広川町誌 下巻(2) 産業史篇産業史篇1、原始及び古代の産業 2、中世の産業 1鎌倉時代 2室町時代 3、近世の産業 1近世封建制下の農業 2近世の商工業 4、近代の産業 1近代の農業(1) 2近代の農業(2)大正・昭和時代 (1)農会 3近代の林業 4近代の商工業 5、漁業史 1房総地方と広川漁民 紀州人と初代漁業 2九州五島と広川漁民 3近代の漁業 広川町誌 上巻(1) 地理篇 広川町誌 上巻(2) 考古篇 広川町誌 上巻(3) 中世史 広川町誌 上巻(4) 近世史 広川町誌 上巻(5) 近代史 広川町誌 下巻(1) 宗教篇 広川町誌 下巻(2) 産業史篇 広川町誌 下巻(3) 文教篇 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇 広川町誌 下巻(5) 雑輯篇 広川町誌下巻(6)年表 産業史篇1、 原始および古代の産業1 縄文式時代 広川地方の文化は、考古学的知見からすれば、現在のところ縄文式時代前期から始まったことが明らかである。人間生活のための経済的営みを、産業ということができるならば、広川地方の産業史は、やはり、縄文式時代前期から始まるといえる。そして、この営みの始められた場所は、既に歴史篇において明らかにした如く、当町西部海上の鷹島であった。 縄文式時代の経済活動は、主として狩猟・漁撈と採集が中心であったことは想像に難くない。同島遺跡を発掘調査して得た出土品の中に石錘の多かった事実から見ても、漁撈が盛んに行なわれたことは疑問の余地がない。漁法には、釣り・突き・網などの種類が、この時代既に知られており、石錘は主に網の重りとして用いられたものである。石製鋸の発見は、突き漁法の存在を物語る。釣針は、材質の関係で既に腐触したのか、ついに出土を見なかったが、釣り漁法も勿論行なわれていたことは、他地方の例から推して間違いあるまい。 鷹島では、どうしてか、貝塚の発見がなかった。或は最初からそれが遺されていなかったのかも知れない。従って、この島での漁獲物や、採集物の内容は不明である。しかし、現在、同島やその付近で取れている魚類や海藻類と、おそらくや大差なかったであろう。 鷹島における縄文式時代遺物で、最も多量を占めたのは、いうまでもなく土器である。これも自給自足品として、同島集団生活者が、自分達の手によって成形・焼成が行なわれたもので、この縄文式土器も、いわば、原始手工業の所産であった。 土器の出土には遙かに及ばないが、やはり、石器もかなり発見されている。その石材中にサヌカイトが珍らしくない。この原石は、当地方においては産出がなく、大和か四国の讃岐からもたらされたものである。それが直接でないにしても、交易のあったことを、如実に物語っている。鷹島で漁撈や採集によって得た海産物と物々交換を行なって手に入れた品であるに相違ない。 縄文式時代は、いまだ原始文化の時代である。産業といい得る程の経済活動は、勿論、行なわれていなかった。 しかし、以上の如き、所謂、自然採取経済とは、縄文式時代人の生活を支えた原始的産業の別称といってよいであろう。 2 弥生式時代 長い縄文式時代のあとに、ようやく、弥生式時代が到来した。当広川地方では、前記鷹島だけでなく、上中野末所や、名島高城山付近にも、その遺跡が発見されている。この時代の文化は、最早や、縄文式時代の如き原始文化でない。稲栽培という画期的な産業をもった新文化であった。稲作ばかりでなく、他の作物の栽培技術もかなり発達した農耕文化であったに相違ないが、稲作による文化の進展度は大きかったであろう。 上中野末所にしても、名島の高城山麓にしても、当時としては間近に低湿地帯が存在していた。いまでも地形を見れば、それが明らかである。この両遺跡は偶然の発見であり、他にも同様の遺跡が、この広川地方に未発見のまま存在するかも知れない。とにかく、弥生式時代の稲作の適地は、灌漑の心要がない沼沢地か低湿地から始まった。次第に工具が発達して、水路を設け、原野を開いて田となす方法が可能となるまでは、このような土地を選ばざるを得なかった。そして、その近くの台地や平地に住居し、小さな集団社会を形成し、共同生活を営んだ。 弥生式時代をもって、日本文化のあけぼの時代と呼ぶ学者もいる。これに習えば、鷹島・上中野・名島等に、その遺跡を伝えた弥生式時代は、広川文化のあけぼの時代である。上中野末所遺跡からは、石製紡錘車が発見されている。衣料用に苧・麻などを栽培し、その繊維を取って糸によるための道具であった紡錘車の出土は、この時代、この遺跡において、既に、機織りの行なわれていたことを物語る。おそらく、他の遺跡でも同様であったであろう。 弥生式時代は、上に見た如く、かなり進んだ生産技術をもっていた。しかし、まだ、狩猟・漁撈・採集など自然採取経済が重要な生活手段であった。上記上中野遺跡では、この時代の石鏃が発見されており、鷹島からは、同時代と思われる土錘や石錘の出土があった。当時の狩猟や漁撈を物語る資料であること、さらに多言を要しない。 右の弥生式遺跡からは、いずれもその時代を表徴する土器が出土している。所謂、弥生式土器である。鷹島においては、この弥生式土器とともに、製塩土器と見られている1名師楽式土器が夥しく発見された。この製塩土器の出土は、同島における製塩事業を立証するものである。ここで製造された塩は、単に鷹島集落内で調味料とされたばかりでなく、塩魚の製造に、さらには、内陸集落との物資交換に供せられたことであろう。夥しい同土器片の出土は、はるかに自己集落用製塩を越えていると思料される。この製塩業は、次の古墳時代にも引き続き、益々盛んに行なわれたかのようである。 弥生式時代中期、大陸から鉄器が日本に輸入され、鉄器の使用が始まるが、それが、この広川地方にまで及んだか否か、いま詳らかにし得ない。しかし、徐々に農具が発達して、当初低湿地帯だけに行なわれていた前作も、次第に平地を開墾して、その栽培面積が拡大していったに相違ない。 その農耕産業の進展に伴い、この広川地方弥生式社会の各集落内に、支配被支配の人間関係が崩芽して、次第に階級分化が現われたこと間違いあるまい。それが、次の古墳時代出現の要因となる訳である。 3 古墳時代 弥生式時代に始まる農耕社会が次第に発展を遂げ、当広川地方にも、やがて、古墳時代を出現せしめた。それが、いま池の上古墳群という形で遺跡を留めている。 古墳群の形成は、いうまでもなく、この時代の後期に行なわれたものである。それまでは古墳を築く程の豪族が、いまだこの地方には出現していなかったのであろう。例え豪族の発生があったとしても、中期以前の壮大な古墳を築造する程の勢力者でなかったと考えられる。 隣接湯浅町別所の天神山古墳は、いまは、その跡を遺さないが、丘陵を利用したかなり大きな古墳で、3重に埴輪がめぐらされていた。当町池の上古墳群より時代が逆る。この附近には、比較的早くから強大な豪族が存在していたことが想像される。 古墳や古墳群が、この時代の産業発達の程度を窺う上に重要な資料である。経済基盤の弱いところに強大な豪族が発生する基盤がない。 当町名島から湯浅町青木・山田方面にかけて弥生式後期の遺跡が発見される。