広川町誌 上巻(1) 地理篇 災異編 浜口梧陵手記

編集委員会


主管  広川町教育委員長  石原久男
編集委員 (初代委員長) 浜口恵璋
〃  (後任委員長)  田中重雄
〃  赤桐栄一
〃  山本文次郎
〃  岩崎 厚
〃  岩崎 功
〃  浜口しきぶ
〃  奥 喜義
〃  寺杣懐徳
〃  崎山政千代
〃  野原茂八
〃  渡部藤子
〃  山田雅胤

凡例
1、本書はできるだけ平易な表現を旨としたが、用字は必ずしも当用漢字に拘らなかった。
度量衡は尺貫法とメートル法を随意使用し、敢えて統一を図らなかった。
1、ある1つの事柄についても、執筆者によって見解を異にしている場合がある。執筆者の意見を尊重し、強いて内容の統一を目差さなかった。
1、本書には広川地方史の域を越えた叙述もあるが、絵画のバックと同じく、背景を描いて効果を狙ったのであるが、多少その色が濃きに過ぎたところ少くないのは、却って失敗と言わざるを得ない。
1、本書の執筆には多くの参考文献の助けをかりたが、それを悉く明記しなかったことをおことわりしておきたい。なお、出典はいちいち挙ぐべきであるが、それを省いた場合があるので併せ諒承願いたい。
1、本書編集に際しては、先学は勿論、各方面の方々の御協力を得たことを深く感謝する。その氏名を記して礼を尽すべきであるが、敢えて失礼させていただくことにした。
1、本書の内容に関する一切の責任は、編集委員会、分けても執筆担当者に属し、町当局は何等干渉のなかったことを付記しておきたい。
1、本書は編集委員会の編集に成るものであるが、文責はそれぞれ執筆担当者の負うべきものであるので、その氏名と執筆部門をあとがきに付記することにした。

広川町誌目次 上巻
目次<上巻>
発刊の辞・・・・・・・広川町長 平井正三朗
序文   ・・・・・・・広川町教育長 石原久男
編集委員会
凡例

自然誌

 地理篇
   1、位置
   2、境界
   3、面積及び地目
   4、地形概観
   5、広川町附近の地質
   6、気象
   
 生物篇
   1、植物
   2、動物
   3、広川町の天然記念物
   
 災異篇
   1、広と津波
     梧陵手記
     実録稲むらの火
     海嘯に関する座談会記録
   2、7・18水害とわが郷土
   3、防災活動について
   
地名篇
   広川町内の地名について

広川町誌上巻(1)地理篇 災異編
広川町誌上巻(2)考古篇
広川町誌上巻(3)中世史
広川町誌上巻(4)近世史
広川町誌上巻(5)近代史
広川町誌下巻(1) 宗教篇
広川町誌下巻(2)産業史篇
広川町誌下巻(3)文教篇
広川町誌下巻(4)民族資料篇
広川町誌下巻(5)雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表
文化誌

考古篇
  鷹島遺跡
  1 遺跡の発見と調査の経過
  2 遺跡位置と環境
  3 調査の概要
  4 遺構
  5 出土遺物
  6 総括

 歴史篇
  1、広川町名の歴史
   1 広川町名の由来
   2 地名「ひろ」の起源
   3 地名「ひろ」その後の歩み

 原始・古代史
  2、広川地方の原始文化の発祥
   1 広川地方原始文化の誕生地
   2 海を渡って来た鷹島文化
   3 鷹島における原始社会の生活
   4 縄文式文化の移動
   5 上中野末所遺跡の発見
  3、広川古代文化への出発
   (1)原始文化から古代文化へ
   (2)古代文化の開幕
    1 鷹島弥生式遺跡
    2 上中野末所弥生式遺跡
    3 高城山弥生式遺跡
   (3)弥生式文化の様相
   (4)広川地方周辺の弥生式遺跡

  4、池ノ上古墳群が語るものー古代豪族の出現
   1 池ノ上古墳群
   2 古代豪族の出現
   3 古墳時代の農耕社会
   4 鷹島遺跡における古墳時代文化
  5、万葉時代の広川地方とその周辺
   1 万葉歌の大葉山
   2 万葉歌に見える広川地方周辺
   3 郷地名
   4 奈良時代の文化
  6、尊勝院文書とその時代―荘園制時代と貴族の熊野信仰―
   1 尊勝院文書
   2 荘園制時代
   3 熊野信仰
  7、古寺追想
   1 平安仏の遺存
   2 光明寺
   3 手眼寺
   4 仙光寺

 中世史
  8、蓮華王院領の頃
   1 広庄と荘園領主、その荘官など
   2 蓮華王院領広・由良庄の濫妨
  9、熊野路の昔
   1 熊野路往還の地
   2 院の熊野詣
   3 広川地方熊野路旧跡
   4 「熊野詣日記」から
  10、謎の在地領主広弥太郎
   1 堀ノ内
   2 湯浅氏系図に見える広弥太郎宗正
   3 承久の変と広弥太郎
   4 広弥太郎宗正の惣領家湯浅氏その1門
   5 宗正の去就とその後
   6 堀ノ内付近の門田と隻6田
  11、地名が語る中世広庄豪族群象
   1 殿の土居が語るもの
   2 西広城主鳥羽氏
   3 中野城址と地頭崎山氏
   4 公文原
   5 猿川城の悪党
  12、広川地方八幡神社創建考
   1 広川地方における3つの八幡神社
   2 八幡神社の源流と推移
   3 広川地方八幡神社創建の時代
   4 広八幡神社
   5 津木八幡神社
   6 老賀八幡神社
  13、中世高僧の足跡
   1 明恵上人と鷹島
   2 三光国済国師と能仁寺
   3 明秀上人と法蔵寺
  14、南北朝の動乱と岩渕の伝説
   1 南朝遺臣かくれ里伝説地
   2 南北朝時代の前夜
   3 南北朝の対立と動乱
   4 南北朝合一と後南朝抗争
  15、畠山時代
  16、中世庶民生活史雑考
   1 顕れざる人々
   2 庶民の遺したもの
   3 山の生活
   4 中世仏教と庶民信仰
   5 宮座
   6 農耕儀礼と有田田楽
   7 農耕儀礼と農民社会
   8 古銭埋蔵に想うこと
  17、中世新仏教の興隆と広川地方
  18、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄
   1 広庄領主湯川氏の滅亡
   2 天正の兵火と広庄内社寺
  19、伝承・資料等に現れた広庄土豪群像
   1 伝承・資料に遺る土豪達
   2 中世の広庄土豪群像

 近世史
  20、近世への出発
   1 近世初期の大名と広庄
   2 近世初期の広浦の消長
   3 近世初期の農民
   4 部落差別の発生
   5 村の行政
  21、近世の社会と村の生活
   1 生かさぬよう殺さぬよう
   2 本銀返証文の事その他
   3 百姓心得
   4 郡奉行春廻り之節読聞書付
   5 旧家の記録から
  22、広浦往古より成行覚
   1 「広浦往古より成行覚」
   2 近世初期の漁村広浦
   3 近世中期以降の漁村広浦 附大指出帳
  23、津木谷柴草山論争のこと
   1 当地方山論資料
   2 津木谷柴草山論の顛末
  24、広浦波止場と近世広浦町人の盛衰
   1 広浦町人の発生と活動
   2 和田波止場と広浦
   3 安政の津波と広浦町人
  25、熊野街道宿場の盛衰
  26、南紀男山焼
  27、昔の交流
   1 交通の変遷
   2 広川地方周辺の古道
  28、近世広町人の文化的活動

 近代史
  まえがき
  29、近代社会への発足
   1 近代社会への発足と地方制度の改正
   2 民衆近代化への第1歩
  30、近代社会の苦難と発展
   1 神仏分離廃仏毀釈
   2 地租改正
   3 近代資本主義
   4 国威伸長時代の村民生活
   5 近世済世安民の先覚者浜口梧陵
  31、近代社会の変貌
   1 第1次世界大戦と村民生活
   2 米騒動と小作争議とその前後
   3 寒村からの脱却
  32、近代の迷路と蘇生
   1 暗黒時代回顧
   2 迷路からの蘇生
   3 南海大地震・津波と7・18水害・その他
   4 農業転換と広川町

 行政史篇
  1、藩政時代
  2、広川町以前近代の行政組織
  3、広川町の誕生から現在まで


広川町誌(上巻)

発刊の辞


 
我が広川町は黒潮洗う紀伊水道に面し、白馬の山々を背に海の幸、山の幸、また野の幸に恵まれた町であります。
 この町に住みついた私たちの祖先は、遠く縄文時代に遡ることが、鷹島の遺跡調査の結果明らかにされております。
 その間幾千年、大自然の禍福に喜びと悲しみをあざない、また幾多の社会の激動の波にもまれながら生き続けてまいっておるのであります。 そこには大自然の猛威を防がんとした偉大な英知の結果の輝きや、また幾多の社会の苦難を克服した郷党の努力や協力の跡が長い歴史を通じ随所にみることができます。
 昭和49年は我が広川町の百年の計である広川治水ダムが津木滝原にその雄姿を現わすこととなります。こういう時期に我が町の歴史、地一大集成した町誌を発行できることは誠に意義の深いことであります。
 この町誌で明らかにされている通り、私達の祖先先人は幾多の苦難を尊い試練として堪えてきた、強い意志の血を私達は受け継いでいる事を誇りとすると共に今後一層町繁栄のため、永くその誇りと自覚をもって先人の労苦にこたえてゆきたいものです。
 本町誌編集については、幸いわが町には、郷土誌などに造詣の深い方々に恵まれていたためそれらの方々に編集委員をお願いし、委員の方々の熱意と奉仕的労苦が実を結んだ次第であり、その努力を深く多とするところであります。
 なお議会議員や、教育委員各位の町誌編集に際しての深いご理解とご協力、更に資料提供等にご協力下さった関係者の方々に対し、深甚な謝意を捧げ発刊のあいさつと致します。


  昭和48年3月
            広川町長 平井正三郎


序  文


 
 空前の歴史ブームといわれ、ぞくぞく歴史書が刊行されています。また「日本再発見」とか、日本を見直すとか盛んにいわれております。それは現在日本文化なり歴史なり、また自然なりをじっくり見直さなければならない何かがあるためでしょう。それはみんながなんとはなしに膚に感じているからなのでしょうか。それは現在の文明が、自然や人の心を荒廃に陥ちいらす傾向をもっているのではないかと危惧しているからなのでしょうか。この傾向は世界的なものだともいわれております。
 現在ほど美しい自然と調和のある生き方をまた文化を求めて模索しなければならない時節はないと考えられます。
 こういう時期に本町の町誌を上梓できることは誠に意義深いことであり喜ばしい限りであります。
 幾千年の私達の先祖の生活の足跡を辿れば郷土に限りない愛着を感じるとともに、未来に生きる多くの示唆や教訓がなにげなく光っているものと信じます。
 美しき広川町の山野と温い黒潮に育くまれながら住み続け、続けていくであろう郷土の人々の豊かな和やかな町づくりのため、本町誌が役立てばと祈念して止みません。
 終りに、本町誌を執筆された編集委員の方々の献身的なご苦労や、また資料を提供下さいました多くの関係各位のご協力を心から感謝申し上げます。

  昭和48年3月
       広川町教育長 石原久男

自然誌
地理篇

1  位置


広川町は有田郡の南西海岸に位置し、広川の全流域と、および同流域以西の海に臨む地域を占める。あたかも紀伊水道東岸中の湯浅湾南部地域にあたり、紀伊水道を挟んで四国徳島県に相対する。
当町が作る広川町全図によって経緯度をみると広川町役場の位置は、東経135度10分34秒、北緯34度1分50秒であり、町周の4ヶ所は、西端が鷹島西端東経135度7分30秒、東端が大字岩渕東端東経135度16分50秒、南端が白馬山脈小山北緯33度57分10秒、北端が広川河口の北緯34度1分40秒である。
次に、国鉄湯浅駅からの主要駅への時間距離は東京駅666km、約6時間弱、大阪駅109km、2時間、和歌山駅37km、1時間である。南方白浜へは69km、急行1時間10分、普通2時間5分である。

2  境界


当町の西方は湯浅湾に臨む海岸線である。対岸の淡路島・四国島とは遙か紀伊水道にへだてられて雲煙模糊の間に相望む。当町北境は広川下流部で湯浅町市街と境している。高城山・地蔵ノ峯・霊巌山を連ねる一連の山脈の稜線で湯浅町と境する。当町東境は森林で金屋町大字修理川および日高郡中津村と相接している。当町南境は日高郡川辺町・日高町および由良町と白馬山脈で相境する。


3  面積および地目


広川町面積は町製広川町全図(航空写真)によって65.44平方kmである。これを昭和43年現在統計によると6544ヘクタールに相等しい。その内訳は左の通りである。

広川町地目別反別
田  351ヘクタール
果樹園  284へクタール
草地  3ヘクタール
山林  5157ヘクタール
宅地  74へクタール
その他  675ヘクタール
計  6544ヘクタール

広川町の縦横の幅は東西の径は大字岩渕の東端から鷹島の神取まで14.4km、南北の径は白馬山脈の小山から広・天洲ノ浜北端まで9.36kmである。東西に長く南北にやゝ短い。
(参考)
「津木村郷土誌」(1914)による面積および広表の記事に

「総面積殆ンド2方里ニシテ反別2381町3反4歩

内訳反別
田  面積  142町9反5畝20歩
畑  面積  15町4畝25歩
宅地  面積  8町1反2畝10歩
山林  面積  2210町9反8畝201歩
原野  面積  3町6反3畝16歩
池沼  面積  5反5畝5歩
官有地  面積  1町4反2畝24歩
但シ河川及道路ヲ除ク。
幅員東西最長ニテ2里13町30間、本村ノ地形ハ東西ニ長ク南北ニ短シ。隋円形ヲナス。 南北の最長ニテ1里18町、最短ニテ9町40間ナリ。


以上と記されている。
次に旧南広村区域の面積広について津木郷土誌の様な文献がないが「南広村是」(1909)により引用すると、

「本村ハ明治22年町村制施行ノ際11大字(唐尾・西広・山本・上中野・南金屋・殿・井関・河ノ瀬・東中及名島)ヲ以テ1村ノ区域トシ地形西ヨリ東南(2里15町)ニ亘リ南北 (22町)ニ短ク全面積ノ3分ハ耕地7分ハ山林ニシテ大字名島東中・西広ハ稍平地ニ属シ其他ハ概ネ山際ノ高地ニ人家ヲ設ヶ東ハ広川ニ沿ヒテ熊野街道貫流シ西ノ1面ハ海ニ瀕スル云々。」 

また土地の面積は

田  350町7反9畝14歩
畑  63町3段4畝28歩
宅地  19町6反7畝16歩
山林  950町1反7畝01歩
計  1383町9反8畝29歩と記している。


またさらに旧広村町の広表については、和歌山県要覧によると1419平方kmと示され、教科書副読本に0.092方里と挙げられている。また浜口恵璋師旧稿によると

「広村の総面積は111町9反歩にして0.7193方里強あり。内訳すれば
田面積、  83町1反
畑同  6町1反
溝渠海岸地及風潮よけ地、池沼・堤塘其他南北は20町とす。


と記されている。

4  地形概観


広川町は湯浅湾に臨み海岸線は相当に長い。広川町地域の東南部は山地をなし、この山地より広川が流れ出す。
広川の中・下流地域はや、広い平坦地をなしている。
河流としての広川は町の南および東部に広い集水面積をもって平坦地に流れきたり、下流では平野の東部を横切り遂に湯浅湾頭で海に注いでいる。

山地
広川町の山地についてはその面積が極めて広い。町区域の南東部の広い山地がそれであり、白馬山脈の1部分である。白馬山脈には東部に護摩壇山という本県最高の山や、三里の峰という道のつく白馬山が含まれるが、広川町区域になると600m以内のなだらかな山稜となり、長者峰・小山越・藤滝越・権保越などを含んでおもに東西の方向に亘り、白崎に至って海にはいっている。そして、白馬山系はほゞ東西の方向に走っているものであるが、そうともいえない方向をとる山もある。たとえば、鹿ヵ瀬トンネルや水越トンネルを通ずる鹿瀬山脈や、地蔵の峰のように白馬山脈と方向や山脈の配列がまちまちの山がまじっている。とくに津木方面では地塊化が進んでいるといえる。
次にまた広海岸の天王山から西南方なる名南風半島までつづく丘陵性の山脈がある。なお参考のため主要の山の標高などをあげると

 「広川町山稜一覧表」
 山の名   所在    標高  
岩湖南の無名山大字岩渕664.5m
岩渕北の無名山575.Om
長者峰大字滝原650.6m
室川越340.0m
小鶴谷ノ山320.0m
向い山大字落合337.0m
小山457.4m
大峠400.0m
藤滝越大字中村450.0m
権保山530.0m
鹿瀬洞250.0m
中村北方の山374.0m
猪谷北方の山仝 猪谷.河瀬間307.0m
鳥松山大字寺杣347.0m
鹿瀬峠大字河瀬340.0m
小城山410.0m
水越峠大字河瀬240.0m
明神山大字殿.山本390.0m
西広ノ高山大字西広350.0m
由良坂大字唐尾340.0m
雨司山350.0m
串子谷ノ峯(おじご)字塚ノ原627.0m
塚谷ノ峯(つかんだ)436.0m
霊巌寺山大字猿川440.0m
地蔵ノ峰大字井関411.8m
1本松ノ山大字柳瀬258.0m
高城山大字名島136.0m
天王山字和田85.0m
白木ノ南山字樫長121.0m
小浦山字小浦110.0m
名南風山字樫長121.0m
浜ノ山大字西広142.3m

河川および平野
広川  広川は源を当町と金屋町との境界付近に発する。標高575mの北の無名山をだきかかえるように2つの谷川が合流する。そこを「であい」という。であいに人家両3軒があり、自動車の終点である。付近の山々、南北の無名山・長者ノ峰、ぶじご等の峰の間を小さい屈折をなして水量を増し落合に至って上津木川と合流する。
小字落合以下は中流である。中流での集水区域は猿川区の大正池の谷、前田の水、河瀬の水等である。大字殿より下は広川沖積土平野を貫流し湯浅湾に注ぎ入る。
川は水や風化土砂の輸送路となり、地面の造成をなしている。これに加えて昔から人間のたえまない努力によって水流を制御し土地の造成もはかっているのである。
大昔の古いことは、確かな記録がないので不明であるが、慶長検地帳によると我広川町では計5437石8斗3升9合の米の生産をあげている。処で江戸後期になると6189石7斗4升の生産をあげている。

江上川  江上川は、源を大字上中野および山本の明神山に発した水を一旦志出川池に集水し、そのたがえより落ちる水が江上川となる。途中大字山本と広との境界をなし、広川町平野の西南部を北流し大字和田を貫き緩流して西ノ浜の入江に入る。

支流  広川より分岐して水田灌漑に供せられた溝渠等が集まり広市街の西南で川端川となり、耐久中学校の東南をめぐって西流して江上川に合する。

養源寺堀  養源寺の西方天州の浜の東にある溝渠である。同堀は室町時代畠山氏の構築と伝えられている。広川の下流より1条の溝渠を通路として、満潮を待って舟を入れるに便にしたが、近時は土砂で埋没して小舟がはいりうるに過ぎない。この堀は前記したように畠山御殿今の養源寺の地を築いたときに造ったものであろう。

長(おさ)川(1名新田川)  広川より分岐して灌漑に供した「ゆみぞ」の相集まったものが院の馬場にいって(新田川)養源寺堀の溝渠に注ぎ広川に入る。

溜池と井堰  わが広川町は昔から有数の米作地帯をなし、その水田灌漑には町内を貫流する広川 の水が重要な水利の用になるが、また溜池等施設は古くから行なわれている。いまこゝに溜池のうち大きいものをあげる。

溜池の表 (周回約300米以上)
  池の名   字の名 
内台池唐尾
北谷池西広
三船池井関
寺谷池西広
双子池南金屋
津兼池井関
光明寺池池之上
志出川ノ池 山本
大正池 猿川
鈴子池鈴子
折杭池柳瀬

川水が一旦井堰にためられて「ゆみぞ」にあげられる。広川に設けられている井堰のうち川下から順をおってあげると左の通りである。

井堰の表
井堰位置水をひかれる田水を補給する池
ゆまえ大字東中広田圃の北中部折杭池
おおゆ大正池
だんのゆ殿だんの田新ノ池
ごしょのゆ井関井関の田
おおたきゆ
いとのゆ 前田のつゆ谷前田

現在広川には「いとのゆ」より上に9ヵ所の井堰がある。在来の「ゆ」はしばしば大雨で、こわされることがあったが、7・18の大洪水で現在のコンクリートの堰に改造されたのである。

海湾  紀州海岸の湾入21ヶ処のうち最も大きいのが湯浅湾であり、縦深が約12km、横口が約10km、昔より3里に3里といわれている。
湯浅湾の外海は白崎より北が紀伊水道、南が紀州灘である。湯浅湾は紀伊水道に面し紀州灘にくらべると浅海であり、年中波が静かである。

湾内の島々と暗礁  湯浅湾はもと浸食谷が陥没して海湾となったのである。湾内に5つの島―毛無・苅藻・鷹島・黒島および十九島(つるしま)がうかんでいる。 毛無島は湾頭部湯浅の沖合にうかぶ小さい岩山である。苅藻島は毛無の南西に位置し全島険しい岩肌の島で南北2島からなり、北島に海蝕による洞穴があって満潮時に小舟を通じる。鷹島は名南風ノ鼻より程近い海上にうかぶ。同島東面の「地ノ浦」はよい錨所である。黒島は湯浅湾南岸の衣奈に程近い。黒島はハカマカズラの北限地である。なお沖合の海鹿島の海鹿は前にはお止めといって保護されていたが、明治になってその末頃にいなくなってしまった。
湯浅湾内にはまた暗礁が多く、よい魚着き場所になっている。土用波または台風時にはその位置がくっきりわかる。

「その」と「おばせ」この2つは鷹島の西北海中にあり、字小浦からの正西方線と黒島の「のみはな」からの正北線の交叉点に位置し、多くの釣客に注目される「せ」である。その周辺は約30尋。干潮時「おばせ」の水深約1.5メートルである。「そがみ」のせは前記のせより北方に位置するが、田村の海岸「小山ノ棚」より正西線をひき、鷹島から正北線をひくとその交叉点といえる。「そがみ」付近の水深20尋、干潮時水深2.5メートル、満潮時1.0メートルを増す。「7畝のせ」は苅藻付近約7アールを占め付近の水深は「そがみ」よりずっと浅い。「こだいどんのせ」は苅藻島北西1キロメートル余り。以上「おばせ」「そがみ」「七畝」および「こだいどん」の4つは湯浅――和歌山方面間の船舶のコースに当っている。以下湾内南西南西方に点在のせ。「宮崎だしのせ」は広・湯浅より名南風北岸付近につくとき苅藻島を越して宮崎が見え出す時の本船の位置が「出しのせ」である。「むろの木のせ」は鷹島の南縁「あかしぎ」の南方約50メートル、遠い昔にムロの巨木が立っていたという伝承がある。付近の水深18尋。その他数ヶ所の「せ」は省略する。




5  広川町附近の地質


このあたり一帯、湯浅町広川町の地質構造はすこぶる複雑を極めているといわれ、従来その道の専門家の注目を引いている所であり、幾回か幾人かの学者の調査によって、その実態は明かにされきたっているが、なお疑問の点もあるとのことである。
現在まで幾人かの専門学者によってこの地方の地質分層に各種の名称が付けられて発表されている。その一端をのべると、高田層、浮石層、田村層、栖原層、湯浅層、水尻層、有田層、西広層、柄杓井層、井関層、寺杣層などがあげられている。また含有する化石類もその種類が多くそれに対する研究もなされている。ここでは極く簡単にその概略を述べるにとどめたいと思う。もちろん各種の参考書や各学者の発表の概略を記するのだが、それらの著述や氏名は略さしていただくことにする。記述にあたっては主として和大教授津田秀郎氏の解説をたどっていったのだが誤り伝えるやもと恐れるばかりである。

主な地層  この地方は、地層としてはだいたい中世界白亜紀層に属するのであるが、古生界秩父系のものも含まれているし、局部的ではあるが火成岩も含んでいるといった複雑な地層である。その上この地方は甚だしい断層、褶曲、逆転等が多く見られる。
おおまかにみて、鳥屋城層を最上部とし、松原層、西広層などと続き、最下部が湯浅層である。

1、中世層
有田川流域以南日高郡一帯にわたっているが、広川流域に白亜系、その南にジュラ系が東西に分布している。

鳥巣統  日高郡由良から東北明神山脈を越えて霊巌寺付近より八幡安諦に至っている。
黒灰色でハンマーで打つか砕くと石油臭がする石灰岩を含むのが特徴である。霊巌寺附近は砂岩、粘板岩の5層からなり、石灰岩を挟んでいる。この石灰岩は総延長2000メートルにも達する大きな鉱体である。巾400メートルから70メートルに達する。浸蝕を受けて奇巌を呈しているものも見られる。 この層の南側に寺杣層がある。

寺杣層  おもに灰白色砂岩からなり、粘板岩を挟んでいる。砂岩は粘板岩の破片を含有することが多く、他の地層中の砂岩と区別しやすい。
わが津木寺杣付近にも発達したものが見られ、砂岩、頁岩の互層から成っている。従来、化石が発見されなかったので時代不明であったが、新屋兼次郎氏がイノセラムスの化石を寺杣で出された。昭和26年6月で、これによって寺杣は白亜紀の下部のものとわかったのである。

白亜系  湯浅海岸から有田川流域に沿って清水町板尾まで分布している。化石の産出が多く、県下でも地質構造並に化石研究の最も進んだ地方となっている。地層を下部から述べると次のようになる。
湯浅層(領石統) 広川町天王山とその近辺にかけて砂岩、礫岩、頁岩からなり、瀕海、河口、陸成の推積物で厚さ約100メートルほど、瀕海性の貝化石を多く含み、その下部では植物化石(シダ、ソテツの類)が出る。

有田層(物部川統)  厚さ約200〜300メートル、当地方の主要なもので主に浅海性の砂岩、頁岩から成り、下部には礫岩がある。南部では頁岩の互層中に黒色のサンゴ礁石灰岩をレンズ状に挟んでいる。これは従来鳥巣石灰岩と同一視されていたものである。
砂岩中に三角貝などの化石を、砂岩質頁岩中にアンモナイト、ウニ、イノセラムス等の化石を含んでいる。

西広層(物部川統)  西部有田での主要なものの1つで、400〜500メートルほどある。有田市とは不整合であり、基底礫岩を伴い、西部では花崗閃緑岩に接している。半鹹半淡水性の2枚貝、巻貝や石灰、植物化石が出る。

井関層  有田南部と東西に長く連なり400〜500m程度である。西広層の同時異相であり、西広層は北部に、井関層は南部にあり、有田層とは不整合である。礫岩ではじまり砂岩、頁岩からなり、西広層とくらべると青灰色の硬砂岩である。イノセラムス、植物の破片化石がある。

主要な化石(町内のみのもの)
a湯浅層 =主として天王山より出るもの
Nilssonia sp.
Donites sp.
Zamisphyllum sp.
Onichiopsis sp.
Cladophlebis sp.
Polymesoda nanmanni(Neumamayr)
Corbicula sanchuenensis (Yabe etnagao)
Glauconia(?) cf neumayri(Yabe)
Trigonia sp.

b有田層 (町内のみのもの)
Trigonia Hokkaidoana Yehara    白木、池ノ上
Trigonia Kikuchiana Yokoyama   池ノ上
Gerrillia Shinoharai Matsumoto  白木坂

Pinna sp.             白木
Exogyra sp.            白木、高城北西
G.meta forbesiana Amano & Matsumoto 白木
Bakevellia Haradae Yokoyama    白木
Trigonia Kikuchiana York.     白木、高城北西
Chlamys sp.            白木
Lima cfr. ishidoensis Y.&N.    白木
"Astarte aff. Subsenecta     白木
Inoceramus sp. Anderson     井関
Asaphis sp.           高城北西
Solenopora sp.          南金屋
Girvanella sp.          南金屋、西広南東
Litothamnium(?) sp.        南金屋
Cladocoropsis mirabilis Felix  南金屋、西広南東
Strylina Higoensis Eguchi    南金屋、名南風
Thamnastera Yuraensis Eguchi  南金屋、西広
Dimorpharaea (?) sp.      南金屋、西広
Spongiomorpha (Heptastylopsis) asiatica , Yabe & Sugiyama.  南金屋、西広

Chaete topsis crinita Neumayr.   南名風
Stroma topora (Parastromatopora) Japonica Yabe  南金屋、西広、名南風
Pyenoporidium lobatum Yabe & Toyama   西広南東、名南風
S.(P.) Memoria-naumanni      西南東
S.(P.) Kiiensis Yabe & Sugiyama  西広
S. (P.) Mitodaensis Y. & S.    西広
Sulenopola rathopletzi(Yabe)   名南風
c西広層 (町内のみのもの)
Gervilla Shinanoensis. Yetne  池ノ上
Gervilla Prensdorstrata Nagao  池ノ上、小浦
Bakevellia (?) cfr. Shinanoensis (Yabe & Nagao)  西広、白木、鷹島
Exogyra sp.         西広東方、池ノ上
Porymesoda (Isodomella) Shiroiensis(Y.&.N)  西広東方

P(I.) Shiroiensis Var.alata (Y.&.N.)  西広東方
Natica (Amauropsis) Sanchuensis Y.&.N.  名南風、西東方
B. Pseudorstrata Yab & Nagao.  白木
Mellania Cancellata Y. & N.  白木、鷹島

Vanikora Japonica Nagao  鷹島

Sphenopteris (?) sp.  広八幡森
Nilssonia Schaumburgensis.(Dunker) Nathorst  池ノ上
Plillophyllum pecten(Phillips) Morris.  池ノ上
Trigonia Kikuchiana Yokoyama  広西東方
T. Pacilliformis Yokoyama   西広東方
T. Hokkaidoana Yehara  西広東方
“Ostarte"cfr. Subsenecta Yabe & Nagao  西広東方

d井関層 (町内のみのもの)
Gerrillia farbesna D'orrigny  井関
Gerrillia Shinanoensis Yabe & Nagao  井関
Inoceramus.sp. 外に Hantes.sp.(?)  鈴子附近

2、火成岩類
白亜系中に火成岩の貫入は少いが、きわめて注目すべきは西部湯浅広附近に限られているが、ナバエノ鼻から鷹島、黒島に貫人している花崗閃緑岩と、天王山に蛇紋岩がある。
ナバエノ鼻の火成岩
花崗閃緑岩   石英、斜長石、黒雲母、角閃石を主成分とする火成岩である。ここではこの岩石がゴドランド紀石灰岩及び古期岩層の砂岩質、頁岩質の水成岩を捕獲している。
蛇紋岩   カンラン石、輝石などから変質した蛇紋石を主成分としている。滑らかな面が発達して片状にもめていることが多い。部分的に珪化作用をうけたり又炭酸塩化作用によって淡黒色をしている。
輝緑岩  粗粒玄武岩斜長石輝石を主成分とする暗緑色または黒緑色で細粒または中粒である。
ゴトランド系  前記西広ナバエノ鼻南岸で、昭和27年市川浩一郎、石井健一、田中啓策の3学者によって発見されたもので、直径7〜8メートルの白色結晶質石灰岩塊が、花崗閃緑岩に捕獲されている。この石灰岩は部分的に多少赤味を帯びていて、この部分から Favosites. Halsites の化石が発見され、このことによってこの石灰岩の年代はゴトランド紀中期と確認され、化石を含む地層として我が国では最古のものとされ約3億6千万年前のものであるという。なお、ここの石灰岩質、火山岩の影響で大理石に変化しているものも見られ、前記の化石のほかストマトポロイドやシダリスも入っている。











6 気象


天気が晴れたり曇ったり、雨が降ったり風が吹くなどは大気中に起こる気象の変化である。気象が原因となっておこる災害に風害・洪水・霜害・火災・冷害・煙霧・落雷などの自然災害や気象の変化によるおこりやすい病気にぜんそく・リュウマチ・神経痛などもある。
気象の状態をあらわす諸要素は通常気温・気圧・風速・湿度・雲量・雲形・降水量などである。
気温 和歌山気象台で観測、明治12年(1879)より昭和39年(1964)迄86ヶ年にわたる日平均気温の月平均値をみると、

月別1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年平均
平均 5.05.28.313.518.122.026.227.023.517.412.37.715.5℃

であり、平年値は15.5度である。
次に隣町の湯浅の気温をみると、

 湯浅の各月平均気温(1951(昭和26年]〜1954(同29年〕) 月別
 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年平均
1951(昭和26年)5.37.510.314.617.922.527.227.422.319.011.89.716.1℃
1952(同27年)6.27.28.314.317.321.925.527.524.817.114.48.716.1℃
1953(同28年)5.85.89.912.918.023.026.628.224.519.012.99.716.4℃
1954(同29年)7.27.98.815.118.120.325.028.025.017.614.08.416.3℃

で、毎年16度余であり、和歌山との差は1度内外である。
広の平均気温は17度内外であるから湯浅とさしたる相違はないようである。
広は和歌山県に測候所が出来た明治15年7月(1882)有田郡内で清水と2ヶ所で観測所がおかれた。詳細なデータは今手元にないが、明治40年以後の累年平均は17度である。

 広川・清水  平均気温表
 月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年平均
広 8.06.89.715.419.422.726.628.225.019.614.59.417.0℃
清水3.93.27.114.118.521.625.426.122.415.59.54.514.3℃

湿度―空気中の水蒸気当地の湿度観測所は和歌山である。その観測結果は左記の通り。(「和歌山県の気象」による。)

  湿度の平均値和歌山統計年数30年
 湿度/月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年平均
%   6767 68 707378 80 7879 76 747173

である。湯浅における昭和26・7・8年の3年間の湿度を見るに、3ヶ年間平均湿度は68である。

  湯浅の平均湿度(1951〜1953)
 湿度/月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年平均
1951年6063 595862 69 7965 64 64 70 64 66
1952年6968 626665 73 7468 73 64 68 60 68
1953年6766 746565 79 7676 76 69 66 69 70
平均 6565 656364 74 7470 71 66 68 64 68

右和歌山と湯浅の年間平均湿度は1月・2月には何れも65内外であるが、7・8・9月盛夏の時候には7・80内外である。それ故に湯浅の隣地である広の湿度も和歌山および湯浅における湿度と大差がないものと考えてよい。
気圧について 気圧は日常の生活の重要性は少ないとするが、気圧分布は天気現象の予測に最も重要な要素である。たとえば当地域における左の台風では

台風名       時期  気圧      最大風速
第1室戸台風  1934  912〜959  45・O
第2室戸台風  1961  939・3  56・7

と記録された。故に船舶では台風時ならずとも常に気圧計に注意する。同様に、漁業者も気圧計に注意しつ、沖に出る。また山岳地帯の気圧も変わりやすいので注意を要することである。

和歌山での気圧の観測
気圧は高低気圧の去来によって毎日々々たえず変化しているもの、、冬期に高く夏期に低くなっている。和歌山の月別平均気圧は

1月  1019ミリバール
3月  1017ミリバール
6月  1008ミリバール
9月  1011ミリバール
12月  1018ミリバール

である。

  「気圧平均値 和歌山 統計年数30年」
 気圧/月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年平均
ミリバール1020.01019.1 1017.91015.01012.7 1009.2 1009.4 1009.91012.11017.2 1025.51020.5 1015.3

降雨量  
広川町の降雨量は再々の洪水によって甚だ多雨の地の観がするが、その量の平均値はむしろ多くはない。次に気する有田郡誌(1915)所載の明治41年以後5ヶ年の累年平均降雨量表と記している。

 明治41年以後5ヶ年の累年平均降雨量表
 広 /月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 総雨量
降雨量86.752.8 106.4260.1113.6 291.6 130.9 294.4345.4152.4 47.942.42256.7

次に和歌山県土木部が広川町大字下津木(岩渕)での観測結果を上げると次の表となる。

  「広川町降雨量(観測位置 岩渕分校)の1部」
 年 /月別  1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月  総雨量
昭和42年 9.8 22.0 22.1 276.0 59.0 74.0 352.0 285.0 81.0 237.5 108.5 28.0 1842.0
昭和43年 58.5 134.5 199.5 111.0 101.5 35.0 484.0 270.5 305.5 5.5 93.0 146.0 1944.5
昭和44年 106.0 136.5 930.0 以下中止

降雨量には時に7・18のような大きい洪水として観測しえない年もあるとして、広川町の経年平均降雨量は2千ミリ内外といって大差がない。
思うに気象要素たる温度、湿度、気圧それらが複合して風、降雨量および変異等の現象を示し天気があらわれてくる。7・18水害をみても水蒸気を多量に含んだ低気圧の大気が、広川上流地のけわしい山に突当って急上昇し、と同時に高処で冷却されて集中豪雨となった。地形も関係し、気象要素の複合変化があずかって原因となっている。

広川町四季の気象  
 冬に多い気象冬になってくる日もくる日も雨がなくて、月のうちが1ひよりか、2ひよりで、顕著な低気圧が1個程度。たまに南海上に低気圧が発達すると西北からの風が我等の町をめがけて吹込みはしたが、夜中に風がおちた翌る朝は、野山や家が白金になっている。
2月に入ると、日本海方面がまだ北高なるに土佐沖に突然低気圧が発生し、思わない暖雨が1日位、この雨で早い草木の芽がふくらみそめる。

寒波  広川町では寒波の度数は少ないが時にはみまわれる。一般に日本海に急げきに低気圧が発達するとき、それを埋めようとて広川町の頭上を南の風が吹いて通り、一時気温が上昇する。日本海の低気圧が東に去るあとにシベリア大陸からの西または北西の強い寒風が、南海まで吹込むときに寒波となる。

春の気象   春の気圧配置は「菜種つゆ」や「はしりつゆ」と云われて、彼岸雨よりおくれてくる長雨は、台湾付近から西日本太平洋側に亘る気圧の谷がひき、我町の空なども引入れられて、7日もの長雨になることがある。
菜種つゆよりもおそく5月中に「走りつゆ」があることが多い。

夏の気象   広川町での梅雨前線は、毎年大抵6月10日頃から7月10日時分迄相対峙し、末期に豪雨を伴ない雨の害をうけることがしばくである。

秋の気象  9月半ばで北高型気圧配置に入るのが常とするが、9月の初め頃より台風の暴風雨の年がかなり多
い。10月11月の気圧配置は比較的静かな高低両気圧が交互に繰返えして、西からつづいてくる。

自然誌・生物篇

生物篇
広川町の生物誌

わが広川町の生物につきその生棲するもの全部について目録式に網羅するのでなく、われらの祖先から人間の生活上、いろいろなかたちで暮らしの中に定着し、日常生活に根をおろしてきたものを主として記述することにした。
だから生物学的に論ずるよりは生活的に語るといったかたちをとった。それでとりたてて珍らしいものではなくとも人とのつながりに重きをおいて、現今では忘れ去られて注目を引かない平凡なものでもとりあげたし、今は絶滅したものでも拾い上げている。
つまり民俗誌的であり、風土誌的のつもりである。分類学的に目録をつくることも学問としては大切なことであるが、あえてその方法をとらなかったことをおことわりしておく。

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1、植物


神仏に供える木
はじめにどんな草木も神仏に供えて文句はあるまいといってしまえばそれまでの話だが、神前にはサカキ、仏前にはシキミなどと、昔からのしきたりがある。
まず神前のサカキだが、榊と書いているが、これは和製漢字で古来から神木であったことを示している。
元来神前に供える木といえば、今ではサカキのように固定してしまっているが年中青い葉であればよかったらしい痕跡がある。例えばツバキ(椿と書いて春の木)またスギこれは今日でも御神酒瓶に杉の葉を挿すことがある。
それに松、正月の神を迎える門松に見るようにまた荒神松としても。ほかにこの辺には無いがオガタマノキなど。

サカキ(ツバキ科)
サカキとは栄樹で、年中葉が青々としているため。山林中ひかげになっている所でも、他の高木の下にでもよく育つ。初夏小さい5弁の白花2、3個がかたまって咲き、小粒で黒紫色の実もなるが、どちらもあまり人の注意をひかない。他の常緑の樹とまちがわれやすいが、明らかな特徴は枝先きの芽が、いつも鳥の爪のようにゆるく曲っているので芽を見るとすぐ判明する。
神前への供花、玉串、よりましなどと神事には絶対かかせぬ木である。

マツ(別項でも述べる)
各家庭の「かまど」に祀った三宝荒神にはサカキの外に松の小枝を特に荒神松と称えて供えたものだが、プロパン普及台所改善で今日「かまど」の神を祀る家庭はどれだけあることであろう。
次に仏花としては、なんといってもシキミで、葬式などには道路にまで林立されている。

シキミ(モクレン科)
方言でシキビ、常緑の小高木で、葉や皮に1種の香気があり、葉は線香の材料にもする。
星形にならんだ面白い実が着き、小鳥、特にヤマガラの好物だが、人には有毒で、子供が喰って中毒した例もある。所によってこの木を墓地に植えるならわしがあるのは、この木の香をオオカミが嫌って墓地を荒らしに来ないとの言い伝えがあるからである。
いつの頃から仏花となったのか、どの山にでもザラにある木でなく値段も高く、今日ではなんとなく葬式用になってしまったので、平素の墓参りや仏壇にはビシャコを用いるようになった。ビシャコは方言で、本名はヒサカキである。

ヒサカキ(ツバキ科)
高さ1m内外で枝葉のよく茂った常緑の低木で、ややかわいた山地にもよく生育する。
早春まだ寒さもきびしいころ、黄白色の小花を枝いっぱいに咲かせて、近づくと相当高い香気がする。この木は、雌花の株、雄花の株、雌雄両方の花をつける株と、3通りの株があるのはちょっと変っている。
秋から冬へと黒紫色の小粒の実を枝1面につけ、小鳥たちの大の好物となる。この実をつぶすと紫色の汁が出て、昔の子供たちのママごと遊びの材料で、これにミカンの汁を加えると赤色に変るので面白がった。これはリトマス液の立派な代用品になって酸アルカリの反応に利用できる。
この木の枝葉を燃すと真白い灰が出来るが、これは古来染物のトメに用いたという。若葉は番茶の代用品にもなったが、今では2つながら全く忘れ去られてしまった。
以上のサカキ、ビシャコ、荒神松、シキミなど神仏に供える木を、すべて「ハナ」と称し、山へ行ってこれらを採取することを「ハナキリ」という。 わが町では昔から津木地区からかなり大量に出荷されて、相当な副収入となっている。そしてそれらは年間を通じて常に用いられている「ハナ」である。

ウツギ(ユキノシタ科)
卯月8日(旧4月8日) この花をッツジやゴメゴメの花などを長い竹ざおの先にむすびつけて、家々の前庭にたてておシャカさんを祭るとも太陽にささげるとも言った。
ウツギはウノハナのことで、この花が真白に咲き乱れると初夏を感じさせる。卯月になると咲くのでウノハナが咲くから卯月と、どちらもほんとうだ。
「卯の花が匂う垣根にホトトギス早やも来鳴きてしのび音もらす夏は来ぬ―」と古い小学唱歌があったが、卯の花を垣根にする家もなく、ホトトギスの声もきかれなくなって久しいことである。
万葉の昔から歌にもよまれたが、今の人はこのただ単純に白いだけの花に美を感じなくなってしまったのであろうか。
神事にも用いられ、仏にも奉った花であるが、現代では人の生活とのかかわりもうすれた。町内のどこの山にもある落葉低木で茎は中空で、ウツギの名もこの茎中うつほなる故に名づく。ウツギはうつほぎの略なりと説明される。5、6月ごろ、白色5弁の小花をたくさんつけて、多い所では雪のように見える。
なお郡内各地で卯月8日のこの花をつける竹ざおが他家より高ければ男の子が産れるとか、この花を保存しておいて家出人が出たり、 牛や馬が逃げたときこれを焼いてその煙のたなびく方向をさがすなどの俗信があった。

