試練として堪えてきた、強い意志の血を私達は受け継いでいる事を誇りとすると共に今後一層町繁栄のため、永くその誇りと自覚をもって先人の労苦にこたえてゆきたいものです。 本町誌編集については、幸いわが町には、郷土誌などに造詣の深い方々に恵まれていたためそれらの方々に編集委員をお願いし、委員の方々の熱意と奉仕的労苦が実を結んだ次第であり、その努力を深く多とするところであります。 なお議会議員や、教育委員各位の町誌編集に際しての深いご理解とご協力、更に資料提供等にご協力下さった関係者の方々に対し、深甚な謝意を捧げ発刊のあいさつと致します。 昭和48年3月 広川町長 平井正三郎 序 文現在ほど美しい自然と調和のある生き方をまた文化を求めて模索しなければならない時節はないと考えられます。 こういう時期に本町の町誌を上梓できることは誠に意義深いことであり喜ばしい限りであります。 幾千年の私達の先祖の生活の足跡を辿れば郷土に限りない愛着を感じるとともに、未来に生きる多くの示唆や教訓がなにげなく光っているものと信じます。 美しき広川町の山野と温い黒潮に育くまれながら住み続け、続けていくであろう郷土の人々の豊かな和やかな町づくりのため、本町誌が役立てばと祈念して止みません。 終りに、本町誌を執筆された編集委員の方々の献身的なご苦労や、また資料を提供下さいました多くの関係各位のご協力を心から感謝申し上げます。 昭和48年3月 広川町教育長 石原久男 自然誌 地理篇 1 位置広川町は有田郡の南西海岸に位置し、広川の全流域と、および同流域以西の海に臨む地域を占める。あたかも紀伊水道東岸中の湯浅湾南部地域にあたり、紀伊水道を挟んで四国徳島県に相対する。 当町が作る広川町全図によって経緯度をみると広川町役場の位置は、東経135度10分34秒、北緯34度1分50秒であり、町周の4ヶ所は、西端が鷹島西端東経135度7分30秒、東端が大字岩渕東端東経135度16分50秒、南端が白馬山脈小山北緯33度57分10秒、北端が広川河口の北緯34度1分40秒である。 次に、国鉄湯浅駅からの主要駅への時間距離は東京駅666km、約6時間弱、大阪駅109km、2時間、和歌山駅37km、1時間である。南方白浜へは69km、急行1時間10分、普通2時間5分である。 2 境界当町の西方は湯浅湾に臨む海岸線である。対岸の淡路島・四国島とは遙か紀伊水道にへだてられて雲煙模糊の間に相望む。当町北境は広川下流部で湯浅町市街と境している。高城山・地蔵ノ峯・霊巌山を連ねる一連の山脈の稜線で湯浅町と境する。当町東境は森林で金屋町大字修理川および日高郡中津村と相接している。当町南境は日高郡川辺町・日高町および由良町と白馬山脈で相境する。 3 面積および地目広川町面積は町製広川町全図(航空写真)によって65.44平方kmである。これを昭和43年現在統計によると6544ヘクタールに相等しい。その内訳は左の通りである。 広川町地目別反別 田 351ヘクタール 果樹園 284へクタール 草地 3ヘクタール 山林 5157ヘクタール 宅地 74へクタール その他 675ヘクタール 計 6544ヘクタール 広川町の縦横の幅は東西の径は大字岩渕の東端から鷹島の神取まで14.4km、南北の径は白馬山脈の小山から広・天洲ノ浜北端まで9.36kmである。東西に長く南北にやゝ短い。 (参考) 「津木村郷土誌」(1914)による面積および広表の記事に 「総面積殆ンド2方里ニシテ反別2381町3反4歩 内訳反別 田 面積 142町9反5畝20歩 畑 面積 15町4畝25歩 宅地 面積 8町1反2畝10歩 山林 面積 2210町9反8畝201歩 原野 面積 3町6反3畝16歩 池沼 面積 5反5畝5歩 官有地 面積 1町4反2畝24歩 但シ河川及道路ヲ除ク。 幅員東西最長ニテ2里13町30間、本村ノ地形ハ東西ニ長ク南北ニ短シ。隋円形ヲナス。 南北の最長ニテ1里18町、最短ニテ9町40間ナリ。 以上と記されている。 次に旧南広村区域の面積広について津木郷土誌の様な文献がないが「南広村是」(1909)により引用すると、 「本村ハ明治22年町村制施行ノ際11大字(唐尾・西広・山本・上中野・南金屋・殿・井関・河ノ瀬・東中及名島)ヲ以テ1村ノ区域トシ地形西ヨリ東南(2里15町)ニ亘リ南北 (22町)ニ短ク全面積ノ3分ハ耕地7分ハ山林ニシテ大字名島東中・西広ハ稍平地ニ属シ其他ハ概ネ山際ノ高地ニ人家ヲ設ヶ東ハ広川ニ沿ヒテ熊野街道貫流シ西ノ1面ハ海ニ瀕スル云々。」 また土地の面積は 田 350町7反9畝14歩 畑 63町3段4畝28歩 宅地 19町6反7畝16歩 山林 950町1反7畝01歩 計 1383町9反8畝29歩と記している。 またさらに旧広村町の広表については、和歌山県要覧によると1419平方kmと示され、教科書副読本に0.092方里と挙げられている。また浜口恵璋師旧稿によると 「広村の総面積は111町9反歩にして0.7193方里強あり。内訳すれば 田面積、 83町1反 畑同 6町1反 溝渠海岸地及風潮よけ地、池沼・堤塘其他南北は20町とす。 と記されている。 4 地形概観広川町は湯浅湾に臨み海岸線は相当に長い。広川町地域の東南部は山地をなし、この山地より広川が流れ出す。 広川の中・下流地域はや、広い平坦地をなしている。 河流としての広川は町の南および東部に広い集水面積をもって平坦地に流れきたり、下流では平野の東部を横切り遂に湯浅湾頭で海に注いでいる。 山地 広川町の山地についてはその面積が極めて広い。町区域の南東部の広い山地がそれであり、白馬山脈の1部分である。白馬山脈には東部に護摩壇山という本県最高の山や、三里の峰という道のつく白馬山が含まれるが、広川町区域になると600m以内のなだらかな山稜となり、長者峰・小山越・藤滝越・権保越などを含んでおもに東西の方向に亘り、白崎に至って海にはいっている。そして、白馬山系はほゞ東西の方向に走っているものであるが、そうともいえない方向をとる山もある。たとえば、鹿ヵ瀬トンネルや水越トンネルを通ずる鹿瀬山脈や、地蔵の峰のように白馬山脈と方向や山脈の配列がまちまちの山がまじっている。とくに津木方面では地塊化が進んでいるといえる。 次にまた広海岸の天王山から西南方なる名南風半島までつづく丘陵性の山脈がある。なお参考のため主要の山の標高などをあげると 「広川町山稜一覧表」