これが古墳時代に至って、天神山に大きな古墳を造らした豪族の出現のもととなったと思われる。 池の上古墳群は、その周辺に農耕社会が広がった何よりの証拠であり、古墳時代後期、この古墳群を形成した豪族の出現を物語る。古墳時代の産業は、前代に引き続いて稲作を主軸とした農業であった。この時代ともなれば、鉄器農具が普及し、開墾や水利工事が進展を示したことであろう。広川地方でも、特に、南広地区を中心にそれが行なわれ、かなりの水田化があったと思う。当地方に存在した豪族が、それを指揮し、古代農民が辛苦営々耕地を拡げていったに相違ない。水利不便な土地では畑地とされ、粟・稗・麦・豆類の栽培が行なわれ、蔬菜や、麻・芋・楮など畑作物の種類も数を増してきたと思われるが、詳しい内容は、なお不明である。 鷹島においては、この時代益々製塩が盛んに行なわれた模様である。夥しく出土する師楽式土器で、古墳時代様式を示すものが非常に多い事実は、それをよく物語っているといえよう。 これは、現存の地名からの単なる想像であるか、西広の小字地名に恥方があるのは、古墳時代土師器製作に関係があった土地であるまいか。土師工人集団(土師部)の居住地を土師方と呼び、後に用字転化して恥方となったと想像される。古墳時代から現われる土師器・須恵器は、それぞれ専門工人の製作にかかる。この工人集団を部と称した。縄文式土器・弥生式土器と異り、純然たる職業工人組織が1種の産業として製作に当たったのである。 以上で、大体、古墳時代における広川地方産業の概略を述べた。その当時の資料として、幸い古墳群と土器が遺されているので、右のような想像的記事をものすることができた。しかし、事実はそれ以上複雑なものであったと思う。古墳時代、この地方は公領の屯田であったか、或は一般豪族領の田荘であったか。農業や漁業以外に、林業がどの程度に行なわれていたか。鉱業は全然なかったのか否か。池の上古墳群南方台地に「かじやひら」の地名が遺るのは、何時時代の鍛冶場の跡か。むつかしい問題が、まだまだ山積するが、それらを解明する資料の発見がいまだ不十分な現在、納得のゆくような見解を述べる訳にゆかない。 今後の研究に期待される。 4 律令制時代および荘園制時代 皇族および諸豪族の墳墓たる壮大な古墳も、大化の薄葬令を契機としてか、次第にこの墳制も終息した。そして、いよいよ歴史時代に入る訳である。その第1歩は公地公民制を定めた、いわゆる律令制時代である。それが次第に崩潰して、土地、人民が貴族権門勢家に私有化されてゆく。即ち、荘園制時代と呼ばれる時代が来る。別の時代区分でいえば、前書は奈良時代、後者は大体平安時代に該当する。 さて、この時代の広川地方産業はどうであったか。歴史時代であるが、史料とて遺らず、上述の時代程考古学的資料も遺らない。そのような状況の中で、ただ1つ、平安時代後期の荘園関係史料の遺存が注目を惹く。当地の領有関係、その他若干の事柄を窺う上に逸することができない史料であるから、歴史篇との重複もあるが、後述で簡単に触れて見たい。 ところで、歴史時代の第1歩は、大化の改新に始まる律令制時代である。歴史篇において既に述べたが、同時代は土地と人民を豪族の私有から解放して公地公民制を打ち立てた。そして班田収授法が実施され、人民は班給田によって農業を営んだ。勿論、この時代の農業も、前代同様水田稲作を中心に、畑作経営も取り入れたものであった。公地公民制を樹立した律令制国家は、その実功を上げるため、積極的に農業振興策を図った。それは、地方に郡県里という行政単位組織を定め、その末端組織である里(後の郷、50戸が単位)の長をして、その振興の実施に当らせた。それは、戸令為里条に「里毎に長1人置け、戸口を検校し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催駈するを掌れ」とある。この中で「農桑を課殖し」がそれである。 以上はなはだ一般的なことであり、これをもって、勿論、律令制時代広川地方産業史とはいい得ない。だが、当地方とて決して例外でなかったであろう。そして、農桑を課殖させられた農民は、米を作り、麦や雑穀を作り、蔬菜を作り、桑を植えて養蚕を行ない、苧・麻・椿の栽培を行って糸を取り、絹や布を織るなど、男女共に立ち働き、段別2束2把の田租をはじめ、庸・調(租庸調というこの時代の税法)の負担に堪えてゆかねばならなかった。 これもまた、当時の里民、即ち郷民の姿であり、広川地方郷民も、おそらく異ることはなかったであろう。この地方の郷民の中には、鷹島やその他海岸に住む漁師、津木の奥地に狩猟する狩人などもあり、それぞれ、調の貢納を負担したこと、また想像に難くない。製塩を行った鷹島では塩を調として差出したこと間違あるまい。平城宮跡出土の木簡には、天平13年(741)紀伊国阿提郡幡佗郷において、塩を調納した例が見える。当地方のことでないにしても、製塩していた処では、事情は皆な同じであったと思われる。 ところで、大化の改新に始まる律令制公地公民制度にも除外例があり、かつまた、公民には苛酷な賦役があった。そのような事情などが原因して、意外にも早く、律令制の基礎に崩壊のきざしが見えはじめた。そして、天平15年(743)に至り、遂に墾田永世私有令が公布された。この墾田の私有は、さらに、口分田、官職位田の私有化へ一層拍車を掛ける結果を招いた。墾田永世私有にも、位によって制限があったが、次第にそれが遵守されなくなり、権門勢家の私有地は増加していった。これが、即ち、荘園の始まりである。 荘園制時代というと、大体、平安時代を中心とする。律令制時代の郷名が廃れ、代って荘名が現われる。当広川地方は比呂荘(広荘)と呼ばれるようになる。 この比呂荘は、最初どこの荘園であったか明らかでない。しかし、平安時代後期、藤原氏のそれであったと思われる。応徳3年(1086)内待尚待の職にあった1女官藤原氏が、本郡比呂庄と宮前庄において、免田各13町5反を、熊野那智山領として施入している。このことを記した彼女の寄進状(「尊勝院文書」那智神社所蔵)に「右件庄、任処分旨伝領之」とあるから、おそらく、彼女は1門近親の誰かから伝領した荘園であったと解せられる。 当時荘内の農民が、自力で墾田した土地を名田と称した。この名田経営も、荘園領主の支配から完全に独立したものでなかった。荘民の領主に対する負担は、通例、所当・公事と称され、大体、収獲量の半分近い年貢であった模様である。或はそれ以上であったかも知れない。当地方のそれを知る史料が遺らないので、確実なことは不明である。 ところで、以上が農業の基盤である土地のことであるが、さて、荘園時代における農業およびその他の産業は、いったいどうであったか。特に、当地方に関して明らかにし得る史料がない。だが、考えられることは、前代よりもさらに耕地が増加し、稲作を主軸としながら、他の栽培作物も、前代に比して、その種類が確かに増加していたであろう。 ここで、再び荘園関係について、当広川町方のことに触れておきたい。それは、次の鎌倉時代初頭文治2年(1186)、当庄は、海士郡由良庄と共に、京都蓮華王院領であったことが『吾妻鏡』に見える。同書によると、当時広・由良両庄に関して、領家乗取の濫妨事件が発生し、訴えによって、鎌倉幕府が理非を質して折紙を与えている。