カシの木の小枝
庚申さんの祭をした後で、樫の木や椎の木の2又になった小枝を適宜の長さに切り取って、茎の片方だけ皮をけずり取って白くなった所へ、「五穀豊作村内家内安全」などと書いたものを庚申の祠に供える。津木地区では今も行われている。

めでたい草木
マツ(マッ科)

松竹梅とならべて、めでたい木の代表とされている。まず年の始め正月用に雄松、雌松と組み合せて門松や床飾りに用いられる。
これは黒松を雄、赤松を雌と思っていたからである。両方とも寒暑にめげず年中色あせず、厳然としたけなげな姿が、わが民族の節操と気骨を尊ぶ性と合うて、めでたい木の筆頭にあげられたのだろう。
わが町の天州松原のは黒松であり、霊巌寺山など山地のはたいてい赤松である。秋の味覚の王者マッタケは赤松の根に寄生し、天州松原などにはショウロ(松露)という美味な茸が生えたが、近頃はもう見られなくなった。
尚漢方薬に用いる「ブクリョウ」は松の古株の根に寄生する。
日本の風景の象徴であり、用材としても重要な木であるが、近年マツクイムシの全国的な発生で大被害を受けている。天州松原なども毎年駆除薬を散布している。
黒マツは葉が赤マツよりかたく、幹の皮の色も黒と赤(茶色)との差があるが、この2つが混生している松林などでは、どちらともきめかねる松に出会うことがある。これはアイグロマツといって両者の雑種である。
黒マツは潮風に強いので江戸時代から各地の海岸に防風林として盛んに植えられた。用材としては赤マツのほうがすぐれていてわが町の山林からも多く伐り出されている。黒マツは材質は赤マツにおとるが、土木用に多く用いられる。松を焼いた松炭は鍛治屋が特に用いたものである。
俗にヤニといっているマツの樹脂も種々利用され、戦時中には松根油を取った。古い根株は特別にヤニが多くコエマツといって美しい用材にした。またコエマツは古来松明(たいまつ)として重用された。松明は、実際に使ってみると、懐中電燈などより照らす範囲が広く、火が燃えているということが、心理的に心強さを感じさせ(夜間山路を行くときなど。)またこのコエマツを燃して出る松煙は製墨の材料であり、山小屋で「松煙たき」という仕事もあった。
マッは昔から、特に江戸期に入ってから重要な木の1つとして民間人が、勝手に伐ることを許されない「5本」の中に入れられていて、厚く保護されたものであった。

ユヅリハ(トウダイグサ科)
正月用にウラジロと共になくてかなわぬものだが、おそらくウラジロと共に年1回の使用だけであろう。ユヅリハなる名が「円満に代々子孫に家をゆずっていく」といった縁起からかもしれない。
毎年春から初夏にかけて新しい葉が出そろうと、古い葉は残らず落ちてあとをゆずる。葉柄や若い枝が多少紅色をおびているものと、緑色のもの(イヌユズリハ)との2種あるが、正月用は紅色のものが本当だが、現今花屋では紅、緑の区別なく売っているし買手も気にしない。この木に限らず大昔から木の葉に食物を盛ったり、包んだりすることが行なわれてきたが、その名残りが正月用として残っているのかも知れない。
この木には多少毒分を含んでいるのだが、その若葉は、ゆでて流れ水にさらした後、味噌であえるとめっぽううまい山菜になる。
町内の雑木林に混生しているし、庭木にしてもよいものである。

ウラジロ(ウラジロ科)
多年生のシダ類で、葉の表が緑色、裏側がめだって白っぽいのでこの名がつけられた。
正月のシメ飾りや、かがみ餅の敷物にする。強い葉柄のさきに、左右にわかれた2枚の羽状の葉が8文字形についている―その分岐点に芽があって毎年1回これが伸びて、その先にまた左右に分れた葉をつけ、これを毎年くりかえすから4、5対の葉をつけて大きく伸びているものがある。これがめでたいいわれになっているのだろう。
葉柄の太いものは、特に箸に用いたりして不老長寿を祝い、色が美しい濃い茶色をしてつやがあるのでシダの箸といって縁起物にもなった。またこの柄で籠をあんだりして昔は実用物にもなっていた。

タケ(イネ科)
ひとくちにタケといってしまっているが、ずいぶん種類が多くマダケ、モウソウ、ハチク、クロチクなど利用価値の多いものは全部栽培品である。食用にするタケノコは地下茎から出た芽である。
竹の性質としてその割裂性、弾力性、負担力、抗圧力に富み、その上竹そのもののもつ美しさとによって古来から人間生活上有用な植物の1つで、建築用、日用器具製作用など、実に多方面に利用された価値多い植物である。全国各地で栽培されている。わが津木地区では早くからモウソウやクロチク(紫竹)の栽培が盛んである。
竹類は昔から旧歴の5月13日が竹を植えるのに最もよい日だとの俗信があり、竹酔日の名がある。
ところでこれを伐る時期が悪いときまったように虫がつくので、古来旧8月の育暗のころが最適といわれ、この時期から竹の伐り出しが始められる。
めったに花は咲かないが、120年に1度花が咲き、ろくに実もならず、やがてその藪全体が枯死してしまう。
ここ数年来全国的に竹の開花期にあたり、全国の竹藪の7割が枯れたとのことである。(昭和42年調)
竹は木でもなく草でもなく、これらと肩をならべる高等植物であるが、わが国では草類の王者とされ、タケと名もそのすばらしい生長力をたたえて「たけだけしい」という言葉から出た名とされている。こういうところからめでたい植物とされたのである。
タケとササの区別は、だいたい葉のかたちで見わけるが、竹の子が成長しても、ササは竹の皮が落ちない。ササは60年ぐらいに1度花を咲かせて実がなるとやはり枯死してしまう。この実が山ねずみの好物で(人も喰える)ねずみの異常繁殖の1原因と目されている。
わが津木地区からは、竹、竹の子、黒竹が相当多く出荷される。食用とするタケノコには、モウソウ、マダケ、ハチクなどあるが、なかでもモウソウが1番大きく味もよい。
ついでに広川町内ではハチクはめずらしく、マダケやモウソウが多い。夕ケやササには栽培品種が多く観賞用のものも多く作られ庭木としても賞用される。それから食物を包んだ「竹の皮」の利用は全くすたってしまった。
しかし今も食品などをつつむ紙に竹の皮模様を印刷されたものもあって、その名残りをとどめているのも愛嬌である。

ウメ(バラ科)
風雪のなかでいち早く春を告げる花として紅梅・白梅とうたわれて古来その風趣を愛されてきた。もと中国産だが万葉の昔からもてはやされているから、ずいぶん大昔に渡来したのだろう。わが国民にひろくそして静かに愛されつづけ暮らしの中にも定着している。これも園芸品種がすこぶる多く、江戸時代には既に350種を越えていたという。しかし最も広く分布しているのは野梅(白梅)で、その花は白色5弁気品高く、葉の出ぬさきに花が咲く。
わが和歌山県では、昭和46年の国体開催(第26回国民体育大会=黒潮国体 =)の記念行事の1つとして「県の花」を制定することになり県民から公募した結果「ウメの花」が県花と決められた。ウメはその樹のかたさ、花や香の風雅もさることながら、その実が梅干や梅酒用として需用が多く、わが津木地区でも山畑を利用して相当栽培に力を入れている。「梅ぼし」はわが国民日常生活上の必需品になっている。また昔はサル年の梅は特に薬になるといって申年には常より多く漬けこんだものであった。
今は全く忘れてしまったが、上中野は一時梅の栽培が盛んで「中野梅」といって名高かった時期があった。
また満開の野梅の花を飯にたきこんだ梅花飯というシャれたものがあるが、今はこれを賞味する茶人もないであろう。

センリョウ(センリョウ科)
マンリョウ(マンリョウ科)
ヤブコウジ(ヤブコウジ科)

お正月用の生花や鉢植えとして飾られる。ともに常緑でつぶらな赤い実が可愛く美しいことでもあるが、第一名前が千両、万両と縁起がよい。いずれも浅い林や藪の中に野生しているが、たいてい栽培されている。とくにセンリョウは、わが町内では自然生のものが見えない。
千両、万両とならべてよぶが、植物学的にはお互いに縁の遠いものである。センリョウは一に足らぬ小低木で夏季白い花が咲き、晩秋から明るい紅色小粒の実を茎の頂上にかたまってつけるのが目立ってくる。この実が常緑の葉に対象して年を越しても落ちない。まれに黄色の実のものもある。
マンリョウはこれも紅色の実でセンリ ョウよりも大粒で色も濃く、葉は厚く、たけはセンリョウより低い。つまり実が葉より上につくのがセンリョウ、葉の下にぶらさがっているのがマンリョウである。
ヤブコウジは前2者にくらべてまた背が低い。20センチメートルにも足らぬ小さい木である。これも赤い実が葉の下に小さく1つ2つぶらさがっていて年を越しても久しく実はおちないでいる。マンリョウ、ヤブコウジ共に1本立ちに生えるが、センリョウは根元からたくさん芽を伸して叢生する。これらはいずれも庭木としても賞用される。
ついでに正月用として用いられる植物で、さきにのべたウラジロ、ユズリハと共に、重ね餅の上に串柿とみかんをのせるし、門口にかざるシメカザリにダイダイの実をつけることは今日でも行なわれている。
すべて祝意をこめた緑起物である、ダイダイは代々に通じ、ユズリ葉は子孫にゆずる意である。串柿は渋柿の皮をむいて竹串につきさしたものだが、そのさしかたが、2つ、6つ、2つと10個をそれぞれわけている。
つまり、いつもニコニコ(2個2個)仲むつまじく(6個)の意だという。
ダイダイ(ミカン科)
この辺の方言でカブチ。実は年が明けても落ちないで残る。味は酸味が強いのでその汁を食酢に用いる。伝説にあるタジマモリという人が天皇の仰せで常世の国へ取りにいった、トキジクノカグノコノミ(一般にみかん類をさす)は、このダイダイのことだと考証する学者もある。ともかく外来のものであることは確かである。
なお正月用に飾る「みかん」は今日の温州みかんではなく、俗に「本みかん」とよんでいる昔の紀州みかんのことで、小型で種子があり味はさっぱりしたよいものであり、有名な紀国屋文左エ門が江戸送りしたのはこのみかんであった。
串柿にする柿は渋柿の一品種で、渋柿も種類が多く、つるし柿にしたり、渋抜きをし、甘くして食用にする。
津木地区は昔から柿類の名産地であった。

マンネンタケ(サルノコシカケ科)
古くからレイシ(霊芝)とよばれ、万年という名とともに、めでたいものとして珍重され、床の置物などにもされてきた。
諸種の樹木の古株の根元からはえ、その柄のもとは土がついているので、寄生植物で無いような感をあたえる。
寄生する相手や場所によって大小さまざま、色彩も変っているものもあるが、普通は黒褐色か赤褐色で漆をぬったような美しい光沢がある。
その柄は傘の片側につき、その直経よりは長く、傘とほぼ直角になっている。柄の長いものほど珍重される。
乾してかため布切などで磨くと、しぶい美しさがある。俗に言えば、美しいクサビラの1種である。これと同じ科のサルノコシカケは美しくはないが、大きなものは珍らしがられて愛玩される。
家の入口の柱などに、神社のお札や、このマンネンダケやサルノコシカケなどを打ち付けておく風習が今も農山村の古い家には残っている。1種の魔除けにしたものらしい。
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責められる木
正月15日(小正月)の朝は、「小豆がゆ」を祝う習慣がある。もちろん旧歴である。この朝、柿、栗、みかんなどの果樹の根元に近い幹を、なたの柄や木の枝などでたたいたり、少しく傷をつけたりして「なれ!なれ!」とさけんで責めたてる。それがすむと、小豆がゆを供える。成木責といって農家では正月中の一行事であったが、今ではもう知る人も少くなってしまった。
冬至から最初の満月の日にあたる小正月は上元といって昔は重要な日であった。この日に果樹を責めはやしたててよい稔りを願ったのである。そしてこの日の朝の小豆がゆをいただくときの箸は、カヤ(ススキ)の軸を使うしきたりもあった。

コシダ(ウラジロ科)
正月に使うウラジロを単に「シダ」と呼ぶことがあるので、これと見たところ少し似ているようで葉が小がらなのでコシダという。暖地の陽あたりのよい、ややかわいた場所などでは一山全体にはびこって大群落になっていることは珍しくない。
葉柄の先きが、ふたまたにわかれて1対の葉(羽片)をつけ、そこがまたわかれてそれぞれ1対の葉をつけるから6枚の葉があることになる。その葉柄は丈夫で長いので、これでシダ籠を編んだ。しかし今はこのシダ籠もなつかしい昔の思い出になってしまった。
松茸狩りには、かならずといってよいほどこの葉柄に松茸を通したし、この葉を添えると耳がひき立って見えるから妙である。
全草を刈りとって畑の敷きものにしたり、またペンキなどあまり使わなかった昔、木造舟を浜に引き上げて、このシダで底をこがさぬ程度に焼いて防腐や防虫にした。わが町内では一般にシダといえばこのコシダを指すようである。常緑のシダである。

県の木ウバメガシ(ブナ科)
わが県で緑化運動の一環として「県の木」を選定するのに一般投票の結果この木が決まった。昭和41年9月10日である。
この木の方言名は県下で約15・6報告されているが、バベ、ウマメ、ウバベなどが多く呼ばれているが、わが町ではバベである。
常緑カシの1種で、高温多湿に適しているが、砂地や岩石地帯など乾燥した地にも強い木である。千葉県以南の海岸地帯に分布しているが、とくに林業上重要なのはわが県と高知県とであるという。
わが県では特に南部に多く分布しているようである。わが町内の山地にはいたるところに自生していて、たいてい群落をなしている。庭木や盆栽としてもよろこばれている木である。
しかし民俗的になじみ深いのは、正月元旦のたき初めに、この木の枝葉を用いることであろう。燃えるとパチパチと景気のよい音をたてる。これでお雑煮を炊いたので、正月初めといわれる12月13日には1村こぞってこの木を刈りに行ったものである。それでフクシバという名もある。この木の樹液はメジロ (小鳥)の大好物で、メジロとりにとっては重要な目標になる。
春の新芽には「ヤママユ」(大型の蛾)の幼虫がつき、やがて「マユ」をつくるのだが、ヤママユといって、たくさんあれば天然産の絹織物にもしたものであった。また、このマユは小児の熱さましとして民間薬ともなった。
なお木炭のうちで品質最高、火力も強く、火持ちもよいことで知られ、調理用として重用される白炭はこの木を特別な方法で焼いたもので、備長炭と呼ばれ、津木地区でも多少焼かれている。
備長炭の名は、元禄の頃、田辺で炭問屋をしていた備中屋長佐工門が、この炭を江戸や大阪方面に売り出し好評を博した時の商品名である。しかしこの炭も原木が不足してきているのと焼くのに骨がおれるのとで年々減少していく傾向にある。

食品を包む草木の葉
草木の葉を利用して食物を包んだり、味をそえたりすることは大古からのことであったが、今日まで続けもちいられているものがかなり残っている。意味が少し違うが、有名な有馬王子の悲歌

家にあれば けにもるいいをくさまくら
旅にしあれば シイの葉に盛る

など食物と草木の葉の関係がなんとなくわかるような気がする。
食物を葉につつむのは、食器代用にもなるであろうが、それよりこれらは食物に1種の風味をそえるもの、特別に神仏にお供えする場合、またまじないのような役目をするもの、色どりとして用いるなどいろいろある。
まず第1に有田名物「なれずし」をつけるための「アセ」の葉などこの「すし」に独特の風味をつける。ついでにこの「なれずし」はわが広、湯浅が本場で、特に広から始められたと受けとれる書きょうをしている古書もある。
(十寸穂の薄巻3) それで和歌山の方言で有田のなれずしを、「しもずし」という。
また塩がらい魚を用いて、すしにするとき柿の葉でつつむと適当に塩がぬける柿の葉ずし、これには渋柿の葉が特によい。よい香りをそえるためにミョウガの葉でつつむなど、しかしなんといっても「なれずし」にはアセの葉が1番多く利用される。アセは方言でヨシタケが本名である。

ヨシタケ(イネ科)
町内の河岸や海辺の湿地に生える大型の多年生草木で、大群で繁茂していて、海辺に近い田畑では潮風除けの生垣にしている所もある。古い茎は分岐するし、大きな葉をつけないので今年出た新しい茎の葉が幅広く長い。
「なれずし」は秋祭りにつくるのが恒例であるので、その頃になるとわれ勝に採集するので近年花屋などで販売もしている。なお5月節句の「ちまき」もこの葉でつつんでいる。
「かしわ餅」も本来はカシワ(ブナ科)の葉でつつんだからこの名があるのだが、当地方では「かしわ餅」といえば全部といってよいほどサルトリイバラの葉を利用する。それでサルトリイバラの名をわすれてカシワのハと呼んでいる。あんもちをこの葉でつつんで蒸し上げるのだが、ひなびた香りがしてなつかしい。

サルトリイバラ(ユリ科)
町内どこの山地にもある雌雄異株のトゲのあるつる性の植物で、つるは節ごとに曲り、葉柄の両側から出る巻きひげで、他の木によりかかって体をささえている。肥えた土地でよく育ったものは、茎の直径1センチほどもあり、木から木へ伝って繁っている。こうなると「猿獲り茨」の名が生きてくるようである。葉は広く円形になり、つやがあって3条の太い脈が葉の縁に並行している。冬になると葉が落ちたつるに真赤に熟した丸い実がルビーのように光っている。このサルトリイバラの方言名を調べてみると、各地でいろいろな方言名が多いところからみて、昔から人生との関係が深かった植物であることがわかる。(県下だけでも24ほどある。) このほか、サクラ餅をつつむ桜の葉は、サクラの若い葉を塩またはニガリにつけこんで保存してあるもので、特別な香りがする。
もう忘れられて昔の話になってしまったようだが、赤ん坊の宮参りのとき、神前に供えるオシロイ餅 (米の粉を水でねっただけのもの)は、シイの葉に置いてそなえた。
八十八夜に田圃の水取口に田の神を祭るのに「卯の花」の枝に餅をつけて供え田植えをすますと栗の葉に「小麦もち」をつつんで水田や池の水口に供えたものである。
包むのではないが、生魚や加工した食物を人に贈るとき ナンテンの葉を添えることは今も行なわれているようである。ナンテンは難を転ずるとの語呂と、この葉には毒消しの作用があるとのことで、このように用いられる。
同じくただ添えるだけのものとして、バレンの葉(ハラン)ですしをへきり、菓物を盛るのに桧葉を添えると1そう見ばえがするから妙である。
最後に、食品を包むのに便利であった、竹の皮の利用は全くすたれ、若い人には知る人も無くなった。にぎりめしを梅千しと共に竹の皮につつんだり、牛肉は必ずといってよいほど竹の皮に包んだものである。都市には竹の皮をあつかう専門の問屋まであった。

山菜の王者(フキ、ワラビ、ゼンマイ)
この3つは山菜の代表的なもので、これらを採りに山野に入ることは春の行事といってもよい楽しみがある。特に山村の主婦や娘たちは、弁当持ちで奥山にまでわけ入り、大きな袋1パイに採取して、背負って帰ってくる。
ワラビ、ゼンマイはどちらもシダ類だが、冬葉は枯れて、春になるとワラビは、にぎりこぶしをふり上げたように、ゼンマイはその名のとうりきりきりとぜんまいに巻かれ、綿ぼうしをかぶって出てくる。いづれも芽葉であってこれが食用になる。
ゼンマイの葉に2種類あって、繁殖葉になるものは食べない。(オトコゼンマイといっている、胞子をつける葉である。)
根株からいく本も群生している。木灰を加えた湯でアクぬきをし、水でよくさらし、それを乾しながらよく揉んで充分乾燥させて貯之、調理のときには水に漬けてもどして炊く。なかなか手数のかかるものだが美味である。
ワラビはゼンマイとちがって1本1本生えている。「さわらびが にぎりこぶしを ふりあげて 山のよこづら はるかぜぞふく」 との狂歌があるが、小さいこぶしをふり上げたようなのが最も食べごろである。木灰と熱湯で処理、水にさらして調理する。
その根茎からワラビ粉という良質の澱粉を製し、残った根茎でワラビ縄を作る(耐久力が強い)が、それらは広川町では昔から行なわれた形跡はなさそうである。なお、ワラビは年中わずかだが芽を出しているので「お寺のお和尚さんにさし上げる」ほどは年中とれるものだとも言い伝えられる。
フキは菊科の多年草で雌雄異株で、山野どこにでも生えているが、採集するには山間の湿地に群生しているものを見つけることである。普通食用にされるのはフキの葉柄で、香りも味も栽培品種よりも上々である。
フキの若い花茎が、早春、ときにはまだ雪も残っている頃に地上に顔を出してくるのを、フキノトウといっている。これを堀り取って食用にするが、なんともいえぬ苦味と香りが食通連によろこばれる。
フキもわらびもゼンマイのように乾燥させて保存もきくが、これはゼンマイのように美味とはいえない。

サクラ(バラ科)
日本人とサクラとは、心理的に切ってもきれぬほどのかかわりをもっていて、大古から親しまれてきた花木の1つであろう。たんに「花見」といえばサクラの花見のことである。 はやく冬があけてサクラの花咲くのをまちこがれる。この花を見ればしぜん陽気になるものである。
この木は多くの種類もあり品種も改良されて、じつに色々なものが出来ていて、昭和サクラというものも出来てきている。
昔からのサクラといえば山ザクラを指すのだが、山に自生している本当の山ザクラはだんだん少なくなっているようである。庭木や社寺の境内や公園などに植えられているのはたいていソメイヨシノという改良種で、江戸末期から明治初年ごろ東京染井の植木屋が世にひろめた栽培品種である。現今では全国のサクラの約8割はこれであるという。しかしこれは割合に木の寿命が短かく50年ぐらいかといわれる。十円切手の図案になっているのはこのソメイヨシノである。
ついでに、「郷土の花」としてサクラを選定しているのが3府県ある。東京都がソメイヨシノ、奈良県はナラノヤエザクラ、京都府はシダレザクラとなっている。このシダレザクラもヤエザクラももとは山ザクラの改良品種である。
広川町にも所々に山ザクラは残って居り、津木の山間には相当大きなものもあるようであるが、植林などの犠牲になって失われていくようである。
ソメイヨシノは葉が出るよりさきに花が開き、山ザクラはうす茶色の若葉と同時に開花する。日本のサクラは、ニニギノ尊の歌と伝えられる「よろずやのえ (上)にはなさくは  さきく(幸)にさくらん ほきく(寿)にさくらん」 とか、「なにわずに さくや このはな ふゆごもり いまをはるべとさくや このはな」という王仁の歌からとか、コノハナサクヤ姫の名からとかいろいろ語源が説かれている。
桜という漢字をあてているが、桜は桜桃のことで英語のチェリーである。材は良質で種々の家具の製作に適する。昔の印刷用にされた版木は主としてこの材であった。

ヒイラギ(モクセイ科)
迎春の行事の1つである年越の夜、鬼どもが里之来て家々の戸のすき間から家内をのぞきみするのを防ぐため、ヒイラギの小枝に鰯の頭をつきさしたものを戸口に插しておく習しがあった。この葉のふちにある針で鬼の目を刺すので逃げて行ってしまうのだという。しかし今ではこの風習もすたれ、こんな話も若い人たちは知らなくなっているのに、同じ夜行われる「鬼は外、福は内」の豆まきの行事は、寺社や商売宣伝のショウなどに、今も盛んに続けられているのは、対象的である、なんでもないことのようだが考えさせられる。
ヒイラギは3原ほどになる小高木であるが、その葉の鋸歯が細い針になっていてさわるとかなり痛い。「鬼の目つき」という方言名が生きてくる。しかしこの痛い葉は、若木のうちだけで老木になると次第に針はとれて、葉もまろやかに変って、これがヒイラギかとうたがいたくなる。植木屋などは、痛い葉のものを雄針のないものを雌だなどというが同一のものである。もっともこの木は雌雄異株だが、これとそれとは話がちがう。
町内の山地に自生のものもあるが、庭木としてよく植えられている。秋から冬にかけて白色のあまり目だたないが香のよい花をつける。
ところで近頃わが国のクリスマスに、真赤な小粒の実をつけたヒイラギの小枝にベルをつけたりしたものが、クリスマスカードに描かれたり、その造花をケーキに添えたりするのを見かけるが、ヒイラギにはあんなきれいな実は着かない。くすんだ紫色の実である。葉がヒイラギに似ている別種の木をまちがえて用いているのであろう。

さてこの木の材は白く象牙のようなつやが出るので、将棋の駒や、3味線のバチ、そろばんの玉などにも作られ、その外器具材として賞用される。津木地区の山中に自生のものが見かけられるが、そう大きくなったものには出会わない。

春の7草(ななくさ)
せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ
すずな すずしろ これぞ ななくさ

と歌われて古来から有名である。これらの野草は、大古は今日のように野菜が豊富でなかったころ、人々はきびしい冬があけるのをまちかねて、早春の野に出て、日陰などにはまだ少し雪が残っている頃からつみ取ったもので、おそらくは採集経済時代の食生活の名残りが、行事の1つとして残されてきたものであろう。
正月7日の朝に祝う7草がゆは、これらの草の若芽を入れて炊いたかゆ(餅は必ず入れる)で、邪気をはらい、病気をしないと信じられてきたのである。
7草を刻むとき「とんどの鳥と、日本の鳥が、渡らぬさきに、ななくさ祝お……」とか「とうどの鳥と、日本の鳥と、渡らぬさきに、7草なずな、手につみいれて……」などと唱えてまな板の上をトントンとたたいたのだという。これはある種の鳥追い歌だとの説もあるが、この文句をおぼえている人も無くなったことであろう。
今日では7日正月を祝う家でも、7草全部ではなく、ナズナだけで代表して、7日のナズナがゆと呼ぶようになっている。そしてこのナズナを摘む場所も古い屋敷跡やその附近でつむことを忌んだ風習があり、これは今も実行されているようである。
これらの野草は名高いわりに、一般ではもうめったに食料にすることもなくなり、7草がゆの風習もやがてすたれてしまうだろう。

セリ(セリ科)
田の畦や湿典、小川のへりなどに自生する野草である。春まだ寒く、ようよう水がぬるみ始めるころ冬を越してきた若葉を食用とする。その香気と佳味は食通によろこばれる。つむ時季がおくれるとヒルが卵を産みつけるといって嫌う。しかし今日ではどこかで特別に栽培された品を八百屋などで売るようになった。
当地ではめったにせりつみなどせぬようである。なお「三葉セリ」と区別するために「田ゼリ」と「根ゼリ」と別に呼ぶこともある。

ナズナ(アブラナ科)
田畑の畦や野辺などいたる所に自生する雑草で、俗にペンペン草ともいう。葉は羽状にさけ、春早く白色の十字花を総状につける。実の形を三味線のバチになぞらえ、この実を2つ耳の側ではじき合わすとペンペンと小さな音がするので幼児のおもちゃにもなった。若葉を食用にする。

ゴギョウ(キク科ホホコグサの古名)
田圃や畔などの雑草、全体が白色をおびてフェルトで細工したようなやわらかい感じを与える。ツブツブした黄色い花を、ひとかたまりづつ茎の上端につけている。草餅にするがわが町では用いなかったようである。女児のつみ草あそびにする。

ハコベ(ラ)(ナデシコ科)
古い名はハコベラ。田圃、路端、野原いたる所にはえている雑草。小鳥のエサとして有名だが、若葉は食用にもなるし、乳の出の悪い婦人の薬用ともした。

ホトケノザ
江戸時代から本草学者の間で諸説があって、なかなか片付かなかったが、今日ではコオニタビラコ(キク科)におちついた。その根生葉が蓮座状に敷いてある所からホトケノザと言ったのだろうという。

スズナ スズシロ
この2つも昔から諸説があって、近世になってからスズナはダイコン、スズシロはカブラということに定着しそうだがスズナはノビル、スズシロはヨメナという説もかなり有力である。ダイコンやカブラは後世の栽培品だから、どうやらノビルやヨメナのほうがよさそうな気がする。どちらも食用になる野草である。

ノビル(ユリ科)
田畑の畦や路傍どこにもある強靱な多年草で、春、ネギを糸のように細くしたような葉を出したりしているのを堀り取ると、ラッキョのようなリン茎がついている。酢味噌あえにするとけっこう甘いもので強壮、補血の効があるといわれ、ガンにもきくといわれる。古い名はヒルだがわが町では古名のままヒルといっている。春小さなうす紫の花をつけ、花からムカゴがたくさんついて、それがその場で芽を出したりして奇妙である。

ヨメナ(キク科)
秋になるとうす紫の可憐な花をつける野菊である。田の畦道や土手などに多く生えている。
この若葉に独特の香りがあってゆでて食用にした。
春の7草を正月7日のかゆに入れて食べることは、遠い昔からの農耕民族の呪術的な「年まつり」につながる大切な行事であったようである。

秋の7草(ななくさ)
はぎ おばな くずなでしこ おみなえし ふじばかま あさがお

万葉集巻8に右の7種類をあげて、秋の野の花と詠まれている。由来日本趣味の花として親しまれ、特に絵画や文様や着物のがらなどと、今日にまで日常生活に根をおろしている。
こうしてみると、春の7草は、食べることが主になっており、秋の7草は、もっぱら観賞に適しているようである。

ハギ(マメ科)
和製漢字で萩とあるように、秋の花の筆頭にあげられている。ハギにもいく種類かがあり、園芸品種も多いが、ここでいうハギはヤマハギのことで、町内どこの山すそや野端にも自生している。
落葉性の低木で、叢になり多くの枝を出し、秋になると枝の先の方の葉腋からぎっしりと紅紫色の小さい蝶型の花をつける。冬期茎を刈り取って、しおり戸や垣根にしたり、茶室の天井用材などにも使用された風流もあったが、近頃はみかけなくなった。月見のときに供える花である。園芸品種には庭木としたものもある。

オバナ(イネ科)
尾花で、花穂の様子からつけられた名で、ススキのことである。農山村ではカヤと呼ぶことのほうが多い。夏のおわりごろから花穂を出し、秋の野山の風情はこのオバナのそよぎでひきたてられる。
この花穂が白くなってくるにつれて秋が深まっていく。平安朝期には特にもてはやされたようで、詩歌にもよくうたわれている。今は「お月見」の花として、ハギとともになくてはならぬものである。
ススキは山野、堤、路傍などいたる所に自生して、大きな株になって大群をつくり山野面を被うてしまうこともある。
昔の農山村の家の屋根は、このススキで葺かれたいわゆるカヤ葺きである。農山村の生活ではこのススキは相当なウエイトを占めてきたもので、カヤ屋根は毎年少しずつ手入れを加えるために、家毎に何荷ときめて毎年苅り取って保存しておかねばならず、炭焼きをしてそれを入れる俵は主にこれで編まねばならぬので、相当量のカヤが必要であった。
津木岩渕地区では、最近まで毎年、一定日に時刻を定めて、この日は部落総出でカヤの一斉刈り取りをした。
この日は誰でも早いもの勝で、刈り取りの競争になる面白い行事が残っていた。
古来からカヤに呪術的な信仰があったと見えて、正月15日の小豆がゆの箸はこの軸を用い、田植えの際、田の神に供える餅を「かしわ」又は「いちご」の葉などで包んでススキの茎に結びつけて畦に立てたものであった。
このススキの株に「ナンバンギセル」という面白いかっこうをした寄生植物が生えることがある。

クズ(マメ科)
方言でトラカズラといっている所もある。大きく3枚にわかれた複葉、どこまでも伸びるかと思われるつる。山野路傍に野生している。夏の終りごろから秋へ、フジの花房のような蝶型の黒紫色の花房がたれさがり、下の方から順次に開花していく。クズの名は、1説に薬のクスからきたかともいわれ、有名な漢方薬の葛根湯の主剤になっているのはこの根である。また酒の悪酔や酒毒を消すのにこの花の乾燥したものを用いたのだという。また、肥大したその根は、良質の澱粉がとれ、それがクズ粉である。葉は牛馬その他の家畜の飼料にされた。

ナデシコ(ナデシコ科)
多年生の草木で、1ヵ所に多くかたまっては生えないが、所々に1、2株ずつみられ町内の山地、川原、野辺などで折々みかけられる。川原にも生えるというのでカワラナデシコの名があり、秋の7草はこれを指す。
中国原産のカラナデシコ(石竹のこと)に対してヤマトナデシコともよばれ、そのやさしい姿と「撫子」という語呂から日本女性や、幼児の代名詞にもなった。
芭蕉の奥の細道にある曾良の句に「かさねとは8重なでしこの名なるべし」とロマンチックな句を詠んでいるが、カワラナデシコには8重咲きは無い。言葉のアヤであろう。茎は約60センチほどで数本叢生していて緑色だが多少白っぽい感がする。節があって細い葉は節を抱くようについていて対生である。夏から秋へかけて枝ごとにその先に淡紅色の花をつける。花びらの先は糸のようにさけている。栽培品種はたくさんあって、「母の日」に着けるカーネーションもこの1種類である。

オミナエシ(オミナエシ科)
古い名はオミナシ。茎は直立して高さ1、内外、多年生草木で葉は羽状複葉で対生である。ちょっと気がつかぬが根元に大根の葉のような大きな根生葉をつけている。夏から秋にかけて茎の上部のほうで枝が分かれてその先に小粒な黄色い花をつけて傘のようになる。漢字で女郎花と書くとおりその風姿を女性になぞらえている。
町内山地の雑草の中に自生しているが、少ない。お盆の仏花として必ずといってよいほど用いられるが、たいていは栽培品である。
ついでだがオミナエシとそっくり似ているが茎も太く全体が大ぶりで白い花をつけるオトコエシというのがある。

フジバカマ(キク科)
その実物を実際に見たこともないが、あまりにもその名が有名なので、実物も知っているつもりになることがある。
ここのフジバカマもその1例で、この草にはめったにお目にかかれないものである。遠い昔の奈良朝期に中国から渡来したものが散らばって在来種のようになったものという。漢名は蘭草(ランソウ)で中国では薬用にしたり、風呂に入れたりして、その香を珍重した。多年草で高さ1〜2原花期は夏の末から秋。色は淡紅紫色、葉は3裂して表面につやがある。茎や葉を乾かすと次第に香気が出る。
この葉によく似たものにサワヒヨドリやヒヨドリ花があり、どちらも草全体に細い毛があり葉のうらに腺点がある。サワヒヨドリはフジバカマの代用とされている。
フジバカマは紀北地方では見かけるというが、紀南では珍らしい。わが広川町では柳瀬附近でそれもたった1回見つけたという報告がある。どこかに見つかるかも知れないという希望をもっている。
最後はアサガオであるが、今日でいうあのアサガオではなく秋の7草にうたわれているのは、実はキキョウのことだろうと、だいたいの学者の意見が一致しているようである。
今いうアサガオは平安朝ごろ中国から薬用として輸入されたものを改良して観賞用としたものである。

キキョウ(キキョウ科)
陽あたりのよい山野の草原に自生している多年草だが、あまり多くはない。観賞用として栽培されている。茎を傷つけると白い液を出す。葉の裏は白っぽい。夏から秋に青紫色の鐘状でさきが5裂にわれた美花を咲かす。草原などで見つけた時は思わずその清楚な姿に見とれてしまう。古人も賤が伏屋で美女に出会うた心地がすると表現している。この根は太く多肉で「セネガ根」の代用とされ、有名な漢薬となる。咳の薬である。

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校庭にある木
校庭にある木で、ちょっと注意をひくものをあげてみよう。

エンジュ(マメ科)
津木小学校運動場の一角にイチョウ、クスノキとならんで、エンジュの相当な古木がある。
もとより、いつか誰かが植栽したものであろうが、町内ではあまり見かけない木であるし、珍らしくもあり、めでたい木でもある。
もとは中国の原産、わが国へは仏教とともに渡来したものだろうという。ニセアカシヤに似た羽状複葉の喬木、盛夏のころ枝頂に淡黄色の蝶型の花を多数つけて後に、連球状の莢果を着ける。さやの中は粘りがあり内に3〜4個の褐黒色の種子が出来る。成長はおそいが、耐風、耐寒、耐乾力が強く、自然に樹冠が整ってくる。
この木は古来有名な薬木で、花はルチンを含み高血圧に、樹液は神経系のしびれに、花を炊って血止薬に、実は痔疾に、また久しく実を服用すると年を延ばす、即ち延寿だという。材も器具製造用として賞用される。
漢名は「槐」中国では大昔から尊貴の樹とされて、古代中国の周の時代から朝廷に3株の桃を植え3公がこれに向って座したという。3公とは時代によって名称や役目が違っているが、ひとくちに言って政府最高位に属する3つの官名であった。
学園にこの樹のあるのはめでたく、種子をまけばよく発芽するので、もっと植えひろめたいものである。落葉樹である。

岩渕分校のトチノキ(トチノキ科)
トチノキそのものは珍らしいものではないが、津木山中に自然木があるように聞いている。ここのはもちろん植栽されたものであろうが、子供たちに傷ためつけられたのと、杉の木の下側になったのとで、あんまり目立たないが、この木の葉の大ぶりな掌状複葉が面白い。
街路樹にもなっているので都市の人の方がかえってよく知っているかもしれない。しかしこの木とほとんど見わけがつかぬマロニエともまちがわれやすい―街路樹にマロニエが多いから――。マロニエはパリの名物となっている。
それはともかく、この木は山地にはえる落葉喬木で周囲2高さ30の大木が多いという。紀州に昔から多かったらしい。旧藩時代紀州江戸屋敷にトチの間というのがあってこの用材は有田郡粟生の矢筈嶽から切り出したという。南紀方面にも多く、この木で作った器具で名高かった。
岩渕分校のは前記のようだが、学園の木としてもっと各校庭に植えたいと思う。この木は単性花か両性花かで、
岩渕のは単性花とみえて実がならない。

スズカケノキ(スズカケノキ科)
小アジア地方から来た外来樹で、明治年間日本へ入って、多くの都会の街路樹にされた。広小学校プール東側に相当大きくなったのがある。和名より原名のプラタナスのほうが通りがよいようである。
ずいぶん大きくなる落葉木で30:内外にも成長するという。樹皮が自然に広くはがれ落ちるので、だんだらな痕がついている。葉も大ぶりで切れこみが深い (5〜7裂)面白いのは葉柄の基部がふくれていてそのなかに新芽を包み込み冬に備えている。やわらかいトゲが1面についている堅い果実が3〜4個ずつ花軸にぶらさがって着く。スズカケの名は、山伏が首から胸にぶらさげる 「すずかけ」 にこの実が似ているからだという。
昔ギリシャ逍遙派の哲人アリストテレスは常に学園内を逍遙しては、よくこの木の陰で講義したという。夏季の日陰にもっとも良く、学校の木としてもっと植えたいものと思う。

ナギ(マキ科)
広湯浅湾をナギ湾とい、郡内にナギノという古い地名もあり、なにかこの木と関係ありそうに思えるが、風波の静かなことをナギというから、これと暗合したのかも知れない。
しかし、広湯浅地方をナギの里と俗称されてもいるし、昔の湯浅小学校の校章はナギの葉のうちちがえであった。ナギは針葉樹の仲間で、常緑で直立高木。対生している葉は隋円状皮針形で、竹の葉のような平行脈があり、縦に引っぱると簡単には破れないので、子供たちがたわむれに引っぱり合って力くらべをすることがある。県内に、ベンケイシバとかオニセンマイとかの方言名もあって、いずれも強いことを表現している。
この木はもともと四国九州の南の地方に野生していたものが、人に播かれて繁殖したものらしいという。わが町内の山中には自生しているものはまだ見かけない。
神社や寺院の境内に大きなものが残っている。栖原の施無畏寺には県下で2番目といわれる古木があり、吉備町小島の薬師堂にも相当大きいものがある。
町内では津木岩渕の宮には2抱えほどのものがあるし、広八幡社にもかなり太いものがある。雌雄別株で、岩渕のは雄株で実はならない。
この木は古来神木とされて、昔熊野参詣の道中、切目王子社のナギの葉をいただいて虫除けのまじないにした
枝多く葉が密生し、樹皮は黒褐色でなめらかである。種子は割合に発芽しやすいので庭木にも利用されている。
材は家具や彫刻用などに用いられ、皮からはタンニンがとれる。なお、町内南金屋の連開寺観音堂の前にも相当太いものがある。

ネジキ(ツツジ科)
方言でアカメまたはアカメハリ。町内どの雑木林にも自生している落葉小高木である。この木は葉のあるとき、花のあるとき(もともと見ばえのない花だが) などかえってあまり人目をひかないが、冬期葉が落ちると、若枝の先のほうが真赤に、塗り箸のようなつやがあり、アカメの方言名もこんなところから出たものと思われる。花道で、冬のいけ花の材料として、特に茶席の花材としてよろこばれる。樹皮面にはこの木のねじれめが、はっきり現われているが、木全体がねじれている。樹皮には薄いがコルク質のやわらかな、そして暖かいような手ざわりがするので、手頃な枝は老人の杖として賞用されるという。また、この木を炭に焼いたものを「かしお炭」といって漆器の艶出しに使われた。

チガヤ(イネ科)
この草も多くの方言名をもっていて、わが県下でも30にあまる名が報告されている。それだけに人との交沙の多かったことが想像されるのだが、現在では人間生活から縁遠くなってしまったのか、わが町内ではリバナという名でわずかに知られ残っている。
土手、道端、山地、海岸などにも群生している。その土地が湿潤で肥えたところにあっては、が5・60センチ位にもなる。長い地下茎をひいて殖える。春さきまだ葉に包まれている花穂をぬいて、そのまま食うと甘味がある。強壮剤にもなるといわれる。今も山家の子供たちが口にしているのを見かけることがある。白い柔らかな穂の花がすむ頃から次第に葉が伸びてくる。地下茎も甘く漢方薬の「白茅根」はこれだという。
昔、葉を編んで敷物などにもしたらしいが、漁舟の屋根にする「とま」に用いたものであった。今も時々歌われている文部省唱歌の古い歌に「われは海の子白浪の、さわぐいそべの松原に煙たなびくトマ屋こそ、わがなつかしきすみかなれ」とあるトマ屋は、この草で葺いた小屋のことであるが、今は見たくともこんな小屋は無い。
6月晦日夏越の祭に、この草で大きな輪を造り、参詣人はそのちがやの輪をくぐりぬけて、罪やけがれを払うと信じられたが、今日ではそれも次第に消えていくようである。なお、この草は、これとよく似た「スゲ」と同一視されることがある。

シュウメイギク(キンポウゲ科)
秋明菊で、字のとおりすっきりした感じの美花である。もと古く中国あたりからの外来種が野生化したものといわれるが、わが町内ではあまり見かけないで、岩渕の山地に多い。不思議ともいえる。
ジャパニーズ・アネモネと呼ばれるように、花の姿がアネモネに似ている。もっとも同じ科の植物であるから無理もないが。
アネモネよりもたけ高く、葉は菊の葉のようである。30〜40センチほどのたけである。夏の終りから秋へかけて淡紅色の美花を着ける。長い地下茎でふえ、実は着かない。京都では貴船に多いのでキブネギクといい、名物になっている。現代では種々改良されて観賞用に広まりつつあるようである。わが町内野生の美花の1つであろう。この花弁は全部「がく」で真の花弁ではない。