河川および平野 広川 広川は源を当町と金屋町との境界付近に発する。標高575mの北の無名山をだきかかえるように2つの谷川が合流する。そこを「であい」という。であいに人家両3軒があり、自動車の終点である。付近の山々、南北の無名山・長者ノ峰、ぶじご等の峰の間を小さい屈折をなして水量を増し落合に至って上津木川と合流する。 小字落合以下は中流である。中流での集水区域は猿川区の大正池の谷、前田の水、河瀬の水等である。大字殿より下は広川沖積土平野を貫流し湯浅湾に注ぎ入る。 川は水や風化土砂の輸送路となり、地面の造成をなしている。これに加えて昔から人間のたえまない努力によって水流を制御し土地の造成もはかっているのである。 大昔の古いことは、確かな記録がないので不明であるが、慶長検地帳によると我広川町では計5437石8斗3升9合の米の生産をあげている。処で江戸後期になると6189石7斗4升の生産をあげている。 江上川 江上川は、源を大字上中野および山本の明神山に発した水を一旦志出川池に集水し、そのたがえより落ちる水が江上川となる。途中大字山本と広との境界をなし、広川町平野の西南部を北流し大字和田を貫き緩流して西ノ浜の入江に入る。 支流 広川より分岐して水田灌漑に供せられた溝渠等が集まり広市街の西南で川端川となり、耐久中学校の東南をめぐって西流して江上川に合する。 養源寺堀 養源寺の西方天州の浜の東にある溝渠である。同堀は室町時代畠山氏の構築と伝えられている。広川の下流より1条の溝渠を通路として、満潮を待って舟を入れるに便にしたが、近時は土砂で埋没して小舟がはいりうるに過ぎない。この堀は前記したように畠山御殿今の養源寺の地を築いたときに造ったものであろう。 長(おさ)川(1名新田川) 広川より分岐して灌漑に供した「ゆみぞ」の相集まったものが院の馬場にいって(新田川)養源寺堀の溝渠に注ぎ広川に入る。 溜池と井堰 わが広川町は昔から有数の米作地帯をなし、その水田灌漑には町内を貫流する広川 の水が重要な水利の用になるが、また溜池等施設は古くから行なわれている。いまこゝに溜池のうち大きいものをあげる。 溜池の表 (周回約300米以上)
川水が一旦井堰にためられて「ゆみぞ」にあげられる。広川に設けられている井堰のうち川下から順をおってあげると左の通りである。 井堰の表
現在広川には「いとのゆ」より上に9ヵ所の井堰がある。在来の「ゆ」はしばしば大雨で、こわされることがあったが、7・18の大洪水で現在のコンクリートの堰に改造されたのである。 海湾 紀州海岸の湾入21ヶ処のうち最も大きいのが湯浅湾であり、縦深が約12km、横口が約10km、昔より3里に3里といわれている。 湯浅湾の外海は白崎より北が紀伊水道、南が紀州灘である。湯浅湾は紀伊水道に面し紀州灘にくらべると浅海であり、年中波が静かである。 湾内の島々と暗礁 湯浅湾はもと浸食谷が陥没して海湾となったのである。湾内に5つの島―毛無・苅藻・鷹島・黒島および十九島(つるしま)がうかんでいる。 毛無島は湾頭部湯浅の沖合にうかぶ小さい岩山である。苅藻島は毛無の南西に位置し全島険しい岩肌の島で南北2島からなり、北島に海蝕による洞穴があって満潮時に小舟を通じる。鷹島は名南風ノ鼻より程近い海上にうかぶ。同島東面の「地ノ浦」はよい錨所である。黒島は湯浅湾南岸の衣奈に程近い。黒島はハカマカズラの北限地である。なお沖合の海鹿島の海鹿は前にはお止めといって保護されていたが、明治になってその末頃にいなくなってしまった。 湯浅湾内にはまた暗礁が多く、よい魚着き場所になっている。土用波または台風時にはその位置がくっきりわかる。 「その」と「おばせ」この2つは鷹島の西北海中にあり、字小浦からの正西方線と黒島の「のみはな」からの正北線の交叉点に位置し、多くの釣客に注目される「せ」である。その周辺は約30尋。干潮時「おばせ」の水深約1.5メートルである。「そがみ」のせは前記のせより北方に位置するが、田村の海岸「小山ノ棚」より正西線をひき、鷹島から正北線をひくとその交叉点といえる。「そがみ」付近の水深20尋、干潮時水深2.5メートル、満潮時1.0メートルを増す。「7畝のせ」は苅藻付近約7アールを占め付近の水深は「そがみ」よりずっと浅い。「こだいどんのせ」は苅藻島北西1キロメートル余り。以上「おばせ」「そがみ」「七畝」および「こだいどん」の4つは湯浅――和歌山方面間の船舶のコースに当っている。以下湾内南西南西方に点在のせ。「宮崎だしのせ」は広・湯浅より名南風北岸付近につくとき苅藻島を越して宮崎が見え出す時の本船の位置が「出しのせ」である。「むろの木のせ」は鷹島の南縁「あかしぎ」の南方約50メートル、遠い昔にムロの巨木が立っていたという伝承がある。付近の水深18尋。その他数ヶ所の「せ」は省略する。 5 広川町附近の地質このあたり一帯、湯浅町広川町の地質構造はすこぶる複雑を極めているといわれ、従来その道の専門家の注目を引いている所であり、幾回か幾人かの学者の調査によって、その実態は明かにされきたっているが、なお疑問の点もあるとのことである。 現在まで幾人かの専門学者によってこの地方の地質分層に各種の名称が付けられて発表されている。その一端をのべると、高田層、浮石層、田村層、栖原層、湯浅層、水尻層、有田層、西広層、柄杓井層、井関層、寺杣層などがあげられている。また含有する化石類もその種類が多くそれに対する研究もなされている。ここでは極く簡単にその概略を述べるにとどめたいと思う。