事件の記事は文治2年であるが、それより以前から、広庄は隣の由良庄と共に蓮華王院(33間堂)領であったことが明らかである。それ以前といえば、平安時代に属するこというまでもない。『吾妻鏡』に載る文書によりば、当地方においては、当時曲物(桧物)が作られたと解される。 当広川地方においては、平安時代の創建と目される古刹が、山本光明寺、西広手眼寺等があり、往昔はかなりの寺院景観を有したと想像される。古代寺院は官寺か豪族の私寺である。このような寺院を建立し得る経済基盤となるものは、いうまでもなく、その地方の産業の発展に外ならない。 先頭に戻る 2、 中世の産業1 鎌倉時代古代末期、荘園の中に武士が撮頭して、やがて、その棟梁が天下の覇権を掌把する。そして鎌倉に武家政治の幕府を創設したのが、即ち、源頼朝である。 この時代から次第に、中世的封建制度が世の中を風靡してゆく。鎌倉幕府は、従来の公領・荘園の中に地頭を置き、下地(田畑・山林・塩浜など、すべて収益の対象となる土地)の管理、租税の徴収、検断などを行ない、従来の下司荘官の権限・得分を継承した。 中世の産業は、この中世的封建支配の中で展開されてゆくことはいうまでもないが、それが、当地方ではどのような形で現われてゆくか。これを立証する史料が殆んど管見に入らない。しかし、鎌倉時代には、幕府が全国各地の地頭に指示して、溜池の造成、河川堤防の修造に力を注がせている(吉島敏雄氏著『日本農業史」)。その他の産業開発にも意を用いた模様であるから、当地方においても、同様な事実が見られたであろう。 当広川地方では、広川を除いては取り立てていう程の河川がない。従って灌漑用の溜池が意外に多い。この数多溜池の中には、鎌倉幕府の意を受けた地頭による造成があったかも知れない。仮りに直接地頭の関与した溜池工事や河川修覆でなかったとしても右のような時勢の中では、それ等の事業が比較的多く進められたと思われる。 中世当広川地方の耕地面積がどれ程であったのか、全然不明であるが、南北朝時代正平6年(1351)後村上天皇の論旨によって、名島能仁寺領に寄進された水田、広庄内で40町という(高野山文書所収「能仁寺文書」)。 同寺は、後村上天皇の勅願所として、由良興国寺開祖法燈国師の高弟三光国済国師開基の禅刹で、正平6年の建立である。南北朝の動乱の中で、天皇は国家安穏、皇祚長久を祈願されて建てられた。そして、庄内で40町の水田を寺領としたのであった。前記の如く当時の広庄耕地面積がどれ程であったのか判明しないが、現在の広の農家が耕作している水田面積に相当する、それを能仁寺領とした訳である。この能仁寺領水田40町をもって、当時の広庄水田面積を推測することは、勿論、不可能であるが、おそらく、この幾倍かのそれがあったであろう。 麦の栽培は古代から行なわれたことは、既に述べたが、中世には湿田の乾田化工事の進展により、水田裏作として麦栽培も相当普及した模様である。この水田裏作麦に対しても年貢をかける御家人もあったらしく、他国の例であるが、鎌倉時代文永元年(1264)、幕府の禁止条令によって、自今以後田麦の所当取るべからずの下知を受けている(前掲『日本農業史』に載る備後・備前の例)。 また同じ頃、当国那賀・伊都の高野山領において、田の所当に米麦を併せ記している(高野山文書)。同じく高野山領の本郡「阿氏河庄上村百姓等訴状案」(前掲書、建治元年(1275 5月文書)にも百姓等作麦事が見える。 以上他所の史料をもって、勿論、直に当地方の例とすることはできない。だが、これを参考資料として、当地方の事を推測すれば、余り大きな誤りはないであろう。 再び、高野山領の事例を引いて、次に、農業用牛馬について見よう。前掲百姓等訴状案には、百姓等作麦事と併せて牛馬のことが見えるが、さらに、同年6月17日の同じく「阿氏河庄百姓牛馬追捕注文案」(高野山文書)によれば、地頭が同庄の百姓28人(うち女1人)と牛馬8頭(牛2・馬6)を捕えている。また、正応年間(1288〜93)紀伊国荒川荘において、悪党が横行し、放火・殺人など悪逆を尽し、41余宇の百姓家を焼き、数十頭の牛馬が焼死したということが、同年9月の訴状案に見える(前掲書)。 右荒川の乱暴事件から知り得ることは、鎌倉末期正応の頃、紀ノ川流域の農村では、早くも、農家1戸に1頭の牛か馬が所有されていたということである。農耕用や運搬用、さらに厩肥製造用に、百姓に取って牛馬は重要な存在であったことは多言を用しない。当広川地方においても、右の事情から推測するならば、紀の川筋程でもなかったかも知れないが、農業用牛馬の飼育は、かなり普及していたものと想像される。 度々、高野山領の例を引いて恐縮だが、当地方に史料がないので、ここでもまた、鎌倉時代の養蚕や製糸・織絹について、高野山文書に拠ると、鎌倉時代初期建久4年(1193)9月の「阿氏河上庄在家畠等検注状案」に、桑千捌佰玖拾本(1890本)とある外、その前の文治元年(1185)11月9日の「阿氏河庄年貢送文案」を初めとして、その後、鎌倉時代には、同地方から、絹布・絹糸・綿(真綿)などを年貢として徴収したことを物語る史料を、しばしば、披見し得る。同地方(現在の清水町方面)における中世前期の養蚕・織絹等を確実に立証している。彼我全く同様という訳にもゆくまいが、これをもって、幾等か当広川地方のことも想像できるのであるまいか。 2 室町時代以上、大体、中世前半にあたる鎌倉時代を中心に、若干、過渡期ともいうべき南北朝時代に及ぶ、産業の一端であった。しかも、当地方の史料が管見に入らぬまま、他地方のそれを借りて、当地方の事を憶測したに過ぎない。以下、中世後半を述べるに当っても、おおむね、同様の方法を取らざるを得ないであろう。 南北朝の動乱における宮方の敗北が、公家勢力の衰微・武家勢力の隆盛を決定的なものとした。この南北朝時代を境に、中世封建制か、前期から後期に移る。それが室町時代である。そして、次第に守護の領主化が進む。 当地方においては、当国守護職畠山氏が領主的存在色を強くしてゆく。さて、この時代の農村社会は、どうであったか。少し長いが、左に古島敏雄氏の所説(『日本農業史』)を引用させて貰う。 「南北朝期の荘民が、物納年貢の過重、代官・地頭の夫役負担の過重に対して、領主への訴訟ないし逃散で争ったのに引きつづき、室町期の農民は、時代の進展とともに、強訴逃散・土一揆・国一揆という形態をもって抵抗していった。この抵抗の形態の進展は、その内部に生産力の発展に照応する農民層の成長、やがてその内部に名主層の土豪・国人への成長と作人・地下百姓とへの分解を含んでいった。そこから封建領主と農奴との搾取関係を基幹とする新しい社会関係が生みだされてくるのである。」 中世農村社会の単位は村であった。荘の中に幾つかの村が存在した。土地の農民も、その村の所属であり、その村中の耕地は各家に分割されて生産の土台とされていた。そして、その村の直接支配権を握っているのは、土豪・国人となった名主層であった。広川地方におけるこれら土豪・国人層の代表的人物を、歴史篇において、「中世広荘土豪群像」と題して素描を試みた。これに登場しなかった小土豪のさらに多かったことはいうまでもない。 