チヤ(ツバキ科)
茶は中国からの伝来ということになっているが、日本原産種もあったらしい。飲料としては世界的のものであり、茶と全く縁のないコーヒーを飲むのも「お茶」飲みませんか、という。大きく2つにわけて、茶に緑茶と紅茶とあるが、これは摘んだ茶の葉の処理方法の相違である。主として緑茶は日本人好みで、紅茶は西洋人向きといってよい。
わが国では、遠く天平時代の昔から茶を飲用したらしく−−聖武天皇の時、百僧を宮中に召して茶を賜うとある−−しかし、どうやら其後は中絶していたらしい。
鎌倉期に入って栄西禅師が中国(当時の宋の国) へ留学して帰朝の時、茶の種を持ち帰ったと伝えられ、鎌倉3代将軍実朝に茶の飲用をすすめたという。また喫茶養生記という本を著わして茶の効用をたたえた。以来喫茶の風習がひろまっていったという。
有田郡の産んだ高僧明恵上人は、この栄西から茶の種をゆずり受け、これを梅の尾に植えて茶園を作り、やがて、それがもとで宇治の茶へと発展していくのだが、有田郡は明恵上人の緑故から、早くより茶の栽培が行なわれたらしい。有田の土質によく合うのか、昔から農家の自家用、また年貢上納用として全部を通じて相当の産出をみたが、特に山保田庄は有名であった。
明治年間時の郡長野田四郎が、有田の特産物にしようとして、その栽培を奨励し相当力を入れたが、農家では茶よりも蜜柑の方へ力を入れたので、茶園は育たなかった。それでも、畑の生垣を重ねて自家用ぐらいは作られていたが、今ではそれもほとんど絶えた。わが町では今では津木地区で多少残っているぐらいである。
常緑の灌木で、秋から冬へ可憐な白花をつけ、そのわびた風情は雅趣のあるもので、生花としてもよく用いられる。
なお、神前には水を、仏前には茶を供えるのも面白い民俗である。(「4木3草のこと」参照。)

ツバキ(ツバキ科)
この木も園芸種が大変に多く、観賞用に植栽される。それで、ツバキは総名である。自然のものをヤマツバキまたヤブツバキといっている。本州から九州の海岸近くの山地や雑木林に自生している常緑高木。昔からあまり伐られることなくどちらかといえば大切にされてきた。それは、この木の実から良質の油が採れるからで、髮油として最高といってよい。また食用にもなる。この実を蒸して、しめ木にかけ、油をしぼり採るのだが、これを業とする家を「しぼり屋」といった。
県下を通じてこの木の方言名をキミという。それでこの油もキノミ油といった。キノミは木の実で、独りツバキの独占物ではない筈だが、如何にこの美を尊んだかわかる。
厚くて、艶のある葉、春、枝先に花柄のない大きな花をつけ、どちらかといえば下向きに開くので、枝葉の裏側になりやすい咲きかたである。
「花ごよみ」では2月の花に選定されているが、わが紀州では、12月頃、雪がちらついている頃からぼつぼつ開き初めるので、花期が長い。離弁花の仲間であるのに花弁が下部でくっついているし、多数ある雄しべも半ばごろから下は、くっついて筒のようになっている単体雄ずいである。花の底に甘い蜜があって、まだ昆虫類があまり活動しない頃、メジロやヒヨドリなどの小鳥がこの蜜を吸いにきて、おのずから花粉の媒介になり、ヒヨドリなどその頭が花粉で黄色くなっているのを見ることがある。いわゆる鳥媒花である。
春の木から棒という和製漢字も出来た。山の子供たちはこの実のまだ少し若いころ種子の胚乳をたべたり、老人はこの葉を巻いてキザミ煙草を詰めて、つばき煙草の風味を楽しんだが、今では全く見ることが出来なくなった。「山がつが煙吹きけむあとならし棒の巻葉箱にこほれり」と加納諸平も歌っている。

スイカズラ(スイカズラ科)
ニンドウといった方が通りがよいようである。町内どこにでもあって、畑の生垣などにまつわりついて、しまつにおえぬこともある。つる性でゆるく右に巻く。(たいていのつるは左巻きが多いが。)
晩秋から初夏にかけて芳香のある唇に似た少し長めな白花が2つずつならんで、横むきに咲く。はじめは白いが、やがて黄色に変ってしおれる。それが入りまじるから金銀花という名もある。ニンドウは忍冬で、冬でも葉がかれない。この若葉は茶の代用品として、昔は農家では相当に用いられたものである。薬用にもなる。
昔、和歌山でこの花を加味して作られた忍冬酒という酒があり、紀州の名産として、藩主から将軍家へも献上された。その香料としてはノイバラ(野生のバラ)の花を用いた。味も香りも上々のものであったが、いつしかその製法も忘れられ、今に惜しまれている。
花にはほのかな香りがあり、花の底に蜜があるので、子供たちは野あそびの時によくこの花を採って吸った。
しかし、それも今の子は知らぬげである。

タラノキ(ウコギ科)
とげの多い落葉性の小高木で茎はまっすぐに直立している。全体とげだらけで、鬼の金棒のようなおそろしい感じがする。葉は大型で2回羽状複葉で大ぶりである。早春この木の先端につく新芽が、めっぽううまく、香りもよい。ひたしもの、あえもの、とするが、そのまま火であぶって味噌か醤油をつけてもよい。町内どこの山にも、数は少ないが自生する。
ここの木の幹で作った「味噌すりれんげ」は昔から珍重された。また皮を薬用にすることもある。比較的とげの少ないものをメダラということがあるが、同じものである。
アケビ(アケビ科)
アケビは、おとなにとってはなつかしいし、子供にとっては嬉しい秋の味覚である。山家の子供たちはこの実の熟するのを心まちにしている。アケビの実の熟する頃はまた栗のイガのはぜるときでもある。
案外に浅い雑木山にもあるが、やはり深い山に多い。つる性の低木だが、他物に巻きついてどこまでも伸びる。
葉は5つの小葉からなる掌状複葉で冬に落葉する。
これとよく似た葉が三出複葉のミッバアケビもあるが、果実にばかり注意するので普通のアケビとの区別に気がつかぬ。
どちらも、秋に熟すると紫色になり、厚い皮が竪に裂ける。果実はちょっと細長くした握り飯のような形をしていて頗る甘く、果肉中に、黒くなった多くの種子を含む。
また、同じ種類で冬も葉が落ちないムべがある。小葉が5〜7枚もある掌状複葉だが、若い蔓は3葉である。
革質で艶がある。常緑で葉も美しいので庭木にしたり盆栽にもする。この実もアケビ同様甘いが、これは熟しても裂開しないのが特徴である。
だいたい、アケビは果実の名であるから、アケビズルとよんだのが正しいのかもしれない。以上どれもその蔓は強く、老木になるとその幹が一と握りほどの太さになる。つるで、素朴なバスケットを編んだりする。わが町では津木山中に多い。
アケビもムべも自家不稔性だから、1株だけでは、なかなか実が着かない。盆栽などで実のらすには他の木から花粉をとってきてつけてやればよい。

クロガネカズラ(クロウメモドキ科)
茎が黒くて堅く強いところから来た名であろうが、本名はクマヤナギである。
めったに見つからない珍らしい木である。そんなところから「牛のなき声の聞こえぬところに生ず」といわれてきた。郡内では清水町の山に自生しているが、そこでもやはり珍らしいものとされている。
他の木に寄り掛かるようにして長く伸びる落葉低木で、かずらの名がついているとおり、多少巻きつくようである。昔からその幹は杖としてよろこばれたもので、山廻りの役人は必ずこの杖を持って巡視したといわれている。この杖でぶたれると不死身といわれる者も悲鳴をあげるし、山中で害獣に出会ったときなども大そう役に立つと伝えられるからである。老人の杖としても喜こばれた。わが津木地区の山間でときたま見かけるというが、この珍らしい木が南広地区で発見された。惜しいことに開墾のためやむなく伐ってしまったが、その家でも先代から言いつたえて大切にしてきたものであったという。
分類学的に、オオクマヤナギ とクマヤナギがあるが、どちらもよく似ていてちょっと区別がつきかねる。

ツツジ(ツツジ科)
ツツジといえば昔は山ツツジを指したものらしいが、大変に種類が多く、わが国では野生国のものだけで20数種類もあり、それに昔から愛されてきた花である故か、園芸品種がやたらと多く、花の色も白、赤、黄、紫とあり、またその濃淡もあるから、実に色とりどりといえる。
常緑の灌木であるが、ときには相当な高木に育っているものもある。この花は、つぼみの時は、つんと立っているが咲くと横むきになり、小枝の先端にむらがって咲く。

モチツツジ   町内いたる所の山地にあり、春ツツジのうちで1番早く花を開き、新葉に先立って淡紅色のあっさりとした花を咲かす。花梗や新芽に粘液を分泌する腺毛があり、触わるとねばねばしくて、着衣にもくっつく。
うずき8日の「てんと花」としてゴメゴメの花などと共に、長い竹竿の先に着けて太陽をまつる。わが紀州は暖国であるせいで、南向きの暖かい山麓などでは冬期間でも2つ3つの花を見ることがある。この葉を茶色の染料にしたこともあった。

キリシマ
ツツジの自然品種で、葉はツツジより小さく、花も赤紅色で美しい。九州方面に多く、キリシマの名も、霧島山に多いところからきた。これにも栽培品種が多く作られている。

サツキ
他のツツジにおくれて陰歴5月が花盛りで、さつき(5月) ツツジの名が出た。特に山間谷川のほとりに咲く自生のものは6月に入っても花を着け、青葉1色の中に紅1点のあざやかさが人目をひきつける。古い農家の庭先などには、キリシマやサツキの古木がよく植えられている。

エビズル(ブドウ科)
方言名のエビコがよく通っている。野生のブドウで日本の在来種である。黒く熟した実は美味で、充分に熟れて自然発酵しかけたものなどは特にうまい。山家の子供らにとっては、アケビやシバクリなどとともに秋の山遊びの喜びの味覚である。
ブドウに似た葉の裏側は茶色の綿毛が密生していて、この色からエビズルの名が出たともいわれている。時に、この蔓のところどころふくれたところを割ると、カミキリ類の幼虫がひそんでいる。これを「エビコの虫」といって、火であぶって食わせると小児のカンムシ(1種の栄養障害からおこる病気か) の妙薬である。ついでに、昔はこの小児のカンムシの病にカミキリやタマムシの幼虫(いずれも木の幹に潜入してその芯を食う)が妙薬とされたが、そのうちこのエビコの虫が最上として珍重されるようになった。津木地区に多い。

シイタケ(マッタケ科)
秋子、春子、夏子、冬子といったって女の子の名ではない。シイタケの発生する時季によって名づけたもので、そのうちなんといっても春子はみた目にも美しく味もよい。このよび名の示す通り、年中発生するが、収獲は春、秋が多い。誰でも知っている日本の食用菌で、その中の王座を占めるものである。
天然には山林のシイ、クリ、シデ、クヌギ、ナラなどと広葉樹の枯樹や切株に生ずるが、人工栽培の歴史は古く、現今ではその技術も研究も進歩して、温度や湿度の調節にビニールハウスも利用され、処理方法も機械化されて、大量生産にうつり、山間での1つの産業になっている。梢木(ほたぎ)は主にくぬぎを用いてるようである。
生食もするが乾燥したものを調理する。中華料理に賞用され、以前は相当輸出されたが、今ではもっぱら内需用である。太陽で乾燥させたものはビタミンDの含有量が多いという。わが町では津木地区で盛んに栽培されている。

ユリ(ユリ科)
ユリは種類が多く、昔はユリといえばヤマユリのことであったらしいが、今ではユリは総称である。「花ごよみ」では7月の花とされているごとく夏の花である。ここではわが町内で見られるもの2、3を挙げることにしておく、いずれもその根(鱗茎)が食用になり花の美しいものである。

ヤマユリ   山野にも生え、人家にも栽培されている、花は白色で内面に赤い小点が1面に散布している、花の美しさ、きよらかさは最上である。その根(ゆり根といっている鱗茎)は食用になる。

ササユリ   山地草藪の中に生え、花はうすい紅色か白色に近いほどである。大へん香りが高く1、2本で、室内全体が匂う。葉の感じが笹の葉に似ているのと、他のユリより早く咲くのでサツキユリ(5月ユリ)からササユリの名がついたのではないかといわれる。わが地方ではこの花が咲くころが田植の最中である。この根も食用になる。初夏の花であり女性的な花姿である。

オニユリ   もとは支那原産であるが、早く輸入され食用のために栽培されたものが、野生化したものである。
山野どこにでも自生しているが、やはり農家の庭さきや山畑の畦などに多い。花がうつむいて咲き花びらが上にそり返えるようになる。黄赤色で、内面に黒紫の点が散布している。全体が強そうで少し毒々しいような感もする。このユリこそ真夏の花であり、この根が1番うまい。わが町内ではササユリとオニユリが目につきやすくヤマユリは少ない。
ウバユリ   山野、藪の中などでよく目につく。太い花軸に大きな白花を横につき出したようにつけ、花びらはあまり大きく開かない。青みがかった白花をさかすが、どうもあまり好きになれそうもなく、従って子供たちも、つみとらない。花の咲く頃には、たいてい葉がなくなり、太い軸がぬっと出て、さきに言ったような花を着け、葉はおよそユリらしからぬ楕円状心臓形の大ぶりで、ちょっとユリとは思えないほどである。人には愛されないが、この根も良質の澱粉をふくみ食用になるが、あまり利用されない。

クチナシ(アカネ科)   サンシチの方言で知られている。常緑低木で山地に多くみられるが、山寄りの田畑の畔などに1、2株残されていて、昔は各家で利用された名残りをとどめているようである。実は3、4センチほどの長円形で6、7本の縦の稜があり、秋から冬にかけて黄赤色になり、内に多数の種子があるが、自然には絶対に裂開しない。他の植物の多くは実が熟するとさけて、中から種子が出るが、これは口を開けぬので無口即ちクチナシである。
方言のサンシチは俗に、37の21で21通りの利用価値があるところから名づけられたといわれるほど人間生活と密着していたらしい。これも俗説だが、将棋盤の足は、この実をかたどったもので「勝負に口なし」とかいうのだそうな。
初夏開花するが、花はつぼみのときは、らせん状に重なっているが、開くと6裂の花弁になる。山の子供はこの花をがくから引きぬいて小さな風車にしてあそぶ。甘い強裂な香がある。純白だが、日を経ると黄変する。
熟した実は染料として重要なもので、織物は勿論、食品(餅や菓子、特にこの煎汁で炊いた飯は美しい黄色で、重詰などにされたが、現代の子供は恐らく黄色の飯など聞いたこともなかろう。)の着色に用いられた。漢薬としても利尿、消炎済として用いられた。
わが国では古くからなじまれてきたって詩歌にもよく詠まれている。日本ではこれ1種だけだが、栽培品種は多く、庭木などとしても賞用される。

アコウ(クワ科)
アジア東部の亜熱帯植物で暖地固有の喬木である。わが国では四国九州の沿岸に分布しているが、本州ではわが紀州だけに自生し、しかもわが広湯浅湾がその北限であり、矢櫃にあるのがその最北限である。宮崎の鼻あたりから日ノ岬附近までの沿岸に自生しているが、数は多くない。
わが広川町では鷹島にもあるが、広橋附近に昔から1本自生していたのが、石垣のつみ替えで、一たん絶滅したかにみえた――絶滅と報告された――が、性の強い木で、石垣のすきまから芽を出して今では2、3杯位の大きさに茂ってきている。何分固くとざされた石垣の間から出ているので大木にはなれなかろうが、今ある所で茂っても別にじゃまにもならないと思うから、今後もそっとしておいてやってほしい。出来れば積極的に保護してやりたいものである。
常緑だが新芽が出ると古い葉は1度にバラバラと落葉する。幹から「ひも」のような気根がぶらさがっている。
この気根が何かの薬になるとかで採集する人もある。皮を傷つけるとミルクのような汁を出す。春から夏にかけて形がイチジクに似た小さな固い実を幹の表面に無数につける。
大きいものは20ほどにも伸びるが、枝わかれが荒っぽいため木全部の姿は不規則である。わが地方ではミズキともよばれている。盆栽仕立てにしても面白いものである。木としては用材にもならず、薪木にもならぬ、何の役にもたたぬものであるが、植物分布の上で注意されるべきものである。

カクレミノ(ウコギ科)
町内のどの山にも、そうたくさんは無いが自生している。どちらかといえば陽かげの個所に育ち、低木である。1見なんのへんてつも無さそうな木だが、子供でも大人でも、この木をみつけると必ずといってよいほどその名を聞かれる。
その葉が大ぶりで3本の太い脈があり、滑めらかで艶があり、年中青々としていて、枝の数があまり多くないのにこんもりと茂った感じがする。カクレミノという名を聞くと、おとぎ話の世界に入ったような気がする。
よく見るとその葉の形が1本の木のなかで、3つにさけたもの、5つにもさけたもの、さけないで大きな卵型になったものなど、変った形の葉が同居しているので、不思議がられる。
庭木に最も適しているし、性が強いので生育もよく、鉢植などにすると洋間にもよい効果をあげそうである。
わが津木地区で、テングノウチワまたは、ミツバなどの方言名があるが、よくこの葉の特徴を言い得ていると思う。

ハマユウ(ヒガシバナ科)
南紀の花であり、万葉の花である。関東地方から九州まで黒潮のあらう海岸の砂地に自生している。
しかし柿本朝臣人麻呂の 「み熊野の浦のはまゆう百重なす心はおもえどただに逢はぬかも」 の相聞の歌で紀伊半島はとくに有名である。
わが広川町も鷹島やナバエの鼻附近、白木や小浦の海岸にまでいくつもの自生の群落があったが、鷹島は約50年ほど前に緬羊の放し飼いをしたとき全部食われて絶滅。ナバエや白木、小浦は地盤沈下や護岸工事などのためにいつともなしに姿を消してしまった。
ハマユウの白生北限地は、おそらく湯浅湾沿岸だと考えられる。この草の先祖はアフリカの内陸に発生して、それが河を下り海をわたり熱帯亜熱帯の海岸地方に分布したのだろうと考証されている。
種子の外皮がコルク質で、その性も強く、なかなか枯死しないから、長い旅路をたえぬいてひろまっていったのであろう。
強い夏の太陽の下、大ぶりでみずみずしい青い葉が、株から幾重にも重なり合うように4方に伸びて豪快である。万年青(オモト)を大きくしたような感じがするのでハマオモトの名もある。初夏から太い花軸をつき出して香り高い白い花を軸の先に乱れ咲かせ、いかにも南国的である。
この辺では霜にさえあてなければどこにでもよく育つ。近年外国産のハマユウ属の植物が入ってきているが、特にインドハマユウは、稀に人家にも植えられている。薄赤い花を咲かすが、全体の風格はやはりハマユウより落ちる。

ムラサキカタバミ(カタバミ科)
可憐な花の姿に似ず、これほど農家に嫌われる草もすくない。1度畑に侵入するとアッというまに1面にひろがって、取っても堀っても根絶さすことはまず不可能といってよいほどである。
おどろくべき繁殖力である。ために、畑の値段が下った……という大そうな話もあるほどやっかいな草である。
地下に小さいユリ根のような鱗茎があり、それがバラくに離れて、1つ1つが1本立の草になる。もとは南米原産ということだが、江戸時代に日本に入り、物好きな人が栽培観賞したのが、いつの間にか畑へ逃げこんだものといわれる。今や全国にひろがっている帰化植物である。春から夏へかけて淡紫紅色の美しい5弁花を開く。
この草の地方名を聞くと、その土地の嫌われもの、人の悪い者、また、からかいの対象になる人物などの人名を頭にかぶせて、00草とか×××草とか答えて、聞く者を苦笑させる。わが町では一般にシナレンゲといっている。

イタドリ(タデ科)
全国でこの草の方言名が幾百とあるとのことで、この植物と人間との関係が深かったことが相像される。わが地方では、もっぱらゴンパチで通っている。
山路を歩けばどこにでもある。春のピクニックなどのおり、水筒不用といってもよいほど、渇をいやすのにはもってこいで、幼茎を折るとポンと軽い音をたてて折り取れる。皮をむいてそのままかじる。歯切れがよく強い酸味と多汁とで、口中の熱と渇とが1度にとんでしまう気持ちがする。
山菜料理にも用いられる。大型の多年生草木で、竹のように、中空で節がある。夏のうちに枝ものび葉もしげり、1~2にも成長する。秋、白っぽい花が房状になって無数にむらがり咲き、ひなびた風情がある。
この草の名を漢字で書くと、虎杖とか武杖とか酸杖とか、必ず杖の字が着いている。
成長したイタドリをかわかしたものは軽くて、わりあいに強いので、ステッキ代用になりそうである。しかし、清少納言に笑われるかもしれないが枕草紙に、文字に書きて事々しきもの……虎は杖をつくような顔か、とて。この根は虎杖根といって、これと甘草とを混ぜた煎汁は今でいうなら1種の清涼飲料水で、薬用にしたという。

ヨモギ(キク科)
昔から3月3日のひなの節句(わが地方では4月3日シガサンニチにすることが多い。) にそなえる草餅(関西ではヨムギ餅)は、この草の若葉を摘み、干して貯えたもの(時には摘んですぐにでも)を米の粉に混ぜて蒸し、それを搗いて作るのだが、かぐわしい香りと野趣にとんだ餅である。
早春まだ風も寒い頃から、よくこの草の芽を摘む姿を見かけたものであった。
この草をたべると寿命を延ばし邪気をはらうというので、薬草としても用いられた。また、止血、腹痛、強壮に良いとされ、回虫駆除剤のサントニンはこの草の仲間であるミブヨモギ、クラムヨモギ(いずれも外国産)などから製せられるが、ヨモギにも駆虫に多少の効果はあるようである。
やいとをすえるのに必要なモグサは、この葉を乾燥させ、臼でついて製精したものである。夏になると丈高く伸びて、複穂状に多数の花をつけるが、花よりもむしろ白毛(冠毛)をつけた種子が風に乗って飛散するさまが面白い。町内いたるところの路傍、草原、土堤に生えている多年草である。

ショウブ(サトイモ科)
近頃ではアヤメ科のハナショウブと混同する人が多くなってきたようである。葉のかたちがよくにているからであろう、昔なら農家の井戸端の水の流れる傍や、畑の溝などに、たいていどの家にもショウブの株が植えられていたものだが、近頃ではほとんど見かけることが少なくなってしまったからかも知れない。
5月5日端午の節句には無くてかなわぬ草であった。6日のアヤメ(ショウブのこと)という諺さえあったくらいである。(間に合わぬことのたとえ。)
みずみずしい緑で長剣状に直立した葉、樟脳に似た芳香があり、ショウブと尚武、また勝負と通じ緑起のよい植物とされ、5月5日にはこれにヨモギの葉を添えて神前に供え、武者人形にも供え、家の軒端に葺いた。
今では花屋に売っているのでこの行事だけはたいていの家庭では行われていることであろう。
この草は邪気をはらい、虫除けにもなり、この草をたばねて浴槽に入れるショウブ湯はもう絶えたようである。
実にさっぱりとした気分になる入浴であったのだが。
この草は世界でただの2種類、その1種が日本に原生していたのであり、植え残していきたいものである。初夏淡い黄緑の円柱状で多数の小花をつけた穂が出るが、たいてい見過ごされてしまう地味な花である。

ヤマモモ(ヤマモモ科)
暖地に生える雌雄別株の常緑高木で、さかんに枝わかれして、こんもり円く茂るので、古い木になると1本で森のようになり、遠くからでもそれとわかる程である。幼木のうちは葉にぎざぎざがある。
この木の実の外果皮は水分が多く、甘酸っぱく、風味にとみ初夏の味覚だったが、くさり易いので市販は少なかったが、昔は山家から売りにきたものであった。実に赤色と白色との2種類あって、夏至前後に成熟し、山の子供たちにとって初夏のたのしみの1つになっていたが、次第に切られてだんだん無くなって行く傾向がある。
わが町では津木地区に相当な産出があり、名物でもあった。
漁網が木線糸で作られていた頃、この木の皮の煎汁で網を染めるに用いたが、これも近年は全く見られなくなってしまった。

アセビ(ツツジ科)
町内の山中たいていの所にみかけるが、津木の山中には比較的多いようである。方言名でアセンボとよんでいるが、この木も全国にたくさんの方言名があって数えれば百に近いかも知れない。湯浅町内にはコベタタキというおかしな名がつたわっているそうである。
この木の古名をアシビまたアシミといい、萬葉集にはたくさん歌われていて、古くから注目され愛されてきたといえる。
常緑で小枝がよく繁って、日本庭園には好んで用いられ添景木として多く利用される。また生垣にもされている。日本の固有種であり、アメリカでは園芸植物として珍重され「日本のアンドロメダ」と呼んでいるという。
ところでこの葉にはアセボトキシン などの毒性を含み、有毒植物としても名高く、この葉の煎汁で牛を洗えば、シラミなどの寄生虫を駆除し、便所へまけばウジ虫を退治する。わが都内にウシノシラメトリなる方言もあるゆえんである。
漢字で馬酔木と書くが、馬がこの葉を喰うと酒によっぱらったようになり、鹿が喰うと角が落ちるといわれている。秋のおわりごろから穂になったつぼみをつけ余寒去らぬ2・3月ごろから可憐な壺状になった飯粒より少し大きめの花をつける。ちょっとスズランに似たさまがある。
地味ではあるが風雅な花ぶさで、近寄るとほのかな香をただよわせている。園芸用として栽培歴も古いらしく花や葉の変った品種も出来ている。常緑であるが新芽は特に美しい。
嫌われがちな他の有毒植物と違って、神仏の供花としても用いられ、ものさびたたたずまいと可憐な花の姿に魅せられるのか、愛されつづけられている木である。あまりに大きくはならぬようである。

フジ(マメ科)
わが町の山に入ればどこにでも見かけるのがナッフジで別名ドヨウフジ。葉も、白い花をつける房も、小柄でさっぱり見ばえがしないから人目を引かず気ずかない。つるは右巻きである。
普通にいわれているフジはノダフジのことで、花房は長く花つきも多いが1つ1つの花は小型で、葉は薄く無毛であり、蔓は右巻。
もう1つは、蔓が左巻きのヤマフジ(別名オカフジ、ノフジ) で葉はや、厚く下面に毛がありちょっと白っぽく見える。花房は短かいが花型は大きい。
自然のものには以上3種類あるが、庭などに作られる藤棚は、花房の長いノダフジが多いようである。他に、園芸品種もかなりある。 蔓植物の中でもフジの蔓は強いので、山仕事などに利用されることが多く、薪などをしばるのによく使用された。
津木の藤滝はその名の如く滝の上に藤蔓がはびこり、飛泉の上に紫の花をそえて美しい眺めとなる。
なお、岩渕分校への登り道の川ぶちと、和田永井家の墓地にものすごく太い藤のもとづるが見える。ふじは花も美しいが、その蔓の利用は、大古の人々に種々の便宜をあたえたものであったことが想像される。なおこの木は日本の特産である。

紅葉の美しいハゼモミジ
秋から初冬にかけて紅葉する木々があるなかで、古来、カエデの類が最も美しく、人々に親しまれているが、わが紀州は暖地で、カエデの真の美しさは深山でなければ味わえない。
元来木の葉が赤や黄色に変色することを紅葉といい、それをもみじとよんだので「カエデ」の紅葉が美しいところからモミジという名になってしまった。
ところで暖地でも秋になるとカエデにまけぬ紅色に山を色どるものに、ハゼの類がある。
ハゼモミジといって、ハゼノキ、ヤマハゼ、ヤマウルシやヌルデを指す。

ハゼノキ(ハゼノキ科)
これはその実から「ろう」を採るために植栽された木で、1名「りゅうきゅうはぜ」の名の示すとおり昔琉球(沖縄)から入ってきたものがあるという。
わが紀州へは、箕島の田中善吉という人が元文2年(1737)に九州大島から種を持ち帰り、百姓たちにすすめてうえひろめた。藩主の奨励もあり、紀州沿岸地帯にひろまった。この実から「ろう」を採り、明治時代まで、日本ろうそくやビンッケ油などの原料として、よい換金植物となった。
現在これが野生化して、今でも町内の雑木林や村里の一隅に生え残っている。落葉高木で、冬にもみじした葉が落ちたあと、小枝の先端に実が房になってぶらさがる。
大きな村では、どこでも1、2軒の「ろう屋」があったものである。わが広では、梧陵の築いた土堤にもこの木を植えて土地を補強すると同時に、実を換金したのだが、明治に入ってこの金は毎年小学校に寄附され大正期までつづいた。
羽状複葉はすばらしく晩秋の風情を添えたものである。
この、ハゼノキにたいへんよく似たもので従来から日本に在ったのがヤマハゼで、やはり実から「ろう」を採り、昔はハジと呼んだ。これも秋を色どる美しい紅葉である。ハゼノキとの区別はその葉や若葉に毛があるので見分けがつきやすい。
ヌルデは葉柄に翼状のものがついているし、複葉の大きさもちがう。この葉にアブラ虫の1種が刺すと、そこがコブのようにめくれ上って五倍子(フシ)が出来る。それでフシとも呼んでいる。この五倍子はタンニン酸や没食子酸を多量に含んでいるので薬用に買いあつめにくる商人もあった。
江戸時代、女が嫁入すると白歯を黒く染め眉毛を剃りおとして娘と区別した。この歯を染める汁を鉄漿(かね)といい「おはぐろ」ともいったが、この「かね」をつくるのに、小さな壺に濃く出した茶を入れ、それに酒や飴汁を混ぜ、その中へ鉄片(鎌のようなものや古釘)と五倍子を加えて発酵させると黒インクが出来る。これで歯を真黒に染めるのだが、これが女として大切な身だしなみの1つであった。
この液を入れるオハグロ壺は最近まで、旧家の納屋の隅などにころがっていたものであるが、近頃ではもう珍らしい品になっている。
以上の木や葉の汁が皮膚につくと蕁麻疹のようにふくれ、痛がゆく、俗に言うカブレルから人によっては注意が肝要である。

ヒガンバナ(ヒガンバナ科)
誰しもがこどものころを思い他郷にあってもこの花を見ると、ほのかな郷愁にさそわれることであろう。野や路傍、堤や田の畔、さては墓地など、およそ人の住む附近には、いたる所で束になって咲き乱れる真紅な濃艶な花である。
秋の彼岸前後に花盛りになるので彼岸花。
さてこの草は、秋に花柄だけが出て花をつけ、冬には葉だけが濃緑に茂り、夏になるとその葉も姿を消す。花と葉は絶対に顔を合わせない。多年草で、地下に、玉ネギを小さくしたような鱗茎があり、これにリコリンなどという有毒成分が含まれていて、汁をなめると舌が曲るほどにがい。しかし多量の澱粉を含んでいるのでこの毒分を洗い流せば食用にもならぬことは無いが、工業用の糊を製することもある。
花は雌しべも雄しべも長く外へつき出して、さながら乱舞するように咲くが、この草は天然に出来た3倍体だから絶対に実は着かない。小児、とくに女の児などが、かかえるようにたくさん摘んできてママごと遊びや、首かさりなどとおもちゃにしてあそぶ。しかし毒があるからか、墓地などにまで咲くからか、シビトバナなどの方言もあって、あまり好きになれないという人もかなり多い。
ところでまたこの花の別名マンジュシャゲと呼べばなんとなくエキゾチックなひびきがする。この名は法華経に、マカ、マンダラゲ、マンジュサゲ(曼珠沙華)とあるところからきたもので、仏教と共に輸入されたのだともいわれている。
面白いことに、この花は人間の行く所と共にさかえる花で、附近に人が全く住まない地には無いことである。
今、人が居らなくとも、かつてそこで人が生活したか、作業などしたか農耕したことがあったとか、といった所に生える草である。ともかくなにか人間との交渉が深かかったか、注意を引くことが多かったか、この花の方言はすこぶる多い。和歌山県内でも約60近くもあり他県のも加えると大変な数になることだろう。わが町ではマツサケ、マツシャケが広く使われ、シビトバナともいわれている。

クスノキ(クスノキ科)
この木の若葉のときの色が多少赤味をおびたのと、青色との2種あって、赤グスと青グスにわけられる。赤グスの方が樟脳の含有が多いといわれる。
昔わが村々の神の森にはたいていこの木の大木があったが、明治になってから次第に伐られて行った。樟脳を採取したり用材としたりして売られてしまったのである。現在では、法蔵寺の門を入った右側にあるクスは相当な大木といってよい。
総じてわが郡内は昔からこの木が多かったらしい。京都の金閣寺(焼失以前の)の1枚天井板といわれたものは、丹生図から伐り出されたものと伝えられる。

町内では乙田の楠神さん。唐尾の神明社、トンビの森の大将軍社などにあったものは、ずいぶん大きな橋であったという。
前記の如くこの木には樟脳を含有し特に根に多く含まれ水蒸気を通して蒸留して採取した。薬用のカンフルはこれを精製したものである。材も葉も樟脳の香りがする。大古から船材や器材用として重宝がられた木であった。
紀州は特にこの木に対する信仰が篤かったようで、神木として木そのものを礼拝したり、人名や地名にも楠の字を用いることが多かった。
現在町内各地の宮、寺、学校などにもあまり大木でないが植えられているが、11月ごろ黒く熟するその小球果は小鳥たちの大好物である。
なお、普通に楠の字を使うが、楠は同じ科に属するイヌグスのことで、樟がほんとうのクスノキの字である。

シイ(ブナ科)
ひとくちにシイといっているが2種類あって、どちらも日本原生である。スダジイとツブラジイで、わが町では2つともあるが、どちらかといえば、ツブラジイのほうが多いようである。スダジイは葉が大型で果実がや、長めであり、ツブラジイは葉がや、小型で実はほとんど球型である。
寿命の長い木で、ずいぶん大木になり、その葉が多くの小枝に密生しているので、こんもりした森のようになる。常緑高木、高さ30にも及ぶものがある。葉の上面は濃緑色で、裏面は白っぽくみえて茶色がかっている。
シイ拾いという言葉があるとおり、秋から冬にかけて実を包んでいた総包が裂けてバラバラと音をたてて落ちる。ドングリを小型にしたような小さい実だが、生のままでも、沙ってまだ熱いうちに味わっても野趣ゆたかであるが、生のものも沙ったものも永くおくと味がおちる。男の子供たちは落ちるのを待ちかねて、高い木に登りまだ総包につつまれているものを枝ごと折り取る。木の葉をかきわけて1つ1つ拾うのも、木にのぼっておとなたちをハラハラさせたのも、ともになつかしい思い出の木である。
スダジイもツブラジイもともに薪炭材とするが、シイの炭はあまり質がよくない。だいたいに、スダジイは建築材に、ツブラジイはその樹皮を染料とするのに適しているという。近ごろやかましい公害にも比較的強いので、将来この方面で研究や利用の価値はあるようである。シイタケ培養材としてはスダジイがまさるというが、現在では名に背いてシイタケ培養材にはあまり利用しない。
なお、椎という字はあて字であるが、永く用いなれているので、本字の何と書いても通じないのではなかろうか。

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2、動物


鳴く虫いろいろ
せみの類(半翅目セミ科の総称) わが町内で樹のあるところならどこにも有るといってよい。せみの鳴き声は、暑さのダメ押しをするようで、おとなたちにとっては迷惑だが、子供たちのために生れてきたような虫である。
いやな臭いもなく、かんだり、刺したりもしないので、捕えられて、よいおもちゃにされる。雄の腹部にある鳴器を振動させて音を出す。その命はつかの間であるが、幼虫の地中での生活は幾年と永いことでも有名である。
その生活史は興味ある研究であろう。人に対して害虫か益虫かも判然せぬが、夏の風物詩としてなくてはならぬ生物であろう。幼虫が羽化した「ぬけがら」も面白く、しばしば子供のおもちゃにもなる。

ハルゼミ
   4月早々から鳴き出す。松林に多いのでマッゼミともいう、鳴き声は、数匹でギイヤ、ギイヤ、ムゼー、ムゼーと聞える。小型である。

ヒメハルゼミ
ハルゼミほど多くはないが、6月ごろから鳴き出す。シャーシャーと合唱する。 以上2つのセミは姿も小さく、第1どこに居るのか見付けにくいし時季的にも子供たちの興味もひかぬらしく、遊びの対象に
ならぬようである。捕えることはむつかしい。

ニイニイゼミ。アブラゼミ。クマゼミ。 
いずれも7・8月ごろ盛夏のせみである。ニイニイは中型だが、アブラ、クマは大型のせみである。アブラはジーイの連続音で鳴く。

ヒグラシ
これも盛夏のセミだが、深い山に多いようである。カナカナーケケケーと小鳥のような声を出す。

ツクツクボウシ
これが鳴き出すと夏の終りを告げるようである。せわしい声で、1匹がなくと別のが相の手を入れるように声を出す。

ミンミンゼミ
これも晩夏から初秋へかけてのセミ。ツクツクもミンミンもその名のとおりの鳴き声である。

チッチゼミセミ
仲間での最小型で、松林にいるが姿は見えない。チッチチッチと声も小さい。

キリギリス(直翅目 リギリス科)
方言名でキリス。今ではもう見かけなくなってしまったが、子供たちがいろいろな虫をとらえるとそれを入れる粗末な竹製の小さい籠があった。夏に入るころにはどこの駄菓子屋にもタモ(捕虫網)とともに売っていたものだが。その虫を入れる小籠を「キリスかご」とよんだ。セミを入れてもトンボを入れてもその名はキリスかごであった。 このキリスかごをぶらさげて、小さいタモを手に夏の終日を虫とりに専念したのである。
キリギリスは個体によって茶色がかったものと緑色がかったものとがあるが、どれも保護色が強く、声ははっきり聞こえてくるが、なかなか捕えにくかった。それで生のラッキョかタマネギを棒の先につけて草むらにさし出すとそれに飛び付いてくるので、そうして捕らえることもした。ギーチョンとはぎれのよい鳴きごえで、その顎が強く、噛みつかれて泣きだす子も居たほどである。しかし、最近はめっきり減ってしまってその声を聞くこともまれである。

クツワムシ(直翅目キリギリス科)
方言名はガチャガチャでその鳴き声どおり、日中はあまり声をきかないがタ暮から夜中へにぎやかに休みなく、わめきちらすような大声をたてる、その数が何匹いるのか見当がつかぬほどである。この虫はその休む場所が1定しているようで、キリギリスのように方々にちらばってはいない。平地には少なく比較的高地の草むらに居る わが広川町ではあまり多くはいない。キリギリスは真夏の虫だが、これは、秋になっても居る。これらの虫はキリスかごに入れて、キュウリやナスなどをあたえて軒端に吊るして飼っておくことが多かった。
ところで旧盆がくると年寄りから言われるし、またそれが風習化していて、必ずといってよいほど盆がくるとセミ、トンボなど夏の虫は放してやった。盆がきて虫を捕ると、あたま痛になるなどいわれるものであった。
しかし今ではそんなことを言う必要がないまでに虫も少なくなってしまった。


秋鳴く虫
クツワムシのことは別項で述べたが、そぞろ秋来ることを思わせるのはコオロギ (直翅目コオロギ科) の仲間の声である。その声はやさしく、どちらかといえば、静かな1抹の寂びしささえ感じさせるものだが、その生活力はたくましく、意外と斗争心が強い。
一般にチンチロといっていて「広祭り来たらチンチロ足1本ぬけて……」とか「チンチロ足1本ぬけて広祭りへよう詣らん……」 などの俚謡があったが、このころこの虫たちが斗争することが想像される(広祭は現在10月1日)
種類は多く、わが町内では左のようなものが聞かれる。

エンマコオロギ
コロコロリーのくり返し。

ツヅレサセコオロギ
リッリッリッの断続音で秋深まることを教える。

ミツカドコオロギ
チッチッチッと鋭い声

ハラオカメコオロギ
リ、リ、リ、リ、と4声5声と区切って鳴く。

マツムシ
チンチロリンである。

以上のうちエンマコオロギが最大で、アゴが鋭く捕えて紙箱やうすい布の袋などに入れておくと噛み破って出てくる。
なお、昔からミミズが鳴くといわれてきたがその正体はケラである。
ケラ
土中にすむので前あしが特殊な発達をしている。夜間灯火へも飛来してくる。土中に穴を堀って棲み、そこで鳴くので特有な反響をして、ジーッジーッといつやむとも知れぬ声をたてている。

スズムシ(直翅目コオロギ科)
なんといっても秋の虫の女王格で、昔からあまりにも名高い虫であり、その声は実に鈴の音のようである。リーンリーンと。今日では飼育されているものが多いようである。乾燥した畑の石垣の穴などにひそんでいるのを、竹管のようなものでフッとふくと、おどろいて飛び出てくるのをつかまえたり、夜に鳴き声をたよりに懐中電灯でパッと照らすと、わりあいにたやすく捕れる。
しかし、現今自然のものは次第に減じているようである。壺などの底に土砂を入れて飼っておくと産卵して翌年孵化してくるので、毎年その声をたのしむことが出来る。概して秋の鳴く虫は、子供よりもおとなの心をなぐさめるものや感慨にふけらすものが多いようである。
ついでだが鳴く虫の種類の多いことでは、わが国は世界でも有名だという。

トンボの仲間(脈翅目トンボ科)
トンボの種類はすこぶる多いが、日常目につきやすいものは、ヤンマの類と、赤トンボにシオカラトンボ、それに川辺に多いイトトンボの類や、カワトンボの類があるが、子供たちに魅力があり親しみ多かったのはヤンマの類と赤トンボであった。
しかし、現今ではこれらの虫もそろそろ珍らしいものにさえなってきているようである。雌雄が連結して新婚飛行している姿など、めったと見かけなくなってしまった。「夕焼けこやけの赤トンボ」の歌は今やおとなたちの郷愁をさそうものになった。

シオカラトンボ
春から秋にかけて出現する。全身白粉を帯びているのをシオカラトンボとよび、そうでない雌のほうをムギワラトンボといっている。

ギンヤンマ
トンボの仲間中、からだも大きく動作も敏捷、体色も美しいので、子供たちのトンボとりの対象は主としてこれであった。腹のつけ根の下部が銀白になっていてこの印象が強く、雄をギン、雌をチャンなどといった。空中を行ったり来たり低くまた高く飛んで、ほとんど物にとまることはなかった。
成熟した雌の羽色が茶色になったのをドロメン、雄の胸に絞様のあるのをジョウモンなどといって、これらを捕えると宝物のようにうれしかった。

アカトンボ
この類は秋になると体色が赤化してくるので最初から赤いのではない。種類が多いが、夏の土用がすむころからぼちぼち目についてくる。群になって飛び交っていたが、これも今では少なくなったもようである。
学校では益虫であることを教えられ、家でもかなりやかましく注意されたが、トンボ取りはやめられなかった。(子供の遊びの項参照)

ウドンゲの花
家の天井や、電灯のかさやおおいに、ふと目にとまる1群の、きぬ糸のような細い長柄の先が少しふくれ、やがて花が開いたように割れる。細少で、色もないから気づかずに終ってしまうことのほうが多いのだが、昔からこれを「ウドンゲの花」といって、おそれたりよろこんだりしたものである。
この花がさくと、その家に大幸福をもたらすか、反対に大災厄が起こるかの前兆だとの迷信が、かなり流布されてきたからである。
ウドンゲなるものは架空のもので、3千年に1度花が開くという仏教の説話で、めったに出会わぬことのたとえにつかわれた。

源氏物語若紫に「ウドンゲの花まち得たるここちして――」などと出てくるし、芝居のせりふなどで、敵に出会ったときなど「ここで会うたはウドンゲの花さく春に云々」などとつかわれた。
ところで、実はこれはクサカゲロウなる虫の卵である。クサカゲロウは脈翅目クサカゲロウ科の総称であって、小型のトンボのようなかっこうで長い触角をもつ体長わずかに10ミリ前後の緑色の弱々しい昆虫で、アリマキを喰う益虫である。灯火にあつまるので、家の中へ飛んできて意外の場所へ産卵などするから、上記のような話が出来たのだろう。しかし現在ではウドンゲの花などのことはあまり言いもしないし、また聞きもしなくなりつつある。