もちろん各種の参考書や各学者の発表の概略を記するのだが、それらの著述や氏名は略さしていただくことにする。記述にあたっては主として和大教授津田秀郎氏の解説をたどっていったのだが誤り伝えるやもと恐れるばかりである。 主な地層 この地方は、地層としてはだいたい中世界白亜紀層に属するのであるが、古生界秩父系のものも含まれているし、局部的ではあるが火成岩も含んでいるといった複雑な地層である。その上この地方は甚だしい断層、褶曲、逆転等が多く見られる。 おおまかにみて、鳥屋城層を最上部とし、松原層、西広層などと続き、最下部が湯浅層である。 1、中世層 有田川流域以南日高郡一帯にわたっているが、広川流域に白亜系、その南にジュラ系が東西に分布している。 鳥巣統 日高郡由良から東北明神山脈を越えて霊巌寺付近より八幡安諦に至っている。 黒灰色でハンマーで打つか砕くと石油臭がする石灰岩を含むのが特徴である。霊巌寺附近は砂岩、粘板岩の5層からなり、石灰岩を挟んでいる。この石灰岩は総延長2000メートルにも達する大きな鉱体である。巾400メートルから70メートルに達する。浸蝕を受けて奇巌を呈しているものも見られる。 この層の南側に寺杣層がある。 寺杣層 おもに灰白色砂岩からなり、粘板岩を挟んでいる。砂岩は粘板岩の破片を含有することが多く、他の地層中の砂岩と区別しやすい。 わが津木寺杣付近にも発達したものが見られ、砂岩、頁岩の互層から成っている。従来、化石が発見されなかったので時代不明であったが、新屋兼次郎氏がイノセラムスの化石を寺杣で出された。昭和26年6月で、これによって寺杣は白亜紀の下部のものとわかったのである。 白亜系 湯浅海岸から有田川流域に沿って清水町板尾まで分布している。化石の産出が多く、県下でも地質構造並に化石研究の最も進んだ地方となっている。地層を下部から述べると次のようになる。 湯浅層(領石統) 広川町天王山とその近辺にかけて砂岩、礫岩、頁岩からなり、瀕海、河口、陸成の推積物で厚さ約100メートルほど、瀕海性の貝化石を多く含み、その下部では植物化石(シダ、ソテツの類)が出る。 有田層(物部川統) 厚さ約200〜300メートル、当地方の主要なもので主に浅海性の砂岩、頁岩から成り、下部には礫岩がある。南部では頁岩の互層中に黒色のサンゴ礁石灰岩をレンズ状に挟んでいる。これは従来鳥巣石灰岩と同一視されていたものである。 砂岩中に三角貝などの化石を、砂岩質頁岩中にアンモナイト、ウニ、イノセラムス等の化石を含んでいる。 西広層(物部川統) 西部有田での主要なものの1つで、400〜500メートルほどある。有田市とは不整合であり、基底礫岩を伴い、西部では花崗閃緑岩に接している。半鹹半淡水性の2枚貝、巻貝や石灰、植物化石が出る。 井関層 有田南部と東西に長く連なり400〜500m程度である。西広層の同時異相であり、西広層は北部に、井関層は南部にあり、有田層とは不整合である。礫岩ではじまり砂岩、頁岩からなり、西広層とくらべると青灰色の硬砂岩である。イノセラムス、植物の破片化石がある。 主要な化石(町内のみのもの) a湯浅層 =主として天王山より出るもの Nilssonia sp. Donites sp. Zamisphyllum sp. Onichiopsis sp. Cladophlebis sp. Polymesoda nanmanni(Neumamayr) Corbicula sanchuenensis (Yabe etnagao) Glauconia(?) cf neumayri(Yabe) Trigonia sp. b有田層 (町内のみのもの) Trigonia Hokkaidoana Yehara 白木、池ノ上 Trigonia Kikuchiana Yokoyama 池ノ上 Gerrillia Shinoharai Matsumoto 白木坂 Pinna sp. 白木 Exogyra sp. 白木、高城北西 G.meta forbesiana Amano & Matsumoto 白木 Bakevellia Haradae Yokoyama 白木 Trigonia Kikuchiana York. 白木、高城北西 Chlamys sp. 白木 Lima cfr. ishidoensis Y.&N. 白木 "Astarte aff. Subsenecta 白木 Inoceramus sp. Anderson 井関 Asaphis sp. 高城北西 Solenopora sp. 南金屋 Girvanella sp. 南金屋、西広南東 Litothamnium(?) sp. 南金屋 Cladocoropsis mirabilis Felix 南金屋、西広南東 Strylina Higoensis Eguchi 南金屋、名南風 Thamnastera Yuraensis Eguchi 南金屋、西広 Dimorpharaea (?) sp. 南金屋、西広 Spongiomorpha (Heptastylopsis) asiatica , Yabe & Sugiyama. 南金屋、西広 Chaete topsis crinita Neumayr. 南名風 Stroma topora (Parastromatopora) Japonica Yabe 南金屋、西広、名南風 Pyenoporidium lobatum Yabe & Toyama 西広南東、名南風 S.(P.) Memoria-naumanni 西南東 S.(P.) Kiiensis Yabe & Sugiyama 西広 S. (P.) Mitodaensis Y. & S. 西広 Sulenopola rathopletzi(Yabe) 名南風 c西広層 (町内のみのもの) Gervilla Shinanoensis. Yetne 池ノ上 Gervilla Prensdorstrata Nagao 池ノ上、小浦 Bakevellia (?) cfr. Shinanoensis (Yabe & Nagao) 西広、白木、鷹島 Exogyra sp. 