この時代は、かなり商業が発展の途上にあったが、経済の主流はやはり農業であった。そして、農業の中心は水田稲作であった。その裏作や畑作物として麦が一般に栽培されたことは多言を要しない。大豆・小豆なども重要な畑作物であり、既に、鎌倉時代から年貢として、豆を徴収してる例が、これまた、高野山領阿氏河庄において知ることができる(高野山文書)。 また、他の著書からの引用で恐縮だが、中村吉治氏編『日本経済史』所載「中世の農業と原始諸産業」には、以上の主要作物の外に、粟・蕎麦等の栽培も進み、これも年貢の対象となっている。蔬菜の種類も非常に多いが、特に午蒡が重要視されている。また、茶や桑等の栽培も進んでいる。木綿は、室町時代に関西で盛んになり(中略)その他、漆・胡麻・ と述べられている。近世、当地方の藍・木綿・櫨の栽培も、案外、その 右引用文に見える農作物は、すべて当地方に当てはまるという訳にゆくまいが、当らずとも遠からずであったであろう。その理由とするところは、室町時代、紀伊国守護畠山氏の拠城が、当庄名島の山上に構えられた。そして、その近辺は、次第に中世城下町的様相を帯びてゆく。広浦の港や市場は、その頃開かれたものである(後述でさらに説明)。このようにして、当地方の商業が段々発展し、商品流通も次第に活激になる。そのために附近の農村には、種々な換金作物、工芸作物が栽培されるようになることは、至極当然の現象であった筈。 近世寛文年間(1661〜72)広浦和田海岸に大波戸場が築かれるまで、広浦東北部海岸は港とされていた。 いまも湊の地名が残る。それに隣接して南市場・北市場の地名がある。おそらく、この地名のおこりは、室町時代からの港や市場に由来することは、間違ない事実であろう。近世の史料であるが、「広浦往古ヨリ成行覚」によると、天正13年(1585)の兵火(豊臣秀吉の紀州征伐を指す)に焼かれる以前、広浦は実に千数百軒を数えたという。多少の誇張はあったかも知れないが、中世末期における広浦の繁栄を窺わせるものがある。その時代は最早や、広庄は畠山勢力下から湯川勢力下に変っていた。だが、広浦およびその周辺の発展は、畠山の拠城が名島におかれ、同居館が広海浜に構えられてからはじまるのである。これが、当地方商業の発展を促して引いては、附近農村の栽培品目に、米麦以外の特殊農産物の増加を促したことは想像に難くない。なお、室町時代の年貢は現物でなく、通貨をもってするを通例としたから、換金に有利な作物が栽培されたのは何の不思議もない。 ところで、この時代の守護・地頭等も、新田開発に灌漑施設などにと力を注いだ。当地方では確かな史料に接しないが、ロ碑や後世の記録によると、広川下流の改修、その附近水田の開発など、畠山氏の業績とされている。 さらに、推測の域を出ないが、室町時代、崎山家正が広庄の地頭であった頃、上中野字堀ノ平に屋形を構え、その隣接地を開いて、一族の屋敷や耕地としたと考えられる。それが、いま「新古」の地名で遺っており、この新古を土地の人は、「しんご」と発音している。これは、間違いなく新郷であり、堀ノ平の本郷に対する新郷でなかったであろうか。 次ぎに1例、守護や地頭でないが土豪による新田開発を挙げると、さきに、櫨の栽培で触れた広の土豪竹中氏である。現在東町と称されるが、旧名「宇田」の地を開拓したことで知られている。宇田は元来湿地に名付けられた地名である。ここに長川を造って排水し、新田を開発したのである。その時、長川の堤などに、櫨を植えたという(広八幡記録)。 さきに、中世農村の単位は村であったと記したが、南北朝時代から室町時代にかけて、この村の中に惣と呼ばれた農民自治組織が生れる。この時代に百姓名の分解が行なわれ、名田の売買、分割相続、所従層の自立など、いろいろの形式を経て、旧名主の土地が細分化される。そして、そこに数多くの小規模名主層が簇出するのである。このようにして、新たに土地所有者となった自営農民の増加により、打続く戦乱からの自衛、灌漑用水、入会地の管理、年貢公事の地下請・年貢公事減免の要求等、この農民集団たる惣組織をもって行なった。惣の運営には、惣内名主層から乙名(おとな)・年寄・沙汰人などと呼ばれる指導者が選ばれ、寄合を行ない、おきてを定めて評議の上行動に移した。 さて、この惣の存在を示す資料は、やや時代が下るが、天正20年(1591)の広八幡神社鋳鐘銘である(前掲八幡記録)。いまは現物が遺存しないが、その鋳造銘に釜屋西正惣中とある。釜屋は現在当町大字南金屋と称されるが、旧は釜屋と書かれた。中世鋳物師のあった村である。釜屋西正惣中とあるから、同村には他に幾つかの惣があったことを暗示している。なお、釜屋村は鋳造師の村として、中世広川地方産業史上、他の農村と異る存在を示す。 鋳物師の存在を知り得たついでに、中世当地方の瓦師について、1言しておこう。日高郡川辺町鐘巻の道成寺本堂の屋根瓦に、天授4年(1378)銘鬼瓦と享禄3年(153O)銘鬼瓦がある。このどちらかと共に製作された丸瓦に、「大工藤原宗妙小工国太夫二郎小工広住侶彦太郎」・「彦太夫広住侶是助作」と、それぞれ銘を有するのがある。小工広住侶彦太郎と同じく広住侶彦大夫は親子か兄弟の間柄でもあろうか。道成寺本堂瓦製作者グループの中で、彦太郎は大工に次ぐ小工の地位にあったこと。この彦太郎および彦太夫は広の住人であったことなど、中世資料の少ない当地方にとっては洵に貴重な資料である。中世はいまだ民家は瓦葺の時代でないから寺院などの瓦製作に携ったのであろうが、わが広にも彦太郎を頭領とした瓦職の一団があったことが見られる。 ところで、右在銘の丸瓦製作年代であるが、享禄3年でなかろうか。前記享禄3年銘鬼瓦には、左記の如き銘があり、これと関連するのでないかと推測される。 上韋檀那源湯川孫七郎享禄3年3月吉日春元 右の檀那湯川孫七郎は、いうまでもなく、日高地方の豪族。同地方の領主であった。そして、享禄頃は、当広庄も湯川氏の所領となっていた。そのような関係で、湯川孫七郎が檀那となって、道成寺本堂屋根葺替に際し、広から彦太郎や彦太夫など腕のあった瓦師を招いたのであるまいか。 さて、再び、農村関係に戻るが、農村自治組織の惣が形成され、その中で、従来の名田労働者的農民が、小規模ながら自営農民に発展してゆき、山間や河川荒地にまで徐々に開墾が及ぶ。また、谷間や緩傾斜の山腹には棚田が開かれる。従来の未開の荒地が開発されて、「しんかい」または「ほまち」と呼ばれる隠田的性格の耕地が生まれていった。大字井開に「新開」なる小字地名を有する土地がある。同地は広川の左岸で、いまも低地水田地帯である。もと、広川添の荒地であったことは地形より見て間違いない。開墾された当時は、おそらく「しんかい」と呼ばれる隠田であったであろう。井関の新開は単に1例として挙げたに過ぎない。 ところで、上来、しばしば、名田という言葉を使ってきた。それでは、当地方にそれに該当する事例が遺っているだろうか。現在知り得るのは僅か1〜2例に過ぎないが、いまなお、地名で遺っている。 大字殿の小字地名に「十郎」と呼ぶところがある。さらに下津木寺杣のそれに「権蔵原」がある。いずれも中世の墾田地と推測されるが、前者の開墾者は十郎であり、後者は権蔵であったことを物語る。