カブトムシ(鞘翅目コガネ科)クワガタムシ(同)
ともに男の子のよろこぶ虫で、これを見つけて捕えた時の喜びは忘れられない。ナラやクヌギなどの幹から出す樹液を吸いに寄ってくるのだが、これはカミキリ虫の類が、材質部で幼虫になり成虫になって出てくるときに傷つけた箇所から樹液が出て、それが発酵して特種な臭を出し虫のよろこぶ味になる。だから、ハチや蝶、アリ、ハエ、コガネ虫の類までさまざまな虫がここへ集まる。朝のうちに、この美味に夢中になっている所を発見するとたやすく捕えられるわけである。カブト虫もクワガタ虫もそのかっこうが いかめしく、力も強く斗争もするので男の子にはたまらない魅力がある。
わが町の雑木林などに居るが、これも近頃ちょっとみつけるのが困難になってきた。それだけ数が減少したのである。山間部では、夜間、灯火に飛来することもある。

ホタル(鞘翅目ホタル類)
これも近頃めっきり減ってしまった。夏の夜のホタル狩りの風景はもう見られなくなってしまった。ホタルを入れる細い金網で作ったホタル籠も店頭から姿を消したようである。
普通その大きさで、ゲンジ、ヘイケ、ヒメなどといったが、ゲンジボタルが1番大きく光も強い。発光器は雄は腹部2節、雌は1節で、とらえてみればすぐ雌雄が判別できた。
幼虫はきれいな流れに居てカワニナ(貝)などを喰う。わが広川の流域は昔からホタルの多いところであった。
今の子供はもうホタル狩りの楽しさは知らなくなっている。ホタルはその卵も幼虫も発光する。しかしその光の本質はまだ不明であるという。

【*注 追加 津木中学校などのご努力によって、岩淵から広川沿線のあちこちで、蛍が繁殖し乱舞している様を見ることが出来る。】

アゲハチョウ(鱗翅目アゲハチョウ科)
パピリオというひびきのよい学名をもった型の美しい蝶である。ツバメが南から帰ってくる頃からこのチョウが出現する。日本ではこの仲間の蝶が18種あるうちで、和歌山県に13種が見られるというから、日本で1番多い県である。幼虫はミカン類の葉を食うので、消毒のはげしいため今ではその数もあまり多くはなくなった。羽の色は黄と黒とに大別されるが、その種類によってそれぞれに絞の形や色の濃淡や艶などもちがうし、大きさも春型(小)夏型(大)とあり、雌雄でも相違があるが、どの個体をみて美事なものである。
わが町内ではキアゲハ、アゲハ、アオスジアゲハ、クロアゲハ、モンキアゲハなどが普通である。
アカタテハ(鱗翅目タテハチョウ科) 日本産の蝶のうちで、成虫のまま越冬するものが約20種ほどあるというが、この蝶もその1つで、冬のさなかでも少し暖かい日にはよく見かける。室内に入りこんだのなど、ガラス戸にじっと止まっているので手を出すと、すばやく飛びまわる。派手な色彩で美しい蝶だが、やはり季節はずれで感情的にはあまり興味をひかない。

モンシロチョウ(鱗翅目フンチョウ科)
これは成虫で越冬したものではなく、サナギで年を越し、わが町では2月になれば出現する。そして早くも春のおとずれを知るのである。

ミツバチ(膜翅目ミツバチ科)
大昔から日本在来種のミツバチが居て、自然に木の洞などに営巣していたのを利用し、やがて箱に入れて飼うようになった。これはからだが強くて、抵抗力もあり飼いやすかったが、営巣や貯蜜がへたで営業としてはなりたたなかったようである。
これらは和蜜とよんでいたが、今ではもう見かけない。現在蜜をとるため飼育しているのは洋蜜で、外国産か交配種であるらしい。品種も多い。
ハチを飼う人は全国をまたにかけて花を追って各地に移動する。わが南紀は暖かであるので業者が転飼のためにたくさんの巣箱を暖かい傾斜地などに置いて越冬させ、1、2月の梅花からレンゲやミカンの花盛りまで居るが、わが町内でもその風景をよく見かける。その蜜は古代からの甘味料であり、飲用、薬用として利用度が高い。

アリジゴク
雨のあたらぬ乾燥した土砂に、小さいすり鉢のような穴を堀ってその底の砂中に姿をかくしていて、他の小虫がそのすり鉢へ走り込むとすばやく土中からとび出して来てひきずり込んでしまう。アリ地獄の名のゆえんである。5ミリにみたぬ小さい虫であるが、からだに似合わぬ大きな顎を持っている。
今の子供はもう知らないが、このすり鉢を見つけると、細い草などでその底をさわったり、アリなどの小虫をすり鉢へ落してやると、やにわに砂の底から飛びついてくるのを見て面白がった。また、砂ごと手のひらにのせるとあわてて底へもぐりこんで手のひらをこそぐるようなしぐさをするので 「ションション出て来い、 おばえ(おばの家)が焼ける」といってはやしたてたりして遊んだ。ションション はこの虫の幼児語である。
この虫は脈翅目ウスバカゲロウ科の幼虫である。ウスバカゲロウは、変ったトンボのようなかっこうで棍棒状の触角がある。夜間灯火へ飛来してくるが、あまりすっきりしない昆虫で子供たちもこの成虫には興味も無いらしく手を出さなかった。


蛙の仲間
ウシガエル

この名でよばれるのを知らない人がいても方言名「ショク」(食用蛙の略)で誰でも知っている大きな蛙である。牛の鳴くような太くひびくうなり声のような音でなくので、聞きなれぬと気味悪るがられて初めて侵入してきた土地では、きまったように怪物視された。夜間この声をたしかめに来る人たちが集るので、夜店まで出た所もあったほどである。わが町へは何時の頃きたか不明だが、広の町内でも1時さわがれたこともあったとの話がのこっている。
アメリカ合衆国サウス・カロライナの原産で大正8年(1912)東大渡瀬教授が食用の目的で12対を輸入したのが、あっという間に全国的にひろまった。最初は多少投機的な金もうけに利用されたりしたが、もとより日本人の好みに合うしろものではなく、輸出を目的としたのだが、あまりパッとしないようだ。池、田圃、小川など普通にカエルの棲む所ならどこにも居るが、山間部にはいないもようである。この蛙は他の蛙とちがって、オタマジャクシ(12、3センチにもなる) のままで越冬する。ついでにこの蛙の餌として1926年頃輸入されたアメリカザリガニも方々へちらばって、いまでは水田の害虫として厄介な存在になっているがしかし、これはまだ、わが町へは侵入していないようだが、すぐ近くまで来ているから油断はならない。
このほかカエル類は多いが、昔からあるヒキガエル(ゴトヒキ、ガマ)を筆頭として、子供のおもちゃにされたり、理科実験材料にされるトノサマガエル。色がきたないので相手にされぬツチガエルの類。樹上に棲む小型のアマガエル、これが鳴きだすと雨が降るといわれてきているがその確率は半々らしい。このカエルは指の先が吸盤になっているのでどこへでもはい上ることができる。また、居る場所によって体色が変化する。小児のカンムシに効くとして食用にされるアカガエルは、山間部に多いスマートな蛙である。
また、なき声がよいので昔から愛されたカジカは山間の清流に棲む。わが広川の上流方面にはまだいる。色は土色で体が薄く、姿はさっばりさえないが、その鳴き声は実に澄んでいる。カジカはもとカワズが本名だが、古く平安時代の昔からカエルと混同してしまって、カジカガエルといわねばならぬことになってしまった。だから 「古池やカワズ跳びこむ水の音」 の芭蕉の俳句は普通のカエルのことでカジカではないことは勿論である。
カエルの類はあまりにも人間の周囲に普通なので、あらためて注意をはらわれる存在ではないようであるが、人間とのかかわりの深かったものであったことは、カエルと名のつくことばが多いことでも想像がつくのだが、わが町ではカエルに関する民俗はあまり伝わっていない。
全般として日本古来の泳法でいうカエル足。カエル泳ぎ、建築用語のカエル股。漁網の結び方の1つであるカエルマタむすび。カエデ(植物)の古名はカエル手。カエルの面に水。カエルの子はカエル。農民を馬鹿にしたカエル切りなどの語が残っている。しかしカエルは子供たちにとっては危険のないよいあそび相手であり、煙草のヤニなど喰わせて前あしで口の中をかき出すしぐさを喜こんだりしたいたずらなど思い出のつきないものであるが、蛙も次第に数少くなっていく傾向にあるようである。人間にとってはなんの害もなく、農業の害虫を退治する有益な動物である。

マムシ
   方言名ハビで有名。内地で唯一の毒蛇で噛まれてもめったに死ぬことはないが、激痛がひどく、昔から「百日わずらい」といわれた。
わが町では他の蛇類が減少している傾向にあるようだが、これは山間部にはまだ多い。
秋ハギの花が咲くころが1番凶暴になるといわれ、この頃からマムシは口から仔を産むためそのキバを抜くために、よく噛みつくのだと信ぜられてきた。他の蛇類は卵生だが、これは胎生であるからそう思われてきたのだろう。あまりはい廻らずジッとしていて相手のスキをうかがっているので、こちらがさきに見つけると捕えやすい。俗にハビ臭いといって、独特な臭いを出すことがある。
生きたままのをショウ チュウ漬けにして民間薬にしたり、皮をむいて肉を乾したものを強精薬にしたりする。
昼間は湿った草むらにひそんでいることが多く、夜間は路上にでも出てくる。紺染め(藍染)の臭いを嫌うので、昔は山仕事などの際、紺タビ、紺バッチ、紺の手甲のこしらえで行ったものだという。
ずんぐりと肥えた感じで背に銭形の絞があり頭が三角形のようになっているので他の蛇との区別がつきやすい。
発見したとき、上半身をS字状にして空中に支えるようにしているときが攻撃態勢で、その身長ぐらいが危険範囲とみてよい。たたき殺しても反射的に飛びついてくることがあるから、直接手を出さないことである。

モズクガニ
県下でも方言名がいろいろあるが、有田郡内ではズガまたはズガニで通用する。川口に近い海辺からずいぶん山奥の上流にまでいる。黒灰色で体も大きく太い爪に綿のような毛が密生していて、いかつくいやらしい感じがするが味はよい。
夏から初秋にかけて、たいまつや懐中電灯で川面を照らしながらつかまえることも出来るが、魚の頭やはらわたなどを網や籠に入れて沈めておくとそれを喰いに集ってくるから引き上げて捕える。
稲の穂のたれさがる頃が1番美味である。ゆでたり焼いたりするが、きたならしかった体色が真赤に変って美しくなる。肺ジストマの中間宿主として知られているが、生食するものではないから危険は無い。

メダカ
日本で1番小さな魚である。メットウの方言名でよばれていたが、学校の理科教材や、唱歌などの影響で方言名はしだいに忘れられていくようである。たまさかに赤色のものがあって赤メットウを見つけたとて喜こんだものである。小ブナ、ドジョウなどと共に子供のよい遊び相手であった。冬の間じっと水底にひそみ春をまち3月の声をきくともう産卵をはじめる。ちょっとした水辺にでも生活する強い魚であるが、これも最近は少なくなってしまった。

【注 追加 カブトエビ】
田植えをしてしばらくすると、田面をかわいく這い回っているカブトエビをよく見かけたものだが、除草剤の影響で今は見かけなくなってしまった。生ける化石とも言われ、その姿は古代生物を思い起こすものであり、田面をかき回すので「草取り虫」とも呼ばれた。手のひらに載せるとその足で掻くので面白く感じたものだ。


カブトガニ (節足動物剣尾類)
忘れた頃に見つかるので湯浅広湾にはまだ生きていると推定される。生きている化石だとして他県では天然記念物に指定されている。(岡山県金浦、九州博多湾)
漁師泣かせで、これが網にかゝると甲のふちや、長い剣尾のトゲで、なかくとれにくく網を痛めるし、獲って何んの用途もない。中世代白亜紀にさかえた生き残りの生物として学問的には珍らしいものである。
3、40年以前までは子供のおもちゃにするほど網にかかってきたものであった。なかなかいかめしい格好のよい型である。

トビハゼとシオマネキ
広町江上川の下流、潮がひいて干潟のようになる泥土に、今では珍らしいものの数にはいっているトビハゼと、シオマネキが居た。居たと過去形で言ったが、居るといってもよかろうと思われる。
それほどめったに目にはかからぬが、絶滅したとはまだいえない。というのは、2年ほど以前に住んでいるのを確認しているからである。
トビハゼはハゼの仲間で、魚のくせに水中に居るのが嫌なのか、いつも干潟ですみ、アシなど生い茂った泥地をはいまわり、潮がさしてくるとあわてて石の上や木の根などにはい上って潮の引くのをまっている。エラが保水器のようになり、これで呼吸し、まぶたのある目玉をぎょろつかせてものにつかまって水上に頭を出している。
昔から不可能なことを「木によって魚を求むるが如し」といったが、この魚はまさに木のぼりもする変り者である。胸びれのつけ根のところの筋肉が厚く、これが足のかわりになって、泥地を這ったり、水辺の木にも登りうるわけである。全身灰色で長さ10センチほどの肥えた小魚である。

シオマネキ
このカニの爪が1方はとほうもなく大きく甲らほどもあり、今1つの爪が極端に小さく1センチほどしかない。潮が退くと泥土の穴から出てきて、食ものを拾って口にはこぶさまが、なんだか手まねきしているようなところからシオマネキという名がある。手にとってみると、わりあいに美しく可愛いい小ガニであるが、これこそもう目にかからなくなった。旧制耐久中学校の卒業生たちにとっても、思い出あるカニであり、トビハゼであった。
テンポガニともいった。なお、大きな爪のあるのは雄で、雌は両方とも小さい。

ボラ
黒潮の海の魚であり、湯浅湾内でもよく捕れる。古来、出世魚として名高い、それは成長するにつれてその名を変えていくからで、2〜3センチまでをハク(ゴンガラ) 5〜6センチのものをオボコ、スバシリ、20センチほどになって川へのぼってくるころはイナ、親になるとボラ、これらの大きなものをトド。
これ以上無し、結局という意味を「トドのつまり」というが、しゃれではなくほんとうの話である。ところで、この魚はウナギと同様にその本籍地が不明で、どこで生まれたのやら育ったのやらが今に学界での謎となっている。
カラスミという酒客がよろこぶ食品があるが、これはボラの成熟した卵巣である。(ブリやサワラのもあるが。)秋深まるにつれて、特有の泥臭さもぬけ、脂ものり、味もよくなってくる。

ヤマドリ(鶉鶏目キジ科)
きじと同じ科の鳥であり、昔から歌にもよまれており、その長い尾羽が実に見事である。全身の羽毛はキジ同様かそれ以上に美しい。これは、どちらかといえば奥山の方に多いようで、津木山中にはかなり居るもようである。
古来、「ヤマドリのおどり場」といって山中のや、平坦な所に土壌のようにはき清めたような場所を造り、そこで雄が羽を振り踊りをして雌鳥に見せるという。ドド・ドドというひびきが聞こえるというが、誰も見た者は無い。しかし、そのおどり場を見た人は有る。キジもヤマドリも飛ぶよりも駆け歩くことのほうが得意で、低木や草の茂みの中をくぐりぬけて、かけ廻る。どちらもその脚は丈夫でつめも強く、雄にはケズメがある。
昔天然痘などでかゆいところをこの鳥の足の爪で掻くとよいとのことで、脚を保存しておいたという話もある。

キジ(雉目キジ科)
日本独特の名鳥であり、肉もうまい。桃太郎の昔話しで幼児のころからなじみが深い鳥であるが、今では少なくなりあまり見かけなくなってきている。
1947年(昭和22年)わが「国鳥」に指定された。国を代表する鳥としてのふさわしい風格で、その美しい羽毛、長い尾羽、ケーン・ケーンと山谷にこだまする鋭い鳴声。地震がゆる寸前にいち早く鳴いて飛び立つという敏感さをもっている。
雌は雄に似ぬ地味な枯葉ような茶褐色の羽毛で保護色になり、地上に栄巣抱卵するのだが人が近づいて踏みそうになるまでじっと動かない。そして急にパッと飛び上るので、こちらの方が吃驚する「足元から鳥が立つ」のたとえの通りである。深い山地よりも海岸に近い低山地に居るようである。以前は天王の山などにもよくいた。

トラツグミ(燕雀目ツグミ科)
羽毛は黄色に新月型の黒点がちらばり、虎の毛皮のような感じがする。ツグミ科中最大の小鳥で、ハトをひとまわり小さくした程の大きさである。
早朝まだ暗いうちから森林の中でヒーヒョーと1声づつ区切ったさびしい低い鳴き声で、勿論姿も見えないので、昔から気味悪がられた鳥である。森さえあれば平地でもいる。ほとんどミミズを喰っているといわれる。わが町にもいる。直線的に飛ぶが、翼を数回はばたいてちょっとたたんでまたはばたくといった飛び方をするので、他の鳥との見分けがつきやすい。
日中には鳴かないので、鳴声と姿とが一致確認され難かったため、その声だけで気味悪がられた鳥である。

メジロ(メジロ科)
和歌山県の県鳥に指定されている。しかしこの小鳥は昔から日本3鳴鳥の1つとして飼育され、その鳴き声を楽しんだ。また、その緑色の羽毛と、目白の名のおこりである目のまわりの白いふちどりとの可燐な姿のために、毎年冬期群生して海岸近い樹林にまで降りてきたところを、いとも簡単に捕獲される。これは山地でも同様である。ウバメガシの樹液、ツバキの花の蜜、小さい虫などを食う。
5月頃から雌雄で群をはなれてや、奥地で営巣する。コケやイネ科植物の葉、鳥毛などで小さいお椀のような形の巣をクモの糸などで、低木にぶらさげるように着ける。実に可愛い巣であるが、表面につけられたコケが保護色になって1寸見付けられない。
益鳥であり、県鳥であるから、もっと保護し、飼うのにも適当な制限を設けるべきである。季節によって棲む場所を変える漂鳥である。わが町では、大体冬期は海岸筋の山辺に来て、夏になると奥地の山辺に移る。

ウグイス(燕雀目ウグイス科)
日本3鳴鳥の1つ、あまりにもその鳴き声がよいので昔から獲えられて籠鳥にされる。だいたい 日本在来の小鳥は、そのほとんどが人に飼われて繁殖するものではないから、いかに可愛がって飼っても1代ばてであることを思い、自然のままにおいて、その声や姿を楽しむ風潮にならないものかと考える。
わが広川町のたいていの山では、少し深入りすればウグイスの声は聞ける。そのささ鳴きや、警戒するいそがしい声や、ホーホケキョのさえずりも聞くことができる。
だいたい、小鳥たちのさえずりは学習によって訓練されるもので、自然では老鳥の声を真似ておぼえるものである。したがって同じ鳥でも地域によって多少の特徴がある。ウグイスなど飼う人は、他のよくなく鳥の声をきかせて、それをまねさせるために必死の苦心をするのもそのためである。日本の特産の鳥であり、益鳥である。
冬は暖かい海岸べりの山地におりてくるが、5月ごろから深山で営巣して雛を育てる。
ホトトギスがこの巣に卵を托するのは有名である。

コジュケイ(キジ科)
中国原産の帰化動物で、狩猟鳥として輸入し、放飼したのが土着したものである。わが広川町も、もう10年も以前に、鷹島と霊岸寺山とに放飼したことがあるが、近頃はあまり見かけない。鷹島には僅かに生き残っているようである。「チョット来い」ときこえるその鳴き声が面白い(2月ごろ鳴く)。
ホウジロ (燕雀目スズメ科) そのさえずり声を「1筆啓上つかまつり候」とか、「源平つつじ白つつじ」などと、聞きなすが、今の子供も若い人も、もうこの言葉は知らない。それよりも「アットおどろくタメゴロちゃん」の方がわかり いいかも知れぬ。
古来から鳥のなき声を色々と人の言葉に翻訳して「ききなす」ことが行なわれた。たとえば、ツバメのさえずりを「ツバクロつちくてくちシブイ」とか、ホトトギスのけたたましい鳴き声を「特許許可局テッペンカケタカ」など、またメジロのさえずりを「長兵衛忠兵衛、長忠兵衛」と理解しておぼえた。ホホジロの鳴き声も「アットおどろくタメゴロちゃん」と聞いて聞けないことは無さそうだ。
わが町内では到る所にホホジロを見ることが出来る。 スズメのようで少し大きな感じで、名の如く顔の両側に白い線があり、飛びたつとき尾羽の外側がパッと白くみえるのでよく目立つ。
2月ごろからさえずり初めて初夏までつづく。この間営巣してひなを育てる。冬になると群生する。漂鳥である。

ヒヨドリ (燕雀目ヒヨドリ科)
ヒヨで通っている。冬期ピィーピィーとかん高い声で鳴きたてて賑やかな小鳥である。蜜柑畑など降りてきて、蜜柑を吸うのできらわれる。山では椿の蜜、南天などの木の実、昆虫などが好物。
味がよいので猟鳥として狙らわれる。飛ぶさまが波状形で目につきやすい。羽の色は地味である。ものに止まる時は直立姿勢になる。夏になると深山へ行く。わが町内どこにでも見られる。

ツバメ(燕雀目ツバメ科)
有名な益鳥で、人とのなじみが深く、人家に営巣産卵育雛するのだが、人を恐れはせぬが、絶対と言ってよいほどなつかない。1日の平均温が8~9度になると、南方から帰ってきて春を運んでくるかのようである。
普通のツバメと違い、徳利を横にしたような型の巣をつくるコシアカツバメは少しおくれてやってくる。平地にもくるが、どちらかと言えば山間部に多い。腰に茶色の部分があり、腹面にたくさんの班点がある。しかし近頃は、今年もツバメがもどってきたとなごやかな気持になる人も、ツバメが巣をつくればその家にフジ(悪いこと)が起こらないとか言って素朴によろこぶ人も無くなってきたようである。農薬などの影響か、年々ツバメの来訪も数少くなっているようである。

カワセミ(ヒスイ目カワセミ科)
おそらくこれほどあざやかで美しい小鳥はなかろう。羽毛は宝石のヒスイのコバルト色と同様で、漢字で書くと翡翠である。
鋭い鳴き声をたてながら川や池の水面を1直線に、矢のように飛ぶ。1度見る機会があったら忘れられない色や形をしている。しかし、これも今はめったに見かけることは少なく、広川上流水源地にも近い谷川でいることはいる。水面をのぞむ岩上や木の枝にとまり、小魚をねらって水中に飛び込んだと思うとさっともとの場所に飛上る。くわえた小魚は1度くわえ直して頭から鵜呑みする。
余談だが、この鳥をつかまえても絶対に飼えない。小魚を与えても喰わない。頑固に否定して餓死してしまう。
今や、護岸工事や砂防工事のために、巣造りの場が無くなったことも、この鳥の少なくなった原因かも知れぬ。
乾燥した川岸のがけになっているような所の土中に、長さ1杯ほどもある横穴を作ってその奥で営巣する。

セグロセキレイ(燕雀目セキレイ科)
胸より上は黒色、下は白色とはっきりと区別がつくスマートな軽快な小鳥で、水辺や苅田のあとなどに普通に見られたが、これも少なくなってきた。1羽か2羽で絶えず尾を上下に振っている。群をなさない。これより体は少しちいさいめで黄色の羽毛をもつキセキレイも、同じような動作をして水面近い岩上を歩いている。それはセグロより少なくなったようだ。
飛ぶときはどれも波状に低空飛行するが、キセキレイは空中で羽ばたきながら滞空することが出来る。尾羽を振る動作が面白いので、これにちなんだ方言名が多い。まだ夫婦のいとなみを知らなかったイザナギ、イザナミの神に男女の道を教えたのがこの小鳥だとの伝説をもっている。刈田の稲株にひそむ虫をついばむ益鳥である。
広川上流方面にはまだその姿を見ることが出来る。

ヒバリ(燕雀目ヒバリ科)
平野の鳥で、や、乾燥ぎみの畑地や草原に棲み、山には居ない。木にとまることもない。
春たけなわの鳥として名高く、空高く飛び上って終日をさえずり暮らしているようである。たいていの鳥はさえずるのは雄だけだが、ヒバリは雌雄ともにさえずるのが変っていて面白い。頭に小さい冠羽が収り、後脚の爪が著しく長い。空へ上るときは垂直に舞上がり降りるときも真直に降りてくる。麦畑や草原に巣をつくるのだが、なかなか人目にはつかない。

モズ(燕雀目モズ科)
郡内で方言名モズキチがあり、その鳴き声をキチキチと聞いたところから出た名であろうが、今日では本名のモズの方が通りがよい。秋をつげる鳥である。暑い期間を深山にいて、人里近くに現われるころは「野分」も少なくなる頃で「モズが来たから、もう大風も吹かぬだろう」との言い伝えもある。
その動作から鳴き声から威勢のいいもので、なんとなく人に親しまれてきた。特に木の梢や電柱の頂上など高い所にとまって尾羽を上下にふりながら自分の「なわばり」を宣言する高鳴きは早朝から始り、家で聞いていても実に気持のよいものである。
生きたエサを喰う鳥だが、捕えた小虫、蛙ときには雀なども、枝先きにプスリと突きさす奇習があり、モズの「ハヤニエ」という。
このハリツケにされた小動物はそのままひからびてしまっているから、なんの目的でこんなことをするかに諸説があって、今に片付いていない。また少し注意して聞いていると、春のモズは他の小鳥の鳴き声をまねていることがある。上手下手はあるが、スズメやメジロのものまねなどおてのものである。百舌と書いてモズと読ますゆえんかも知れぬ。
そのくちばしや爪はワシ、タカのように釣曲していて、目も鋭く、燕雀類に属する鳥とは思えないほどである。

カラス(燕雀目カラス科)
近頃町内でもめっきり少くなったのはカラスである。群をなす鳥であるのに、今は、まれに1、2羽を見るだけである。古来から人となじみの深い鳥である。ハシブトガラスとハシボソガラスの2種類あるのだが、少し注意してながめると、くちばしの太さの相違でしぜん区別がついてくる。判定のむつかしいのはその雌雄で、「誰かカラスの雌雄を知らんや」との診さえある。野鳥中、まずりこうでかしこいことは随1であり、したがって悪がしこいのにかかると人が馬鹿にされかねない。
昔、カスミ網などで雀を獲るときなど、飼っておいたカラスの鼻の穴に強いスガ糸を通してつないでおくと、雀はカラスが居るので安心して集まってくる。そのおとりに使った。何でも食う雑食性のため、かえって農薬汚染で繁殖しなくなったのかも知れない。
ヤタガラスの神話にはじまって、熊野権現の神使いにされてあがめられたり、反対にまた「カラスの行水」などと馬鹿にされたり、その鳴き声を気にして今朝のカラス鳴きが悪いから誰か人の死ぬまえぶれでなかろうかなどと気味悪るがられたり、いろいろと民俗的に縁の深い鳥である。
広町には、カラスの森と親しまれた神社の森もあった。「カラスカアカア勘三郎」などとはやした言葉も今の子供には忘れられてしまい、子供とのつき合いも無くなっていきつつあるのは淋しい気がする。

スズメ(燕雀目キンパラ科)
この小鳥ほど人間とともに栄えてきているものも珍らしい程である。森林が開かれ、人家が殖え、工場などから出すガスや廃水の公害が甚しく、他の鳥は減少し、中には絶滅に瀕していても、人が住む限りこの鳥だけは殖えていく。人の住まぬ所にはいない。人の住まない山野には雀は無い。たとえ1軒の人家でもあればやがてそこへ棲みついてくる。
かように古来から人とのつき合いは深いのに、農家からは目の仇にされつづけ、「鳥追い」といえば主として雀を追うことであった。まず害鳥の代表のように思われてきたが、それはまさしく冤罪であって、この鳥はどちらかといえば益鳥の部に入れてもしかるべきで、年間を通じて人の知らぬ間に、害虫や雑草の種子を喰い、どれほど農業に貢献しているかを認識してもらえない気の毒な鳥である。
生来陽気な性質か「スズメ百まで踊り忘れぬ」との言葉もあるとおり、喜びを象徴し、早朝寝床で聞くスズメの声は聞きなれていても楽しいものである。子供たちともよい遊び相手になるものだが、警戒心が強く馴れにくい。しかし、幼鳥のうちから世話してやればよく人に馴れる。
スズメ チュンチュン。カラスカアカアは、おそらく人の子が最初におぼえる鳥の名と声とであったのではなかったろうか。広町には昔スズメの森という神の森もあった。なお雀は留鳥で1年中同じ場所に棲むので、土地によって地方変種が多い。

イノシシ(偶蹄目)
わが町でも津木地区の山中は、昔からイノシシで有名である。普通、シシで通る。だからその狩は「シシうち」 「シシがり」という。解禁になると多勢で、それぞれ自慢の犬を連れて出かける。シシがりは犬がよくなければ撃てない。犬が人以上の働きをするといってもよいほどである。だから、あとで分け前にあずかる時も、犬は人1人に数えられる。
イノシシは、昼間はたいていひそんでいて、夜になると活動する。その行動の範囲はずいぶん広く、数十キロにも及ぶという。山間の田や畑の作物を荒すので始末におえない。竹の子も、ムギも、イネも、イモも1夜のうちに全滅させてしまう。
皮膚についた寄生虫などを除くためか、山の湿地に水溜りをつくり、そのなかでころげまわって、泥水を浴びて木の幹などへからだをすりつける。その水溜りを「シシのヌタ」という。狩りは多勢での共同作戦で、その範囲も山越え谷越えての広範囲にもわたるし、えものも大きいから「シシうち」がはじまると家業も手につかぬほど熱中する。
現今では、何籍の大ジシを射とめたなどと重さで功を誇るが、昔はこの皮で簡単なクツのような履物をつくったので、何ゾクのシシといった。クツが何足とれるかで大きさの目標としたので、今でも稀に斯う言う人もいる。
追いつめられたり、特に矢喰い(鉄砲でうたれた経験のあるシシ)に出会うと人にもとびかかってくる。殺された人もある。そのキバは刃物のようにするどい。鼻っぱしらが強いのと1直線に突進するので「イノシシ武者」なる形容もある。
年によってその数に異動があり、その肉は美味である。特に寒のうちがよい。仔ジシはたてに筋になっている毛色があり「瓜子」といわれ、親ににぬ可愛い姿である。

イタチ(食肉目)
旅立ちにイタチに道を横ぎられるとその日はやめ、日を改めて立つとか、イタチをいじめると火事がおこるとかの俗信があった。有名な最後屁は、肛門近くにある分泌腺から液を務のように吹き出すので、形容の出来ぬ臭気を出して相手のひるむすきに逃げる。
雌のからだは小さく、雄はその3倍近くもあって、親子のように見える。尾は長く、毛皮は高価であるので保護獣であるが、減少するばかりである。野ネズミなどを駆除する益獣で、冬になるとキチキチとするどいなき声を聞くことがある。津木地区にはまだ居るようである。

キツネ(食肉目)
キツネにだまされるとか、キツネ火を燃すとか今に信じている人がある。お稲荷様の神使いということから、そのものを拝む人もある。その1方では、毛皮のよいためにねらわれて、その数が少なくなっていくようである。
冬になると人家に近ずいてくるが、その足あとは、型は犬の足に似ているが歩いた跡は1直線になっている。
深山よりも人家に近い山に住むようである。キツネ、コンコンというが、その鳴声はギャーといったようなするどい声である。
昔は寒に入ると「ノウセンギョ」とかいって、アズキ飯にアブラ揚げを添えて野山へ置いて、キツネに施行することなども行なった。
わが町では、淡濃山のキツネ、養源寺のキツネが信仰的に有名であったが、もう忘れられてしまった。井関の稲荷社と、今は無い霊泉寺は白狐の伝説にまつわる寺社であった。

ワカヤマムササビ(齧歯目)
ノブスマという方言名で知られている。日に日に少なくなっていく動物で、珍らしくなってきた。山林の木の洞などにひそみ、夜になると活動しだす。前あしと後あしの間に膜があるから、それをひろげて高い所から滑空するので、飛ぶように見えるが、飛ぶのではない。「ふろしき」をひろげて、それに首と尾を着けたようなかっこうになる。わが津木地区でときに見つかる程度で、保護したいものである。リスと同類の動物である。
古い迷信に、この毛皮を産婦のねどこに敷きこんでおくと必ず安産するとの伝えがあって、お産をする家では借りに行ったものだという。
今はこんな話も聞かなくなったし、その由来ももちろんわからない。ひるは木の洞などにひそんでいて夜になると活動する。目の後の方に淡黄色の毛斑があるのが特徴。

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3、広川町の天然記念物


ここに掲げるものは、わが広川町としてのもので、他所では特別に珍らしいものでなくとも、わが町として今後も注意し、保護していきたいと思うものをあげたのである。もっとも、このなかには、かつての「和歌山県史蹟名勝天然記念物調査会報告」や「和歌山県文化財目録」に登載されているものが含まれていることはもちろんである。

植物の部
広海岸の防潮林及び天州松原説明は不用と思われる。しかし近年、松喰虫の被害もあり、特に大木が減少していく傾向があるのは看過出来ない。より1層の保護と啓蒙運動もゆるがせにできない。なお防波堤の黒松は、いずれも大木であり、これは人も知る梧陵翁の植栽のもので、明治37年防風保安林に編入、その面積は約4町歩、松の数はおよそ1千本もあったのである。このままでは年々減少して行くので、昭和35年ごろから有田ロータリークラブの厚意によって年々若木を寄贈、植継がれている。(5ヵ年継続)

下馬の松
幹周約3・73m、高さ約15mに及ぶ。樹齢約4百年と推定。広八幡神社への参道鳥居より50メートルほどの道傍小川の側にある。1本松とも呼んでいる。旧幕時代藩主の代参はここで下乗したので下馬の松という。昭和6年県指定になっていた。最近は樹勢の弱りが目立ってきている。

<<写真挿入 下馬の松>>
養源寺の老松
広養源寺の庭園にある。幹周約2m、地上から1本の枝が分かれ、地に添って横に這い、全体の姿が雄壮である。この地は古くは畠山氏の館跡であり、徳川になって藩祖南龍公の観魚亭のあった所といわれ、その庭園のものかと伝えられている。

円光寺のソテツ
広湊町円光寺の門内右側に2株あって枝が密生している。2株とも幹周約2m、ともに大小十数本の枝にわかれ、そのうち大きな枝は周1mほどあり、高さは約6m、全体横に這うようになっているので幾本かの支柱をたてている。
昭和12年5月県の調査報告に登録されている。2株とも雄株で実が着く。

天王永井家前のエノキ
護岸コンクリート壁の側にあり、永井家の前方にあたる。エノキは他にもあるが、これは相当な老樹であり樹勢もよい。根元から大きく枝わかれしている。

法蔵寺の柏槇
幹周約3メートル、大中小の3支幹にわかれている。
各周約1・7メートル、1・5メートル、0・8メートルばかり。広川町上中野法蔵寺庭内にある。もと、この寺が広小字寺村からこの地に移転して来た際、開基明秀上人の手植えと伝えられる老樹である。昭和12年7月県指定になっていた。
なお柏槇はイブキの類で、町内の寺にもかなりのものもある。シンパクとも呼んでいる。

光明寺のクロガネモチ
寺の境内入口近くの高さ約1メートルの土壇の上に、2メートル余りの根上りになっている。周囲約3メートルあり相当な老樹である。昔から樹枝を切ると崇りがあるとの伝えがある。近年台風のため上部を損傷されているが樹勢がよい。寺は字山本にある。昭和12年5月に県の調査報告書に登載。
霊岸寺山のツゲの群落地
50町ほどの山林中にあるが、ツゲの群落は有田郡では少ない。ここのツゲも年々姿を消していくもようである。昔から採集を禁じているのであるが、増加はしていない。徹底的に保護したいものである。

落合極楽寺のイチョウ
寺の境内に登る石段の傍にある。イチョウは別に珍らしいものでもなく、町内の寺院や学校にも相当大きなものもあるがここではその代表格としてあげておく。周約3・27メートルが、高20メートル。ここの木は雌木だからたくさんの実がなる。熟すると落ちてくるが、多肉質の外種皮の悪臭と、人によっては触れると発疹するのとで閉口するが、その種子ギンナンは美味である。明治29年9月1日、平瀬作五郎氏によってこの花の精虫が発見され、世界学界を驚かせたのは有名である。大木になると、俗に「ちち」といわれる太い気根が下がるが、ここの木にも出ている。葉は扇形で秋落葉するが、黄変して美しい。昔この葉をよく書籍の「しおり」としてはさんだが、これには防虫の効果もあった。材は木目がめだたずに、比較的やわらかで白く美しいので種々の用途がある。生物には「種」としての生命と「個」としての生命とがあるが、イチョウは種としての生命はつきている。それ故か、世界中どこにもその自生地は発見されていないということである。

鹿ヶ瀬のシイの老木
周囲約4メートル、高さ約18メートルほどの椎の老木が2本、河瀬峠にある。このところはもとの熊野街道の鹿瀬峠附近であって遠くからも望み得る。近年台風のため損傷されているが、昭和8年県調査報告書にも登録されている。

万福寺のクロガネモチ
大字前田にある。光明寺ほどのものではないが周約1・5mある。うえをつめているのであまり高くない。 寺の本堂左側地蔵石仏の堂の側にあり雌木であるので、真赤な実が枝いっぱいに着く。わが町内としては大木の部に入るであろう。
猿川不動産のオドグス
路より1段高い地にあるのと石垣の側から天につき出たように生えているのですぐ目につく。オドグスは方言名で本名はタブノキ。イヌグスともいう。クス科の植物で、葉を破って嗅ぐと樟脳臭がする。ここにあるのは町内では1番の大木ではなかろうか。周囲4m余ある。

老賀八幡社のイスノキ
だいたい暖地の海岸に多い木であるが、ここにもあり、町内としては数少ないのであろう。この木の葉にはたいてい「虫えい」ができていて「こぶ」のようになる。蚊母樹という漢名があり、蚊がこのこぶの中から出てくると思ったからの名称だが、実は蚊ではなく油虫の1種が寄生してできたものである。
昔はこの木の皮を染料とした。特にこれで絹糸を染めると目方がのったという。また、この木の灰を製糸の漂白剤にし、陶器の「うわぐすり」にもしたというが、わが町では利用されたという伝えはないようである。ここにある木は1抱えに余る相当な老木で社地の左側の隅、建物の裏側にあり、ちょっと目につきにくい場所である。
小児のにぎりこぶし程もある。「虫えい」が実がなったようにぶらさがっている。わが町としては珍木であろう。

岩渕三輪社のナギ
下津木岩渕の氏神社殿の石垣の根元から、それに添って直立している。幹の周囲約2メートル、高さ25メートル、町内では珍らしいナギである。雄木であるので実はならない。神社石垣の石段に元文4年の銘文があり、1概には言えないがこの木の年代を知る手がかりになりそうである。
小鶴谷のシイの老木
津木長者峯に致る小鶴谷(コオヅヤ)の奥にある。老木2本で森になっている。昔からこのあたり崇りがあると言って、めったに近寄らないところ。大蛇伝説もある。

動物の部

イタチ ワカヤマムササビ キツネ   以上は別項動植物の記事を参照されたい。

テン
今日では珍獣になっているが津木地区方面にはまだ居るもようである。イタチに似た猫ほどの大きさで、耳が大きい。毛皮として貴重で、密猟の心配がある。夜行性で肉食。昔は古い家屋の天井裏などにも居たという。
毛の色で黄色のキテン、暗褐色のスステンがある。以上は名前はよく知られているが、実物に接することがだんだん少なくなってきている。

江上川下流のトビハゼ(魚)
右同所のシオマネキ(カニ) 湯浅広湾のカブトガニ(剣尾類) 以上3つも別項動植物誌記事を参照。最近目につくことが稀になっているが、まだ絶滅したとはいいきれないようである。

鉱物の部

化石類
多少専門的なことは別項地質の部で記述するが、広、湯浅附近は化石の宝庫ともいわれているほどで、昔からも珍らしがられていた。ここではそれらの1つ1つについてはあげない。

天王山一帯の植物化石(シダの類が多い。)
名南風鼻のゴドランド紀を証明するクサリサンゴ、ハチノスサンゴの類
多少赤味を帯びた石灰岩中にふくまれている。

西広池ノ上附近の貝化石類
貝石山と呼ばれている丘陵一帯、続風土記や名所図絵にも記載されていて、徳川時代から有名であった。一般に天王の「木ノ葉石」、池ノ上の「貝石」といって親しまれてきたものである。

南金屋のウニ類化石
南金屋弁天社のある石灰山一帯にある。石灰岩中に、うめぼしの種の様な古代ウニの棘がはっきり現われている。
さきにも触れた通り、化石はこの外町内所々から出るが、以上に記したのは、次第にその出土が減少しているようであるし、濫堀を禁じる方途を講じられたいものである。

小浦の陶石
石英質の砂岩で、良質のものである。採掘して搬出したこともあったが今はやんでいる。

玉石
徳川時代から知られていたが、あまり良質ではなさそうである。名島能仁寺の裏の谷附近から出る。黒色である。

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災異篇

1 広と津波


1、はじめに
わが和歌山県は、風水害、地震、津波と災害の多い県である。なかでもわが広地区は津波の被害によって昔から手ひどい苦難をなめさされてきた。ひとくちに津波といっても、津波には「地震津波」と「風津波」の区別がある。風津波は普通「高潮」といい、地震津波を単に「津波」といっている。高潮も津波も海水が陸地におし寄せ、溢れる点では同じであるが、高潮は気圧低下や風力など気象異状によって起こるものが主であるから、低気圧の中心の移動にともなって増水し怒濤となっておしよせてくるが、低気圧の中心が通過するにしたがって次第に減水するのでたいていの場合1回で済むし、潮の差し引きも比較的ゆるやかである。
津波は、いわば海が陸地へ移動するといったかたちになるから、潮の差し引きは急にかつ幾度も繰り返されるものである。津波は外洋では高さもあまり大きくはないが、浅海に近づくにつれ、またラッパ型に入り込んだ港湾に浸入してくると、海水の高さは次第に増大するし、その勢もはげしくなってくる。
広・湯浅湾のかたちは、この条件どおりなので古来から津波の被害を受けやすい土地である。とくに広町は低地帯であるのと、北側に広川が流れ、南側に江上川があるので、津波が来襲すると、まず抵抗の少ない川に沿って海水が逆流していくから、町が水で包囲されるようなかっこうになりやすい。
和歌山地方気象台の調べによると、わが県下に被害をおよぼした地震及びこれによる津波現象のあったものは、推古天皇7年(599)から昭和38年(1963)まで、67回あったと記録され、そのうち、津波のため、相当被害があったものは21回とあるが、これらは県下全般のことで「広町」での津波被害は、口碑と実際とをあわせて8回を数える。

1、正平16年 (康安元年1361)
2、文明7年7月24日 (1475) (口碑)
3、明応7年8月25日 (1498)
4、天正13年11月29日 (1585) 広に残る口碑であるが、日本災異誌や有田郡誌には記載されている
5、慶長9年1月31日  (1605)
6、宝永4年10月28日  (1707)
7、安政元年12月23日 (1854) 陰暦11月5日
8、昭和21年12月21日 (1946)