西広東方、池ノ上 Porymesoda (Isodomella) Shiroiensis(Y.&.N) 西広東方 P(I.) Shiroiensis Var.alata (Y.&.N.) 西広東方 Natica (Amauropsis) Sanchuensis Y.&.N. 名南風、西東方 B. Pseudorstrata Yab & Nagao. 白木 Mellania Cancellata Y. & N. 白木、鷹島 Vanikora Japonica Nagao 鷹島 Sphenopteris (?) sp. 広八幡森 Nilssonia Schaumburgensis.(Dunker) Nathorst 池ノ上 Plillophyllum pecten(Phillips) Morris. 池ノ上 Trigonia Kikuchiana Yokoyama 広西東方 T. Pacilliformis Yokoyama 西広東方 T. Hokkaidoana Yehara 西広東方 “Ostarte"cfr. Subsenecta Yabe & Nagao 西広東方 d井関層 (町内のみのもの) Gerrillia farbesna D'orrigny 井関 Gerrillia Shinanoensis Yabe & Nagao 井関 Inoceramus.sp. 外に Hantes.sp.(?) 鈴子附近 2、火成岩類 白亜系中に火成岩の貫入は少いが、きわめて注目すべきは西部湯浅広附近に限られているが、ナバエノ鼻から鷹島、黒島に貫人している花崗閃緑岩と、天王山に蛇紋岩がある。 ナバエノ鼻の火成岩 花崗閃緑岩 石英、斜長石、黒雲母、角閃石を主成分とする火成岩である。ここではこの岩石がゴドランド紀石灰岩及び古期岩層の砂岩質、頁岩質の水成岩を捕獲している。 蛇紋岩 カンラン石、輝石などから変質した蛇紋石を主成分としている。滑らかな面が発達して片状にもめていることが多い。部分的に珪化作用をうけたり又炭酸塩化作用によって淡黒色をしている。 輝緑岩 粗粒玄武岩斜長石輝石を主成分とする暗緑色または黒緑色で細粒または中粒である。 ゴトランド系 前記西広ナバエノ鼻南岸で、昭和27年市川浩一郎、石井健一、田中啓策の3学者によって発見されたもので、直径7〜8メートルの白色結晶質石灰岩塊が、花崗閃緑岩に捕獲されている。この石灰岩は部分的に多少赤味を帯びていて、この部分から Favosites. Halsites の化石が発見され、このことによってこの石灰岩の年代はゴトランド紀中期と確認され、化石を含む地層として我が国では最古のものとされ約3億6千万年前のものであるという。なお、ここの石灰岩質、火山岩の影響で大理石に変化しているものも見られ、前記の化石のほかストマトポロイドやシダリスも入っている。 6 気象天気が晴れたり曇ったり、雨が降ったり風が吹くなどは大気中に起こる気象の変化である。気象が原因となっておこる災害に風害・洪水・霜害・火災・冷害・煙霧・落雷などの自然災害や気象の変化によるおこりやすい病気にぜんそく・リュウマチ・神経痛などもある。 気象の状態をあらわす諸要素は通常気温・気圧・風速・湿度・雲量・雲形・降水量などである。 気温 和歌山気象台で観測、明治12年(1879)より昭和39年(1964)迄86ヶ年にわたる日平均気温の月平均値をみると、
であり、平年値は15.5度である。 次に隣町の湯浅の気温をみると、 湯浅の各月平均気温(1951(昭和26年]〜1954(同29年〕) 月別 |
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 | |
1951(昭和26年) | 5.3 | 7.5 | 10.3 | 14.6 | 17.9 | 22.5 | 27.2 | 27.4 | 22.3 | 19.0 | 11.8 | 9.7 | 16.1℃ |
1952(同27年) | 6.2 | 7.2 | 8.3 | 14.3 | 17.3 | 21.9 | 25.5 | 27.5 | 24.8 | 17.1 | 14.4 | 8.7 | 16.1℃ |
1953(同28年) | 5.8 | 5.8 | 9.9 | 12.9 | 18.0 | 23.0 | 26.6 | 28.2 | 24.5 | 19.0 | 12.9 | 9.7 | 16.4℃ |
1954(同29年) | 7.2 | 7.9 | 8.8 | 15.1 | 18.1 | 20.3 | 25.0 | 28.0 | 25.0 | 17.6 | 14.0 | 8.4 | 16.3℃ |
月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
広 | 8.0 | 6.8 | 9.7 | 15.4 | 19.4 | 22.7 | 26.6 | 28.2 | 25.0 | 19.6 | 14.5 | 9.4 | 17.0℃ |
清水 | 3.9 | 3.2 | 7.1 | 14.1 | 18.5 | 21.6 | 25.4 | 26.1 | 22.4 | 15.5 | 9.5 | 4.5 | 14.3℃ |
湿度/月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
% | 67 | 67 | 68 | 70 | 73 | 78 | 80 | 78 | 79 | 76 | 74 | 71 | 73 |
湿度/月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