その名主の名を冠した名田であったことは多言を要しない。 このような名田経営も、前記した如く、室町時代において、時代の推移と共に次第に解体し、小家族による土地保有が進展する。そして、後世に見るような多数の農家が土地を分ち所有するようになる。 名田が細分化され、農業経営が小規模となってゆく室町時代から 守護大名の誅求的な賦課、即ち、反銭・棟別銭など農民の負担増大化する。それがやがて、農民の反撃となり土一揆の時代を生む。紀伊国は土一揆の頻度の高いことで知られているが、当広庄にその事例のあったことは、管見に入らないからこれ以上の叙述は控えよう。 しかし、歴史篇において述べた如く、冨有者に対する土一揆、或は徳政一揆的事実があった模様である。広八幡神社の森に多数の宗明銭が埋蔵されていたのは、その難を避けるための隠匿であったに相違ない。 以上、いささか産業史の範疇からはみだしたが、当時の農民が生活した社会というものの一端を記し、中世封建制度下の農業とは、いったいどういうものであったかの説明に代えた次第である。 中世後期は、所謂、下剋上の時代であった。旧支配勢力が漸次没落し、それに代って各地に新勢力が根を拡張していった。これが、即ち、中世末期の戦国大小名である。そして、この群雄抗争の末、織田信長の天下統一、その跡を継いで豊臣秀吉の天下覇権。これを、当広川地方に見ると、畠山氏の没落、地頭崎山氏の敗走、それに代った湯川氏も遂に、秀吉の紀州征伐に屈した。このような激動の時代に際会して、広庄内諸土豪や、有力寺社も没落の運命を余儀なくされた。 それは、秀吉が天下人となるや、社寺や国人・名主層などの旧勢力剥奪のため、検地を行ない、旧勢力と自営農民が土地を媒介としての結び付きを打ち切る手段を取ったからである。天正の太閤検地がそれである。そして、徳川家康が代って天下を握ると、間もなく、慶長6年(1601)、紀伊国は新領主浅野幸長の時、改めて検地が行われた。これが、有名な慶長検地である。この時の検地帳が、その後の農民収奪の基礎台帳となり、農民の生活を長く圧迫した。 先頭に戻る 3、近世の産業1 近世封建制下の農業近世の当地方産業を述べる順序となったが、この時代の産業はやはり農業が主体であった。日本の総人口の80パーセント以上が農民であったという江戸時代には、この広川地方でも事情は同じであったであろう。 しかし、わが広川地方では、近世初期、意外に多かったのは漁民であった。なお、数の上では左程多くはなかったであろうが、商工人の存在も軽視することはできない。 右のような訳で、近世広川地方の産業を述べる場合、農業・漁業・商業・工業と、殆んど産業全般にわたらなければならないが、まづ農業から順次述べてゆくことにしよう。 さて、近世農業はどのようなものであったか。時代が中世から近世へと移ったからといって、農業技術面に著しい変化があった訳ではあるまい。 然し、中世封建制下の農業と、近世封建制下のそれとは全く同一であったと観られない時代の変化があった筈である。 中世封建制から近世封建制之の移行に、大きな役割をなしたのは、寺社権門・国人層など旧勢力打倒を断行した織田・豊臣の天下統一であった。 前章の末尾で一言した如く、織田・豊臣氏は、旧勢力を破壊して、それと結びついていた小農民を自立させ、この自立農民を基礎として、政治支配の確立を図った。その1つの現れが検地である。また、これを引継いだのは徳川家康であった。慶長5年(1600)家康は関ヶ原戦に勝利を得て天下を握ると、紀伊国の領主も浅野幸長に替えられた。そして、その翌年から新領主のもとで、改めて当国の検地が行なわれた。 検地は田畑の面積を検し、年貢賦課の基準となる石高を定め、農民の年貢負担を明らかにするものであった。 この検地が詳細に記録されているのは、即ち検地帳である。 これが伝存する地方もあるが、わが広川地方ではついに知見することができなかった。だが、庄内各村別(現在の大字別)の石高だけは判明するので参考に挙げると、 1、千293石3斗9升9合 小物成1石6斗7合 広町 1、259石3斗9升6合 中村 1、264石7斗8升2合 小物成34升5合 名島村 1、113石6斗7斗7合 小物成9斗2合 柳瀬村 1、291石5斗4升4合 小物成6斗6升1合 井関村 1、62石2斗9升1合 小物成3斗3升 河瀬村 1、177石1斗7升3合 小物成2石9斗1升3合 殿村 1、330石1升9合 小物成1石1斗 釜屋村 1、494石2斗3升6合 小物成2石5斗2升3合 中野村 1、565石7斗5升 小物成1石4斗1升7合 山本村 1、540石4斗6升1合 西広村 1、100石7升4合 唐尾村 小物成9升6合 1、290石9斗1升9合 前田村 小物成1石6斗7升9合 1、386石8斗2升8合 小物成3石5合 下村(下津木村) 1、291石7升3合 小物成4石9斗1升1合 上村(上津木村) 計 5462石6斗2升2合 小物成21石4斗8升9合 右の石高は、米の実収高を正確に把握して積み上げたものでない。前記した如く、年貢賦課の基準として定めた持高である。各田畑1筆毎に、上中下の等級に区分し、それぞれの反当基準量を乗じて計算し、それを集計したものである。それを耕作者別に記録したのを名寄帳と呼ぶ。年貢徴収のための農民登録台帳であった。 右の石高について、なお一言するなれば、単に石高を挙げているのが本途物成高で、本年貢の対象であり、小物成高は、雑年貢の対象である。本途物成には田畑以外に屋敷や水主米高(漁業高)が含まれており、小物成は多種多様で土地の用益、林野・河川などからの産物、その他に課せられた。本途物成にせよ、小物成にせよ農民や漁民に賦課された年貢は、この石高に応じて徴収された。 さて、右の検地石高は、直ちに田畑の収穫量判定の資料とはなし難いが、この石盛りは、大体当時の収穫量と大きくかけ離れたものでなかったであろう。尤も米以外のものは米に換算されているので比較はむつかしいが…。 慶長検地の石盛りは、大体、上田で1石5斗、中田で1石3斗、下田で1石1斗の計算。畑は田の石盛りより各2斗下げを規準とした。勿論地方差があり、それを加減して石盛りを定めたのである。 なお、広の石高についてだけいっておこう。本途物成1293石3斗9升9合の中に、水主米高が710石が含まれている。水主米高を含むのは広ばかりでないが、広は特にその石高が大きい。それだけ、漁業の占める位置が大きかったことを物語る。 歴史篇でもしばしば述べたが、検地によって耕作農民は身動きの余地ない程その土地に緊縛され百姓の逃散・逃亡・耕作放棄などとうてい自由な行動は許されなかった。本節の題名を近世封建制下の農業とした所以である。 古来、わが国の基幹産業は農業であった。各時代の財政経済の支えとなったのは、謂うまでもなく農業であった。特に近世百姓は全く領主に対して年貢を納めるために働いたのである。豊臣秀吉の農民対策には非常に厳しいものがあったが、それを受け継いだ徳川幕府も同様であった。秀吉の時代天正19年(1591)のに、百姓は「田畑を打ちすて、或はあきない、或は賃仕事に罷りでるものがあらば、その者は申に及ばず、地下中御成敗たるべし」と規定し、それを見逃す給人は所領を召し上げ、百姓・町人が隠しおけば1郷1村あげて処罰すると、ぬかりなく村中の連帯責任としている。