(6)と(7)の2つ大津波は、広が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした津波であった。
それでは津波、高潮などの被害をくい止めるために昔からどんな手を打ってきたか。それについては「感恩碑の由来」にくわしく書かれているので、その項を参照されたい。なお大正2年3月30日高潮が来襲したが、梧陵の防波堤のおかげで被害はなかった。それからは津波や高潮のおしよせて来ることもなく無事であったが、昭和21年12月21日南海大地震にともない大津波が起こり広も湯浅も相当な被害を受けた。
梧陵の築いた土堤のおかげで、町内は被害がなく、 (多少あったが極く軽いものであった。)そこまで及ばなかった。ただ残念なことには、耐久中学校附近一帯及び日東紡績工場及び社宅のある一帯は手ひどい被害を受け、死者22人を出したことである。また、西広、唐尾地区の海岸地帯も、波除けの石堤は破壊され、田畑家屋の浸水、道路の破損などとそれぞれ被害をこうむっている。この地震の直後土地の沈下は約60cmにもなり、この傾向はその後も続いているもようである。「うのはえ」「もろのきのせ」などの礁は以前は頭をみせていたのが、今では全く水面に没っしている。
海浜の舟揚げ場が次第に狭くなりつつあり、遠浅の汐干の線が後退してしまっている。町当局では広湾一帯の護岸対策として昭和26年ごろより改修工事を起こし、ひき続いて改修強化に努め昭和36年一応完成させた。現在ではその昔、畠山氏が築いた石堤は全部コンクリートで覆われて、新しく造ったように見えるが、これで石堤を強化したわけである。そして梧陵の築いた土堤は、海寄りの片側の面をやはりコンクリートで補強されている。江上川と新田川とへは海水の逆流を防ぐため閘門を設けている。天王の波止も石堤の上をすっぽりとコンクリートで覆われた。和田、白木、西広、唐尾の海岸の護岸工事もなされている。これで一応、広としては防災 災施設をほどこしたわけであるが、津波の力は、はかり知れないものがあるので、今後もますますその施設の管理に万善を期さなければならぬ。
ところで広川町では、全国でもまれな「津波祭」なるものを行なっている。だいたい毎年11月の初めに(年によって日は変るがたいてい5日までに)広市場の波戸で神事を行ない、感恩碑の前で感謝の心を捧げて、土堤へは町民各戸から「土」置き作業をすることになっている。 (このことについては別項でも述べる。)
ついては、昔を知り今をかえりみる一助として、まず、広の津波に関する史実や記録、警告、心構えなど含めて書かれた適切な文献から7篇を選んでここに再録することとする。というのは、それらの原本はいずれも、へんぺんたる小冊子で、出版されてから今は相当な年月を経ているので、今日では入手困難といってもよいからである。そして蛇足ではあるが、その解説めいたものをまず記しておくことにした。

2、津波に関係ある文献
感恩碑の由来
昭和8年12月に広上市場の浜に「感恩碑」を建立した。その由来を述べたものであるが、往古の広村の歴史にも触れながら、災害から広を守り、発展させてきた幾多先人の遺徳を偲び、最後に浜口梧陵の偉業とその徳をたたえたものである。浜口恵璋の編著。

<<写真挿入>>

浜口梧陵の手記
安政元年(嘉永7年)11月4日、前後3回にわたり紀州海岸を襲った津波は広村に対して致命的な災害をもたらした。その時これに対処した梧陵の寝食を忘れた応急策、罹災者に対する救護活動など、彼自身が記したもので、津波来襲の模様なども詳細に述べられている。
(浜口梧陵伝より転記。)

「稲むらの火」の教方に就いて
昭和15年「震災予防評議会」が今村明恒理学博士 (当時地震博士といわれていた)に依嘱して、そのころ、尋常小学校5年用の文部省国定国語読本に載せられた、梧陵が津波の際に活躍した事実を文学的に表現した「稲むらの火」なる文を、地震津波に対して専門的な解説を加えつつ災害に対する心構えなども説き、梧陵の偉業をたたえ、これにまつわるエピソードなども加えたもの。(このパンフレットは浜口家の厚意により昭和16年再版して、各方面に配布された。)

和歌山県有田郡広村防波堤及び防波林の由来  浜口儀兵衛
昭和21年12月21日に起った南海地震による津波のため、和歌山県は特に大きな被害を受けた。広も相当被害があったが、梧陵の築いた防波堤のおかげで、比較的軽くで済んだ。
同22年6月、天皇が関西方面行幸にあたって、和歌山県にもこられて、被害を、見舞はれた。その際、梧陵の曽孫浜口儀兵衛(梧洞)が天皇に言上したものである。

昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す  今村明恒
昭和21年12月21日の南海道沖地震にともなって、広村へも押し寄せて来た津波について、従来から研究されてきたデータに基づいて、地震学上から津波の性格を説明して、かねてからかくあるやもとの警告を発っせられていた今村明恒博士が、とくに広村に対して寄せられた1文で、これに示された警告内容は今日今後とも無視出来ないものがある。
町当局もその後の防災施設の中に、博士の意見をとり入れたところもある。(昭和23年3月寄稿。)

海嘯に関する座談会記録
昭和22年3月22日広町では南海地震津波についての記録を作るための資料として、これについての座談会を開催したときの記録である。直接被害にあわれた人々を中心として語られた内容には今後も学ぶべき点が多いと思われるのでここに再録する。(この記録は出版されていない。筆写されたものを転載する。)

昭和21年12月21日の南海地震に伴う津波による広町の被害について
昭和27年12月21日に広町役場で「和歌山県広町 津波史と防災施設」なる小冊子を発行した。その巻末に当時の被害状況と既設の防災施設が如何なる効果をあげたかなどを簡単に要約したものである。

海嘯の大要と防備の概要
<<写真挿入 感恩碑>> 感恩碑の由来
今回広村の海岸、上市場、松樹鬱蒼たる地をトして、当地に於ける海嘯の防備について、尽力せられた方々の感恩碑を建てることになりました。
就いては我が村に於ける震災海嘯の大要と其の防備の概要を述べて参考の一端に供えたいと存じます。

1、広村の海嘯略史
広村の地は西北は海湾に臨んで遙かに阿波の山々を、広々とした海の彼方に眺め、東南は田臥が相つづいて遠く霊岸寺山や明神山の峰つづきが見えて、風景よろしく、また今の阪神地方、昔でいえば難波津や兵庫港の方面へも船の便利があって、南紀に於ける中々よい港の1つであります。
然るに土地が低いために昔から度々海嘯の害を受けました。遠い昔のことはいざ知らず、近世に於いて著名なものは、宝永4年及 び安政元年度の海嘯であります。
地震学の泰斗今村明恒理学博士の「地震漫談」によりますと、慶長9年にも広村に海嘯があったように誌されてあります。慶長9年といえば、同年12月16日に薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上総、8丈島等の諸国の地が大いに震うて、起った海嘯であります。
また、古田詠処の「安政聞録」によれば「昔文明の比津波、夫より又百年余を経て天正の比上る」という口碑を誌されてあります。
文明の海嘯は同7年乙未だとも云いますが、記録がありませぬから詳しいことは分かりませぬ。「大日本地震史料」には、文明年間に大海嘯があったようなことは誌してありません。明応7年8月25日に大地震災があって、紀伊、伊勢、三河、遠江、駿河、伊豆、相模に海嘯があったことが誌されてあります。すれば、文明7年と云い伝へて居るのは、或は明応7年かとも想像されますが、何れも記録のないことでありますから、何とも申されません。この時は広八幡の石段3段まで浸し、井関の三船谷まで海水が行ったという云 い伝えがあります。
また、天正の海嘯といえば、同13年11月29日に、山城、大和、摂津、近江、美濃、尾張、伊勢、三河等の諸国、地大いに震い瀬海の地は海嘯暴溢し、人畜死傷夥しと「大日本地震史料」に認されてありますが、当地に於ける災害の程度は記録がないから知ることは出来ません。
次いで慶長9年12月16日の海嘯の事は前に述べました通りでありますが、天正の海嘯か、慶長の海嘯か、どちらか分かりませんが、松崎道場(安楽寺)の本堂に避難して居たものが無事であったという口碑がありますから、宝永海嘯以下のものであったと云うことだけは想像されます。然るに、この災害のことを記した「当代記」の中に「344年先、康安元年(正平16年)辛丑7月24日、摂州難波浦に如期の儀有りける由、太平記に在之」と記されて、この時は、摂津、大和、紀伊、阿波、山城の諸国、地大いに震い摂津、阿波に海嘯を揚げたことが「大日本地震史料」に出ており、「神田本太平記」巻36には「洛中辺土には傾かぬ塔の9輪もなく、熊野参詣の道には地の裂けぬ所も無りけり」とありますところからみれば、当地方も大変な災害のあったことが想像されます。
記録なり、口碑に存するものはまず以上述べた位で、正平16年から文明7年まで114年、文明7年から明応7年まで23年、明応7年から天正13年まで87年、天正13年から慶長9年まで20年、慶長9年より宝永4年まで102年、宝永4年から安政元年まで147年であります。

2、畠山氏の築ける海岸の石堤
以上述べました如く、広村は、再3再4地震海嘯の災を蒙っているのであります。
それに就いて広村に於いては如何なる防備が施されてあるかと申しますと、太古のことは何とも知りようがありませぬが、先ず第1に目につくのは海岸にある石堤であります。
これに関しての第1史料はありませんが、応永6年に畠山基国及びその子満家が、もと紀州を領していた大内義弘を堺浦に討ちとげた功によって紀伊に封ぜられ、まず名草郡大野城を築き、遊佐豊後守入道、同民部を守護代とし、その後広城(俗に高城という、名島、柳瀬、別所、青木等の数村に跨がる)を東広の山上に築いて本城とし、郡中、石垣の鳥屋城、宮原の岩室城、名草郡の岡城、同大野城などを附城とせられ、またその邸宅を広の海岸(今の養源寺の境域)に構え、4百余間の石垣を築いて風浪の害を防がれたと云い伝えられて居ります。
これについては「紀伊続風土記」巻59、広村の条下に、

其後畠山氏の邸宅を建て益々繁栄するに従いて土地狭小なれば、州浜へ家宅を建出し、4百間余の波除石垣を西北の海岸に築き郡中の一都会の地となりぬ。

とあるに徴しても、その一概を知ることが出来ます。
畠山氏が高城を東広の山上に構え、邸宅を海浜に建て、波除石垣を築かれたことは、我が広の地を繁昌せしめた一大原因であって、人家は次第に増し、最盛時に於ける広町は、人家1千7百を数えたと云い伝えられて居ります。これは今の広村だけでなく、広の荘全体の戸数であるにしても、其繁栄の程が察せられます。
畠山氏が築いた波除石垣は、極めて堅固なもので、高さ海面上1間半、幅頂上1間、根幅は3間以上もあります。場所によっては、4、5間に及んだ処もあります。記録がありませんから何時出来たものか、また工事は誰がどんなに監督して出来たというようなことは、さっぱり分かりません。云い伝えでは、もと田町にあった大将軍社は、この工事を監督したものを祀って居るように申しますが、それは何等の確証のあるものではなく、応永21年正月に畠山久友なるものが、所願成就のために、伊勢大神を森下の鎮守社に祀ったこと、嘉吉2年5月6日に吉見左近進入道与竹斉なるものが、心願成就のために豆州天城郡の大将軍社より勧請して当村に建てたということは、それぞれ其の社の縁起にありますから、或は此間に畠山氏と何等かの関係があったのではあるまいかと、想像し得る位の程度であります。
畠山基国が応永6年、紀州の領主となってから136年の後、天文3年3月、野辺某が、城主の畠山尚順(ト山)に抜き、また湯川直光が火を広城に放ち、ト山は淡路洲本に奔り遂に其処で死にました。それから50余年年の間は、畠山の臣、遊佐、木沢等が威を擅にし、また湯川、白樫等の人々が権を弄したため、当地方も乱麻の如き有様を呈し、広村も次第にさびれたことと思はれます。其後天正13年に、豊臣氏の南征があって、広村の大半を焼かれたため、益々荒廃したことと思われます。

<<写真挿入 和田の石堤>> 3、南龍院、和田の石堤を築く
慶長5年、浅野幸長が、紀州に封ぜられました其の翌6年に、検地改をせられ、また同年12月には八幡社に社領10石、同12年法蔵寺に寺領7石を寄せられるなど、広村のために力をつくされましたが、同18年に幸長は薨じ、弟長晟が襲ぎましたが間もなく安芸に封を移され、かくて元和5年8月、徳川家康の末子頼宣公が封を紀州に賜わって入国せられました。
公は当村のためには種々意を注がれ、寛永19年8月、八幡社に内々陣の御戸帳3流、内陣の御戸帳3流を寄附せられ、慶安元年8月には、八幡社に殺生禁断の制札を建てられ、同3年には石燈籠2基、万治2年12月には、大和守広信造の御太刀1口を八幡社に寄附せられ、寛文2年7月には八幡社拝殿、末社等の屋根葺かえを命ぜられ、寛文8年には御弓2帳、並びに紺紙金泥「大般若経」13巻の箱、その他「大般若経」6百巻の箱、同10年には金燈籠1対、翠簾3流、絵馬1枚を何れも八幡社に寄附せられました。
これよりさき、南龍院は、広の海浜にあった畠山氏の邸宅の趾に御殿を建てられ、其近傍に馬場をこしらえられました。今に之を院の馬場と称して居ります。
そして、慶安2年及び寛文4年5月及び同8年5月に当地に来臨せられた記録があります。かような関係がありましたから、寛文年間に和田の出崎に石堤を築かしめられたものと思われます。石堤の長さは百余間であります。「紀伊続風土記」巻59には波塘、広村の西出崎にあり、長120間中根敷20間、南龍公広村御殿御造営の時初めて築かせらる。

とあり、「南紀徳川氏」巻5には、

在田郡広浦、嘗屡有風浪之患、寛文中、公命築馬頭百余間、於是始免其患、民思其徳、建祠祀之。

と誌されてあります。

この石堤は舟がかりをよくするために築かれたもので、中々大がかりであります。然るに宝永の大海嘯には殆んど壊されました。

4、宝永4年の大海嘯
「宝永4年10月4日、大和、摂津、紀伊、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、紀伊、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、近江、長門、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊後、日向等の諸国、地大に震い、屋舎頑潰し人畜死傷するもの其数を知らず。続で海嘯大いに張り、土佐、伊予、阿波、豊後、日向、長門、摂津、伊勢、三河、遠江、伊豆等其害を被れり」と、「大日本地震史料」に誌されてあります。宝永山の一角に、宝永山が出来たのも此時のことでありますが、広村に於ける被害に就ては、当村の旧家、湯川藤之右衛門方の「宝永4亥年津浪并大変控」と題する旧記に詳しく載せられてあります。其損害は

1、家数   850軒(但シ宇田共) 内700軒流失、150軒禿家
1、土蔵、  90軒内70軒流失、20軒禿家
1、船数   12艘、流失
1、橋    3ヵ所流失
1、御蔵   2軒御納米2石4斗4升御納麦25石余流失
1、御高札  流失
1、御代官所  1ヵ所流失
1、御寄合所家蔵共  流失(但し郡中先年より諸帳面、諸手形共不残流失)
1、牢屋   1ヵ所大破損
1、死人  男女192人流失(但し10月14日迄相知れ候分)
1、牛1匹流失
1、右死人之内年比60才斗の女、金子5両、銀113匁、右懐中致し有之候。死がい土葬に致し、金銀は、広村庄屋肝前へ預け置候。右の外に出所相知れ不申、いづ方の者共見知無之死人男女百人有之、死がい土葬に致し札建置申候。


と誌されてあります。因みに近辺の村々の被害を出しますと、

湯浅は家数 563軒(流失293軒、禿家55軒、大破損は216軒。蔵66軒(30軒流失、禿家4軒、大破損32軒)。 御蔵2軒。船数76艘、網17帖流失。死人41人。牛2頭。橋3ヵ所の流失であります。
また西広は、家数68軒(流失49軒、大破損19軒)船1艘。御蔵1ヵ所。牛2頭の流失。
栖原は、家数17軒、流失2軒、禿家5軒、大破10軒で。別所は、家数3軒流失、死者1人。
唐尾は家数23軒、流失19、大破損3。蔵2軒。船1艘、網12帖、御蔵1ヵ所流失。
和田村は家1軒流失。
山本は家1軒大破損。橋1ヵ所、船1艘の流失でありました。

広と湯浅とは、何れもその損害は甚だしかった。 なかでも、広は最も甚だしき損害を受けたのであります。それがため、広、湯浅の800人ほどの被害者に、10月5日より14日迄、粥の施行を致しました。また19日より被害者に小屋入をさしましたが、広村では296人、湯浅には213人ありました。 この時の海嘯は広村の全部を漂没したといってもよい位でありまます。南龍公が、寛文年間に築かしめた和田の石堤も、この激しい海嘯のために崩解したのであります。

5、寛政の和田石堤修築
宝永の海嘯から受けた我が広村の災害は実に激しかった。海嘯のすぐ前たる亥9月の「家並判帳面」の記する処では、千86軒あったと云うことであるが、海嘯のため殆んど流失破壊しました。その後漸次に回復せられて4百軒ほどになりましたが、正徳年間から、関東へ出稼の網が繁昌したものでありますから、段々に殖えて6百軒ほどに増加しました。然るに延享年中より、関東筋の不漁が打続いたので、追々と衰微して、4百2、30軒となったようなことが、「広浦往古よりの成行覚」と云う書に見えて居ります。
この宝永の海嘯から、およそ75年を経過しました安永10年2月に、宝永の津波に破壊された和田の石堤の復旧工事が企てられ、其後、寛政5年4月6日から工事に着手し、享和2年9月迄、10ヵ年の日数をかけて成就しました。宝永4年からは96年目になります。この工事の模様に就いては、「広浦大波戸再築記録」と題する冊子が八幡社の宝庫の中に納められてあります。その書によって其の概略を述べることに致します。
この広浦波戸場再築工事の発起人は、飯沼若太夫であります。若太夫は、もと仁兵衛本教と申しました。安永8年12月朔日(48才)広浜方庄屋役を仰せ付けられ、其後五左衛門と改名し、天明5年6月5日(56才)湯浅組大庄屋役を仰せ付けられ、寛政2年(59才)には地士を仰せ付けられ、また平左衛門と改名、再び若太夫と改名致しました。
安永10年2月に波戸再築の願書を藩主に差出し、それより13年の後なる寛政5年に、第1期工事、長さ43間半、幅根起13間、天幅4間半、高2丈1尺3寸が出来、寛政9年に第2期工事、長さ20間、幅根起17、天幅4間半、高2丈が出来、享和2年に第3工事、長さ37間、幅根起20間、天幅4間半、高2丈4尺が出来ました。惣工費銀73貫310分3分3厘を要しました。飯沼若太夫は発起人ではありますが、其他にも、此工事に尽力した人は随分沢山あります。3期に亘る工事でありましたから寛政7年7月5日、寛政10年3月、享和2年11月の3回に、上様よりの御褒美がありましたが、その褒美を受けた人々の名を列挙すれば、尽力した人々の名も知ることでありますから、その名前と褒美の品目とをあげてみます。大庄屋飯沼若太夫は第1回第2回に金百疋宛、第3回には御勘定奉行直支配の地士となり、年頭御目見えの節、熨斗目着用を御免せられました。
また浜方庄屋湯川小兵衛は、第1回目に鳥目1メ5百匁。浜方庄屋崎山甚左衛門は、第2回目に鳥目1メ5百地方庄屋栗山長之右衛門は、第1回に1メ目、地方庄屋栗山嘉右衛門は、第2回に鳥目1メ、第3回に金百定。地方庄屋橋本十左衛門は第1、第2回に鳥目1メ宛、第3回に金百疋、浜方肝煎崎山喜兵衛は第1回に鳥目1メ、第2回に同1メ5百匁、第3回に金2百疋。木下屋嘉助、浜屋文助は第1回に鳥目1メ宛。 吉田屋五兵衛、阿波屋七兵衛は、第2回目1メ宛、第3回に同2メ宛、広問屋江戸屋半七は、第2回に鳥目2百文、第3回に同2メ。橋本与太夫、辻屋永助は第2回に鳥目1メ宛。播磨屋源兵衛は、第2回に鳥目5百匁、また小間物屋源助、浜屋庄三郎、酒屋七右衛門、綿屋藤助、五島屋長右衛門、船頭宋助、播磨屋源之右衛門、酒屋茂右衛門、綿屋藤助、橋本屋平助、片山屋三郎兵衛、五島屋忠右衛門は、第3回に鳥目2メ宛。其他第2回行賞の時、広商人惣仲買中へ鳥目3メ3百文の褒美を戴きました。
また、湯浅の方々からも大いに助勢せられたもので、湯浅船行司藪五郎右衛門は、第1回、第2回に鳥目1メ宛、第3回に金2百疋を、同岡屋吉兵衛は第1回に鳥目1メを。竹田屋吉助は第2回に鳥目5百文、第3回に同2メ、問屋秋田屋長左衛門、同大阪屋三郎兵衛は第2回に鳥目5百匁宛を。船頭兵太郎、善太郎、長右衛門、喜右衛門、吉兵衛、源七は第2回に鳥目2百文苑を、赤桐善太郎は第3回に鳥目2メを。湯浅百姓惣代清七、三右衛門、伊兵衛の3人へは鳥目5メ。同庄屋孫左衛門、儀右衛門、伊右衛門の3人へも鳥目5メを頂いております。
これらの人々を数えると、此工事に尽力したものはけだし数十人に及ぶ次第であります。以上の人々の尽力によって、頑丈な和田の石堤の大工事が出来上りました。因みに申します。明治6年7月の「明細取調御達帳」には、地方向波塘長25間、巾1間半、築高2間而続連陸地、文化年間建築と誌されてありまして、地方向波塘は文化年間の建造だとなっておりますが、これに関しては、他に何等の記録がありませんから詳細を知ることは出来ません。
この波塘は荷上げ場としての効用を発揮しました。往古は関東、西国行の船は、8月16日を以て、養源寺裏の堀から船出したものだそうでありますが、この波塘が出来てから、此処を船がかりにしたもので、この工事に力を入れたものは、五島通いの家々であったと云い伝えております。これについての記録が見つかりませんから確かなことは分かりません。また和田の石堤は、其後またまた破損したので、弘化4年6月及び10月、嘉永元年7月及9月、同4年9月等再3再4願書を以て修築を藩主に願い出て、備前の石工を傭い入れたことが、嘉永元年の6月の「大波戸御普請御用留」という記録に見えておりますが、国家多事の際とて、御許しがない中に、安政の海嘯に逢うたものらしくあります。

6、安政元年の大海嘯
安政元年 の海嘯とは,同年11月4日に畿内及び東海、東山2道の諸国、地大いに震い翌5日に南海、西海、山陽、山陰4道の諸国がまた大いに震い、この2大震に海潮暴溢し、淑海の諸国は夥しく災害を被った事実であります。
この海嘯の当地に関する記録としては、古田詠処の「安政聞録」小谷一郎政信の「築浪忘れ草」浜口梧陵の手記「安政元年海嘯の実況」などがありますから、これらによって其概要を述べることと致します。

嘉永7年(安政元年)6月15日、強震がありました。この強震は畿内及び伊勢、丹波、近江、越前、紀伊の諸国に及んだもので、広の地では、あたかも夏祭の夕暮でありましたが、村民は悉く戸外に逃げて、一夜を野天で明かしました。
その後誰云うとなく、本年は海嘯が来るという流言が盛んでありましたが、果たして11月4日4ツ時(午前10時)強震が起こりました。 この地震は6月の地震にも増して震い方が激しいので、海嘯が来ることを案じて、村民は何れも手廻りの大切な道具衣服などを抱えて悉く八幡山や、或は中野、金屋辺へ逃げて、2、30人の強壮なものが村内を警戒しておりました。翌5日は風なく波も穏かで、日光朦朧として、花曇りの空のようでありましたから、前日立退いた老幼のものも、安堵の思いをして各々家に帰りました。然るに7ツ時(午後4時)の日没近きころに大震動があって、その激しいことは前日の比べものではありません。瓦が飛び壁はくずれ、屏は倒れ、塵煙もうもうとして空を覆うのみならず、これと共にごうごうとして遠雷の如く、いんいんとして巨砲の連発するが如き響が来ました。
また村内の井戸は何れも枯れ、また、刈藻島の方に当りて1抱えもある火柱の立ったのを見たものもあります。
しかし潮勢はまだ何等の異変がなく、ただ西北の天が特に暗黒の色を帯び、陰々粛殺の気が天地を圧し、ただ事ならずと見えたので、浜口梧陵は壮者を励まして村民をして早く何れかに立退かしむるように昼力せられましたが、比時早く既に山の如き怒濤は陸上に押し寄せてきて、附近一帯は見るみる泥海と化し去りました。逃げおくれた者を馳り集め、早く避難せしめんと、梧陵はなお踏み止まっておりましたが、その中に逃ぐる限りのものは悉く逃げ去ったと見たので、最後に身を逃れんとした刹那、また激浪が来て一呑みにしようとしましたが、漸く1丘阜に達することが出来ました。
かくて日は何時しか暮れて真の闇となりましたので、逃げおくれた者を救はんがために、壮者を促して松火を点じ、別に田の畔に積んであった稲叢(すすき)に火を放ちて、暗夜に路を失える多数の避難民の危急を救いました。巨浪の押し寄せることは前後7回で、その中にも5番浪は最も激しかったと云うことであります。八幡山及び法蔵寺の境内に群がり集まれる避難民は千4百人にも上りました。梧陵は寺の貯蔵米を借り来って之を炊ぎ、避難民に1時の飢をしのがせましたが、それぐらいのものでは到底及ぶべくもないので、深夜中野村の庄屋で御蔵米を以て急を救わんことを交渉しました。庄屋等は御上の遺責を恐れて応じてくれませんから、梧陵は責を1身に引き受けて、年貢米50石を借り来って避難民の飢を救うことが出来ました。
この震災による広村の被害は、家屋流失125軒、全潰10軒、半潰46軒、汐入大小破損の家屋が158軒、総計339軒で、村中害を被らない家は1軒もありませなんだ。また流死人は、男12人、女18人、其他小児6名で、総計36名、船13艘流失、6艘破損、網4帖流失、橋3ヵ所流失、御蔵2戸前、高札場も流失、田地は、田32町9段、畑3町7反、新田6反7畝、屋敷2反4畝の流失でありました。
6日、7日は余震止まず、人々は唯目前の天災を嘆ずるばかりで、災後の処理に着手するものがないのみか、其間にあって利に敏き者は、遺流品を盗まうとする者がありまして、人々は陶々として安堵せないので、梧陵は仮小屋の建設、救助米下附の請願、遺流品の監護等について、村役員と相はかりて、日夜災後の始末に従事しました。
8日になって震動は漸く軽徴となりましたから、村民もやや安心して銘々の旧宅に帰らうとしましたが、遺流品は何家のものとも分からぬようになって、その始末に困ずるのみか、種々のいさかいも出来ますから、梧陵は又もや、なるべく相侵さないよう諭して整理尽力し、浜口吉右衛門(東江)と相談して、浜口両家は玄米2百俵づつを出し、その他34軒の有志から玄米256、7俵を得て応急の救護にあてました。

7、広村大防波堤の築造

海嘯襲来の後、広村は困憊の極に達し、一村は殆んど離散し去らんとする悲惨なる有様でありました。延享、宝暦のころは430軒もあった広村の戸数は、関東筋西国筋出稼の打続く不漁のため、漸々減少して安政海嘯の直前には340軒前後となっておったのでありますが、この海嘯のため、海浜の田畑は悉く土砂に蔽はれて耕するに由なく、漁夫も舟と漁具とを失うて明日の生計を立てることが出来ません。住民は行末を案じて移住を企て、或は他村の親戚知巳を頼りて日1日と離散するのみでありました。
梧陵はこの有様をみて、切に被害民を救済する必要を感じ、家なき者のためには住宅を建築し、漁夫のためには舟と漁具とを買い与え、農夫には荒廃せる田畑を改修せしむるなど殆んど我を忘れて、之が救済に従事し、安政2年正月から翌3年正月までに、家屋50軒を新築し、極貧者には無料で住まわせ、多少の資力を有せる者には十ヵ年の年賦にて貸し与え、農民には農具を給して家に応じて分配し、商人には身分に応じて資本を貸し与えて、自立の途を立てしめました。
これと共に広村をして永久に、海嘯から免れしむるには堅固なる堤防を築くの必要を認められて、浜口吉右衛門(東江)と相はかって、防波堤工事を起こすべく、安政2年正月、官に向かって其の允許を請われました。
広村の海岸には古来より、畠山氏が築いた石堤がありましたが、高さ1間半あまりで、大海嘯の時には潮水がこれを超して用をなさなかったのであります。それで海嘯の時の潮の高さを顧慮して、石垣の背後に更に高さ2間半、根幅11間、天幅4間、長さ5百間の大防波堤を築造せんと企てました。そして間もなく官許を得ましたので、安政2年2月から工事に着手しました。何時までも救助米を与う知きは、徒らに依頼心を起こさしむるのみでありますから、大防波堤の修築工事によって、生産的に窮民を救済し、広村を安全地帯たらしむるべく努力せられました。村民の喜びは1方ならず、災後生計に困難なる者が之によって、蘇生し、離散を思い止まるようになりましたため、戸数もあまり減らずに済みました。そして、農繁期には工事を中止し、安政5年12月まで工事は続けられました。初め築堤は延長5百間で広川堤まで迂回せしめる予定でありましたが、国家多事のため、予定の計画に達することが出来ず、370間に止めました。この工事の延人員は5万6千736工で、その費用は銀94メ344匁を要したということであります。
また、防波堤の完成と同時に、土堤の外面の堤脚に松樹数百株を栽え、土堤の内面及び堤上にハゼ樹数百株を栽えました。今後たとえこの堤を越すような巨浪が来ましても、その浪の猛勢をこの松並木によって大丈夫防ぐことが出来ることと思います。因みに申します。この松樹は樹齢凡そ2、30年のものを山から持ち来って植えたもので、それを植えるに当たり、梧陵の注意により、山にあって生長した枝振の方位の通りに植えましたので、1本も枯れるものがなく、よく育って今日の繁茂を見るに至ったものであるということであります。

8、其後の営繕と施設
広村の大防波堤が出来てから年々11月5日を期して、海嘯の祭事を修し、また同日早期土砂を大人は2荷、中人は3荷ずつ運んで、防波堤の破損せる箇所を営繕し来ったのでありますが、何時のころか土砂を運ぶことはすたれてしまいました。明治4年5月に至り、また和田の石堤の修築を企てましたとみえ、岩崎明岳が下書して、浜口東江がその文面で結構であるというような書面を添えた「波戸普請願書案文」がなお残っております。併し国家多事の際でありますからこれは出願にも及ばずして止んだものらしくあります。
先に述べました大防波堤の外側に植えました松樹は、その後年々繁茂しまして、今では、高く高くそびえて天に沖するような大木となって居ります。和歌山県森林法施行細則によりまして、明治37年9月7日、天州の浜、中ノ町、及び湊にわたる一帯の松樹は保安林に指定されました。
次に、さきに述べました地方向波席は、広港の波浪を防ぐに十分でないという意見で、大正7年から和歌山県の事業としてそれに継ぎ足すべく沈石をしたのでありますが、経費の都合で未完成になって居ります。また、大防波堤の1部である上市場の切口は交通の上から切り開かれているのは便利ではありますが、それでは万一の場合、此処から海潮が流れ込んで折角の防波堤も用をなさないのみならず、或はここから壊れるような心配もありますから、大正15年7月11日の村会の議決によって、鉄門を設けて海嘯などの場合は、その鉄扉を鎖ざして、海潮を防ぎ得るような設備を致しました。
以上述べ来たった如く、古来から幾多の人々は、わが広村のために海嘯の災を逃れしむべく、幾多の施設をせられたのであります。
私共はまず第1にその恩徳を感謝せねばなりませぬ。つきましては昭和8年5月、有志の間にその話があって、同月24日の村会にはかり、感恩碑を建築することになりまして、寄附金の募集にかかりました。ところが皆様から多大なる賛助を得まして、沢山な寄附金が集まりました。
それで岩崎勝、浜口恵璋、佐々木秀雄の3氏に史蹟調査を御依頼し、題額は当地に因縁のある陸軍大臣荒木貞夫閣下の御者を請い、撰文は不肖浜口恵璋これに当たり、寧楽書道会会長辻本勝巳氏の潤筆を煩らわせ、刻文は川合侑斉の刀法によって出来たのであります。震災海嘯はまた何時来るかも測れませぬが、先賢が遺しおかれた跡を十分に愛護して、たとえ災害が来ても十分に防がれ得るよう、平素から注意しておらねばなりません。それに就いては、なお幾多の施設と工夫とを要することと考えられます(了)

広村海嘯関係古文書目録 1、宝永4亥年津浪並大変控  湯川藤之右衛門藏


1、築浪忘れ草  山本、白木コ兵衛藏
1、別本築浪忘れ草  安潔寺藏
1、波戸普請願書案文  広村役場藏
1、明細取調御達帳明治6年7月  仝
1、広浦大波戸再築記録  広八幡神社藏
1、御代官文書  大阪、広浦竹次郎藏
1、広浦往古より成行覚  広村役場藏
1、大波戸御普請御用留  仝
1、安政元年海嘯の実況  浜口儀兵衛藏
1、海面王大土堤新築原由  仝
1、安政聞録附囚一名如夢話  養源寺藏

感恩碑の由来
昭和8年12月5日 発行
編纂者  浜口 惠璋
感恩碑建設発起人想代
発行者 戸田保太郎
(附記 感恩碑の碑文は、別項にあげておいたので参照されたい。)



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梧陵手記

安政元年海嘯の実況  浜口梧陵手記


嘉永7年寅11月4日4ツ時(午前10時)強震す。震止みて後直ちに海岸に馳せ行き海面を眺むるに、波動く模様常ならず、海水忽ちに増し、忽ちに減ずる事6、7尺、潮流の衝突は大阜頭の先に当り、黒き高浪を現出す。
其状実に怖るべし。
伝へ聞く、大震の後往々海嘯の襲ひ来るありと。依って村民一統を警戒し、家財の大半を高所に運ばせ、老幼婦女を氏神八幡境内に立ち退かしめ、強壮気丈の者を引き連れて再び海辺に至れば、潮の強揺依然として、打ち寄する浪は大阜頭を没し、碇泊の小舟岩石に触れ、或は破れ覆るものあるを見る。斯くて夕刻に及び、潮勢反って其力を減し、夜に入って常に復す。然れども民家の10中8、9は空家なるを以て、盗難火災を戒めんが為、強壮の者30余名を3分し、終夜村内或は海辺を巡視せしめ、且つ立退の老幼婦女に粥を分与し、僅かに1夜の糧に充てしむ。
5日。曇天風なく稍暖を覚え、日光朦朧として所謂花雲の空を呈すと雖も、海面は別に異状もなかりしかば、前日立退きたる老幼茲に安堵の思をなし、各々家に帰り、自他の無異を喜び、子が住所を訪ひ前日の労を謝する者相次ぎ、対話に時を移せり。
午後村民2名馳せ来り、井水の非常に減少せるを告ぐ。予之に由りて地異の将に起らん事を罹る。果して7ツ時ごろ(午後4時)に至り大震動あり、其の激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵空を蓋ふ。遙に西南の天を望めば、黒白の妖雲片々たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直に家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当りて巨砲の連発するが如き響をなす。数回。依って歩を海辺に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに人気の安んずるの進なく、見る見る天容暗、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於て心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るるものを扶け、与に難を避けしめる1刹那、怒濤早くも民屋を襲ふと呼ぶものあり、予も疾走の中左の方広川筋を顧れば、激浪は既に数町の川上に湖り、右方を見れば人家の崩れ流るる音漠然として膽を寒からしむ。
瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮び、辛じて1兵陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流さるるあり。
或は流材に身を憑せ命を全うするものあり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一亘八幡境内に退き見れば、幸に難を避けて茲に集る老若男女今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を捜し、兄第相呼び、恰も鼎の沸くが如し。各自に就き之を慰むるの逞なく只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。勿々辞して再び八幡鳥居際に来るころ日全く暮れたり。是に於て松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流家の梁柱散乱の中を越え行、助命者数名に遇へり。なお進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲村に火を放たしむるもの十余、以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す。此計空しからず、之に頼りて万死に一生を得たるもの少からず。斯くて1本松に引取りしころ轟然として激浪来り、前に火を点ぜし稲村浪に漂ひ流るるの状観るものをして転た天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後4回に及ぶと雖も、蓋し此時を以て最とす。夫より隣村の某寺院に至り、住僧に談じ貯ふる処の米穀を借り入れ、直ちに之を焚きて握り飯となし、八幡境内其他各所の避難所に配賦し、僅かに窮民の飢餓に充つ。然れども限りあるの米殺を以て数日を支ふる能はざるを察し、深夜馳せて隣村の里正某を叩き、情を告げて蔵米50石を借り受け、翌日の備準をなす。
6日、風静かなり、東方の白むを待ち、八幡鳥居際より全村を望み、被害の度、夜来の想像より稍軽少なるを知れり。然れども漁舟の覆りたるあり、樹木の根より抜かれたるあり、又田面には屋材家具の流散するあり。行々人家に近づけば流材の堆積愈々甚しく鳶口を杖して其上を踏み越え、海浜に出でて眺むれば、潮水漣波なくして油を流したるが如く、平素に異なり。而して其間に漂舟流材は汚物と混じて浮べるを見る。海岸に沿うて西に行けば、人家は概ね流失又は崩壊して、唯23の旧態を存するあるのみ。、幾百の人烟一夕潮流の掃蕩する所となる。人生の悲惨茲に至りて極れりと謂ふべし。
長嘆未だ半ならず、強震突如として来る。予驚いて倉皇高地に向って疾走し、遂に被害地の視察を終らずして避難所に帰り、施米焚出の事を見る。抑も八幡境内と隣村の1寺内とを以て避難所に充つると雖も、唯地上に畳を並べ、戸障子を以て之を囲いたる露宿に過ぎず。老幼の内に漸く膝を支るの憂苦離散の実は人をして断腸せしむるに余りあり。殺身済仁は平素志士の振腕して講ずる処、唯か側隠の情を奪起せざるものあらんや。 避難所は斯かる体裁にして、到底雨露を凌ぐ事態はざるを以て、再び隣村の里正に至り、仮小屋建設の件を依頼し、其の承諾を得たり。朝来震動再三に及び、且つ西南に当りて地響する事数回、為に流民は神気休むるに進なく、人心動揺して百事緒に就くを得ず。故に此際専ら人心慰励に奔走し、傍ら炊事を督す。本夕藩吏某来り該窮民賑済の事に及ぶ。又救米下附の願書を起草す。此夜始めて高地に非常番を置き、明日の部署を定め、次で暁に至る。
7日。町内を普く巡視するに、被害最も甚しきは前日視察を遂げたる西の町と浜町なれど、中町田町の街路に於ても往々流失家屋を発見せり。而して流失せざるものと雖も概ね大破ならざるなく、処々に大材或は漁舟の道路を塞けるあり。以て当時波濤の如何に劇烈なりしかを察すべし。
此日も人心の動揺は依然として静まらず、之に加ふるに海嘯再襲の流言を以てす。此時に当ってや平日剛勇を以て誇るものも怯備となり、怪貧なる者も寡欲となり、唯目前の天災を嘆ずるのみにして、災後の処理に著手することを知らず。予は此間にありて東奔西走、或は諭し或は励す前日の如し。然れども利に敏き輩は漸く我に帰り、流失品の拾集に出づる者あり、且つ山辺の村民来りて流失品を盗む者ありとの風説を耳にしたるより、警保として村の要路に張番を設けたるも、微震ある毎に番人の逃れ帰るには殆んど困却せり。
8日。村民少しく危懼の度を減じ、避難所より自宅に帰り、災後の始末に著手せんとするものあり。然れども家屋の全きもの極めて稀にして、柱傾き壁落ち、家財は大半流失して、殆ど己の家たる弁ずるに苦めり。就中小民に至りては、住家の破損と共に素より多からざる家財農具を流失し、一朝にして挙家生計の道を失ひて、茫然として為す所を知らず、茲に漸く離散の念を懐くに至れり。
本日初めて村役員を召集し、旧僕某の家を以て仮役所に充て、日夜事務を執り訴を聴き、人夫配布其他の指揮をなせり。然れども握飯は猶避難所に於て焚出し、予及び村吏と雖も此握飯を得て僅かに腹を満せる次第なりき。
予は流民救助として玄米2百俵を寄附する旨を掲示し、以て有志家に向って先例を置けり。是に於て本村並に隣村湯浅の資産家続続米銭を寄附し来り、細民稍愁眉を開き得たり。
本日に至り震動漸く軽微となり、海嘯再来の虞も全く村民の脳裡を去りたるを以て、流遺の物品を拾集する者頓に増加し、自他の別なく之を収得するが為に、往々其間に不正の行はるるを察し、各所に吏員を派し、強凌弱の害なからん事を図る。然れども事情素より平日と異るものあるを以て、臨機の法を用ひ、煩を去り簡に就く、要は平常に帰するにありしなり。事の混雑は是に止まらず、村民所持の米俵は素より、本年年貢米の民家にあるもの、並に本村蔵米に至るまで、今回の天災に罹り村内野中に流散するもの多し。依って第1着手として其拾集を命じ、蔵米は田野各所に推積し、日夜番人を附して之を守り、各自の年貢米を検査の上封印をなし、各所有主へ交付し、更に之を其家宅に運ばしむ。

前段既に述ぶるが如く、窮民は概ね家財を流失し、日を経て之を拾集するも十が1も得る所なく、平素些少の蓄蔵ありたる者も日々業を失ひ、朝夕炊想を立つる事能はざるの悲境に陥れり。依って毎日是等の輩を使用して散乱の俵物を拾集せしめ、或は道路を開通せしめ、或は番人とし僅に糊口の道を与えたり。
町内の道路3回の修理掃除によって始めて旧に復するを得たり。又拾集の梁柱竹木瓦数は各所に積上げ番号を付し、後日に至り入札を以て売却し、その所得金を村民家屋の建坪に割賦して之を分配せり。然れども斯くの如く整理するまで幾多の日子を費したりと知るべし。

被害の概略
1、家屋流失       125軒
1、家屋全潰          10軒
1、家屋半潰        46軒
1、汐込大小破損の家屋  158軒
   合計       339軒
1、流死人  30人(男12人、女18人)
(以上)

【注 追加 浜口梧陵手記  現代語訳】

嘉永7年寅11月4日 (1854年12月23日)
  午前10時頃、強い地震が起こった。地震がおさまった後すぐに海岸に様子を見に行ったが、波の動きが普通ではなかった。
  海水がたちまち押し寄せ、また引いていき、その差は2mほどであった。潮の流れは大埠頭の先に当たり、黒い高波を呈していた。その様子は実に怖るべきものであった。
  昔からの言い伝えで、大地震の後しばしば津波が襲来することがあると。そのため村人達に警告を伝え、家財の大半を高いところに運ばせ、老幼婦女を中野の八幡境内に立ち退かせた。
  健康で気性がしっかりした人々を引き連れて、再び海に来れば、潮の揺れは大きく、打ち寄せる波は大埠頭を乗り越え、碇泊中の小舟に岩石が当たり、壊れ倒れているものもあった。
  しばらくして夕方になり、潮の勢いは衰え、夜に入って元のようになった。しかし民家の多くは空き家になったので、盗難や火災の危険から守るために、30余名を3つの班に分け、村内や海辺を巡視させ、避難した人々に粥を分け与え、一夜の糧とした。