1951年 | 60 | 63 | 59 | 58 | 62 | 69 | 79 | 65 | 64 | 64 | 70 | 64 | 66 |
1952年 | 69 | 68 | 62 | 66 | 65 | 73 | 74 | 68 | 73 | 64 | 68 | 60 | 68 |
1953年 | 67 | 66 | 74 | 65 | 65 | 79 | 76 | 76 | 76 | 69 | 66 | 69 | 70 |
平均 | 65 | 65 | 65 | 63 | 64 | 74 | 74 | 70 | 71 | 66 | 68 | 64 | 68 |
台風名 | 時期 | 気圧 | 最大風速 |
第1室戸台風 | 1934 | 912〜959 | 45・O |
第2室戸台風 | 1961 | 939・3 | 56・7 |
気圧/月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 |
ミリバール | 1020.0 | 1019.1 | 1017.9 | 1015.0 | 1012.7 | 1009.2 | 1009.4 | 1009.9 | 1012.1 | 1017.2 | 1025.5 | 1020.5 | 1015.3 |
広 /月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 総雨量 |
降雨量 | 86.7 | 52.8 | 106.4 | 260.1 | 113.6 | 291.6 | 130.9 | 294.4 | 345.4 | 152.4 | 47.9 | 42.4 | 2256.7 |
年 /月別 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 総雨量 |
昭和42年 | 9.8 | 22.0 | 22.1 | 276.0 | 59.0 | 74.0 | 352.0 | 285.0 | 81.0 | 237.5 | 108.5 | 28.0 | 1842.0 |
昭和43年 | 58.5 | 134.5 | 199.5 | 111.0 | 101.5 | 35.0 | 484.0 | 270.5 | 305.5 | 5.5 | 93.0 | 146.0 | 1944.5 |
昭和44年 | 106.0 | 136.5 | 930.0 | 以下中止 |
安政元年海嘯の実況 浜口梧陵手記 嘉永7年寅11月4日4ツ時(午前10時)強震す。震止みて後直ちに海岸に馳せ行き海面を眺むるに、波動く模様常ならず、海水忽ちに増し、忽ちに減ずる事6、7尺、潮流の衝突は大阜頭の先に当り、黒き高浪を現出す。 其状実に怖るべし。 伝へ聞く、大震の後往々海嘯の襲ひ来るありと。依って村民一統を警戒し、家財の大半を高所に運ばせ、老幼婦女を氏神八幡境内に立ち退かしめ、強壮気丈の者を引き連れて再び海辺に至れば、潮の強揺依然として、打ち寄する浪は大阜頭を没し、碇泊の小舟岩石に触れ、或は破れ覆るものあるを見る。斯くて夕刻に及び、潮勢反って其力を減し、夜に入って常に復す。然れども民家の10中8、9は空家なるを以て、盗難火災を戒めんが為、強壮の者30余名を3分し、終夜村内或は海辺を巡視せしめ、且つ立退の老幼婦女に粥を分与し、僅かに1夜の糧に充てしむ。 5日。曇天風なく稍暖を覚え、日光朦朧として所謂花雲の空を呈すと雖も、海面は別に異状もなかりしかば、前日立退きたる老幼茲に安堵の思をなし、各々家に帰り、自他の無異を喜び、子が住所を訪ひ前日の労を謝する者相次ぎ、対話に時を移せり。 午後村民2名馳せ来り、井水の非常に減少せるを告ぐ。予之に由りて地異の将に起らん事を罹る。果して7ツ時ごろ(午後4時)に至り大震動あり、其の激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵空を蓋ふ。遙に西南の天を望めば、黒白の妖雲片々たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直に家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当りて巨砲の連発するが如き響をなす。数回。依って歩を海辺に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに人気の安んずるの進なく、見る見る天容暗、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於て心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るるものを扶け、与に難を避けしめる1刹那、怒濤早くも民屋を襲ふと呼ぶものあり、予も疾走の中左の方広川筋を顧れば、激浪は既に数町の川上に湖り、右方を見れば人家の崩れ流るる音漠然として膽を寒からしむ。 瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮び、辛じて1兵陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流さるるあり。 或は流材に身を憑せ命を全うするものあり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一亘八幡境内に退き見れば、幸に難を避けて茲に集る老若男女今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を捜し、兄第相呼び、恰も鼎の沸くが如し。各自に就き之を慰むるの逞なく只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。勿々辞して再び八幡鳥居際に来るころ日全く暮れたり。