年貢を取るために土地に緊縛しておく必要があったからである。江戸幕府はまた、寛永19年(1642)「在々百姓食物之事、雑穀を用、米おほくたべ候ハぬ様に可被申付候事」と触を出し、慶安2年(1649)の御触書でさらに 「百姓ハ分別もなく末の考もなきものニ候故、秋ニ成候得ハ、米・雑穀をむざと妻子にもくハセ候、いつも正月2月3月時分の心をもち、食物を大切ニ可仕候ニ付、雑穀専一に候間、麦・粟・稗・菜・大根、其外に而も雑穀を作り、米を多く喰つぶし候ハぬ様に可仕候」 云々と百姓の米食を戒しめている。 百姓は米を作るものであって、米を食うものでないとされたのが、近世封建制支配者の考え方であった。米は近世社会の支配層の生活を支えるものであって、農民自体の産業としての商品作物でなかったと謂って過言でない。 以上、甚だ一般的な叙述に終始したが、近世農業、それを営んだ農民の果たした役割、農業の中心であった米作の社会的意義について、幾等かでも触れておきたかったのである。 さて、近世当地方の田畑面積がどれほどであったか明らかでないが、湯浅・広川両町併せてなれば、享保頃(1716〜35)のことが判明する。歴史篇でも挙げたが、広の旧家飯沼氏旧記『手鑑』の記録である。歴史篇との重複をあえて顧みず再録すると、 湯浅組田方高9085石6斗5升2合4勺 此町(反別)604町6反29歩 同畑方高1207石5斗7升6勺 此町(反別)117町6反7畝26歩 右の外に面積を示さず石高で挙げているものに茶・桑・紙木・漆がある。湯浅組では54石8升5合となっている。 なお、同記録には新田畑が、上記内訳の中に記されている。近世中期頃までの新田畑開発が窺われ、産業史の上で重要な資料と謂うべきであろう。やはり、湯浅組としての知見となるが、左に挙げると、 新田高517石9斗2升5合 此町(反別)75町7反8畝2歩 新畑高100石6斗3升 此町(反別)19町8反8畝25号 である。 年代は宝暦頃(1751〜63)のことであるが当広庄の名島は本田新田併せて高265石6斗7升5合と、前記『手鑑』に見える。同名島の地は、紀伊藩家老三浦遠江守の知行地であったか、近世新田開発があったことを、右史料が暗示する。同じく湯浅組湯浅庄山田は安藤帯刀の領地であったが、『手鑑』に本田新田併せて高684石9斗5升7合とあり、広庄名島村と同様近世の新田があったことを物語る。その他の村々においても勿論新田畑の開墾が行なわれたであろうが、最もそれが多かったのは、下津木・上津木両村であったと推測できる。慶長検地による石高と、近世中期の石高を挙げた『手鑑」のそれを比較した場合、かなり後者において石高が増加している。この増加は慶長検地以後の新田畑を物語るものであるまいか。それだけ津木上下両村は、後進的であったとの見方ができる訳である。(「手鑑』所載の石高は、歴史篇「近世社会と村の生活」の章に転載しているから参照のこと) ところで、近世当地方において栽培された農作物は、前代から引き続きのものが多かったであろう。しかし、藍・棉・甘蕉・蜜柑など、当地方に栽培された記事が現れるのは、やはり近世地方史料である。 藍・甘蕉の栽培のことが見える史料は寛政〜享和年代(1789〜1803)の御用留帳である(湯浅組大庄屋飯沼若太夫御用留帳および湯浅村庄屋七郎兵衛御用留帳)。所々に散見する関係記事の中から1〜2引用しよう。 まず、藍に関する享和元年(1801)の1連の文書である。 在々百姓共作藍所持并紺屋共手前ニ買込有之候葉藍玉藍共当時何程有之もの件早々相調1組切ニ帳面ニいたし在方役所へ差出候様御申付可被成候、尤先達而相通し有之候当時藍作田畑反畝并ニ紺屋共手前ニて遣ひ候地藍他所藍とも本数玉以附委細認当月10日迄在々役所へ差出候様大庄屋共御申付可成候 5月朔日 湯川八右衛門 御勘定吟味役中より別紙之通申来候ニ付右壱通差越候書面之通告早々取計可被申候、尤本文否之品当月10日迄ニ在方役所へ各々より直ニ差出可被申候以上 5月2日 清水次郎兵衛 右之通仰来候ニ付写差越候間其村々にて左之通紺屋も列々書附取尤軒数有之筋ハ帳面ニ御認メ当月7日迄無間違大庄屋元へ御差出し可有之候、依之分而申越候以上 5月4日 飯沼平右衛門 村々役人中 右に引用したのは、紀伊藩勘定吟味役湯川八右衛門から、有田郡代官清水次郎兵衛へ、同代官から湯浅組大庄屋飯沼平左衛門へ、同大庄屋から各村役人へと、最初の文意の通り藍に関する調査を順々に仰付けたものである。 これと相似た文書控が享和年間(18013)の御用留帳に数多知見するが、もう1例参考に引いておこう。 有田日高両郡葉藍田畑見分并ニ紺屋共手前ニ有之候藍玉并葉藍等夫々相改焼印入させ候筈ニ付明後6日より別紙役人出立致させ候筈候間右之趣夫々不洩候様可相通旨組之大庄屋共へ御申付け可成候以上 6月4日 湯川八右衛門 右文書も前引同様の方法で村々に通知されたことは勿論で、大庄屋飯沼平右衛門の文書も共に載せられている。以上だけでも、当地方の藍栽培が十分立証されるであろう。 なお、この藍に関しては、藍方役所が設けられていた。藍は如何に重要な特産物であったかが察しられる。藍と並んで、御用留帳に多く見えるのは、甘蕉と砂糖である。甘蕉は砂糖の原料として栽培され、農家自身が砂糖を製造した。それを証左する史料として、左に2例だけ挙げておく。まず、享和元年の分 坂上大和守 丈右衛門 有田郡広浦 藤 蔵 其方共有田日高両郡甘蔗生立并出来砂糖調へ方役相勤可申候 5月 同じく享和2年2月、金屋村(現在の南金屋)柏木彦四郎も、有田郡甘蔗植付并に砂糖締方等相勤めるよう仰付かっている。右の如く、広浦の藤蔵や金屋村の柏木彦四郎が、甘蔗の生立並に砂糖調べ方役を仰付かったのは勿論、有田郡受持としてであったこと云うまでもないが、特に湯浅組村々にそれが多かったからと解することができる。なお、享和3年(1803)の御用留帳から、同年9月25日付砂糖方役所より、湯浅組大庄屋飯沼若太夫宛通知を抄録すると、 各組下在々甘蔗作人共当戌年製より出来砂糖出し方之儀も湯浅北湊両問屋之内へ納屋方之者共無理宜敷方へ向後勝手次第問屋出し可致行云々 とある。組下在々で甘蔗を作り出来た砂糖は、湯浅・北湊(箕島)両問屋の内、向後は便利宜敷しい方へ出すこと選択自由というのである。 ところで、当地方における甘蔗栽培砂糖製造の元祖に関する伝記が所存する。事実であるか否かの詮索はさておき、まずそれを紹介しよう。 当町大字南金屋岩崎平和家に所伝の1幅に、寛政10年(1798)の頃、馬場達明という人が、岩崎久重のことを書いている。 それによると、享保の頃(1716〜35)甘蔗苗を支那に求め、わが国に植えられたが、これの加工法を知らなかった。だが、明和の頃(1764〜71)に及んで、池上幸豊なるもの、独創で黒砂糖の製法を始めた。これを伝聞した紀南の人岩崎久重は、幸豊に随い製糖の法を習得し、帰ってこの法を弘め国を益した。そして、寛政初めの頃、公聴に達し、その功を賞せられた。岩崎久重の弘めた製糖法は池上幸豊の創始した黒砂糖よりさらに上等の精品であった。 