嘉永7年11月5日 (1854年12月24日)
  空は曇り風はなく、やや暖かさを感じ、日の光はおぼろげで、いわゆる(春の)花曇りのようであった。海面は異常もなく、前日に避難した人々もこれにより安心した。
  各自、家に帰り、ともに無事であったことを喜んだ。私を訪ねてきて、前日の御礼を述べるものが相次いで来られ、話に時が費やされた。
  午後村の人2名が急ぎ来て、井戸水が非常に少なくなっていることを知らせてくれた。
  私はこれを知ると、再び異変が起こるのではないかと怖れた。
  果たして午後4時頃、大地震が起こった。その激烈なことは前日より遙かに大きかった。
  瓦が飛び、壁は崩れ、塀は倒れ、塵埃が空を覆い、遠く西南の空を望めば、黒と白の妖しい雲の間から、金色の光が発し、あたかも何か異類のものが飛行しているのではないかと思われた。
  しばらくして地震は収まったが、(津波の襲来を恐れ)、直ちに家族に避難を勧め、自分は村内を見回りにいくと、西南の方から巨砲が連発するような音響が数回聞こえた。
  それで浜辺に行き、沖を眺めれば、潮の流れに変化はなかったが、ただ西北の空が特に暗黒の色を帯、あたかも長い堤防を築いているようであった。
  安心するいとまもなく、見る見るうちに空模様は暗くなり、陰鬱とした殺気を覚え災いが近いことを察した。
  ここにおいて、心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。
  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。
  各自に慰める方法もなく、ただ「私は助かってここにあります。皆安心して下さい。」と大声で叫び続け、去って家族の避難所に行き身の安全を知らせた。
  しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。
  津波の襲来は前後4回に及んだが、この時が最大であった。
 隣村の寺に行き、住職からお米を提供してもらい、炊いて握り飯を作り、八幡の境内に避難している人々をはじめ各地に散っている人々に配った。しかし米穀は限りがあり、数日しか支えられないので、深夜近隣の里正(庄屋あるいは村長)を訪ね、蔵米50石(約7500kg)を借り、翌日からの備えとした。

6日 風が静かになり、東方が明るくなるのを待って、八幡の鳥居から全村を望む。被害の程度は、思ったより少ないようだが、漁船が倒れ、樹木が引き抜かれ、田には屋材や家具が流れ来ている。
人家に近づけば、流材の堆積が甚だしく、鳶を杖にしてその上を超えて進み、海面を見れば、油を流したように静かで平素とは異なっている。しかしその上を流船や流材が漂い汚物と混じっている。海岸に沿って西に行けば、人家はおおむね流出または崩壊している。残っているのはごくわずかであった。
幾百もの人々が波によってさらわれてしまった。人生の悲惨がここに極まったと言えるであろう。
悲嘆に暮れていたとき、再び強い揺れが襲ってきた。驚いて高台に逃げ、被害地の視察を終えることなく、避難所に帰り、炊き出しの様子を見守った。
八幡の境内と近隣のお寺を避難所に当てているが、ただ地面に畳を並べ、戸や障子をもって囲んだに過ぎない。年老いて、又幼少の時にこのような苦難に遭うとは、断腸の思いである。身を捨て、人を救う志を持つことは勇者の特質である。そのため人々のために立ち上がることにした。避難所はこのような有様であるので、とうてい雨露をしのぐことが出来ない。再び隣村の里正に仮小屋建設の許可を願い出て了承を頂いた。再三再四地震が生じ、西南から地響きがするので、人々は心安まることが出来なかった。物事が進まないので、人心を落ち着くように励まし、炊事も監督した。
夕方役人がやってきたので、人々を救うための方策を話し合い、救済米を援助していただけるようにお願いをした。この夜から高地に非常番を置き、明日の部署を決め、朝に至った。

7日 町内をあまねく巡視すると、被害が最も激しかったのは西の町と浜町であった。しかし、中町や田町の街路でも流失家屋があり、流失していないとしても、大半は大破していた。大材や漁舟によって道路が塞がれていた。これによってもいかに津波が激しかったが分かる。
この日も人心の動揺は収まってはいない。さらに再び津波が来襲するのではないかという噂が流れている。日頃剛勇の人も消沈し、意欲の強い人も意欲を失い、ただ嘆くばかりで処理に着手しなかった。
私は東奔西走し、人々を励ました。利にさとい者は我に返り、流出品を採集し、又近隣から流出品を盗むものありとの報を受け、警備として幾人かを配置したが、地震が起きる度に逃げ帰ってきたので閉口した。

8日 村民も少し恐れが少なくなったので避難所より自宅に帰り、後始末にかかろうとする人々も現れた。しかし家屋に損壊がないものは皆無に近く、柱は傾き、壁は落ち、家財は流出し,家とは言えない状態であった。小民においては、家が破損し、家財、農具等流出し、一朝にして生計の道が断たれ、呆然としてどのようにしていけば良いか途方に暮れてしまい、離散も止むおえないと考えるようになった。
本日初めて村役員を集め、ある家を仮役所として、日夜事務を行い訴えを聞き、人員の配置など指揮を執った。握り飯は避難所において炊き出し、わずかであったが食にあずかれた。
私は流民を救うために玄米200俵を寄付することを申し出、有志家の先例となした。この結果広村、隣りの湯浅の資産家が続々と米銭を寄付して下さり、人々は助けられた。
本日より地震活動も収まり、津波の襲来の恐れも脳裏から消えたので、流出した物品を収集する人々が増加した。しかし自他別なく収集するので、不正が生じたので係員を派遣し、不公正が行われないようにした。事情が事情だけに、臨機応変とし、目的は平常に戻すのにあるので簡明を旨とした。
村民所持の米俵をはじめ、年貢米、並びに本村の蔵米に至るまで津波のために流出してしまった。
そのため第一段階として、米俵の収集を命じ、蔵米は各所に堆積し、番人を置きこれを守った。各自の年貢米は検査の上、封印し、各所有者へ戻した。

前にも述べたように、人々は大半の家財を失い、収集に当たるも、得るものは少なかった。平素は蓄えのあるものも日々の生業を失い、朝夕炊飯することさえ出来ないような悲境に陥った。そのためそれらの人々に散乱している流出品を集めてもらったり、道路を開通するための人夫として雇い、また番人として雇い、日々の糧を得られるようにした。
町内の道路は3回の修理と掃除によって元に戻すことが出来た。また収集した木材や瓦を積み上げ、番号を振り、後日入札で売却し、その所得を家屋の建坪に比例して分配した。しかし整理が終わるまで多くの日数を費やしたのは当然である。



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実録 稲むらの火


  「稲むらの火」の教方に就て  今村 明恒
はしがき
尋常小学第5学年用国語読本巻10第10課に「稲むらの火」という文が載せてあるのは周知の事実である。日没前後の2、3時間内に起こった事件を其の推移のままに簡潔に綴った叙事文であるが、其の内容は五兵衛という老人が自己の財産を犠牲にして4百人の村民の生命を救ったといふ感銘すべき物語である。事倉卒に属し、村と村人とは将に大津波に一呑みにされようとする危険が目睫に迫っているのに、彼等は之を気づかずにいる。他の方法では救われない、彼は断然決意して、自家の稲叢に放火したのである。山寺は早鐘を撞く、まず馳けつけたのが壮丁で、之に続くは老幼婦女子、人々は気ちがいじみた荘屋の行動と、海面とを見較べ、事の推移に依って始めて真相を掴むことが出来、期せずして老人の前に跪き彼を拝んだのであった。此の間五兵衛の終始緊張した気分は其のまま紙面に躍出で、一言半句の緩みなく描き出されている。1面には文学的価値の高い作品であり、他方、志士仁人は身を殺しても仁を成すことあるを教へる一大文章だと謂はねばならぬ。
此の1篇は、単に上記の2特色を注意して講ずるだけでも教科としての価値は十分であろう。併し乍ら、若しそれに添えるに、此の物語の出典と実話とを以てしたならば、効果は更に倍施すべく、教方の如何によっては児童をして終生忘れ難い感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい。
我が震災予防評議会は此の後の点につき多大な関心を有ち、本教科の教方の実況を、曽て津波に悩まされたことのある地方に就て調べて見たが、其の結果は余り思わしくなかった。即ち最初に記した2特色を無視するやうなものは皆無であったとはいえ、後に挙げた2点即ち物語の出典と実話とを加味するやうな教方は、吾々の乏しい経験に関する限り、遂に殆んど之に接することが出来なかった。これは寧ろ当然のことかも知れぬ、といふのは、教師方の身辺に近く適当な参考書がないからのことである。但し所謂参考書なるものが絶対に無かった訳ではない。或る小学校には馬渕冷佐氏著尋常科用小学読方教育書(東洋図書会社出版定価参円)が備附けてあった。
恐らく国語教育学会編小学国語読本総合研究(岩波書店出版、巻10上冊定価8銭)のある学校もあるであろう。

唯吾々はそれをよく利用して居られる方に接触しなかっただけである。斯うい小事情の下に於て震災予防評議会が執った手段は、会自身で然るべき小冊子を作り、之を要所に領布しようではないかといふことであった。そうして余は其の小冊子の原稿作成方を命ぜられたのである。
原文並にその註順序として先づ原文を掲げる、蛇足とは思ったが、随処に若干の字句の註釈(括弧内)を加えて置いた。
「これは、ただ事でない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。
しかし、長いゆったりとした揺れ方と、うなるような地鳴り(大地を伝わって来る音、此の音は1旦空気に伝わってから人に感じる)とは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した(家が台地にあることが、説明を加えずしてよくわかる)。
村では、豊年を祝うよい祭(宵祭、夜宮又は宵宮ともいう、本祭の前夜の祭)の支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまった(目を動かさずに、じいっと視つめたことを強く言ったのである)。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現われて来た(斯様な海水の異常干退は津浪の先駆なので、風向とは無関係なものである)。
「大変だ、津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、4百の命(4百は村民の人口に当る、或は戸数の積りかも知れぬ)が、村もろ共(村と人命と共に全部)1のみ(1番)にやられてしまふ、もう1刻も猶予は出来ない。

「よし」と叫んで(僅か2字、断然たる決意の強さが表現されている)、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明りを持って飛出して来た。そこには、取入れるばかりになっている(稲から実をこき取って倉の中に取入れるばかりになっている)たくさんの稲束(いなつか)が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むら(いなむら、稲束を積重ねたもの、通常丸小屋の形に積む)の1つに火を移した。風にあふられて(アオられてと発音する) 火の手(火の燃えあがって立つ炎)がぱっと上った。1つ又1つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突立ったまま、沖の方を眺めていた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した(釣鐘を急調子で撞き始めた。火災などの時の鐘の撞きかたである)。
「火事だ、荘屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も若者の後を追うようにかけ出した。高台から見下している五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように(誇張法を用いて書いたもの)、 もどかしく思われた。やっと20人程の若者が、かけ上って来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ……大変だ (先急の際だ、悠長に説明なんかしては居られぬ。訳があるのだ、消すな、消すなといふよな意味が、此の2句で叫び出されている) 村中の人に来てもらうんだ」。村中の人は、追々集って来た、五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を1人1人数えた。集まって来た人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ、やって来たぞ」たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を1同は見た。遠く海の端に、細い、暗い(細く暗いと1つに纏めるよりも、細い、暗い、と離す方がはっきり印象つけられる言い方)、1筋の線が見えた。
の線は見る見る太くなった。広くなった(此処にも同じ筆法が用いてある)非常な速さで押寄せて来た。
「津波だ」と、誰かが叫んだ、海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思ふと、山がのしかかって(伸びあがって、おっかぶさるようにやってくること)来たような重さと、百雷の1時に落ちたようなとどろきとを以て、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、1時何物も見えなかった。
人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐しい海を見た。 (波とはいわずに海といったのは自然に適っている、地震津波は海が陸地への移動なのである。怒濤といえば風津浪の特色になるので、地震津浪には言わぬ)2度3度、村の上を海は進み又退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村(えぐり取られたとある為に、目を遮る何物もないのとは違って、処々に大きな樹木など立ったまま取残されていそうに感じられる) を、ただあきれて(ひどく驚いて、ものも言えずに)見下していた。 稲むらの火は、風にあふられて又も之上り、 夕やみに包まれたあたりを明るくした(今1度、稲むらの火を呼び起して、村民の心に活を入れたので、併せて諸者にもほっとさせる) 始めて我にかえった村人(今まで無中であったことが知られる)は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった(跪いたのは崇敬の極地)。
出典「稲むらの火」は小泉八雲の選んだ「生ける神」の抜幸である。此の「生ける神」には、後日、村民が五兵衛を敬慕の余り、当時猶生存していた彼を、神として祀ったことまで語られているのであるが、国語読本は此の後の部分を省略した為、本篇の通りに改題せざるを得なくなったのであろう。小泉八雲とは世界的文豪ラフカヂオ・ハーンのことである。ハーンは日本を愛し、日本のローマンスを愛し、大和民族の美しきかずかずの物語を綴る為に、殆んど其の一生を之に棒げた人、此の点に於てハーンは我が日本の恩人である。彼の父は愛蘭人である。彼は母の生国希臘に生れ、英仏で学んで北米に遊び、後日本に移住して日本婦人を娶り、帰化して名を小泉八雲と改め、日本を謳える文学界の第1人者として其の名声を世界に馳せた後、遂に日本の土となって逝ったのである。
彼が西紀1897年に著はした「仏陀の畑の落穂拾い」の冒頭に現われて来る文章「生ける神」は即ち本篇に取扱っている「稲むらの火」の原文である。ハーンの此の「生ける神」といふ物語は、安政元年11月5日紀州沿岸に襲来した大津浪に際し、浜口儀兵衛が村民を救ふ為に献身的に努力した実話に基づいたものであるが、物語と実話との間には多少の相違がある。此は話が次々に伝わる間に次第に事実と遠ざかって行く関係にも基因したであろうが、著者が自己の作品を一層芸術的ならしむる為に故らに事実を誇張したり、或は否めたりしたことが全然無いとは言えない。
例えば「生ける神」の方に有って「稲むらの火」には現われない事項の中に、事件を百余年前(実際は出版年次1897年を遡ること43年)としたるが如き、又村民が生ける五兵衛を神として祀った(神社建立の企あるを聞いて、儀兵衛は其の実行を中止せしめた)が如き、是である。其の他「稲むらの火」に就て、事実と遠ざかった部分を摘録して見ると、次の諸点があげられる。
1、五兵衛といふ人物、浜口という姓は「生ける神」の方にも正しく出ているが、五兵衛は儀兵衛でなければならぬ。浜口家は土地の豪族ではあるが、荘屋ではなく、又老人となっているけれど、当時儀兵衛は35才の働き盛りであった。

2、物語内の地震は別に烈しいという程のものにはなっていないけれども、実際は相当に烈しくて、界隈に潰れ家も生じた位であった。
3、五兵衛の家は台地にあることになっているけれども、実際は低い平地の聚落の中にあった。
4、村の人口は4百ではなく千4百であった、一層正確に言えば1323であった。
5、稲叢に放火したのは事実だが、稲叢の場所や所有者と放火の動機とが相違している。特に実を採った後の藁だけの稲叢であったらしい。
斯様な詮議立をすると、作品の価値に対して疑惑を起こす人があるかも知れぬ、併し物語の文学的価値は、事実とはさ程の関係は無いものであって、寧ろ事実を多少歪めたために其の価値を高めた節があるともいえよう。
或は又、五兵衛の崇高な行為に対する尊敬の念が薄らぐように懸念する人があるかも知れぬが、併し事実は物語よりも更に奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動は一層崇高で、英雄的で、献身的で、波瀾に富んでいる。之を要するに、ハーンは儀兵衛の偉大さの片鱗しか伝えなかったと云える。実話の1読を要する所以である。

実話その1 安政津波
安政年間、我国は5回の大地震に見舞われた。その中、最初の3回は本物語の舞台である紀州有田郡広村に於ても大地震として感じた。
第1は安政元年6月15日の伊賀、伊勢、大和大地震、第2は同年11月4日東海道沖大地震津浪、第3は、同11月5日南海道沖大地震津浪である。斯くて此の第3の大津浪は、広村にとり、必ずしも不意打ではなかったのである。元来、津浪には地震津浪と風津浪との区別があり、別に、支那銭塘江等の川口に於て大潮のころに起こる海嘯といふのもある。風津浪は或は高潮とも云い、之に対して地震津浪を単に津波とも呼んでいる。両つ乍ら海水が陸上に張り溢れる点に於ては同じであるが、その原因と海水派溢の緩急、大小とに於て著しい相違がある。津浪は主に海底に於ける大規模の地変に基づき、高潮は著しい気圧低下や風力等の気象異常に因て起こる。
高潮の場合には浸水の高さは平水上数順に過ぎないが、津浪の場合は数十に達することもある。高潮は低気圧の中心の移動に件って増水し、その通過後次第に減水する関係上海水の張溢は概して1回に止まり、潮の差引も比較的に緩慢であるが、津浪は海水の1体としての振動なる為、潮の差引は稍急に且つ幾度も繰返され、その週期は数十分或は1、2時間にも達することがある。津浪の高さは外洋では余り大きくなく、僅に数原に過ぎないけれども、浅海に近づくに従ひ、又漏斗形の港湾に侵入するとき、高さは次第に増大して、その数倍又は数十倍にもなるのである。津波或は津浪と呼ばれる所以である。
安政元年11月5日南海道沿岸を襲った津波は、発生の場処が潮岬や室戸岬の沖合百キロ内外の辺にあったのである。地震津浪の特徴として、まずその処 の海底の広い区域に上下変動が起こったのであろう。それが1方では大地震となって1、2分間で陸地に波及し、他方、その区域の直上に於て海水面の狂いが起こって、それが津浪として数十分乃至1、2時間かかって海岸に押寄せたと解される。斯様な場合の地震の性質としては、陸上では相緩慢な大揺れとなり、比較的長く続く特徴を具えている。此時、広村では反飛び、壁崩れ、塀倒れ (梧陵手記)たといい、その南東方約40にある田辺町では全町の3分の1程潰れ、大火災を起こした。
広村では大地震を感じたのが午後5時ごろであって、それから津浪の襲来するまでに凡そ1時間はかかったろう。
その間に、沖の方に遠雷か或は巨砲を連発するような響を聞くこと数回(此中には最初の地震に伴って生じた音があるかも知れぬが、寧ろ全部が、陸地或は浅瀬に来た津浪の波浪に因って生じた音であると解したい)。
そうして往々経験される通り、海水の小干退が始まったかも知れぬが、併しそれは確認されていない。但し「生ける神」にはその事が書かれていること上記の通りであるが、これはハーンが明治29年3陸大津浪によりその示唆を得たものらしい、凡て此の事に限らず、津浪の大きさに比べて、地震の軽かったこと、或は「生ける神」の津波記事を全巻の冒頭に掲げた動機など、著書上梓の直前に起こった此の3陸大惨事に糸を引いているように思われる。斯くして時を移さず(数分乃至十数分の後)、本格的の津波襲来となったのであるが、此の時、広村では第2番(田辺では第3番)の波が最も高く、俗称一本松(第1回、八幡神社社殿から北々東約4百が、丁字路の角、図に1つの独立針葉樹の記号のあるのがそれ)の根元まで来たと言われているから、平水上約8いの高さにまで上ったことになる(宝永年度の津浪は同14の高さまで上った)。恐らく海岸では5乃至6」の高さであったろう。なお、3番浪も2番浪に劣らず大きく、5番浪も稍大きかったと言われている。
第2図は広村に於ける津波遭難者の1人たる吉田正三郎致恭の筆「広村に於ける安政津浪図」の模写(友田陽国画伯琴)である。湯浅町の北西とある12、3高地から見下した図と仮定すれば大きな誤りはないであろう。津浪が陸地へ侵入するときは、低地特に川筋を伝って、勢鋭く、先廻りをするから、之がため、避難者は往々逃げ後れることがある。画面の左方に見える川筋は広川であって、その上手に当り、丘(高城山)の麓に、2、3の船が打ち上げられている。右手の山 (天皇山)の陰に江上川がある訳だが、水柱が揚がっている辺がそれであろう。 中央部には十ヵ所余の稲叢から火の手が上がっており、避難者が点々八幡神社の台地を指して馳けて行く所を見ると、2番浪が丁度浸入しつつある模様を示したものであろう。或はその人数の中には、浜口梧陵とその随員がいるかも知れぬ、元来津波の図といえば、風津浪のものに堕し易いのだが、此図は、それに反して、能く地震津浪の真相をつかんでいる。
広村に於ける宝永及び安政の津浪の損害は次の通りであった。

宝永年度 戸数850の中700流失、150破損、土蔵90中70流失、20破損、船12、橋3流失、死者男女192人。
安政年度 戸数339の中125流失、全潰10、半潰46、汐込大小破損158、人口1322人の内死者30人、船13、橋3流失。

実話 その2 儀兵衛の活躍
醤油号を以て名高い銚子の浜口家は、南紀広村の豪族である。初代儀兵衛元禄年間銚子に出店して、醤油醸造業を創め、爾来歴代の努力に依って其の名声を高め、或は海内1を以て称せられるに至った。物語の主人公たる五兵衛に実に7代目儀兵衛に当り、晩年梧陵と号した偉人である。梧陵66年の生涯は義勇奉公の絵巻物であり、世務公益開広の歴史である。特に安政大津浪に対する彼の文字通りの献身的奉仕は、実に感銘に堪えないものがある。彼は当時35才、偶々帰省中に此の難に遭ったのである。此時、彼は村人を逃す為に活躍して唯一人最後まで危地に踏み止まり、将にその犠牲とならんとして、辛じて江上川を躍起えて奇蹟的に助かったのであるが、山裾を伝って村人の避難所たる八幡の丘に辿りつき、人数の不足を確めるや否や、奮然、壮者十数名(彼はかねて義勇奉公を誓い合った村の青年達を指導して崇義団というのを組織していた)を率いて、人命救助の為に再び虎穴に入ったのである。時に日は全く暮れていたから、壮者には手に手に松明を携えしめた所、之を目標に這い上って来た遭難者が数多くあった。彼は之に力を得て、何の躊躇もなく路傍の稲叢(俗称ススキ)十数基に火をつけさせた。ぱっと燃え上がった火に依って更に幾多の人命(実数男女9名)が救われたのは断るまでもない。かくて救えるだけは救ったと見て、1本松の辺まで引取っていると、第2の津浪が押寄せて来て、燃え盛っている稲叢まで流して仕舞った。これで人命救助の序幕第1場は終ったのであるが、之に続く第2場第3場があった。法蔵寺に交渉して当夜の焚出しをしたこと、更に深夜、隣村たる中野村の里正の家を叩いて、年貢米に充ててあった米50石(或は十数石ともいふ)を借出して(里正が年貢米の故を以て貸与を断わると、全責任は此の浜口が負ふと称して) 数日間千4百口を糊したこと、是である。
村民救助の第2幕は翌朝から幾週間か続いた、即ち彼は、悲観のどん底に落ちた村民を鼓舞激励して、村の復興に努めしめたのである。先ず同族有福者を語らって寄附を募り、自身は卒先範を示して米2百俵を寄附したのを手初めに、村役人を鞭韃して流の整理と治安の維持とに当らしめ、自力を以て藁葺の仮小屋を建設すること50棟、その他失業者へ農具、漁舟、漁具、商人へ小資本等を給与するなど、連日、寝食を忘れて活躍したのであった。
第3幕は津波除け堤防の建設である。これには3つの偉大な目的が含まれていた。その1は、言うまでもなく、村を未来永劫津波の災厄から免れしめる為、その2は、村民がこれまでの恩恵に慣れて、動もすれば、他力に依頼しようとする風が生じたので、此の緩み勝ちな民心を緊張せしめて、勤勉自粛の良風を作る為、その3は、これまで重税に悩んだ土地を以後堤防の敷地として重殻を免れしめる為であって、3つながら相当な成果を収めたのである。もっとも之がために彼が払った代償は並大抵ではなかった。彼が藩に提出した防浪堤建設許可願に右工費は乍恐私如何様にも勘弁仕り、巳来万1洪浪御座候ても人命は勿論、田宅器財無慈凌ぎ候見留の主法相立候 上にて人心安堵為致………」としてあり、さうして彼が支出した工費は、銀9万4千344分の多額に上り、今日なら、相当莫大な金額に相当する工事である。防浪堤の延長652、3、高さ3乃至3、4江、平均海水面上約4、5、幅底面17乃至17、四国、上面2、5乃至3=、更に外側には樹令20年乃至30年の松樹を2列に植えて防潮林とし、上面と内側とにはハゼを植えつけた。工を起こしたのが安政2年2月、竣工したのが同5年12月、斯く長い期日を要したのは、村の窮民へ授職の意味があった為であって、日々使役する老幼男女の数幾百人、延人員計5万6千736人、重に農閑の季節を選んで工を進め、労銀はその日その日に給したから、村民も自ら勤勉ならざるを得なくなった次第である。
安政大津浪に際し、村民救済のため、梧陵が献身的に活躍した事蹟を斯様に検討して見ると、前に述べた「事実は物語よりも更に奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動は一層崇高で、英雄的で、献身的であった」 といふのが、過褒ではないと了得されるであろう。

実話その3その後の梧陵と村民
梧陵が村並に村民のために尽力したことは以上で尽された訳ではない。広村の橋梁架設、青年子弟の教育等到底此の小冊子につくしがたいものがあるが、代官から藩への具状書には、合計凡そ銀2百7、80貫程救合し、その外に吹聴せぬもの多き旨を述べている。以上は梧陵の安政大津浪に関する活躍振りの一端を叙したに過ぎないが、ここに彼の人柄をも瞥見しておきたい。上記具状書に「当時身上宣敷候得共、儀兵衛儀は家宅衣服共諸事質素にて、篤実なる上に慈悲深く、兼て困窮之者共を救い直し候に付、自然同村之者共都て尊敬致し候由」とあるので、村人が彼を神仏のように崇敬したのも偶然ではないことが首肯される。事件の翌年、彼等は神社浜口大明神を建立しようと議をまとめ、材木まで調べて建設に取掛った処を、梧陵が聞きつけて、村人に「我等儀神にも仏にも成りたき了簡にては決して無之、唯此度の大難救済、併せて村えの奉仕は藩公えの忠勤とも成ることと心得たまでの事、神社建立のことは藩公えも恐れあり、斯くては今後村や村民の世話は出来難くなる」と説得したので、神社建立は中止となったが、併し純真な村人はそれで引下ったのではない。終に彼の承諾を得て、爾来彼を大明神様と呼ぶことにした。成程、形の上では神社建立は中止になったけれども、精神的には浜口大明神が村民の脳裡に立派に築き上げられたのであった。浜口梧陵はその後に於ても幾多の輝かしい業績を残し(和歌山藩の要職、中央政府の駅逓頭などに歴任した)、明治18年4月21日享年66才を以て紐育(ニューヨーク)で客死した。
遺骸は厳重に防腐して鉄に収め、郷里広村先塗の傍に葬られた。彼は代官具状書の推奨により、安政3年12月20日、藩主から独礼格(単独拝謁の資格)の優遇を蒙り、歿後30年に当る大正4年には朝廷から従5位の御贈位を恭うし、更に23年後即ち昭和13年には、梧陵の墓所並びに彼が生前心血を減いだ防波堤は史蹟として文部省から指定せられた。斯様に由緒新たな墓所が史蹟として指定されたことは、外には類例が無いそうである。

実話その4 外人の梧陵崇拝
最後に外人の梧陵崇拝に関する1幕を加えて、梧陵劇の大詰としたい。梧陵の末子浜口膽氏が英国剣橋(ケンブリッジ)大学に留学中のこと、在倫敦(ロンドン)の日本協会に招かれて、日本の女性と題する講演を試みたことがある。時は1903年5月13日「仏陀の畑の落穂拾い」が出版されてから6年後のことである。此日婦人の聴講者が殊に多かった。講演は喝裡に終り、質問討議も1巡して、座長アーサー・デオシー氏が将に閉会を宣しようとする殺那、後列の1婦人から意外な質問が提出された。婦人名はステラ・ラ・ロレツ嬢、彼女が除に語り出すを聞くに、

「私は今日の御講演に対して何等質問討議する能力をもたないものであります。そうして皆様が此の耳新しい日本の女性という問題につき感興しておいでの間、私は別に今1つの問題に捉われて胸1杯であったのであります。併しそれは日本の女性と直接の関係がないため、皆様の御質問御討議の終るのをお待ちしていたのであります」と句切りながら今度は聴衆1同へ向き直って、「皆様はハーンの『仏陀の畑の落穂拾ひ』の第1課に『生ける神』の美談があったことを御記憶だろうと思います。それは今から100年程前に、紀州沿岸に大津浪が襲来したとき、身を以て村民を救ったといふ浜口五兵衛の事蹟を物語ったものであります。爾来、私は五兵衛の仁勇に推服すること多年、1日として五兵衛の名を忘れたことはありません。現に私の家に蔵している1幅のペン画の中に画かれた日本児童を小浜口と名づけて之を愛好している位であります。
此の時、もし彼女が、自分の質問の価値の重大さを知っていたら、次のようなことまで附加えたに相違ない。
即ち「平生私は、私の心に定めた世界的聖人の目録を作っています。その中には基督教徒もあり、仏教徒も、回教徒もあります。又その中には、文明人と自称している人々が野蛮人と目している族に属するのもあります。併し私の信じている聖人は、唯今の御講演にも述べられた通り、何れも美しい徳を以ていることに共通な点があるのでありまして、卑近な警ではありますが、世界各国最高貨幣の鋳型は1つ1つ違っていても、その実質が黄金である点に於ては相一致しているようなものであります。そうして此の聖人目録中、浜口五兵衛は私の最も頌揚したい1人であります。私は、もし他日、日本観光の機会でもありましたなら、その浜口神社に参詣したい位に思っているものであります」(膽氏に宛てたロレツ嬢の書簡から抄出。)ロレッ嬢は更に語りつづける。
「かくまで浜口の名に憧れているのですもの、今日の講演者の浜口さんと私の崇拝している浜口五兵衛との間に何の関係もないのでしょうか、是非それを伺わせて下さい」。と言い終って着席すると、衆目は期せずして壇上の講演者に集まった。と見ると、膽氏は激越な感動にとらわれて、うなだれたまま1言も発することが出来なかった。止むを得ず、司会者が彼に近づいて事由を問いつ、質しつ、之を綴り合わせて会場に報告するや、拍手と歓呼とは1時に百雷のとどろくように場内を圧倒してしまった。
か様な感動を与えた場面は日本協会に於ては空前であったが、恐らく絶後かも知れぬと言われている。ロレツ嬢はついで膽氏から詳細な真相を聴取して、事実は物語よりも更に神秘的であり、行為は更に崇高であって、彼女が五兵衛景仰の念は1層深まるばかりであった旨を語っている。事実は物語以上だとの吾々の断案は果たして独断ではなかったのである。
(原文は左横書46判16頁の小冊子。)

和歌山県有田郡広村防波堤及び防波林の由来 浜口儀兵衛
昭和22年6月天皇陛下関西御巡幸の砌り和歌山県下にも行幸あらせられ親しく一般民情をみそなはせられました。その節私は和歌山県知事の指名によりまして、6月8日午後7時御行在所たる和歌山県庁楼上に於て天顔を咫尺の間にしつつ、祖父梧陵翁が安政年間に築造した防波堤並に防波林について畏くも天聴に達する機会を得ましたことは洵に私一代の光栄とする所であります。この歓びを自分の縁故の人々に頒って共に祖先の遺業を讃へ家門の栄誉を寿ぎ度く茲に奏上の全文を写した次第であります。
昭和22年6月吉日

謹んで和歌山県有田郡広村の防波堤及び防波林の由来を言上致します。広村は当和歌山市を距る10里の農漁村で御座います。昔時は地方の小都会であったようで御座いますが度々津波の被害がありまして歴史的に能く分って居りますのは慶長9年に大津波が御座いまして多大な被害がありました。それから102年後の宝永4年にも大津浪に見舞われまして人家の大部分が破壊せられ192人の人命を失うという惨害を蒙りました為村勢は漸次衰退いたしました。宝永から153年後の安政大地震の時には戸数339戸の内181の人家を破壊流失致しまして30人の命を失いました。斯様な状態で御座いましたので私の祖父浜口梧陵が将来広村の安全を企図致しまして築造致しましたものは広村の防波堤で御座います。就きましては津波と梧陵の関係を簡単に申し上げさして頂きたいと存じます。
梧陵の先祖は古くからこの広村に居住して居りましたが家業として千葉県銚子に醤油醸造業を営んで居ります。
昨年の行幸の栄に浴しましたヤマサ醤油工場はその先祖の残した仕事で御座います。
そして家長は代々儀兵衛を名乗って居りまして、年の半分は銚子で暮すのが慣しで御座いましたが、安政地震当時業を継いで居りましたのは7代目の儀兵衛で御座いまして号を梧陵と申しまして35才の壮年で御座いました。
安政元年11月地震の起きました時、梧陵は丁度広村に帰って居りました。地震には津波がつき物だと兼々聞いて居りました梧陵は直ちに村民を安全地帯に避難させましたが幸いその日は海岸の小舟を破損した位で大した事はなく済みましたので村民は多く我家へ立戻りました。処がその翌日の夕刻一層激しい地震が起きまして家屋の倒壊するものが出来又沖合から海鳴のするのが聞えて参りましたので、梧陵は之は容易ならぬ事だと思いまして再び村民に避難を促しましたが年寄りや子供や足弱の者等は逃げ足が遅く泣き叫ぶ声がしきりで混乱を極めました。第1回の津波は幾分か軽く御座いましたので、梧陵は屋上にかけ上りその場に踏み留り波の引け間を見て更に村内にふれ廻り逃げ遅れた者の収容に努めました。
その内日が暮れまして逃げ道が分らなくなりましたので、梧陵は避難致しまする途々で田に積まれてありました沢山の稲叢に火を点じつつ逃げ遅れた人の為に道を知らせました。そうして居る内に第2回目の波が押寄せて来た為梧陵は半身を潮流に没し浮きつ沈みつ辛じて高台に辿りつきました。津波は5回襲来しましたが幸いに全村の避難を完了して居た為それによる犠牲者は少なかった事は幸な事て*色ん不測の事変の為に住家は勿論差当りの食糧にも窮する者が多ったので梧陵はその救済に当りましたが何分にも猛威を揮ふ天災に対する村民の恐怖心は熾烈でありまして旁々家財田畑を失う事による生活不安も深刻でありましたが為村民の中には村を離れて他郷へ行かうと云ふ者が続出する傾向でありました。斯くては広村は衰微の1途を辿る外ないと梧陵は痛く憂えたので御座います。そこで梧陵は村民の安泰と失業救済の2つの目的を以て、その翌年安政2年私財を投して広村海岸に防波堤を築造する事に致しました。そして農閑期を利用して工を進め、農繁期には中止すると云ふ仕組で47ヵ月を費し、安政5年竣工を見るに至りました。
之が現在広村に残る防波堤でありますが堤の敷地巾を11間、高さ2間半、全長350間に致し広村を包囲する形に致しました。又此の防波堤と同時にその外側に堤防の土留と防波を兼ね数千本の松を植えましたがそれが今日ではうっそうたる老樹大木となって居るので御座います。 梧陵の残しました記録にも之で百年後に津波あるも広村を安全に護る事が出来ると誌してあります。此の防波堤は今村明恒博士の調査によると我国最初のものであるとの事で御座います。昭和13年文部省より防波堤防波林及び梧陵の墓所が史蹟に指定されました。安政の津波から92年を経まして昨年12月関西地方に大地震が起きまして前例に違わず広村にも津波が襲来致しました。
ところが広村は右の防波堤と防波林の為、民家はほんの1部に浸水をみましただけで完全に保護されました。
唯だ安政以来村は再び繁栄に赴きまして人家がふえ土地が狭隘になりましたため余儀なく堤防外にも建築物が設けられ中学校や紡績工場や若干の民家が出来ておりましたが、夫等の大部分が破壊され22名の死者を出すと云ふ惨害を蒙りました事は何とも残念の至りで御座います。


梧陵が安政の大津波に活躍した事及びその後の救済事業を起こした話は英国人で日本に帰化致しました文豪小泉八雲氏に取り上げられ「生ける神」という標題で海外にも紹介されました。又その文中から小学校5年の教科書に「稲むらの火」と云う題目で採録されて居りますがそれらには儀兵衛と云う名が五兵衛と云ふ名前に書き換えられて居ります。
以上言上させて頂きました事は地下に於て祖父梧陵は如何ばかり喜んで居るかと存じまして感謝感激の至りで御座います。不束なる言葉づかい誠に恐懼に堪えません。

南海道沖大地震津波 =昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す= 今村明恒
余が大正の関東大地震の前徴研究に取掛ったのは地震直後の事である。先づ3通りの前徴を捉え得たが、中にも三浦半島の先端三崎油壺の検潮儀が示した地震前数十年間の漸進的地盤沈下と地震時に於ける躍進的隆起との関係は、最も重要なものであった。これは広く関東全体の精密水準測量の結果から見るとき、関東全地塊の慢性的傾動と急性的傾動とを地塊の一端に於て見たに過ぎないのである。陸地測量部は明治の中ごろ、全国海岸と十数所の検潮所を設けて、永年に亘る地盤の上下変位までも実測したのであるが、他の場処が殆んど不動の状態を見せたに拘らず、油壺と紀州南端串本との2ヵ所は特異な地盤沈下を示したのである。両所の位する半島は、その地質構造といい沖合に大地震を起こし、而もその度毎に南上りの躍進的傾動を伴う等の種々の点に於て、極めてよく相類似していることが気附れたので、三浦半島が示した1組の慢性的及び躍進的傾動が沖合の大地震をめぐってここ紀伊半島にも亦出現するに相違ないことを想像し、測地学的実測に取掛ったのである。即ち帝国学士院の補助を受け陸地測量部に依頼して、紀伊半島では、東西の海岸線並に中央線に沿ふて精密水準線路の再測を実施し、又室戸半島は、状況が紀伊半島と同様であるに顧みて此半島に於ける線路の再測をも依頼したのである。
かくして半島の慢性的傾動が計測された次第であるが、その結果によると、紀伊半島では昭和3年に終る29年間の年平均値は南下りの0、033秒で、室戸半島では、昭和4年に至る33年間の年平均値南々東下りに0、041秒と出て来たのである。他方沖合に発生する大地震に伴なって、半島は、概ね南上りに急性的の傾動をなすのであるが、その大きさ、安政年度には紀伊半島が4・4秒、室戸半島が5、0秒の程度であったらし今回の地震に就て、内務省地理調査所では、逸早く日水準線路の1部改測を行なったが、それによると紀伊半島は串本で約70隆起し、半島全体としては西北西へ3、0秒の傾動をなしたようであり、又室戸半島は、概ね北方へ7、5秒の傾動をなし半島南端では約74の隆起に対して高知市東方の平地では65ほど沈下したと解される。尤も此の沈下は、割合に急速に復旧しつつあるもののようである。(四国の南西突端に当る幡多半島が同様の慢性的並に急性的な傾動をなしたことは震後に至って始めて気附かれた)

紀伊半島の年平均の傾動を安政後の92年間に概算すると、正に今回の急性的傾動に等しくなるのは、強ち偶然であるとはいえないのである。此の急性的並に慢性的傾動の間には、後者が前者の前徴の1つであるといふ意味の他に、物理学上の数量的関係も存在するであろうとは吾々の見解である。即ち急性的に起こる傾動の大きさは、地体を作っている岩石の曲げに対する限界値に近くそれ以上にゆがめては破綻を生ずるという結果になるであろうし、又慢性的に起こる傾動も、百年近く累積するとき同様に右の限界値に到達することになるからである。果してその通りならば、右の慢性的傾動は、その最初からの積算値が今後の予知問題の研究に大切な役割を演ずるであろうから、両半島の精密水準線路の完全な改測は、此の際殊に望ましいことに属する。は本邦の太平洋沖には大規模の破壊的地震を起こす地震の帯の1線が5ヵ所に区切られているが、活動の中心は全線の1方から他方へ順を追って移行する傾向をもっている。
これは地震統計だけでなく、学理的にも根拠のあること、今近年の活動順序を見ると、安政後新たに明治27年の根室沖から同29年の3陸沖に、大正12年の関東沖から昭和19年の東海道沖に、何れも津波を伴う大地震として現われたが此の次の活動場処の南海道沖なるべきは明白であろう。余が之に関する論文を帝国学士院に提出したのは昨年10月である。
太平洋沖につき出ている第3紀地塊の慢性的傾動は、やがて来るべき沖合の大破壊の前徴であろうとの説は、第1に昭和19年の東海道中大地震によって証明されたが、余は此の目標だけに満足せずして、更に最後の瞬間に先だつ数時間或は数日前に現われてもよい筈の前徴をも捉える方法を考え、両半島及び附近に7ヵ所の私設観測所を設けて、観測していたが、総べて戦火にかかって最後の仕上げが出来なかったのは残念である。かくて余が後援者の援助の下に払った十数万円の研究費も、18年間の努力も、無為に終ったようであるが、併し全く水の泡であったとは思っていない。
余は府県別市町村別将た港湾別に、宝永、安政両度の震火波の3災を調べ上げ、将来の変異を災禍たらしめないよう、当局に進言し勧誘していたのである。成果が期待ほどにあがらなかったのは、余の微力によるこというまでもないが、従来わが国民の災害予防に対する関心の薄かったこともまた指摘せざるを得ない。例えば金津漁港の設計に対しては、大地震に伴う地盤隆起を考慮するよう勧告したが、当局は能く之を理解しながら、遂に之を無視する結果となり、今回の大地震に由って折角新設された遠洋漁業の基地も半ばその実効を失ったというわけである。
南紀の広村についてもそうである。浜口梧陵の心づくしの防波堤も、2ヵ所の切通しのためにその実効の薄らぐのを惜み、せめて鉄扉の働きだけでも有効にしたいと考え、村役場に突然蔵入してその附替方を勧めたこともある。又防波堤の出現は、広川と江上川とを津波進入の主要な地帯とならしめ、従って津波の主力は逸早く此地帯に沿うて進入するから、建造物を他に移すとか、避難道路は之をさけて計画すべきである等の注意を、小学校の職員室に於ても陳述したことがある。特に耐久中学校の位置の危険なるは度々県当局の注意をうながし、余と同県の出身たる福元学務部長には殊に之を力説したこともあった。余は考えた。もし余が物した「稲むらの火の教方に就て」という1篇が、災害予防に関心を有つ人達に読まれたら波災は大いに軽減されるであろう。況んや、此の小篇は浜口家の好意に依って、村には多数寄贈されたではないかと。然し事実は果してどうであったろう。
鉄扉はすらすらと自動的に閉じたか。耐久中学校は如何。江上川には水難者は無かったか。此等は今更余が問うまでもなく、村の人達の熟知している事実である。幸いに今回の津波は、吾々が予期したよりも小さかった。広川河口の低地に於ては最大波高、宝永では11が、安政では6であったが、今回は更に低く、おおむね4」の程度であったらしい。被害が稍軽く感ぜられたのは、津波の低かったのが主因である。
由来日本人は危機の接近に無頓着であり、たとえその危機接近を教えられても之を避けようとしなければ、之に備えようともしない人種だとは、欧米人の評をまつまでもなく日本人自身が之を自覚している。幸いに此の1両年来、我が国が国民の災害予防に関する関心は、進駐軍のおかげで次第に向上していると言ってよかろう。
防疫や火災予防については既に実行にまで進んでいるが、これが地震、噴火、津波の如き災妖にまで及ぶよう希望せざるを得ない。

総ては教養の問題である。凡そ天災は忘れたころに来ると言われている。しかし忘れないだけで天災は防げるものでなく、避けられるものでもない。要は之を防備することにある。余は年々の梧陵祭が形式に堕することのないよう希望してやまないものである。