是に於て松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流家の梁柱散乱の中を越え行、助命者数名に遇へり。なお進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲村に火を放たしむるもの十余、以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す。此計空しからず、之に頼りて万死に一生を得たるもの少からず。斯くて1本松に引取りしころ轟然として激浪来り、前に火を点ぜし稲村浪に漂ひ流るるの状観るものをして転た天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後4回に及ぶと雖も、蓋し此時を以て最とす。夫より隣村の某寺院に至り、住僧に談じ貯ふる処の米穀を借り入れ、直ちに之を焚きて握り飯となし、八幡境内其他各所の避難所に配賦し、僅かに窮民の飢餓に充つ。然れども限りあるの米殺を以て数日を支ふる能はざるを察し、深夜馳せて隣村の里正某を叩き、情を告げて蔵米50石を借り受け、翌日の備準をなす。 6日、風静かなり、東方の白むを待ち、八幡鳥居際より全村を望み、被害の度、夜来の想像より稍軽少なるを知れり。然れども漁舟の覆りたるあり、樹木の根より抜かれたるあり、又田面には屋材家具の流散するあり。行々人家に近づけば流材の堆積愈々甚しく鳶口を杖して其上を踏み越え、海浜に出でて眺むれば、潮水漣波なくして油を流したるが如く、平素に異なり。而して其間に漂舟流材は汚物と混じて浮べるを見る。海岸に沿うて西に行けば、人家は概ね流失又は崩壊して、唯23の旧態を存するあるのみ。、幾百の人烟一夕潮流の掃蕩する所となる。人生の悲惨茲に至りて極れりと謂ふべし。 長嘆未だ半ならず、強震突如として来る。予驚いて倉皇高地に向って疾走し、遂に被害地の視察を終らずして避難所に帰り、施米焚出の事を見る。抑も八幡境内と隣村の1寺内とを以て避難所に充つると雖も、唯地上に畳を並べ、戸障子を以て之を囲いたる露宿に過ぎず。老幼の内に漸く膝を支るの憂苦離散の実は人をして断腸せしむるに余りあり。殺身済仁は平素志士の振腕して講ずる処、唯か側隠の情を奪起せざるものあらんや。 避難所は斯かる体裁にして、到底雨露を凌ぐ事態はざるを以て、再び隣村の里正に至り、仮小屋建設の件を依頼し、其の承諾を得たり。朝来震動再三に及び、且つ西南に当りて地響する事数回、為に流民は神気休むるに進なく、人心動揺して百事緒に就くを得ず。故に此際専ら人心慰励に奔走し、傍ら炊事を督す。本夕藩吏某来り該窮民賑済の事に及ぶ。又救米下附の願書を起草す。此夜始めて高地に非常番を置き、明日の部署を定め、次で暁に至る。 7日。町内を普く巡視するに、被害最も甚しきは前日視察を遂げたる西の町と浜町なれど、中町田町の街路に於ても往々流失家屋を発見せり。而して流失せざるものと雖も概ね大破ならざるなく、処々に大材或は漁舟の道路を塞けるあり。以て当時波濤の如何に劇烈なりしかを察すべし。 此日も人心の動揺は依然として静まらず、之に加ふるに海嘯再襲の流言を以てす。此時に当ってや平日剛勇を以て誇るものも怯備となり、怪貧なる者も寡欲となり、唯目前の天災を嘆ずるのみにして、災後の処理に著手することを知らず。予は此間にありて東奔西走、或は諭し或は励す前日の如し。然れども利に敏き輩は漸く我に帰り、流失品の拾集に出づる者あり、且つ山辺の村民来りて流失品を盗む者ありとの風説を耳にしたるより、警保として村の要路に張番を設けたるも、微震ある毎に番人の逃れ帰るには殆んど困却せり。 8日。村民少しく危懼の度を減じ、避難所より自宅に帰り、災後の始末に著手せんとするものあり。然れども家屋の全きもの極めて稀にして、柱傾き壁落ち、家財は大半流失して、殆ど己の家たる弁ずるに苦めり。就中小民に至りては、住家の破損と共に素より多からざる家財農具を流失し、一朝にして挙家生計の道を失ひて、茫然として為す所を知らず、茲に漸く離散の念を懐くに至れり。 本日初めて村役員を召集し、旧僕某の家を以て仮役所に充て、日夜事務を執り訴を聴き、人夫配布其他の指揮をなせり。然れども握飯は猶避難所に於て焚出し、予及び村吏と雖も此握飯を得て僅かに腹を満せる次第なりき。 予は流民救助として玄米2百俵を寄附する旨を掲示し、以て有志家に向って先例を置けり。是に於て本村並に隣村湯浅の資産家続続米銭を寄附し来り、細民稍愁眉を開き得たり。 本日に至り震動漸く軽微となり、海嘯再来の虞も全く村民の脳裡を去りたるを以て、流遺の物品を拾集する者頓に増加し、自他の別なく之を収得するが為に、往々其間に不正の行はるるを察し、各所に吏員を派し、強凌弱の害なからん事を図る。然れども事情素より平日と異るものあるを以て、臨機の法を用ひ、煩を去り簡に就く、要は平常に帰するにありしなり。事の混雑は是に止まらず、村民所持の米俵は素より、本年年貢米の民家にあるもの、並に本村蔵米に至るまで、今回の天災に罹り村内野中に流散するもの多し。依って第1着手として其拾集を命じ、蔵米は田野各所に推積し、日夜番人を附して之を守り、各自の年貢米を検査の上封印をなし、各所有主へ交付し、更に之を其家宅に運ばしむ。 前段既に述ぶるが如く、窮民は概ね家財を流失し、日を経て之を拾集するも十が1も得る所なく、平素些少の蓄蔵ありたる者も日々業を失ひ、朝夕炊想を立つる事能はざるの悲境に陥れり。依って毎日是等の輩を使用して散乱の俵物を拾集せしめ、或は道路を開通せしめ、或は番人とし僅に糊口の道を与えたり。 町内の道路3回の修理掃除によって始めて旧に復するを得たり。又拾集の梁柱竹木瓦数は各所に積上げ番号を付し、後日に至り入札を以て売却し、その所得金を村民家屋の建坪に割賦して之を分配せり。然れども斯くの如く整理するまで幾多の日子を費したりと知るべし。 