岩崎久重の門人にして、伊豫西条藩の家中松原一政の需に応じて、久重翁の像を写し、その功績を記して後世へ伝える次第である、と。 右は当時の筆になるものとすれば、その史料的価値を一応認めてよいのでなかろうか。この先覚者は前記岩崎平和家の祖先というから、当地方産業史上においては勿論、紀州産業史、あるいはわが国産業史の上に名を留むべき人物であるかも知れない。 それはとにかく、右の記によれば、この地方に甘蔗の栽培、砂糖の製造が始められたのは、明和以後寛政までの間であったことが明らかである。 さて、近世、藍・甘蔗と共に多く栽培されたのは稀である。これも御用留帳に関係記事が見える。 畿内においては、綿栽培が室町時代から始まったというが、当地方では何時頃からであるか、それを知り得る史料に接し得ないが、享和頃には、相当栽培されていたことが、当時の御用留帳に明らかである。 なお、近世末期弘化(1844〜47)頃のこと、広浦の関東・西国旅網が廃れ、その上農家も不作続きで農業再生産の資本にも困窮した。老人少女は江戸積袋や醤油袋などの糸とり、壮年は綿打をして糊口をしのいだという(弘化4年11月「恐奉願上口上」)。 上記の如く、農業するにも元手に窮した広浦の若者達は、よんどころなく綿打ちをして、ようやく生活したとある。これは広浦近在の村々に棉栽培が盛んであった事実を十分立証しているといえる。 前記した藍・甘蔗・棉などと共に近世当地方において栽培された加工原料作物に櫨があった。近代までそれが老木化して残っていたが、いまは殆んど蔭をひそめた。かつて蝋燭原料として盛んに植えられ、蝋屋と呼ばれた蝋燭製造所が、広や山本その他に所在した。この櫨の栽培は、中世室町時代から始まったのでないかと、前章において記したが、それが盛んになったのは、おそらく近世に至ってであろう。 なお、加工原料作物として煙草があった。これも近世かなり作られたらしく、地方史料に散見する。煙草の栽培は、既に歴史篇で記した如く、近世初期田畑にそれを行なうことが幕府から禁止されていた。何時頃この禁制が解かれたのか、近世後期には各地に特産地が現われている。しかし、当地方は特産地とまではゆかなかったかも知れないが、近世末期広波戸場から積出す葉煙草2万斤、刻煙草3万玉とある、(大波戸普請御用留)。この他にも原料的商品作物として紅花があった。どの程度の栽培があったか明らかでないが、前記各種農作物と共に、これも当時の換金作物としてかなり栽培されたのでないかと考えられる。 上記諸原料商品作物は、時代の変遷とともに、遂に姿を消したが、これと反対に、近世に栽培が始まって、時代の進展と共に益々盛んになっていったのは蜜柑である。これは、近世中頃から既に有田の特産物として知られるに至ったもので、現在では、この蜜柑を除いて有田の特産物はない。 蜜柑栽培が、信頼できる史料に初見するのは、何んと云っても慶長検地帳である。それも極めて僅かであるが有田川沿岸地方の残存検地帳に見られるところである。しかし、この時代はいまだ営利作物としての栽培面積はなく、ようやく試作の域を出でないものであったらしい。なお、先記した如く、当広川地方においては、慶長検地帳が発見されていないので、近世初期の栽培有無は明らかでない。しかし、有田川中下流沿岸地方に比して、若干、遅れていたのでないかと想像される。 ところで、有田蜜柑(小蜜柑)が有名になるのは、江戸時代中期頃からで、本格的に出荷が行なわれるようになったのは、この時代からであったと思う。有田みかんの江戸出荷といえば、誰でも紀伊国屋文左衛門を左記の里謡と共に思いだすが、これは伝説的な面もあって、必ずしも史実といい難いが、その頃(貞享頃―1684〜87)、既に有田みかんの江戸出荷が、かなり行なわれていた。 − 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国 みかん船 丸にやの字の帆が見える だから、上記の謡は、必ずしも紀文の壮挙を謳ったものと限らないと云い得るのでなかろうか。 それはとにかくとして、当地方に蜜柑組が組織されたのは、前記『手鑑』によると、延享3年(1746)とある。左に関係記事を引用しよう。 1、蜜柑組延享3寅年極ル 江戸江荷主代組合ニ壱人宛9月ニ遣し翌年3.4月ニ国元へ登ル 1、荷積と申者壱人ヅツ是ハ小前より蜜柑荷請取元舟へ積渡申役 1、江戸問屋肝煎と申者荷主代之内ノ弐・3人申仕ル 1、肝煎と申て元来田口村清兵衛、道村喜太夫中ノ村市太夫 1、蜜柑御口銀 江戸積壱篭ニ付7厘5毛其他他国壱篭ニ付6厘 1、蜜柑江戸積郡中ニ弐拾9組有壱組に荷親壱人宛支配人ニ付け申候荷主代例年翌3.4月時分ニ江戸表売代金為替等指引残金受取指上申候 右の蜜柑組は、山保田組を除いた有田郡各組内蜜柑栽培者が、地域単位に組織した出荷団体であったことは謂うまでもないが、また、蜜柑方という半官半民の機関があって、その管理に当ったのであった。右引用の記録によると、有田郡内29の蜜柑組が組織され、それがまた連合体をもって共同活動を行なっていたことが明らかである。その当時、広川地方は行政的に湯浅組に属していたが、この湯浅組内の蜜柑組については、明らかな史料が、こちらの地方史料の中に知見し得ない。従って、広川地方の事情は、殆んど知る由もないが、有田川中下流沿岸地方に比較して、蜜柑栽培の点においては、やや後進的であったのではないかとの推測も可能である。尤も湯浅組の中でも吉川・栖原村などは、早くから栽培が、かなり発展していた。そして、最初の頃は、藤並組下の蜜柑組に加人していた模様である。蜜柑組は、また、蜜柑組株とも称した。近世末期に至ると、吉川・栖原以外にも湯浅組各村の蜜柑出荷が、かなり多くなった模様で、広浦波戸場から年間、枇杷蜜柑併せて20万箱積出したという記録が遺る、(嘉永元年大波戸普請御用留)。尤もこれは湯浅組以外の荷も含まれていたに相違ないが。 ところで、『手鑑』に、宝暦9卯年4月、当地方農作物作柄状況など、年番湯浅組大庄屋湯川藤之右衛門から、有田郡奉行・同代官両役所に報告されている。尤も年番大庄屋であったから、単に湯浅組内に限った報告でなかったかも知れないが、それを掲げて参考に供したい。 覚 1、当春麦毛 振合78分 1、菜種 振合67分 1、空豆 振合56分 1、茶芽出 振合56分 1、蜜柑 当年ハ雄年而御座候尤去年ハ雌年にて其上行屈不申ニ付蜜柑之木傷多相見へ申候 1、浦方漁事当春巳来少々ニ御座候 1、御普請所之儀指支無御座候以上 卯4月 年番湯淺組大庄屋 湯川藤之右衛門 郡御両所様 右の史料によると宝暦9年の春季気象は、余り農作物に幸いしなかったことがわかる。なお、蜜柑のことが具体的に見えており参考となる。 さきに、原料用農産物を記した中で、菜種を挙げなかったが、これも上記のとおり、冬作農作物として重要なものであった。享和年間の御用留帳にも散見し、逸することはできないものである。なお、この油搾粕と棉実粕は、この時代重要な肥料であったのである。さて、肥料のことに及んだので、この時代のそれについて触れておこう。 前記の如く、藍・甘蔗・棉・煙草・菜種などの原料作物や、蜜柑の如き果樹が栽培される時代になると、堆肥や厩肥・草木灰だけでは、とうてい間に合わなくなる。