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海嘯に関する座談会記録


記録者播磨良作
日時 昭和22年3月22日午後1時
会場 広村役場会議室
出席氏名 田中良治 松下正男 福島キクノ山本庄太郎 寺村久一
当日出席の編纂委員
浜口八十五 浜口惠璋 津村嘉四郎 三星力馬 楠山政太郎 戸田保太郎 成相大太郎 播磨良作 出口亀次郎
委員長挨拶(播磨)
皆様にはお忙しい所をお繰合せ下さいましてお集まりを頂き、誠に有難うございます。本日御集まりを願いましたのは、此の度の海嘯に関する記録を編纂するに当たり、その資料を皆様から色々とお伺いしたいと存じまして、本日の座談会を開きました訳で何分よろしくお願い申上げます。
尚、皆様の体験談をお伺いするに当たり今後記録編纂に主としてお骨折りを願う事に成っている浜口恵璋委員に座長をお願いしたいと存じます。

座長 安政の津浪には海鉄砲 (海鳴)があったと聞くが、此度の津波では如何でしたか。
山本 午前3時3、40分ごろから数回にわたり聞いた。
座長 地震の時間は何のぐらいでしたか。
山本 約12分位と思う。
座長 津浪は震後何のぐらい時間があったか。
寺村 正確には言えませんが約3、40分間ぐらいであったと思います。
座長 地震後津浪の襲うまでに沖が光ったように聞くが、皆様で実見された方はありませんか。
寺村電気のスパークの様な閃光を数回見ました。
座長 津波のくる前に潮は何のぐらい引いたか。
田中 第1津波が来襲前には潮は引かず、第2津波以下は潮がよく引いてから来襲した。
山本 1番初めの津波は最初、湯浅の北川の方向へ来襲し、それから広の方へ押して来た。
座長 津波は何回来襲したか。
三星 7回来襲した。
座長 津波の大きいのは何回目であったか。
三星 第1回目が1番大であり第4回目第7回目も大きかった。
座長 津波の速度は何のようなものであるか。
出口 津波は来襲する速度は極く緩慢であるが引く時は非常に早い。
座長 津波の高さはどのぐらいあったでしょう。
松下 耐久中学校で測ってみると水面約2丈であった。
山本 鉄門でも約1丈5尺であった。
座長 皆様が津浪と知ってからどのぐらいの避難する時間があったか。
松下 江上川で異様な水音を聞いてからは約5分ぐらいで浪が襲ってきた。第2回以下も約5分おきぐらいの週期的であったと記憶する。
田中 私は水音を聞いてから避難時間が2、3分よりなかったと思う。
座長 皆様は此津浪の特別の体験された方方ですが津浪にあった前後の事情をお話し願いたい。
松下 地震後直ちに海を見に行ったが別段に潮は引かず非常に海面は静かであり、湯浅町の方をみると発動機船が沖へ出るので、その音が賑かに聞えた。然し稲光りの様な閃光が数回紀泉国境の方角に見えた。 安政の時は震後海鉄砲が鳴ったと聞いていたから私は今度の地震には聞かなかったので、津浪と海鉄砲はつき物と考えていたため大丈夫と思っていた。
福島 此の位の地震では津波はないと思い炊事の火を焚きつけた時津浪がきた。
松下 津浪は最初湯浅町へ襲ったのであるから耐久や紡績へ浪が来るまでには30分以上も時間が経過している と考えられる。
田中 津浪のあった晩、私は天王の山に避難していたが紡績会社の方向で爆竹の様な音が朝まで鳴りづめに聞いた。
松下 耐久の松林で破損している機帆船は船頭が最後まで船に乗っていて松林に乗り上げてから降船して学校へ来た。そして煙草の火を借して欲しいと言ったがその時所持の煙草はぬれていなかった。此船は湯浅の北川に泊していたもので、他にも同位置に2・3隻あったと船頭は話していた。
山本 古老の談によると安政の時代より、耐久校の附近で5尺ぐらい土地が低下しているという。
浜口 耐久の松原は浪で段々と狭くなった。そして防潮林は安政以後に植えたものと思います。
座長 市場の突堤は押浪で崩れたが、引浪に崩れたか。
山本 寺村押浪で崩れたと思う。それは崩れた石が皆南側に流れているのでもわかると思う。
福島 第1回の津浪で表通りは避難者のヒシメク姿が目もあてられなかった。「助けてくれ」と叫ぶ哀れな声が今に耳について離れない。
田中 津波の水は何故か眼に悪い、私は今に眼を悪くして治らない。
座長 安政の浪頭と今度の浪頭の高さはどうですか。
田中 安政の時より今度の方が少し高かったのではないですか、安政の時は天王の池下で田甫が1段下までしか行かなかったと聞きます。
座長 安政の夏にも相当な地震があり、その冬の11月5日(旧暦)に彼の有名な安政の地震による津浪があったと記録にあります。測候所の話では、上下動の地震は津波は来ないが、水平動の地震は必ず津浪があるという。
田中 昭和19年の津浪も相当であった。午後すぎごろでしたが私の家の下では水が道路に上ったので避難の準備をした。江上川の水が干し上った様に潮が引いたと思うと、潮がまた押してきたが水はまるで瀬の様に流れてきた。
津村 今度の津波の上り方は清水川は釜の渕の1部まで来た。丁度線路より2段目の田圃に水が上った。広川は南広領の名島橋まで上り、東町の下河原の田圃は大部分浸水した。下長川は線路の下を通って東町青年会場の下まで浸水した。広橋附近では「内原屋」(畠中氏)の辺は全部水が越して裏の田にぬけ落ちた。
寺村 津浪後「シジミ貝」がなくなった。しかしその代り青海苔がよくついた。
松下 田中地震前ねずみが居なくなって不思議に思っていた。
座長 どこともねずみが居なかった。
松下 津浪の際に於ける避難者の注意すべき方法を構じておく必要があると考える。避難すべからざる地域、または避難にあたり何んな道順を選ぶべきかをはっきりと村民一般に頭にしみこませておきたい。殊に紡績社宅等は万一の用意を常に備えておくように注意してもらいたいと思う。
福島 今度の経験でこのぐらいの津波ならば、2階に居れば私の家などでは大丈夫であると信ずる。
三星 地震は週期的に来るとすれば、紡績工場では幹部の方によくお願いして平素より計画をたてておいてもらいたい。避難の際は大事な物は必ず身体にしっかりと着けておく事、手に持っていたりしては必ず遭難する。そして2度目にもどって物をさがす事は危険である。
三星 物に執着して命を捨てる者が多い。
福島 津波は洪水と違い所によって非常な差がある。私の宅と久保田新太郎さんの宅では大そうに違った。久保田さんの宅は前に社宅があるので土地が狭く、それで水位が高かったに反し、私方では前が広いから比較的に水位が低かった。畳は塩水に浸るとすべて駄目になった。
三星 布圃は敷いたままのはぬれて居なかった。床板と共に浮上ったためと思う。
座長 盗難はなかったか。
寺村 浜町では尾崎良治方、久敷米吉方、戸田徳太郎方で盗難があった。
福島 キリスト教会に住居している沖中先生は「段」で負傷の手当を受けている間に盗難にあった外は聞かない。
浜口 安政の時は地震が2日にわたったと聞いた。
座長 今度も翌晩避難したのがだいぶんあった。
田中 津波では家がそんなに流れないと見えて、天井が突き上っていても家が流れてない。
福島 私は、家と共に流れても松林などあるから、沖へ流れる心配はないと考えた。また丈夫な家は決して崩れる事はないと信じている。
寺村 家はなかなか流れるものでないから、強いて逃げる必要はない。
福島 西中町の渡部さんの居られる宅は、安政の時にも流れなかったそうです。此時住んでいた奥さんが2階へ上っていたのに階下に物を取りに降りて遭難したと聞いていたので、今度は私は逃げなかった。
松下 潮水は冷くなかった、ヌルマ湯ぐらいと思った。初めは真暗で何も見えなかったが、夜光虫が沢山入ってきた故に次第に明るくなった。津波がきても狼狽せず落着いていれば死ぬ様な事はないと今になって考える。また1本1本の樹木は浪に強いが、垣根の様な植樹は非常に弱い。
播磨 社宅も河端へ防潮林を植えておく必要があると考える。
松下津波には流物があるから注意を要する。
三星 波戸君が遭難したのも流木でやられたためらしい。樹木につかまって助かった者が紡績では相当にある。
松下 押し寄せる浪の音を真暗の中に聞くのは堪えられなかった。物が破潰する音はまるで悪魔の声の様に聞こえた。
福島 鉄条網を道路の端に張ることは止めてほしい。これでけがした人が沢山あった。
山本 淡の山の赤田氏のけがも鉄条網です。
座長 長い時間色々と非常に参考になる話を承りまして有難く存じます。此の辺で散会したいと存じます。(了)

=昭和21年12月21日の南海地震に伴う津波による広町の被害について=
広町役場

(前文略)安政地震による津波被害と比較すれば、故老の話に、大字和田地区は、安政の津波より浸水度が高く、大字広は反対に余程低かったといはれることは、防波堤や紡績工場の堅固な建造物等の関係からと思われ、津浪の程度は或は同じ位ではなかったかと一般に想像されている。
第1番に堅牢なる防波堤と防潮林等の強固な施設内にあった市街住宅区域は、小数の浸水家屋以外は見事にこれを防ぎ得、ただ防護すべき施設のなかった(若干の低い石垣はあったが)附近と、西部の江上川を逆流して押寄せた潮流は、中学校及びその後方にある日東紡績工場と工場の住宅に激突して、これらの建物を破壊、流失した上、住宅街の後方にまで浸水したのである。
犠牲者の大部分は、この区域で罹災したものであって被害の最も甚しかった地域である。本区域に於て特に記すべき点は、中学校校庭に接している海岸は低い石垣程度で、防潮林がなかった部分(戦時中に県立中学校であったので、県の意向によって校庭の防潮林が食糧増産のため伐採された部分)から江上川を逆流した機帆船1が隣村南広村まで流れて住家に衝突し破砕したこと、中学校校舎は、区域内で冠潮度と被害が1番高かったに拘らず、庭前の樹木によって数艘の漁船、その他の浮流物が支えられて破壊から防護されていたのと、特に顕著な効果としては、校庭西隅の防潮林に約百、余りの貨物船が激突し、破損したまま林内に巨体を横たえ浮流を阻止されていたことである。もし本船が後方住宅地域まで押し流されたとすれば、相当多数の家屋が破壊され、流失されたものと思われる。

此の津波による被害の数字は
1、死者  22人(全部溺死)
2、負傷者  45人
3、流失家屋  2戸
4、全壊家屋  2戸
5、半壊家屋  54戸
6、床上浸水  91戸(半壊も含む)
4151人(右家族数)
7、床下浸水  119戸
5109人(右家族数)
8、橋梁流失  2ヵ所
9、堤防決壊  3ヵ所 延長545米
10、耕地浸水  26町6反歩
畑  1町6反歩
11、耕地表土流失  20町歩
12、漁業関係
漁舟 流失5艘、(動力付舟2、普通舟3)
損壊15艘、(動力付舟7、普通舟8)
漁網 流失230貫、(線網170貫、荒手網60貫)
漁具時個約50万4
漁業施設流失約20万4

右の中最も甚だしい被害区域は、日東紡績会社広工場と附属住宅街であって、又紡績工場の従業員や家族に死者の特に多いことは、その殆んどが他府県人であり、津波に対する予備知識に欠けた人達のみであったことが最大原因であって、今後に於ては防災施設の完備は申すまでもなく、一般に非常時に対処する避難訓練の必要なるは茲に記する迄もないことである。(以上)

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2 7・18水害とわが郷土









有田タイムス社 7・18水害誌より転載
昭和28年7月18日に起った県下の大水害は未曽有の大災害大惨事であった。この年の気象は例年にない異状なもので、6月、7月と高温多雨で、特に梅雨は執拗であった。それに春さきからも降雨の日が多かった。
ために、山も野にも長雨のためすっかり水が飽和点に達していたといってよいところへ7月17日から18日にかけて猛烈な集中豪雨に見舞われ、雨量は400〜600ミリに達っしたといわれている。このため山間部では大規模な山崩れ、山津波が各所に起こり、大小の河川は大氾濫して破滅的な災害となったのである。有田郡は県下でも最も手ひどくやられて、「有田水害」とも呼ばれたほどであった。「7・18水害」である。この大惨事は記録的なものであり、その後詳細な実録や各種の調査報告などが出ているので、ここではわが広川町=当時の広町、南広村、津木村の模様を略記するにとどめておくことにする。
わが郷土を流れる広川の清流も、ものすごい増水となり、この日の早朝上流の寺杣橋がいち早く流失、6時半ごろ南広村東中付近の堤防は欠壊し奔流はどっと広町におし寄せ、広の町は1時大海原の中の孤立状態にしてしまった。南広井関のタイコ橋はトラスと橋脚だけは残したが付近の堤防を破壊した奔流は殿方面に襲いかかり1瞬のうちに水田は流失し、名島、東中一帯も浸水、各所の川に面した田畑は石の河原に変じ、広東町はほとんど全域にわたり浸水、逃げおくれた人々は屋根上に避難した。
もちろん道路は各所で寸断され、夜9時10分には広変電所の湯浅配電線は送電不能となり真暗な夜となった。
電話も不通、通信交通も不可能になってしまった。広川の上流にあたる津木方面は各谷川の氾濫山崩れのため、水系に面した田畑は川原同様となり、橋はほとんど流失、農道村道林道のきらいなく各所で流失破壊寸断されてしまった。特に奥地の岩渕地区は全く陸の孤島となってしまった。
今まで3町村の田をやしなっていた広川の各井堰は、津木の前田井、南広の殿井、東中井、広の源五郎井などをはじめその他の小井堰は満足に原型をとどめたものはなく、水路はズタズタに断れてしまった。流失埋没冠水した田は広町で、流失埋没29町、南広55町、津木で60町。冠水したものは広町42町、南広124町、津木で40町。また流失埋没した畑は広で9町、南広21町、津木で28町におよんだ。外に津木地区では炭焼窯の破損、木炭や木材の流失被害も相当なものであった。まず被害のなかったといえる地域は、南金屋以西であった。
また漁業関係では、海中に押し流された木材、木の株、石、土砂などで郡内の漁場や漁港は荒廃して操業が不可能になったし、直接水害による漁船、漁具資材の流失破損、および救援のため出動した際におきた損傷被害も数えられる。広漁業組合は約440万円。唐尾漁業組合は約280万円の損害をこうむった。 (上記の外に、人や家屋の被害については、「年表」を参照されたい)。
尚津木村では消防団員井窪孝次氏は殉職されている。各町村とも救助活動に全機能を動員して幾多の困難に立ち向ったが、(18日午前9時25分県下災害救助法発令)その時の騒ぎは筆舌にはつくせないものがあった。まず被災者に対する炊出しからはじまって医療手当、避難、あとしまつ、各方面との連絡、やがて1日も早い復旧活動と、関係者は勿論、町村民一致して立ち上ったのであった。広町では役場庁舎を新築中であったが、その2階へ約4百名が避難した。東町は孤立しているので湯浅町から回してもらった舟で鉄道線路を乗り越えて急援の手を差しのべた。広小学校も浸水したが、東町方面の小学生約百名を収容、やがて22日になって被災家族57戸の人々を各教室へ収容した。炊出しは日東紡の施設を借りて1日約1万食分を用意した。この炊出しは、広町では25日間、3967人。南広村は10日間、561人に、津木村では15日間、594人の人々に行なった。また送電は急ピッチで復旧され広町は21日に全町が、南広地区は21日1部が、24日になって全村に。津木地区は少し遅れて25日に前田猿川、26日に寺杣、27日に落合猪谷中村滝原、28日小鶴谷、8月1日に岩渕の1部、2日になって全部、がそれぞれ明るい夜をむかえた。
いよいよ復旧への作業も本格的に始められ、道路や橋の応旧修理、家屋の修理、住宅の建設、土砂の排除作業、農地の復旧へと全力を投入していった。かくて秋風の吹くころは一応目鼻がついてきたが、その間9月25日台風13号来襲、また各河川はさきの7・18水害の2の舞を演じる氾濫で、せっかく60余日にわたる復興工事は破壊流失、水害と風害を一時に受けて有田川水域ではせっかくの復旧工事が逆もどりしてしまった。われらの地区も被害はまぬがれなかったが、幸い前回ほどのことはなくて済んだ。ただし、津木方面では寺杣橋は流失、仮設道路の被害もあった。
このとき耐久高校の調査によると、25日中の雨量は164・92mm、平均風速は38・33mを記録したという。以上7・18水害の復旧については、第16回特別国会で、24におよぶ災害特別措置法案が成立し、郡内全町村に適用され、復興促進を国の責任に於て推進することになった。
ごく簡単にこの災害の模様やその後の対策などについて述べたが、個々の地域、個々の家についてはそれぞれ忘れ得ぬ悪夢の思い出となって永く記憶にとどめられるであろう。広町では昔から災害といえば地震津波が唯一のものと思い込み、広川の氾濫による大洪水の恐ろしさを夢にも思ってみなかった。しかしこれは今後に対する貴重な警鐘であると思う。町当局もこの方面の警戒と防災にも充分の留意されていることはいうまでもない。

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3 防災活動について


―広川町の消防団ー
江戸時代から明治の初期ごろまでは、火事やその他の災害が起こった場合は村中総出で防災にあたったことであったが、明治年間からは各村に多少消防組織めいたものが出来てきたもようである。しかし、その消防器具や装備はまだすこぶる幼稚なものであり、ポンプも手押しであった。この組織は消防組と呼ばれた。昭和に入ってからしだいに装備などの発達がみられるようになってきた。
昭和12年7月日支事変が起こり、大陸での戦雲が急を告げるようになり、国内ではいろいろの面で国家統制が強化され、やがて消防組は警防団というものに組織がえされた。団員数も1定数を確保するようになった。やがて、敗戦後、昭和23年に自治体消防が発足され、町村合併の結果、昭和30年4月1日より広川町消防団となって現在に至っている。

広川町消防団、組織等の概要
団員数144名(常勤なし、町条例定員は144名)

右の年令別団員数
18〜20 3名 21〜25 10名  26〜30 24名  31〜35 42名
36〜40 32名  41〜45 22名  46〜57名   51〜55 3名  56以上 1名

出勤状況
回数 1回 延人員245 火災による。
回数 3回 延人員135  風水害による。
回数 35回 延人員4050 演習訓練。
回数 延人員280   特別警戒。

装備

ポンプ自動車  1台
小型動力消防ポンプ  15台
積載車  2台・
消火詮   12(公設)
     62(私設)
水槽   20

(附記 災異篇としているが記述は主として津波と7・18水害の記事にとどめた。その他の大小の災害については、年表に記しておいた。)

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地名編

広川町内の地名について


地名には、その名義を考察することによって、その土地の地勢、地質、地味、遺跡や遺物、開拓の歴史など、さまざまな意味が含まれていて興味つきないものがある反面、さっぱりわけのわからない名義も多い。
わけのわからぬというのは、解明の知識が未熟なせいかも知れないが、わかったようでわからぬ、説明はできぬがなんとなくわかるような気になるものもある。
そのほか、人や物や神仏の名からきたもの、本来の呼び名が、ゆがめられたり、訛ったりしたと思われるものなど、それに、口から耳へと「ことば」で伝えられたものが文字に表現された場合など当て字や、もっともらしい漢字を用いたりして、もとの意味がかえって不明になってしまう例もあるようで、しかとした意義づけがむづかしいものが多い。
地名の意義については、古来から、その起原、語原などを考証されているが、ともするとこじつけや誤解なども起きやすい。
地名を科学的に解明しようという「地名学」なるものがあるが、まだ若い学問で、解決されない点が多い。しかし地名そのものは、われらの祖先が残した「文化遺産」の1つと考えてよく、われらが生れた土地、住んでいる土地の名義に、そこの歴史や生活感情などがふくまれているはずである。
それは古代から地名は「地霊」の表現であるとの信仰にもつながっている。人の姓名にも人格的な要素がふくまれていると信んぜられたごとく、この感情は今も生きているといってよいと思われる。
ところで不明な点は後考にまつことにして、今はともかくわが広川町内の地名を列挙してみて、その名義のみでなく、その地に関した事項なども拾い集めてみることにした。
なおまた、それぞれの土地では、主としてそこに住む人々だけに通じる場所名がある、これこそ生活の必要からつけられた地名であって、正式な帳面にはのらないが大切な名もある。しかしここでは残念ながらそこまで手がおよばなかった。
和歌山県  わかやまけん
有田郡  ありだぐん
広川町  ひろがわちよう

県名は和歌山県(ワカヤマケン)
国名は紀伊国きいのくに、紀州ともいった。わが県は昔から紀伊国といったが、その意は「木の国」である。
この名は「神話」時代からあらわれていて、木材が良質で豊富なところからきた名であるという。(日本書記神代古語拾遺など)
はじめ「木国」であったのが、和銅5年(712)に、国の名は2字にし、よい字であれとの令が出て、「紀伊」国と書くようになった。いずれも「キノタニ」とよぶ。
それが廃藩置県で(明治4年7月14日) 和歌山県となったのは、ワカヤマなる地名は、上代の国府、藩政時代の藩主の居域地として発展した城下町の名で有名であるので、県全体の名としたのである。
「ワカヤマ」は、「若山」「和歌山」と書いたが、それはどうしてか、これにはいろいろの説があるが、要約すると3説になる。

@「ワカヤマ」の地は海中からいつとなく、干潟になって新に出来た地であるゆえ、稚く(わかく)弱いところから弱山(ワカヤマ)とした。

A城のあるところは、昔から岡の里といい、そこの高地が岡山で、「オカヤマ」が「ワカヤマ」となまった。

B萬葉集の山部赤人が、聖武天皇玉津島行幸のとき詠んだ「わかのうらにしおみちくればかたをなみあしべをさして たづなきわたる」で有名な「ワカノウラ」は「弱の浜」(ワカノハマ)であった。このとき聖武天皇が「弱の浜」を「明光浦」(アカノウラ)とするようにされた。「アカ」と「ワカ」とは相通ずる発音である。
そして「玉津島」は「和歌」の神様を祀るところである。アカノウラはワカノウラ、ワカを「和歌」として「和歌浦」とした。

ところで「浦」に対して丘陵地である。の岡山、すなわち「若山」そして「和歌山」と、真疑のほどはともかく、以上のように伝えられている。
さて、藩政時代には「若山」と統一されたようであるが、そのうちに「和歌山」も用いられ、明治になってそれが確定された。

郡名は有田郡(アリダノコオリ、アリダグン)
「アリダ」(在田、有田)の称、これまたその由来がはっきりしない。
日本書記に荒田皇女(アラタヒメミコ)、古事記に木之荒田郎女(キノアラタノイラツメ)の名がみえ、当地方の1部が、この皇女の封地であったところから、アラタ(荒田)がアリタ(在田)になったのではないかとの考証もある。
さて、日本書記に、わが郡のことを阿提郡と出ていてこれが、わが郡名の書にあらわれた初めである。
「阿提」はアデとよみ、その後、阿弖 (阿氏とも)と書き、それから後「安諦」と書いた。いずれもアデと呼んだのだが、平城天皇大同元年7月(806)に、「在田」と改めた。その理由は、天皇の諱が「安殿」(アデ)であったからだとある(日本後記)。
それ以来ずっと「在田」でおしとおし、明治以後「有田」と書くようになったーというが、厳密なものではなかったらしく、日本霊異記(弘仁年間成立)にすでに在田とあるし、郡の古図、元緑の図にも有田と出、明治になっても有田、在田と両方用い (明治沿革帳、地誌提要)、はっきりしてきたのは、「郡区編制、新郡区編制」に有田ときめてからである。

町名は広川町(ひろがわちよう)

広川町名は、昭和30年4月1日、町村合併によって、当時の広町、南広村、津木村の3町村が合併して新たにつけられた名称である。
「広川」は文字通り川の名で、この川は大きなものでなく舟の便はないが、清流で、田畑の灌がいをして3町村を養ってきた。そしてこの川は他の町村領域を通っていない、わが町だけの川である。それで新町名として採用されたので実にふさわしい町名であろう。
そこで以下に、広川町の全「大字名」「小字名」そのほかに公式ではないが 「伝えられている場所の名」をあげて説明を試みるのだが、わからないことのほうが多いのと、地名だけあげて何の説明もない箇所は、資料不備と考察不足とで、今はどうもしようがないが、今後の研究を期待しようと思う。

広川町
現在の広川町の全地域は、昔、広荘 ヒロノソウといい、この名の初めて「文書」にあらわれたのは、応徳3年(1086)那智山尊勝院文書で、それには広荘のうち13町5段の地を熊野那智神領として寄進した記事にでている。
中世のころは土豪「湯浅氏」の所領となった。次いで書にみえるのは文治2年(1186)に、蓮華王院の領であったとのことが「東鑑」にみえる。
元和8年(1622)紀伊藩は、封内を67組の「組」とした。わが有田郡は5組に分かれ、5人の大庄屋がおかれ、広は湯浅と合して湯浅組となった。それで湯浅組湯浅村、湯浅組広村、湯浅組上津木村などと呼ぶようになったのであるが、実際は、荘の名は消えないで残っていて相変らず湯浅荘湯浅、広荘広といわれたようである。

広荘はすべて16ヵ村あって、今の広川町の大字数とほぼ一致する。つまり現在の「字」は当時の「村」であった。そのころの(明治初年まで)16ヵ村は、広村、山本村、中野村(今、上中野)、和田村、西広村、唐尾村、金屋村(今、南金屋)、名島村、中村(今、東中)、河瀬村、殿村、井関村、柳瀬村、前田村、下津木村、上津木村であった。なお上津木と下津木はおのおの小名があって、上津木には、中村、猪谷、落合の3つ、下津木は猿川、寺杣、滝川原、岩渕の4つに分かれていた。
ところで、宝暦のころ(1751〜64)の地方文書に、上記の16村へ、池ノ上と鹿瀬とを加えて18ヵ村とし、前記上、下津木の7つの小名をおのおの「村」として7村に数え、これを「上郷」と称し、他の16村を「下郷」と呼んだこともあった。
(付記、滝川原はいま滝原とよんでいる。しかし古い文献は滝川原で、これと同じ地名が有田市内(旧宮原村)もあるので、変えたもようである。)

大字広の部 広ヒロ
もともと広の地名は、広荘といった時代の「大名」であり、中世には「西広」と「東広」とに別れていて、現在の広と名島とを合せて東広といったこともある。現在の広の町は、古くはほとんど海中であったのが、後に陸地となり、海運送の便がよかったところから人家次力に満ちて、富豪の者も多く「広の町」の名がおこった。その後畠山氏が邸宅を建て、ますます繁昌するのにつれて土地が狭いので、海岸に4百間余の波除石垣を西北にわたって築づき、家宅を建て出し、郡中の1都会になった。
ところでこの地は地勢上、しばしば津波におそわれてきたが、とくに宝永の高浪(1707)に1村ほとんど流失、地形も変ってしまったところもあったが、その荒廃した地に家宅を建造し、ようやく町らしくなったが、名を改めて「広村」ということにしたという。
「広」も千軒、湯浅も千軒、同じ千軒なら広が大きい(または、よい)。など謳われたのは恐らく津波以前の時代であったろう。
慶長検地帳にも、広庄「町」と記載されている。南、中、北、西、湊、宇田の6組に分け、そのうち縦に大筋が3つあり、田町、中町、浜町といい、横の大筋は新町、御幸道などの名があり、そのほか小さい町名が多くあった。
小名「宇田」は村の東北一帯の地であった。
小名「寺村」は村の南にあって、相当人家もあったが、高浪のためほとんど廃滅してしまった。 (1時は80軒もあったという)。
以上は今から百年も以前の広の町の姿であり、そのころの家の数は4百〜5百軒まで、人口は、8才以下の小児を除いて千5、6百といったところであった。(寛政5年(1793)の調べでは2122人もあった)。
広には以下にあげる小字名がある。

小名 宇田 ウダ   小名 寺村 テラムラ
宇田も寺村もともに広の小名であったが、今では忘れ去られてしまった地名である。宇田は昔は1村なみにあつかわれていたようで、庄屋などの村役人もおかれていた。旧家であり地士でもあった竹中助太郎家がこの地にあり、竹中家の祖先が宇田源氏の出と伝えられたところからこの地名がついたといわれるが、元来ウダの地名は総括的には、低地、砂地、また泥田とかの意味である。現在の東町一帯の地をさしていたもようである。
寺村は耐久中校地から日東紡績工場より南方へかけて存在した広の支郷で、相当数の人家もあり、現在上中野の法蔵寺もこのあたりにあったとの伝承もあるが、宝永の大津波で完全に流失滅亡してしまい、津波の後も多少の人家が残っていたもようであるが、それも高台へ移り、今でははっきりした地点を指示できないほど地形も変ってしまった。

下河原 シモカハラ
広町の番地はこの地からはじまっている。広川町広1番地がここにある。

上河原 カミカハラ
墓地葬儀場があった。下河原、上河原はともに礫地、川床、広川の河原の意から出た地名と思われる。

森崎 モリサキ
「森」とつく名は他にも出てくるが、実際は木の繁った森をさすのだが、神社や祠のある場所もまたモリであ
った。小社のあった「烏の森」の附近にあたるので名付けられた地名ではなかろうか。

森下 モリノシタ
この地に「鎮々社」という小詞があった。社名がチンチンであるので、雀の鳴声になぞらえて「雀の森」と呼口にんだところから出た地名だろうか。

大畑 オオハタ
大畠とも書く。少し高地になっている。ここの台地に教専寺があり、大水のときにも、ここは浸らなかった。
竹中家、佐々木神官家の墓域もこの地の一角にある。

下長川 シモオサガワ
たんにオサ川とも、別に新田川ともよばれる小流が「院の馬場」道を横切って流れいる地域で、実はここが昔の広川の主流であった。現在の広川は慶長年間につけかえられ、その跡を田地としたのである。現広川提に添った一隅に旧墓地がある。

浜添 ハマダエ
天州と向い合った地で、院の馬場の西側一帯を占める地。現在自動車教習所から養源寺堀のあるところ。この堀は広川口に通じていて、今では狭く浅くなってしまっているが、以前は相当大きな船も数多く避難できた堀川で、新田川もこれにそそいでいる。
畠山ト山が高城が陥ちて、淡路へ逃げるときここから船出したという。またこの堀に舟をつないでおくと虫がつかないといわれた。

上長川 カミオサガワ
下長川と南北に隣りあっている地である。ここに「出水」 デミズという地名が残っているが、以前は清冽な水のわく「弘法井戸」があったという。昔から明治28年ごろまで続いた「虫送り」の祭があって、八幡社からここまで、手に手に松明をふりかざして送ってくる行事があった。

森上 モリノウエ
今にモリさんとよぶ小社がまつられている。国主明神の祠のある大きな森があって、一般に「からすの森」といった。

大木 オオキ
昔広川からこの地に大木が流れついたとか、大木が生い繁っていたからだとの伝えが残っている。この地の一角舎がは角に避病舎を建てていたが今はなくなっている。

水分 ミワケ
旧広川流域と関係ある土地と考えられる。現在も「ゆずき」の水を田に引くとき水を分けるところである。俗にミヤケともよんでいる。

沼政 ヌママサ
地名の意味は解しないが、ここにも「とんびの森」とよぶ森があって大将軍社の祠があった。

家添 ヤゾエ
今では家が建ち並んでいるが、広の集落に近く添った地であったからであろう。

津久松 ツクマツ
現在広川町役場や安楽寺のあるところ。地名の意味は不明。なお安楽寺の隣地の今は民家の屋敷に、もとの耐久舎があった。

門田 カドタ

双六殿 スゴロクデン
いわくありげな名であるが不詳。いろんな伝承がある。広八幡社の祭りにここで田楽踊りをしたのだという。
現在も祭りの行列がここまでくると「シッパラ踊り」(田楽踊)をする。昔はこの辺に八幡社の才二の鳥居があったのだと伝えらる。

平田 ヒラタ
読んで字のような平坦な地。現在広幼稚園や広小学校のあるところ。

大道 オオミチ
現広川町中央公民館や青少年会場のあるところ。大道には、市場の波戸へつづく往還であり、文字通り大きなよい道であったからであろう。

下沼 シモヌマ
一帯に田であるが低地である。日東紡績の揚水井戸がある。

上沼 カミノマ
下沼の上手にあるからか。

釜の渕 ガマノフチ
湿地田で、ガマは蒲の意か。現在の清水川がこのあたりで渕をなしていたのかも知れない。

清水川 シミズガワ
江上川へそそぐ支流の流れるところ。

段 ダン
清水川、釜の渕にそってここから1段と高地になっている地。

東道 ヒガシドウ

北道 キタドウ
かってここから石仏などが出土したことがあり、法蔵寺の旧地は実はこの地のあたりではなかったかとの説もある。この石仏は西ノ浜土提の子安地蔵の場所に移している。前述の寺村がこの地におよんでいたのか。日東紡績の整地、耐久中学校現校舎の整地のときも石仏や墓石が出土しているので、一帯が昔の寺村の跡かも知れない。

宮之前 ミヤマエ
広八幡社の西側にあたる地。神官の宅や日東紡の社宅などのあるところ。それで、道をへだてて前にある八幡社殿や境内は、旧南広村上中野に属することになる。

江上 エガミ
江上川にそい川をへだてて字山本に接している。以前川の南岸土手には柳の並木があった。

五総田 ゴソダ
湿地沼田であったところ。この地に現日東紡の前身の内海紡績が大正13年12月に設立されてからこの付近のもようが一変した。

大浜 オオハマ
江上川にそい字和田と向い合っている。浜に面して畠山氏が築いたという石提はここまでで終っている。その浜にはとき護堤神として恵比須神を祀った。俗に「西のえべっさん」と呼ばれた。その跡地が石灰工場となったが、これも今は跡形もない。
この大浜の海に面した一帯に松林があり、津波以前は相当人家もあり繁栄したところらしい。安楽寺ももとはこのあたりにあって、松崎といふ地名ものこっている。現耐久中学はここにあり、校庭には新しく建設された梧陵翁の銅像がある。(昭和42年1月31日除幕 )。

南之町 ミナミノチヨウ
元町ともいっている。梧陵翁の築いた土堤がここまできていて、耐中の門はこの土堤を切り開いて作っている。
この付近に「森」があって祇園社があったが、その跡にキリスト教会が建っている。ここの土堤に子安地蔵の小祠。徳本上人名号碑(溺死者の霊を弔う)や、近くに広町の忠魂碑もあり、小公園のような場所になっている。

中之町 ナカチョウ
浜側は防波堤防潮林。この町内に明治41年まで覚円寺があって今も墓地が家並の中に残っている。この寺は同年8月安楽寺に併合され、跡は民家になってしまっている。
この辻に昔は八幡社の鳥居があって、その台石も残っていたというが、今はもちろんわからない。江戸末期ごろまで祭礼のときだけ青竹で仮の鳥居を立てたという。

南市場 ミナミノイチバ
道をへだてて北市場と隣り合っている。今は宅地になってしまっているが、ここにも明治12年ごろまで俗称「お伊勢さん」と呼ぶ大神宮の小祠があった。北市場とともに海に面した一帯が昔の舟着場で、いろいろな物資の葉散場所であった。

北市場 キミ、イチバ
海に面した場所は南市場とともに一帯が昔の市場をなしていたところ。ここに現在鉄扉があって津波高波の際にこれ閉じて水補防ぐ。鉄を赤く塗っているので俗にアカモンで通っている。海につき出た小波戸があり、その起点にあたるところに「感恩碑」が海に面して建てられている。この辺一帯はたんに市場と呼ばれている。
町角に正覚寺がある。

湊之町 ミナトノチョウ
町内に円光寺があり、広にはじめておかれた巡査駐在所は同寺の門の隣にあった。この町内に、大将軍社の祠あり討約3百年ともいわれいちこうの大木があったという。)との小学校、役場もこの地にあった。

天洲 テンス
海に面した大松林、海水浴場、昔はここで地曳網も引いた。広八幡祭礼渡御はここまで来てみこしを海につけたりした。沿岸漁業の盛んなころは網納屋もあり、漁船の揚げ場でもあった。堤防の側に湊の恵比須社を祀る。
かって合祠の際伐り倒されそうになった老松は、当時の浜口吉右ェ門氏の保護で助った話もある。養源寺堀が入りこんで来ている。古く避病舎がこの一隅にあった。今は西有田県立自然公園のうちにふくまれた風景のよいところ。天洲の地名は考えがおよばない。

和田 ワダ
大字名である。昔は永井氏が1軒で1村を作っていた。天皇谷にある。ここに祇園さんすなわち牛頭天王社があった。この「天王」が「天皇」と地図に書かれてしまった。ここに南龍公が築いた大波戸が海中につき出て、て、広湾を波浪から守り船着き場でもあり、大風浪のときは湯浅からも船が避難してきた。今は海が浅くなってしまった。この波戸の起点のところに南龍公を祀った藻苅社があって、波戸神さんと呼んだ。
もともとワダの語は、河川の曲流で、やや広くまるみのある平地になった地形をさす。最近、天皇山は観光道路がつけられ頂上に登るとすばらしい景観を呈するし、また腰部になった路を越えるとアエの浜に出る、魚釣りの名所である。アエには昔、農家が1軒あったが、今は他所に移ってしまった。付近一帯を切り開いて観光客を迎へる設備も出来ている。ア工は「饗」で、曰くありげな名であるが、はっきりしたことは不詳。
江戸時代、広の浦から西国や関東に出かけた漁船や廻船を、家族の者が船影が水平線下に没するまで見送ったというのも、この天王山からであり、そこへ登る道を「おかた坂」とよんだという。おかたはお方で妻女のことである。
今、波戸の起点のところに造船所があり、付近の浅海(昔は深かった)に、大正10年(1921)ころから「アサクサノリ」を養殖をしている。


旧南広村之部
明治22年町村制施行の際、南広村ができたのであるが、そのときまでの村が11あった。この11の村が1しょうになって南広村となったわけで、この村はそれぞれ大字となったのである。すなわち唐尾、西広、山本、上中野、南金屋、殿、井関、河瀬、柳瀬、東中、名島で、いつのころからか山本の小名である池ノ上を大宇なみにし、普通12大字としている。
南広の名義は、文字通りその位置が、だいたい広村の南方にあたっているからであろう。ごくすなおな名である。このうち名島、東中、西広はほぼ平地で、その他は山際の高地が多く、そこに田畑や人家がならぶ。東は広川に沿って旧熊野街道が通る(国道42号線も)。西方の唐尾、西広、山本の1部は海に面している。昭和30年町村合併によって南広村は発展的解消をしたのである。

大字唐尾の部 唐尾カロ
北西にかけて海に面し、半農半漁の地である。南および西の境界は日高郡由良町である。背後南東に山を背負っている。カロなる名義は、洞。 空洞。山を背負う土地。という意であるが、唐尾と書かれているので意味はわからない。

須河(川) スガワ
字西広と接っしている。現在の西広分校がある。土地の人はスゴとも通称している。スガワはスカで砂州のあるところをさし、スゴは比較的小さい谷間のところを呼ぶ名である。

丹波 タンバ
須河の西にあたり棚田の多いところである。タンは台地をさす語である。

東浜 ヒガシハマ
波打ぎわであるが、南龍公が防波の石垣を築き良田が出来たという伝承がある。5段田という名の田がある。

王子田 オオジデン
オオジはオンジの転で一般に湿地をさす地名である。フトリ川とハセド川の間にあたる地。またなにか神事と関係があったとも考えられるが不詳。

森下 モリノシタ
善照寺があるがその森の下の意か。もともとこの森は里神の森であった。現在人家の多い場所である。

内台 ウチダイ
名義は不明。ウチダイ池あり。(唐尾の大池という。)

中筋 ナカスジ
里神さんという小名が残っていて、里神社があったが今はそのあとかたもない。

藪添 ヤブゾエ
神明社の跡がある。2アールほどの地をそのまま残している。作ると崇るという。楠の大木があったが、樟脳をとる人が土佐から来て切ってしまった。この地が唐尾村の発詳のところであったのではなかろうかとの、土地の古い伝承がある。永緑3年ごろ日高の由良から善八という人が来て網元になり、それは明治の末ごろまでつづいたという。

北垣内 キタガイト
藪添の東側に接してこんもりとしたところ。笹のはえている藪添に接している。
東中筋 ヒガシナカスジ部落のほぼ中央中筋の東側にあたる。

分木 ブンギ
唐尾では古く開けたところ。分木の辻という地点がある。最初の家は6軒だったという。ブンギの意味は不明だが、水が別れている地だからともいう。(最初の6軒の家は真言宗であったと伝えられる)。

向林 ムカイバヤシ
山寄りの地で鉄道のトンネルロがある。

戸立 トダテ
地域の東の端。ここから由良坂にかかる。地形からきた名ではなかろうか。

東池尻 ヒガシイケジリ
ウチダイ池の下方にあたるから。

水谷 ミズタニ

中瀬原 ナカセバラ

谷川 タニカワ
湧水が多い山地から出た名義か。

小池原 コイケバラ

ウチタイ池の上方に小池がある。

笠松 カサマツ
明治以前まで松の大木があったという。

滑谷 ナメラダニ
由良坂への道がここを横ぎっている。この地下に国鉄のトンネルが通る。ナメラをナベラとなまって通称している。表面の土砂が洗われて岩盤の出ているところをナメラともいうがいかがであろう。

権現森 タイコバヤシ
むかしこの山に大きなツツジがあって、それで太鼓の胴を作った。雨乞のときそれをたたいて踊ったという伝説がある。この地にもトンネルが通っている。

尾谷 オダニ
シラオダニまたはシラダニと通称している。

太鼓林 ゴンゲンモリ
権現社と神明社の2社の跡がある、合祠後の今日も小祠をまつっている。

清水 シミズ
権現森の西側にあたる谷で清水が湧く

鈴子谷 スズコダニ
ここから鈴子へ越していける。

久保 クボ
この地も人家が多い。クボは窪で一帯が凹地になっているところをさす。

尾崎 オザキ
里神社がある。合同後もまつっている。明治の合祀のとき唐尾地区の小祠を一たんこの地へ移したという。とくに神明の森は大楠の森であった。土地の人はオシメンさんと呼んだ。

西谷 ニシノタニ
尾崎の西側にあたりここにも里神社がある。人家の多いところである。

若宮 ワカミヤ
小波戸があり、舟ひき場である。海岸にえびす社あり、老松があったが今は枯れた。昔のお蔵跡があり今は海苔加工場がある。

樋尻 ヒジリ
ヒジリの「聖」の意に解したら別の意味が出てくるが、聖に関する伝承も聞かないので、結局この地名の意義も不明。この地も舟ひき場がある。土地の人はヒのシリと呼んで鈴子の池から水を引いてきたので地名となったという人もある。

城山 ジヨウヤマ
半島状の山で海につきでている。「城」に関しては何の手がかりも見出せない。ところでこの城山地域はもと陸から離れていたといい伝えられている。

山添 ヤマゾエ
城山の山が陸地にそっている一帯の地。

池ノ谷 イケノタニ
昔池があったというが今はない。 とするとさきの樋尻が文字通りに生きてくるのだが。

山畑 ヤマハタ
新県道が通っている。海側に面した地。

宮代 ミヤシロ
城山の半島と鈴子との間の地で、小さいがよい浜があって明治ごろまで塩をとった。

塩釜 シオガマ
宮代につづいて鈴子までの海岸筋にあたる。やはり昔の製塩関係の地名であろう。

鈴河東 スズカワヒガシ
鈴子の小川から東側にあたる地、もともとスズなる語はキレイなこと。このあたり水がキレイだからきた名と
思われる。この地域をまた鈴川東原ともいう。

野原 ノハラ
一帯の山地である。地下に国鉄トンネルが通り又由良坂に通じている。この由良坂にワニグチヤの松という大松があり、戦時中に伐られてしまったが、むかし天狗がよくその枝に腰かけていたという。池あり。昔ここを通る人は念仏をとなえたり、心経をよんで通ったという。