被害の概略 1、家屋流失 125軒 1、家屋全潰 10軒 1、家屋半潰 46軒 1、汐込大小破損の家屋 158軒 合計 339軒 1、流死人 30人(男12人、女18人) (以上) 【注 追加 浜口梧陵手記 現代語訳】 嘉永7年寅11月4日 (1854年12月23日) 午前10時頃、強い地震が起こった。地震がおさまった後すぐに海岸に様子を見に行ったが、波の動きが普通ではなかった。 海水がたちまち押し寄せ、また引いていき、その差は2mほどであった。潮の流れは大埠頭の先に当たり、黒い高波を呈していた。その様子は実に怖るべきものであった。 昔からの言い伝えで、大地震の後しばしば津波が襲来することがあると。そのため村人達に警告を伝え、家財の大半を高いところに運ばせ、老幼婦女を中野の八幡境内に立ち退かせた。 健康で気性がしっかりした人々を引き連れて、再び海に来れば、潮の揺れは大きく、打ち寄せる波は大埠頭を乗り越え、碇泊中の小舟に岩石が当たり、壊れ倒れているものもあった。 しばらくして夕方になり、潮の勢いは衰え、夜に入って元のようになった。しかし民家の多くは空き家になったので、盗難や火災の危険から守るために、30余名を3つの班に分け、村内や海辺を巡視させ、避難した人々に粥を分け与え、一夜の糧とした。 嘉永7年11月5日 (1854年12月24日) 空は曇り風はなく、やや暖かさを感じ、日の光はおぼろげで、いわゆる(春の)花曇りのようであった。海面は異常もなく、前日に避難した人々もこれにより安心した。 各自、家に帰り、ともに無事であったことを喜んだ。私を訪ねてきて、前日の御礼を述べるものが相次いで来られ、話に時が費やされた。 午後村の人2名が急ぎ来て、井戸水が非常に少なくなっていることを知らせてくれた。 私はこれを知ると、再び異変が起こるのではないかと怖れた。 果たして午後4時頃、大地震が起こった。その激烈なことは前日より遙かに大きかった。 瓦が飛び、壁は崩れ、塀は倒れ、塵埃が空を覆い、遠く西南の空を望めば、黒と白の妖しい雲の間から、金色の光が発し、あたかも何か異類のものが飛行しているのではないかと思われた。 しばらくして地震は収まったが、(津波の襲来を恐れ)、直ちに家族に避難を勧め、自分は村内を見回りにいくと、西南の方から巨砲が連発するような音響が数回聞こえた。 それで浜辺に行き、沖を眺めれば、潮の流れに変化はなかったが、ただ西北の空が特に暗黒の色を帯、あたかも長い堤防を築いているようであった。 安心するいとまもなく、見る見るうちに空模様は暗くなり、陰鬱とした殺気を覚え災いが近いことを察した。 ここにおいて、心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。 私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。 その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。 そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。 各自に慰める方法もなく、ただ「私は助かってここにあります。皆安心して下さい。」と大声で叫び続け、去って家族の避難所に行き身の安全を知らせた。 しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。 ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。 なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。 この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。 このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。 津波の襲来は前後4回に及んだが、この時が最大であった。 隣村の寺に行き、住職からお米を提供してもらい、炊いて握り飯を作り、八幡の境内に避難している人々をはじめ各地に散っている人々に配った。しかし米穀は限りがあり、数日しか支えられないので、深夜近隣の里正(庄屋あるいは村長)を訪ね、蔵米50石(約7500kg)を借り、翌日からの備えとした。 6日 風が静かになり、東方が明るくなるのを待って、八幡の鳥居から全村を望む。被害の程度は、思ったより少ないようだが、漁船が倒れ、樹木が引き抜かれ、田には屋材や家具が流れ来ている。 人家に近づけば、流材の堆積が甚だしく、鳶を杖にしてその上を超えて進み、海面を見れば、油を流したように静かで平素とは異なっている。しかしその上を流船や流材が漂い汚物と混じっている。海岸に沿って西に行けば、人家はおおむね流出または崩壊している。残っているのはごくわずかであった。 幾百もの人々が波によってさらわれてしまった。人生の悲惨がここに極まったと言えるであろう。 悲嘆に暮れていたとき、再び強い揺れが襲ってきた。驚いて高台に逃げ、被害地の視察を終えることなく、避難所に帰り、炊き出しの様子を見守った。 八幡の境内と近隣のお寺を避難所に当てているが、ただ地面に畳を並べ、戸や障子をもって囲んだに過ぎない。年老いて、又幼少の時にこのような苦難に遭うとは、断腸の思いである。身を捨て、人を救う志を持つことは勇者の特質である。そのため人々のために立ち上がることにした。避難所はこのような有様であるので、とうてい雨露をしのぐことが出来ない。再び隣村の里正に仮小屋建設の許可を願い出て了承を頂いた。再三再四地震が生じ、西南から地響きがするので、人々は心安まることが出来なかった。物事が進まないので、人心を落ち着くように励まし、炊事も監督した。 夕方役人がやってきたので、人々を救うための方策を話し合い、救済米を援助していただけるようにお願いをした。この夜から高地に非常番を置き、明日の部署を決め、朝に至った。 7日 町内をあまねく巡視すると、被害が最も激しかったのは西の町と浜町であった。しかし、中町や田町の街路でも流失家屋があり、流失していないとしても、大半は大破していた。大材や漁舟によって道路が塞がれていた。これによってもいかに津波が激しかったが分かる。 この日も人心の動揺は収まってはいない。さらに再び津波が来襲するのではないかという噂が流れている。日頃剛勇の人も消沈し、意欲の強い人も意欲を失い、ただ嘆くばかりで処理に着手しなかった。 私は東奔西走し、人々を励ました。利にさとい者は我に返り、流出品を採集し、又近隣から流出品を盗むものありとの報を受け、警備として幾人かを配置したが、地震が起きる度に逃げ帰ってきたので閉口した。 8日 村民も少し恐れが少なくなったので避難所より自宅に帰り、後始末にかかろうとする人々も現れた。しかし家屋に損壊がないものは皆無に近く、柱は傾き、壁は落ち、家財は流出し,家とは言えない状態であった。小民においては、家が破損し、家財、農具等流出し、一朝にして生計の道が断たれ、呆然としてどのようにしていけば良いか途方に暮れてしまい、離散も止むおえないと考えるようになった。 本日初めて村役員を集め、ある家を仮役所として、日夜事務を行い訴えを聞き、人員の配置など指揮を執った。握り飯は避難所において炊き出し、わずかであったが食にあずかれた。 私は流民を救うために玄米200俵を寄付することを申し出、有志家の先例となした。この結果広村、隣りの湯浅の資産家が続々と米銭を寄付して下さり、人々は助けられた。 本日より地震活動も収まり、津波の襲来の恐れも脳裏から消えたので、流出した物品を収集する人々が増加した。しかし自他別なく収集するので、不正が生じたので係員を派遣し、不公正が行われないようにした。事情が事情だけに、臨機応変とし、目的は平常に戻すのにあるので簡明を旨とした。 村民所持の米俵をはじめ、年貢米、並びに本村の蔵米に至るまで津波のために流出してしまった。 そのため第一段階として、米俵の収集を命じ、蔵米は各所に堆積し、番人を置きこれを守った。各自の年貢米は検査の上、封印し、各所有者へ戻した。 前にも述べたように、人々は大半の家財を失い、収集に当たるも、得るものは少なかった。平素は蓄えのあるものも日々の生業を失い、朝夕炊飯することさえ出来ないような悲境に陥った。そのためそれらの人々に散乱している流出品を集めてもらったり、道路を開通するための人夫として雇い、また番人として雇い、日々の糧を得られるようにした。 町内の道路は3回の修理と掃除によって元に戻すことが出来た。また収集した木材や瓦を積み上げ、番号を振り、後日入札で売却し、その所得を家屋の建坪に比例して分配した。しかし整理が終わるまで多くの日数を費やしたのは当然である。 |
「私は今日の御講演に対して何等質問討議する能力をもたないものであります。そうして皆様が此の耳新しい日本の女性という問題につき感興しておいでの間、私は別に今1つの問題に捉われて胸1杯であったのであります。併しそれは日本の女性と直接の関係がないため、皆様の御質問御討議の終るのをお待ちしていたのであります」と句切りながら今度は聴衆1同へ向き直って、「皆様はハーンの『仏陀の畑の落穂拾ひ』の第1課に『生ける神』の美談があったことを御記憶だろうと思います。それは今から100年程前に、紀州沿岸に大津浪が襲来したとき、身を以て村民を救ったといふ浜口五兵衛の事蹟を物語ったものであります。爾来、私は五兵衛の仁勇に推服すること多年、1日として五兵衛の名を忘れたことはありません。現に私の家に蔵している1幅のペン画の中に画かれた日本児童を小浜口と名づけて之を愛好している位であります。 此の時、もし彼女が、自分の質問の価値の重大さを知っていたら、次のようなことまで附加えたに相違ない。 即ち「平生私は、私の心に定めた世界的聖人の目録を作っています。その中には基督教徒もあり、仏教徒も、回教徒もあります。又その中には、文明人と自称している人々が野蛮人と目している族に属するのもあります。併し私の信じている聖人は、唯今の御講演にも述べられた通り、何れも美しい徳を以ていることに共通な点があるのでありまして、卑近な警ではありますが、世界各国最高貨幣の鋳型は1つ1つ違っていても、その実質が黄金である点に於ては相一致しているようなものであります。そうして此の聖人目録中、浜口五兵衛は私の最も頌揚したい1人であります。私は、もし他日、日本観光の機会でもありましたなら、その浜口神社に参詣したい位に思っているものであります」(膽氏に宛てたロレツ嬢の書簡から抄出。)ロレッ嬢は更に語りつづける。 「かくまで浜口の名に憧れているのですもの、今日の講演者の浜口さんと私の崇拝している浜口五兵衛との間に何の関係もないのでしょうか、是非それを伺わせて下さい」。と言い終って着席すると、衆目は期せずして壇上の講演者に集まった。と見ると、膽氏は激越な感動にとらわれて、うなだれたまま1言も発することが出来なかった。止むを得ず、司会者が彼に近づいて事由を問いつ、質しつ、之を綴り合わせて会場に報告するや、拍手と歓呼とは1時に百雷のとどろくように場内を圧倒してしまった。 か様な感動を与えた場面は日本協会に於ては空前であったが、恐らく絶後かも知れぬと言われている。ロレツ嬢はついで膽氏から詳細な真相を聴取して、事実は物語よりも更に神秘的であり、行為は更に崇高であって、彼女が五兵衛景仰の念は1層深まるばかりであった旨を語っている。事実は物語以上だとの吾々の断案は果たして独断ではなかったのである。 (原文は左横書46判16頁の小冊子。) |
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有田タイムス社 7・18水害誌より転載 |
開墾記念碑 |
優良なみかん園が開墾され多くの人の生活を支えてきた。 |