鈴河西 スズカワニシ
鈴子の小川の西側にあたる地。日高郡三尾川に接している。鈴子は鈴子谷一帯をさす総名であるが、この鈴河西に人家が6軒あり、鈴子網船頭の家でもと西広から伝8網の世話で移って来て開いたところといわれる。今から6代前もの人々である。なおこの地域を鈴河西原ともいう。

鷹島 タカシマ
広川町唯一の島であるが、地籍からいうと、鈴川西と柄杓井とのうちになっている。島のうち、観音堂のあった堂屋敷。堂ノ浦。三角点などのあるところが鈴川西のうちである。
南岸に近くム(モ)ロノキの瀬があり、南海地震前まで頭を出していたが、今は海に没してしまっている。なお高島と書くこともある。繩文、弥生時代からの遺跡が発見されている。明恵上人のゆかりのある島でもある。

大字西広の部西広ニシヒロ
中世の昔、広荘を「西広」と「東広」とに大別していた時期があった。
東広は今の広の町、名島、東中、柳瀬方面を含み、西広は、上・下津木を除いた地域の総称であったようである。その古い呼び名が現在大字名になって残っているのであろう。
山を背負い、海に臨んで由良街道が通っている。

恥方 ハジカタ
唐尾地区と境している。恥という字をあてているが、恐らくはハジ=土師で、大古土器を製作したことに関係ががあるのではないかと考えられる地名である。田畠の耕作中、土器片が出たこともある。なおこの方面で今まで発見されなかった、アンモナイトの化石が出土(昭和40年)した。小池4つあり。

独開 ドッカイ
名義は考え及ばないが、なにか仏教と関係ありそうな名である。いま、寺谷にある手眼寺はもとこの地にあったと伝えられ、古い墓石など出土したことがある。山の根に妙見社跡があり、的場という小名が残っているところがある。的場は神事に関係ある地名のようである。池2つあり。ここにも大楠があり、楠神さんとあがめられたが明治初期に切られた。

砂川 スナカワ
番太屋敷の跡がある、厳密な意味ではないが、今の巡査駐在所のようなものである。

森下 モリノシタ
妙見社の森があった。もとの西広尋常小学校(現、西広分校)のあったところである。この森にズク(ホルトノキ)の大木があった。

寺谷 テラダニ
このあたりが古い西広の集落のあったところといわれている。法昌寺はもとこの地にあったと伝えられる。今は埋められてしまったが、古い井戸がたくさんあったといわれ、最後まで残ったという屋敷跡の田が記憶されている。
寺谷池がある。手眼寺があり独開山の山号がつけられている。
寺谷池南方約百米の小峰に小峰の地蔵(今は手眼寺にある)があった。また今の国鉄暗キョ南側にあった地蔵もある。

身明 ミヤケ
ミヤケと読むところからミヤケー屯倉のあったところかとの考証もなされている。こうの巣と通称する地点があるが、かってコウノ鳥が渡ってきたのだろうか。

鉢木 ハンノキ

石原 イシハラ
むかし海岸地帯であったらしい。明治以来西広小学校が置かれたのは現法昌寺の鏡内である。今公民館になっているところ。青年会場もここにあった。法昌寺には観音堂や地蔵堂もあったが今はない。

馬立 バリュウ
名義はわからないが、伝説として昔、手眼寺の観音の前を乗り打ちしようとすると馬が立ち止って進まなかったとの話が残っている。

松本 マツモト
宝永の津波のとき、この地のシオンボというところまで波がおしよせたという。 シオンボは池ノ上へ行く道である。

車田 クルマダ
この地にマイゾノと俗称するところがあるが、クルマと何か関連があろうか。もともと車輪状に似た地形のところを車田というとの説もある。

北谷 キタダニ
北谷池がある。この池は、むかし池ノ上にあった池をつぶして新にここへ造った。それで、もと池ノ上にあった池は今は田になっているが、俗称大池とよばれているとのことである。化石で有名な貝石山はこの地にある。

金剛谷 コンゴウダニ
仏教に関係ありそうな名であるが未詳。

北山 キタヤマ
東池、西池という池がある。

浜前 ハママエ
海に面している。お蔵跡がある。鳥羽氏が祀った宇佐八幡社の跡も畑になっている。このあたりに真宗の道場(広安楽寺末)があったが、明治の中期以前に廃され、その建物は移されて安楽寺にある。

大場 オオバ
海に面している。浜の山と通称している丸い形の山があって、万葉集に出てくるオオバ山はここをさすのではないかとの考証もある。
金比羅社跡がある。海岸近くにエボシ岩というのがあり、昭和になって台風のため、轟音をたてて転落、今さかさまに海中に坐っている。この一帯で砕石したこともあった。

樫長 カシナガ
大場とともに県立西有田自然公園に指定されているところ、地質学上有名な名南風鼻(ナバエノハナ)はここにある。カシナガの名義は考え及ばない。ナバエノハナにはゴトランド期の石灰岩がある。半島の上に徳川期のノロシの跡があり、また無群の色見をした場所がある。大場からこの地一帯に海水浴に適した場所がある。

柄杓井 シラクイ
シラクイと呼んでいる。海に面している。農家2軒あり。山本地区の小浦と磯づたいである。
なお、名南風鼻(ナバエノハナ)半島は、北側が柄杓井に属し、南側は樫長に属している。

大字山本の部
山本ヤマモト 小名池上イケノウエ 新田小浦 オウラ
大字広の南、江上川をへだてたところ。池ノ上および小浦を含むが、池上は大字なみになっていて、北原、南と分かれている。

東谷 ヒガシダニ
江上川の上流の山本川に接し半田橋がある。この川で上中野と境している。

森崎 モリサキ
境を接する小字下出に猿田彦神をまつる「森」さんがあった。それから出た名か。

西谷 ニシノタニ

下出 シモデ
氏神社と呼ぶ猿田彦社の跡がある。現在も森をそのままのこし、小祠をまつる。神社合祀のはてに切りひらかれた神の森で、今もそのままのこされているのは、広川町でここだけといってよい。

薬師堂 ヤクシドウ

堂垣内 ドウガイト

赤井段 アカイタン
3つの小字が隣り合っているが、薬師堂には現在光明寺がある。天正の兵火に災されたという大伽らんであったと伝えられ、この3字は寺に関した地名である。光明寺には古い板碑があり、切れば崇るというクロガネモチの古木がある。
光明寺から少し離れた田の一角に葉師の梵字のある板碑があり、つばき地蔵と呼んでいる。赤井段は水を「アカ」と言うのに因んだ名か。この地から山本石といわれる石を切り出したことがある。堂垣内も寺に因んだ地名である。なお、もと山本地区の氏神であって現在広八幡神社にある天神社は、1時この光明寺境内にまつられたことがある。今から560年ぐらい前の話である。光明寺の前から字、小広に通じる路に馬場小路という名が残っている。

東小広 ヒガシコビロ
この字を中心にして西小広、小広、広芝などの小字名があるが、広川町の「広」と関係ありそうである。この 一帯に古墳群のあること、高台であることなど、遠い大古から開けていた場所ではなかったろうか。

小広 コビロ
前記「馬場小路」のあるところ。

経塚 ケツカ
山本川にそい赤井段の南西にあたる地で、これも文字通り経塚といえば仏教寺院に関係深い名である。キョウで、ヅカをケツカとなまったものか。

上代 カミダイ
山本川にそい経塚の南西の方にあたる。この地の小名にカジヤ原という名が残っている。

管谷 スガタニ
明神山の大きな谷合いになる地で、山頂の厳に雨司明神をまつっている。管谷池がある。菅草の生い繁ったところからきた名であろうか。

中山ナカヤマ
池ノ上に属している。小池2つほどあり。 神明社跡があり、里神社もある。

曽根ソネ
ソネは砂地や、やせ地の場所をいう名であるが、他地方の側からみて、鎌倉期以降に開墾されたところかとも考えられる。

西小広 ニシコビロ
池之上に属する地。じょ穴古墳のあるところ。墓地あり。南原に法専寺がある。

中川 ナカガワ

下代 シモダイ
池之上北原の地。弁財天社跡あり。もと古くこの地に大池があり、中世埋めたてて田になった。通称としてオイケの地名が残っている。代ダイは土地区画の名であるが、「坪」より以降の用字である。なお、池ノ上の地名の起原は、このオイケの上に位置するところから名づけられたのである。また今は跡方もわからないが、この地に「イタチの森」という。「森さん」(小祠)があった。

長山 ナガヤマ
破壊されてしまったが長山古墳群のあったところ。 このあたり一帯に古代豪族がおったことが証明される地域である。

広芝 ヒロシバ
高良明神社、弁財天社の跡がある。小池あり。

黒岩 クロイワ
蓮のはえた池あり、ロッポウ池という。

大谷 オオタニ
光明寺境内に移された天神社は、寛永13年今から330年ほど前この地に移され、乙田天神社と呼ばれた。
今もその跡が完全に保存されている。

天神谷 テンジンダニ
大谷と隣り合っていて江上川にそっている。高良明神社跡があり、大きな楠の木があって「楠神」さんとよばれたが今はない。

江上 工ガミ
庚申堂、淡濃山稲成社、淡濃山の北麓に東浜口家の、南麓に西浜口家の墓所があり、東側に古田、岩崎両家の墓地がある。庚申堂と東浜口家墓地との間に、男山焼の原石を採取した跡がある。

白木 シラキ
海岸に面している。乙田天神の渡御の浜ノ宮の跡、白木の浜がある。一帯は白っぽい感じのする地である。小池2、3あり。数軒の民家があって、景色がよい。

奥白木 オクシラキ
白木と隣り合って西側になる。海にそっている。小池2、3あり。

小浦奥 オウラオク
奥白木から続いて海に面している。

小浦 オウラ
小湾の浜に面して風景のよいところである。海岸の小さい岬は岩石がかさなり趣がある。数軒の民家がある。
むかし紀伊藩の援助を受けて開発した、新田で、今もここに住む牛居家が南龍公を祀っているという。
この地から小量だが陶石を堀り出しているが、石英質砂岸で良質の陶土となる。
海岸に立神というところがある。

上中野 カミナカノ
昔の中野村。この名は郡中いたるところにある名で、町村制実施後、昔の村が大字になったとき上中野と改めたようである
ここの中野の名義は広村に対する名で、広村の南方にあたる広野からきたものといわれる。室町時代の末、崎山飛弾守家正が地頭として広荘を領し、その居城を「堀の平」 ホンノヒラに築いたという。

末所 マツシヨ
地名の由来は考え及ばない。八幡神社の鳥居、明王院、葉師院の跡、古坊井戸がある。

外尾山 ソトオヤマ
男山に西面した場所にあたる地、昔、畠山合戦で首を切られた武将をまつったという久馬地蔵があり、それが、くるま地蔵という呼び名に変っている。もと南広村の避病院があった。この付近の畠から石器が出土したことがある。小池が2つある。男山の頂上を開いて「ひぐらしの芝」と名づけ遠望のところとした。その南方に庚神の小祠がある。

尾山 オヤマ  内尾山 ウチオヤマ
ここに男山焼の窯跡がある。衣奈谷池外に小池があり。観音山という小丘があり、33番の各観音石仏をまつった堂が頂上にある。

寺裏 テラウラ
法蔵寺の東裏側にあたるところから出た地名だろうか。

馬上 ウマガミまたはバジユウともいう。
広八幡社境内はこの地にある。境内の森林は風致保安林。両部の神社であったので広い境内に観音堂跡、塔、鐘楼あとなどがある。林の中に悟陵翁の記念碑がある。境内の前の道が祭礼のとき馬場になって、ヤブサメが行われた。こも池、耳地蔵などこの地にある。

宮前 ミヤマエ
広地区に属する地にも同様の小字名があるが、これと同様八幡社の前方にあたるから、2つの同地名がならんでいる。たんぼの地蔵さんと呼ぶ腹痛にきくという石仏がある。

後の坪 ゴノツボ
坪は元来田の区域を示す語である。

下栗田 シモクリデン
クリデンのクリは、クレの変化で北西、北向きの地という意と、小岩石の多い土地の両方の意味があるが、はたしてこの地はどうであろうか。

上栗田 カミクリデン
下栗田と続いて南方にある。

大芝 オオシバ

志出河 シデカ
ここに志出河池があって、これから流れる小流を山本川と呼んでいるが、宮前、後の坪、上栗田、下栗田、大芝はこの小流に面している。山本川はやがて江上川へそそぐ。上柴田と下栗田の境のあたりに半田橋という小橋がある。

坊野 ボウノ
坊野池または坊野谷池、古が谷池の2つがある。幕末のころ、西川氏が開拓したところといわれ、シンデ(新田)とよばれている。ボウノのボウは、小平地をさす語である。

新古 シンゴウ
新郷の意味で、中世土豪の手によって新に耕地を開発した場所との説もある。

堀ノ平 ホンノヒラ
新古より先に開けた地という。ここに中野城跡がある。(崎山飛弾守家正は湯川氏に属した。)

西山 ニシャマ
ここに庚申社があったが今は法蔵寺に移している。坊野谷池は地藉からいえばこの地になる。

大谷 オオタニ
さいの神とよんでいる社があり、山始めに串柿などを供える。山の神ともいわれる。小池あり。

高野 タカノ
光見寺池、大将軍社祠、念仏山、区の墓地などがある。

上半田 カミハンダ

下半田 シモハンダ
2つならんで西側に「門の西川」東側に「堂の本川」という小流がある。ハンダは判田で、土地を分けたときのサイメだという説と、ハンダはネバ土のことだとの説がある。

下萩平 シモハギヒラ

上萩平 カミハギヒラ

下垣内 シモガイト
3小字とも地つづきで「堂の本川」にそっている。下垣内には住吉神社、上萩平には供養塚ととなへる名号石があり、疫病流行のときまつるとの伝承がある。下萩平に馬目地蔵があったが、今は法蔵寺に移している。尚下垣内には駐在所、もと南広役場跡がある。

小松尾 コマツボ
小池あり。

内の平 ウチノヒラ
ここに三角点がある。小池2つあり。東にサイノ神をまつり山始めにみかんなどを供える。

山口 ヤマグチ
坊主池という池があり、その東側に明王院、薬師院の墓地がある。

薊谷 アザミダニ
皿池という大きな池がある。「ぜにがせ街道」という間道がある。

上垣内 カミガイト
妙見社跡あり。

中ノ平 ナカノヒラ
この池に現南広小学校、法蔵寺、上中野公民館、昔の御蔵跡などがある。

下垣内 シモガイト
八幡神社の道を南へ直行して字馬上と向い合っている地。もと南広役場のあったところ。現公民館、南広連絡所、巡査駐在所などがある。この地内に住吉社跡がある。

東谷 ヒガシダニ
3畝ほどの藪があり、妙見の森といわれ、人は立ち入らない。もちろん竹木も切らない。中に5輪石塔の破片などあるという。 中野城跡はこのあたりではないかとの説もある。


大字南金屋の部 南金屋ミナミカナヤ
釜屋村と書かれたときもある。 古く名島村の鋳物を業とする人たちが開いた村ともいわれている。町村制の実施以来鳥屋城村にも金屋村があったところから、こちらを南金屋と呼ぶようになったらしい。

陰ノ岸 カゲノキシ
陰地の意でつけられた名か。西の端が「たんぼ川」(宮川、ナギ川ともいう)が流れる。1本松の(下馬の松)があり、短い石橋がかかっている

堀ノ内 ホリノウチ
変電所のあるところ。陰ノ岸、鴨田、沼筋などの地名と並び続いているところであるが、いづれも水に縁のある地名である。大古の広川が曲流していた地かとも想像される。

鴨田 カモダ
別の解釈でカドダ(門田)のなまった呼び名との考証もある。


法花 ホッケ
ホキ、ホケなどの語は崖のような場所をさす語であるが、これと関係ある地名か。
中グルナカグルグルはグリに通ずる語でクリ石、グリ石など川原石などを指す語、整地開墾の際石を集めて捨て場所にしたところからつけられた名が。またグルには叢 (方言グルッポ)の意もある。

大代 オオシロまたはオオダイとも。
代のつく地名はほかにも説明したが、代をシロと読まないでダイと読めば土地区画の名となる。シロと読めば城塞だが、また、別に、丘上や山腹の平坦地の意もある。

切畑 キリハタ

出ロ デグチ
金屋部落からの出口にあたるから。

沼筋 ヌマスジ
たんぼ川が西を流れている。幾分低地になっている。今も大雨のときは冠水しやすいところ。

小山 オヤマ
衣奈谷池外に小池1つあり。弁財天の小社があり石灰岩を切り出した跡がある。小山は読んで字のごとく高台になっている地だから。ここから出る石灰岩にウニの化石がある。

西岡 ニシオカ
部落の西側にあたり明神山の尾根で土地が高い。西ノ川という小流がある。御蔵跡や馬目地蔵という行路病者を葬った石碑がある。

岡峰 オカミネ
岡本とした図もある。地形からきた名か。

畑出 ハタデ
デは分村の意がある。元の住居からこの地へ行って開いた畑の意か。

前坂 マヘサカ
明神山の1部になっていて、部落からみて前方の山手にあたる。

浅良 アサラ
前坂の東方。庚申社あり。また亀石という岩がある。

中出 ナカデ
部落の前山の中央あたりに位置する。

大法 ダイホウ
たつみ池がある。むかし「大法」という山伏が住んで居たという伝承がある。

東山 ヒガシヤマ
部落の前山で東方にあるから。小池2つ3つあり。

東出 ヒガシデ
東山と並んだ地で部落の東方にあたる。新の池がある。蓮開寺、公民館があり。蓮開寺は、はじめて村役場や駐在所がおかれたところ。

殿 トノ
昔からトノの地名は何か日くありげに考えられてきたがまだ解明できない。地頭か高貴の人が住んだ地と考えられる。

井ノ原 イノハラ
広川が御所野(井関地区)を通って、先開(井関地区)井ノ原 (殿地区)の地で大きくU字型に曲っている。
殿井橋は井ノ原から先開へかかっている。その上手に大きな「段の堰」(だんのゆ)がある。殿井橋は、トラス橋で、トラス(骨組)の型式が大きく半円になっていたので、タイコ橋と俗称され、この辺りの目標ともなり、旧熊野街道。旧国道。今の国道42号線と街道筋の重要な橋である。現在国道の改修で、この橋も普通の型に変り、なつかしいタイコ橋の名も消えた。橋の話が主になってしまったが、明治未期ごろ広の渋谷伝八がここへ木橋をかけ、通行税を徴集したことがあり、1銭橋の名も古い人の記憶に残っている(但南広村民は無料にした)。
イノハラは「水路ある野」と解される。

十郎 ジユウロウ
井ノ原とともに広川にそった地であるが、十郎を人名とすれば、「名田」のなごりではなかろうか。

楠ノ木 クスノキ

風呂ノ上 フロノ工
風呂の名義は、浅瀬に水の温むところ。古代の窯跡。文字通りの温泉だと、いろいろと解されているが、この風呂ノ上はどういうところから名付けられたか考えおよばない。

3歩1 サンブイチ
耕地を分けた地名。
(3分1、6分1などの地名が他国にもあるから)。

町通 チョウドオリ

大代 オオダイ
南金屋地区の「大代」と隣りあっている。代ダイは土地区画の名称である。

藪下 ヤブノシタ
ヤブは文字通り「竹藪」のことでもあるが、「神の居るところ」の意もある。付近に藪があったのか、神を祀ったのか今は考えおよばない。

土井 ドイ
名義からいえばドイは豪族屋敷をとりまく土手のことであるが、このへんに殿の地名の起りと関連づけられないだろうかとの思いがする。小池が3つ4つあり、墓地のあるところ。

南通 ミナミドオリ
山手の方に午頭天皇社跡がある。

中通 ナカドオリ
ほぼ字の中央あたりをしめている。気鎮社俗にオケチ大明神がある。

北通 キタドオリ
段の堰の西側にあたる山に採石場があった。42号線のつく以前は、この字の東側にある正法寺の前を南進して「水越ごえ」をする車道があったが、今は荒れている。この地の西方に雲光寺があったが、昭和11年1月5日焼失して廃寺になった。墓地は旧檀家によって守られている。

井関 イゼキ
広川に設けられた堰が方々にあり、これがこの字名のおこりと考えられる。井関堰である。 旧熊野街道の往還にそって家が並んでいる。殿の南方にあたる。熊野街道の往還で、河瀬へ通じて昔はここにも旅篭が多かった。
伝承として、この地はもと「中島村」といったという。それがやがて井関とかわったのだというのである。

先開 センガイ
殿井橋をはさんで殿の井ノ原に対している。井関王子社の跡がある。旧熊野街道が井関地域に入る北の入口にあたり、「井関王子か先開か…」という歌の文句のような言葉が残っているが、この地域が先ず開かれた地とでもいう意か。稲成神社渡御のとき、ここの井関王子社は浜の宮になっていたという。殿井橋がある。

津兼 ツガネ
ツガネの意味不明。津兼池があり、津兼王子社跡がある。椿の古木があり、瓦の破片なども見えたが、今でははっきりした跡はわからなくなった。古い王子社であった。また井関稲成社の祭礼のときの御旅所でもあった。

北垣内 キタガイト
さきの津兼王子社は厳密にいうとこの地域に入る。

宮ノ前 ミヤノマエ
宮のある地をさす全国的にある地名。現在井関分教場のあるところ。稲成神社があり、霊泉寺という寺もあった。 後白河法皇が熊野詣での途次ここで老人に化けた白狐に霊泉をうけられたという伝説がのこっている。今、合祀後また社殿を作って祀っているが霊泉寺はない。霊泉寺の観音堂は現在円光寺の境内に移されている。
分校舎のあるあたりが寺跡で、ここに5葉松の大木があり珍らしかったが、戦時中に伐られてしまった。


門脇 カドワキ

奥垣内 オクカイト

三船 ミフネ
三船森という小祠があって、1本木という大木がありそこに「巳さん」がいてそれを祀ったといわれる。祭に竹馬に乗ってお渡りをしたとも伝えられ、古い信仰形態のように考えられるが、今は無い。 三船池がある。池の側に石地蔵あり。頂上の地蔵の峰で三角点があり、穴地蔵がある。

新開 シンガイ
新開墾地をさす地名か。三船の巳さんを祀る話はこの地のことであるとの説もある。

白井原 シライハラ
新開との境に広川にかかる橋がある。 (大滝橋 )。 白原王子社の伝承あるも、場所も社名も未確定。後に旧家、平次という者の屋敷うちに祭ったという薬師堂がある。またこの地名は高城落城のとき、ここに身をひそめた白井原三郎なる者から名付けられたものとの伝承もある。また別伝に、井関稲荷社や霊泉寺の縁起に、稲荷神に供える米を洗ったからだともいわれている。いずれも伝説である。

大滝 オオタキ
大滝橋を渡り広川の左岸にあたる地、広川が早い瀬になっていたところか。小滝とよぶところもある。

中ノ段 ナカノダン
いつのころか、昔ここに珍らしい亀がいたという伝承が残っている。段は台地のことであるが 、……段となると地積による地名である。

上ノ段 カミノダン

   開墾記念碑

優良なみかん園が開墾され多くの人の生活を支えてきた。
小池2つ3つあり。中ノ段と東西に隣り合っている。大滝からこの地にかけて山腹がよく開かれ、優良なみかん畑になっている。昭和6年9月5日から工事に着手して同10年3月に完成した。大滝上ノ段の畠地の一角に開墾記念碑が建てられている。面積16町歩工費4万9千5百円 代表者梶原政雄委員衣川文一、楠本謙一、竹中興太郎各氏の名がみえる。


滝ノロ タツノクチ
街道の西方に円光寺がある。広川の東岸に雌竜がすみ、西岸に雄竜がすんでいたという岩があり、恐れられた
という伝承あり。「巳」さん信仰が今も残っている。因に円光寺の山号は龍頭山という。

御所野 ゴシヨノ
殿井橋を渡った西側にあたる地。三味あり。円光寺の西裏側にあたる。御所野の名は、熊野参詣にからむ名からかも知れない。白河上皇が熊野への路で病にかかり、しばらくここで滞留、冷泉に浴したり飲料にされたりしたとの伝承がある。

大字河瀬の部 河瀬ゴノセ
昔の熊野往還である。鹿ヶ瀬谷から流れる谷川の瀬から来た地名。川の瀬である。
「御幸記」にツのせ王字という社名があるが、川を片假名のツと誤ったものといわれる。河瀬は川瀬でもあるから。昔からこの地と前田方面へかけて伊都野 イトノと呼んだ。今も土地の人は用いている。その意味は考えおよばない。
鹿瀬峠へ登る入口にあたっているので、熊野街道を旅する人のために、昔は旅籠が多かった。明治に入ってからは人力車の「たてば」もあった。
なおイトノの地名は元和3年(1617)8月の本山八幡社上葺の棟札に……伊都野前田河瀬両邑―と書かれていたのが今のところ古い文献である。(この棟札は今見あたらない。写しによる)。また前田地区には「いとのゆ(井)」の名もみえる。

畑垣内 ハタガイト
河瀬地区でここだけが広川をへだてている。 河瀬橋から上手にあたり、川の右岸である。 池あり……。カイトの名は今までにも各地にみえているが、カイトの意味は峡戸カイトの平地の字の名になりほとんどなになにガイトと語尾につけて使われることが多い。また豪族の所有地や小部落の意もある。屋敷のあった地とも解される。

五明 ゴメヨウ
橋を渡って広川の左岸にそった地。地名の意味は考えおよばない。

横繩手 ヨコナワテ
五明の東側の地、池あり。ナワテは畷か。また検地のとき、最初に「さし」をいれた場所の意もある。

片山 カタヤマ
地蔵寺のあるところ。境内に徳本の名号碑をかねて左右に紀三井寺道、いせ高野道の道標もかね、かつ飢饉のときの餓死者の供養碑にもなっているものが立っている。

西垣内 ニシガイト
となりにつづく内垣内とともに民家が並ぶ。丸型の自然石に道しるべを彫っているが、大水のときは左へと指示した親切なものがある。この辺一帯は昔の宿場で、旅人宿をした家が多く残っている。

内垣内 ウチガイト
西垣内と境に河瀬王子の跡がある。河の左岸河瀬橋の南詰。県史跡に指定されている。

前垣内 マヘガイト
谷川にかけた小橋を渡って鹿ヶ瀬道を行くところ。サイの神があって、これが前田八幡社と背中合せになっているところだという。

木戸口 キドノクチ
小字峠との境に馬留王子社があるが、王子社の位置は木戸口だとの説がある。地図では峠の域内になっている。
また神社の名薄によると奥の町ともいわれている。墓地あり。

下鹿ヶ瀬町 シモシシガセチヨウ
江戸時代ここから峠まで鹿ヶ瀬家の1村であった。河瀬村と鹿ヶ瀬村とがあったわけである。今も鹿瀬家が1軒だけである。同家がまつった観音堂があったが最近になってなくなった。この辺から上り坂になっていく。 徳本上人の名号碑と道標をかねた石塔がたっている。町チョウは耕地面積による地名という。

上鹿ヶ瀬町 カミシシガセチヨウ

奥ノ町 オクノチヨウ
鹿ヶ瀬城跡のある小城山はこの地域にある。

1ノ水 イチノミズ
1ノ水、2ノ水、3ノ水の名が残っている。1ノ水の奥ノ町と接した辺が城跡といわれる。

峠 トオゲ
明治未年ごろまで人家が3、4軒あった。昔は旅人相手の茶屋であった。この地域内に山王神社庚申堂などがあった。有名な伝説のある法華壇は今もあり、1里塚もあったがその跡は不明になってしまっている。椎の古木あり。鹿ヶ瀬峠は今は越す人も少なく雑草繁り、わずかに古道の石畳の残っているところもみられる。なお峠約5百メートル下に地蔵道標あり「是より紀三井寺7里」。


大字柳瀬の部 柳瀬ヤナセ
広川の右岸にあたる。東側が高城山の峰つづきで、これを背にしている。広川流域で水に縁のある地名が多い。
「梁」ヤナや川瀬に関係ある地名か。柳瀬は梁瀬だとの考証もある。

寺ロ テラグチ
柳瀬橋のあるところ、柳瀬部落への入口にあたる。柳瀬部落に往古大寺があったが廃退して忘れさられたもの。
か。又近くの名島の能仁寺に関係あった寺や、仏教に縁ある地名が残っている。この寺口もその現われだと考えられる。

流田 ナガレダ
広川に面していて、大水の被害を受けることが多かったところからつけられた名か。

中筋 ナカスジ
柳瀬部落の占める平野の中ほどにあたる意からの地名か。

沼筋 ヌマスジ
低地帯の意味からか。
山添マソエ
山林にそった陰地帯であるからか。

井原 イノハラ
大字殿、大字井関と接している柳瀬堰のあるところ。 大字殿にも「井原」の地名があり、 ここの地区のは「寺原」と書いた地図もある。近いところなので、この辺でいり混っているのかも知れない。(同1地名が方々にあっても別に不都合であるわけではないが)。

南谷 ミナミダニ
読んで字のごとく部落の南方にあたる。ここに白山社があった。一たん合祠したが後再びここへもどして祀っている。その際もと妙見谷にあった妙見社、これも合祠されていたのを、とりもどして、ここの白山社とともにまつることになった。

上高尾 カミタカオ

下高尾 シモタカオ
ともに隣り同志の地で、広川流域からの高台になっていて、この部落の集落をなしている。上高尾には柳照寺がある。高尾は高地をさすのであろうか。

石切 イシキリ
霊巌寺への上り道にあたる。石切谷とも呼んでいる。現在ここに簡易上水道の浄水場がある。

水ヶ谷 ミズガダニ
わき水の多いところ。上水道の水源地を作っている。30戸にあまる家の水を供給している。

狐谷 キツネダニ
井関の津兼字に接して、霊巌寺への登山路が通じている。

椎木谷 シイノキダニ
部落の1番集まった地で、湯浅町山田と背中合せになっているところで、山田へ通じる路がある。

寺谷 テラダニ
湯浅町青木と背中合せの地。中腹に平坦な場所があり、寺の跡と伝えられ、瓦が落ちていたといわれる。地名の由来か。記録にもなく確証はないが、能仁寺の1院があったのかも知れない。

折抗 オリクイ
地名の由来は未考。折抗池があって広田甫へ引かれる。この池のそばに「ハコヤ」の木があり、名島の妙見社の祭りに、神前にそなえる箸はこの木で作る例になっている。

畔谷 アゼタニ
折抗字の北側の地で小さいが池があり、折抗池とともに、広田甫へ供給するため下堰へ水をおとす。

妙見谷 ミヨウケンダニ
妙見社跡がある。南谷の項で述べたようにいまでは南谷で伺っている。
瀬戸筋セドスジ
段々畠の多いところ。

三味谷 サンマイダニ
名島と柳瀬の「三味」がある。共同墓地。


大字東中の部 東中ヒガシナカ
昔は中村といった。名島の南東にあたり、広川ぞいに熊野街道が通じている。東中は東方にある中村の意か、中村うどこにもある地名で、津木地区にもある。

上堀内 カミホンノウチ

下堀内 シモホンノウチ
南金屋地区の堀ノ内、鴨田に接し、隣りに川池川田と続いているところから、南金屋地区のところで述べたように、古い広川の流域ではなかったろうか。低地帯。水に縁の深い地名である。

川池 カワイケ

大野手 オオノテ
大農手とした図もある。ノテは本来、入会山のあるところ。しかし、ここでは該当するかどうか。

大畑 オバタケ

西垣内 ニシガイト

久保クボ
柳瀬橋がかかっていてその西詰にあたる。クボは凹地のことである。

東垣内 ヒガシガイト
西垣内とならび、ともに久保にせっしている。広川の左岸にそっている。妙見社があり、柳瀬橋の上手にあたる。

川田 カワタ
広川にそい、大堰がある。ここに水準標があって海抜1172と示されている。このあたりが旧街道と42号線が出合うところである。


大字名島の部 名島ナシマ
広川の北岸にまたがり、湯浅町別所に接している。昔から名島の名義を2つにわけて考え、島は大古この辺まで海が入りこんでいて、山の崎は島のような形になっていたから。「名」は大昔の郷名の「奈郷」といったその「ナ」であろうというのがその説である。だいたいそのように考えてさしさつかえなさそうであるが、奈郷のナだというのは、ちょっとまだ議論の余地がありそうである。
地名そのものからいえば小島や礁、川畔に関係深い名ではある。

下久保 シモクボ

上久保カミクボ
いづれも広川の左岸にあって隣あわせである。クボなる名義はいろいろな漢字に宛てて他の土地にもあるが、本来の意味は窪地、1段低い場所をさす語である。上久保は名島橋の西詰になる。

大農手 オオノテ
この字の東北の隅に地蔵石仏があったが、能仁寺へ移してしまった。地蔵の辻という名が残っている。この地蔵尊の台石が、紀三井寺道を教える道標であったのである。
なお大農手の地名は東中にもあるが、意味は考えおよばない。

4ッ辻 ヨツツジ
八幡神社への道にそったところで南広農協のあるあたり広地区と接している。国道42号線が通り、家や工場が多くまってきている。

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下林 シモバヤシ
4ッ辻とならんで工場が多く建てられている。

上林 カミバヤシ
下林とならび商店が多くなった。いずれも42号線にそったところ。

上名島原 カミナシマハラ
高地から傾斜地になっている山手の方面である。旧熊野街道が通り、車北隅の高地に能仁寺がある。小池あり。

中名島原 ナカナシマハラ
名島橋の東詰にあたる地。広川の右岸である。橋の側の地を「御蔵の芝」といい、昔のお蔵のあったところ。
今は青年会場がある。山手に妙見社祠がある。これも1たん合祀されたがもとへもどされた。付近の畠地に南北朝期と推定される宝篋印塔の断片が2ヵ所にある。うち1つは9輪と笠とが残り堂々たる作である。またこの付近に津守家の墓所がある。

下名島原 シモナシマハラ
上、中、下と広川にそった地続きの小字である。旧熊野街道が通っている。池あり、高城=名島城=広城はこの字に属している。


旧津木村の部
旧津木村も古くから広荘のうちであり、「津木8ヵ村」といった。すなわち前田村と、下津木中の猿川、寺杣、滝川原、岩渕の4村と、上津木村の落合、中村、猪谷の3村とである。

前田は北方が旧南広村に接していて、や、平地になっているが、上、下津木は 「津木谷」 の名があるとおり1つの渓谷の中にあって、東西南の3方は高山を背負い、多くの谷川によって村居を区切り、山間にあるので平地は少ない。
明治7年区制がしかれ、前田、下津木、上津木の3ヵ村にした。やがて明治22年市町村制によって、この3ヵ村を併せて津木村とし、上記3村は各大字となった。昭和30年町村合併によって、広川町となったのである。有田郡の東南端に位置している。津木なる地名の語源は考えおよばない。


大字前田の部 前田マエダ
昔の前田村であり、旧津木村の大字であった。現在は広川町大字前田である。津木谷への口にあたる。庵原、神代、露谷の3つの村居に分れている。津木地区は山間であり、平地は少ないが、この前田地区は稍平野になっている。
河瀬の項でも記したが、昔この方面を伊都野 イトノとよんだ。この名の古い記録にあるのは、前田本山八幡社の元和3年(1617)の棟札にこの名がみえる。

案原 アンバラ
案 案を古く庵とも書いている。山平に所主社の跡がある。名義は未考。

大江元 オオエモト

森下 モリシタ
神代山手に大宮神の社跡があり、今でも祭りにのぼりをたてる。森は社のことであろう。

高岸 タカギシ

畑中 ハタナカ

芝田 シバタ

池田 イケダ

砂取 スナドリ

中久馬 ナカグマ

宮前 ミヤノマエ
元の津木村社八幡社がある。広八幡神社の旧地であるとの伝承から本山(座)八幡ともいう。本座池という小池がある。

地明 ジメヨウ

柳 ヤナギ
字葛竜河と字柳の両水が広川に注ぐところで、深刻になっていて主(ヌシ)がおるという。山神社祉がある。

露谷 ツユダニ
三輪神社の跡がある。小池や川には堰がある。津木祭りには、今もこの明神の幟を立てている。

地主 ジシュウ
小池がある。三味がある。

葛籠河 ツヅラゴ
戸石谷と俗称している。明神社、所主太神社山神社などの跡がある。不動さんをまつる。ここは石灰岩が多くところどころに鳥巣石灰のレンズがある。明治年間から採石して石灰を焼いた。堰尾ユオに採石、亀の跡がある。小堰尾にもレンズがあるがとっていない。霊巌寺は大きな石灰山である。

串子 ロブジコ
猿川と境をなしている。この地に霊巌寺があり、大正池がある。天狗松という有名な松があった。太神社の跡がある。


大字下津木の部 猿川サルカワ
昔の下津木村の1小名であった。猿川の名義は考えおよばない。 前田の南方で、渓流をはさんで相せっしている。

東中 ヒガシナカ
堰があり、小池がある。妙見社祉がある。不動堂があり、大正期まで女子入室禁制であったという。かってこの堂が洪水で流失したが、尊像は発見され、それを迎えたときの道筋に「上りとの田」「歩き通りの田」などの名が残っている。境界に庚申がある。今不動堂に両方をまつっている。境内石垣の側にオドグスの大樹がある。

清水崎 シミズサキ
小池あり。堰あり。妙見社跡あり。熊野街道へ通じる道の岩壁がせまる危いところに不動尊をまつる。

丸山中 マルヤマナカ
妙見社跡がある。

寺杣 テラソマ
昔の下津木村の1小名であった。猿川の南方、川にそっている。
日高郡の由良興国寺(開山と通称)修造のとき、この地から大勢の木材関係者がいついたのでこの名がついたという伝承がある。

寺杣谷 テラズマタニ
妙見社跡あり。鳥松山に三角点あり。

塚原 ツカノハラ
弁財天社跡がある。

権蔵原 ゴンゾウバラ
この地の草分けが権蔵という人であったと伝えられ、権田神社の跡がある。小池あり。堰あり。元の津木役場跡に現支所がある。他に森林組合、農協、巡査駐在所などがある。

公門原 クモンバラ
旧家椎崎氏が公門職をして、この地におったので地名となったといわれる。椎崎池があり、堰がある。かってこの地から室町期の和鏡を出土した。栗宮(栗野とも)神社跡、天神社跡、山神社跡あり。広源寺あり。

滝原 タキハラ
古い書き物には滝川原となっている。津木谷川(岩渕川=広川上流)が、この地で急流になり、深渕にもなっている。地名の起りはこれと関係ありそうである。
ダム建設の予定地であり、準備が進められている。滝原トンネルがある。下津木村の小名であった。

留木 ドメキまたは ドミキ
枝谷にある小鶴谷コウズヤのロの川岸に冷泉が出る。地名は川瀬の音からきたか。落合への山路へかかるところ留木橋あり。

宮前 ミヤノマエ
妙見社跡あり。地名はもとより神社と関係ある名で、各地にみられる。

坂口 サカグチ
滝原トンネルのあるところ。これに協力し資金を出した当地出身の谷口又吉氏の顕彰碑が入口に建てられている。この洞のなかったころはこの山を越した。坂口の名のおこるところ。

大幸 ォォコ
大迫とも書く。岩渕への道へ川はばがせまっているところ。予定されているダムのロにあたる。

高畑 タカハタ
小鶴谷である。山神社跡、妙見社跡あり。椎木の古木があって、これにまつわる伝説もある。
昔は数軒の人家があったが、今では1軒しか残っていない。小鶴谷はコオズヤ。語源は不詳、高畑は文字どおり解釈できそうである。

下山田 シモヤマダ
長者峰のある地、左峰に三角点あり。長者屋敷の伝説がある。

岩渕 イワブチ
滝原から川をさかのぼること約2キロ。幽谷で渓流に岩石が多く、ところどころに渕がある。地名の語源であろう。今はそうではないが、昔は人家も下津木中でも多いほうであった。下津木村の小名であった。

古田 フルタ
昔の岩渕往来の1つである地蔵谷に沿って、坂をこすと、この地域に下りてくる。

平瀬 ヒラセ
滝原から岩渕領への入口にあたっている。地名は字のとおりであろう。

坂垣内 サカガイト
旧道岩渕坂のおり口にあたる。

窪 クボ
クボは凹地、湿地の意。

中村 ナカムラ
岩渕地区の中央。岩渕分校。三輪神社、観音寺がある。

垣立カ イダテ
山神社跡がある。カイは狭間の意があり、この辺の地形からきた名か。

数垣内 カズガイト

唐樽 トウダル


大字上津木の部 落合オチアイ
津木谷上下の落合になっている。川も岩渕方面からの水と、猪谷方面からの水とがこの地で合流する。室河谷、柿谷、櫟谷 イチダニ、坂本河の4つの谷に分かれている。

下垣内 シモガイト
荒神社跡あり。

前田羅 マエダラ
津木小学校のある地。ダラはドロに音が近く、水の滞るところの意があるが、何か通じるところあるのであろうか。

松本 マツモト
極楽寺あり。餓死会供養碑あり。前田羅との間に落合橋あり。堰あり。

吹曽 フキソ
「ふきそ」は「ふきそう」で風の吹きまくることで、このへんは風あたりが強いからついた名との、こじつけもある。

柿谷 カキタニ  カキノタニ
室河街道への口にあたる。三十番神(八社ノ森)の跡あり。

高野 タカノ
八王寺神社跡あり。

室河 ムロゴ
「三上参りを室河越の街道あり。小山に三角点あり。小山に蔵王権現社あり。小山は オヤマ、雄山とも書ようせぬ者は小山参りをせよ」といわれた。しかし、この社は津木の支配ではない。

中村 ナカムラ
津木谷の中央にあたり、人家が多い。落合より西方1余。昔の上津木村の小名であった。

坂本河 サカモトゴ
落合と境界している。

岩垣内 イワガイト

日裏 ヒウラ

的場 マトバ
石塚と隣り合っている。昔は的場とともにこの一帯を宮前通りといって、老賀八幡社の社領地であったと伝えらる。小池あり。的場の地名は他の各地にも残っているが、どれも神社と関係が深いようである。

石塚 イシヅカ
もとの村社老賀八幡社がある。昔の小学校が初めてこのところにあった安楽寺を利用して創立された。現在八幡社殿、安楽寺の仏像を入れた小屋がある。社地に忠魂碑が建ち、中村公民館がある。

夏明 ナッアケ
妙見社跡があり。「お滝さん」と呼ばれている「神くさ滝」の小社がある。夏明はナツヤキの意で、焼畑をした大古の名残りの名かとの考証もされている。

滝通 タキドオリ
「神くさ滝」と関係あるのか、この滝は昔はかなり名が知られていた。

北垣内 キタガイト

柳渕 ヤナブチ
庚神塚あり。藤滝に念仏堂の跡あり。藤滝越の山路が通じている。

清水 シミズ

堂通 ドウドオリ
道通とも書く。金比羅神社跡あり。

切抜 キリヌケ

沼田 ヌタ
妙見社跡あり。滝神社跡あり。堰あり。ヌタは湿地をさす名である。

権保 ゴンボ
権保越で日高川辺町への通あり。ゴンボはゴボウと通じ、短小な谷、小台地をさす地名であるが、いかがであろうか。

岸 キシ
貴志とも書く。貴志神社(岸神社)跡あり。

北畑 キタハタ

磯石 イソイシ
イソは岩石をいう語である。

丸畑 マルバタ
金比羅社跡あり。鹿ヶ瀬トンネルあり。

猪谷 イダニ
昔の上津木村の1小名であった。中村の西方1 ばかり。谷のつまりになっていて、鹿瀬山の東の山足にあたる。

久保 クボー
津木坂の降り口にあたっている。内田というところに冷泉がわく。クボは凹地である。

虎津 トラズ

上奥 カミオク

北谷 キタダニ

 広川町誌 上巻(1) 地理篇 災異編
 広川町誌 上巻(2) 考古篇
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広川町誌下巻(6)年表