そればかりか良質で多収獲を得ようとすれば、必然的に、その目的を満す肥料を求める。そこに登場して来るのは、干鰯であり、菜種油粕・棉実粕のような原料作物の加工副産物であった。前記御用留帳や、享和2年の『広浦大波戸再築記録 嘉永元年(1848)の『大波戸御普請御用留」等にそれが現われる。庄屋御用留帳では、享和2年の控に、有田郡藍作用の干鰯は湯浅村伝三郎に取扱を申し付け、藍作人は、村役人の証判を得て同人から干鰯を前借するようにとの、勘定吟味役からの達しが見える。湯浅村伝三郎と箕島村清五郎の2人は、当時、地藍買受人の指定を受けていた。これは藍栽培用干鰯に関する1例であるが、他の箇所には、棉の栽培に関連して干鰯の記事があるほか、広浦和田の大波戸再築には、寛政5年(1793)江戸干鰯問屋8軒から銀2貫百匁の寄付を得ている。これは蜜柑や各種工芸作物が盛んになり、この地方の干鰯需要が増大していたことを物語る。 干鰯に次いで菜種油粕や棉実粕などが地方史料にしばしば知見するところであるが、引用を割愛しておきたい。 しかし、この時代においては、まだまだ、堆肥・厩肥の重要性は非常に高かった。肥料用の柴草刈山入会権をめぐって、宝暦8年(1758)当庄津木谷において大山論が発生している。当時広庄は18ヶ村。このうち、上津木・下津木を上郷と呼び、その他16ヶ村は下郷と呼んだ。そして、下郷百姓は古くから、上郷の山で柴草を刈る所謂入会権を有していた。それが段々上郷の拒むところとなり、遂に宝暦8年大争論となった。この詳細については、歴史篇において1章を設け叙述したので参照されたい。だが、ただ1言付け加えるなれば、地方の有力者が仲裁に立とうが、時の大庄屋が懇々と説き聞せようが、この争論はやまなかった。最後に郡奉行の取り計らいでようやく終結を見たという有様であった。それほど、肥草は大切なものであったのである。特に、農業の中心的作物である稲・麦の栽培には欠かし得ないものであった。 この産業史篇近世の部において、前記の如く、特産的農作物を主に取り上げてきた。決して、米麦を軽視した訳ではない。古来日本の農業は米作りが中心であり、これに次いで麦作りが重要なものであったことは、多言を要しない。たまたま米麦の凶作に見舞われると、直に農村は疲弊し、多くの餓死者さえ出るという有様であったこの事実は歴史の物語るところである。当広川地方においては、近世の資料のみだが、享保・宝暦・天明・天保などの飢饉による餓死を伝える資料(文書・記録や餓死者供養碑)が遺る (「広浦往古ヨリ成行党」・上津木極楽寺および河瀬地蔵寺餓死者供養碑など)。 先頭に戻る 2 近世の商工業広川地方商人の発祥は、中世室町時代、この東北地区が、畠山氏の城下町的性格を有して発展したことに起因すると、歴史篇の中でもしばしば述べてきた。室町時代、年代は詳らかでないが、広海浜に市場が開設され、領主から認可を得た商人が、そこに集まり、近在村々から持ち寄られた諸農産物、近浦から運ばれた海産物、その他手工業品等を買受け、それを商う者に売捌くなど、広川地方における商業は、その頃から次第に本格化したのではないかと推測される。 室町時代の年貢は、大体物納でなく、金納であった。農民は米麦その他の農産物を銭に換えて領主に納めた。 その換金の場が市場であり、商品流通の出発点が、この市場であった。 旧記(歴史篇に記載)によれば、中世末期から近世初期の頃、広千7百軒或は千3・4百軒と伝えがある。真疑の程はとにかくとして、かってない繁栄時代が出現したことは、必ずしも否定でき得ないであろう。この人家に生活を営む者達の需要に応えて、遠近各地から物資が搬入されたことも想像に難くない。その商品の取引も、この広浦市場で行なわれたことであろう。 現在養源寺附近の地名を湊と呼ぶ。近世初期、寛文年間徳川頼宣が、広浦和田海岸に波戸場を築くまで、この海辺が港であったところから、湊の地名が遺ったのである。以上のことに関しては、歴史篇において述べたので、これ以上繰り返しを避くべきであるが、当時、上記港は、この地方における商品移出入の重要な港であった。そして、この港に接した市場が、当地方商人の活動舞台であったと解される。今もなお、その跡が南市場・北市場という地名で遺っている。 室町末期大永の頃(1522〜27)当地方における畠山勢力が駆逐され、日高の湯川勢力下に収められた。だが、広の繁栄はなお続いた。伝えによると、広の町割は湯川氏によって行われたという。 ところが、その繁栄にも思がけない災厄が見舞った。1説には、豊臣秀吉の紀州征伐による天正13年(1585)の兵火。また、他の説では、同年の大津浪。とにかく、広の町並は、その大半を失ったという。しかし、慶長の頃(1596〜1611)広は再び千軒を越す人家に復旧していた。(『広浦往古ヨリ成行覚』)当時、広浦の関東出稼網80帖(1帖に乗組員3、40人という)を数え、昔の繁栄に稍近づく有様であった。このような盛衰は、当然、広浦商業にも大きく影響したであろうことはいうまでもない。だが、当時の広浦を伝える文献は、殆んど漁業に関するものである。関東旅網が盛んであったため、自ずと水主年貢(漁業年貢)が高く、後世、関東出漁が不振になるに随って、その負担に堪え得なくなった事情を訴えたものが多い。そこでは、近世初期の広浦商業について、殆ど触れるところはない。同浦の商業に関する記事が見え初めるのは、宝永4年(1707)、近世最大の災厄大津浪があってからである。広浦和田の大波戸が破壊され、それまで盛んに入津した諸国廻船が、ばったりやんだ。そのため、広浦の商業は衰微した。津浪の災厄は、単に人家を流し、人命を奪った大惨事にとどまらず、諸国廻船が運ぶ商品の入出港も跡絶えるという有様で、これに関係した多くの町民は、生活の途を失った。 広浦の西辺には宿屋もかなりあったというが、それも廻船の入津がなくなって、次第にさびれていった。とにかく、宝永の大津浪は、その直前千86軒を数えた(宝永4年9月『広浦家並控帳』)人家も、その8割近くが、流失或は破壊の被害を蒙り、広の市場も市が立たない有様と、一瞬の間に荒廃の巷と化した。すでに歴史篇でも記したことであるが、広はそれ以後、つい近代に至るまで、以前の繁栄に立ち戻ることができなかった。広浦海岸の市場もいつしか廃れ、北の市場、南の市場と呼ぶ地名となって、いま、僅かに名残を留めているに過ぎない。これは一概に宝永の津浪のみに由因するとはいい得ないが、この災害の与えた影響が非常に大きなものであった と思う。 ところで、近世前期の広村は、湯浅千軒広千軒同じ千軒なら広がよいと謳われた。宝永4年の大津浪直前には、広千86軒を数えるが、そのうちに、果たしてどれ程商家があったのか。そして、どのような商品を取り扱かったのか、殆んど地方史料に徴し得ない。やや傍証史料が現われるのは、近世後期に至ってからである。これについては後述するとして、近世前期の広浦に関していま少し見てゆこう。 元和5年(1619)徳川頼宣が、紀伊藩主となって和歌山城に入った後、広浦の畠山旧屋形址を別業の地とし、広浜御殿と称した。当時の広はまだそれだけ新藩主の注意を惹く土地柄であったのであろう。そして、頼宣は当地方商業発展のために、寛文年間広浦和田に大波戸場を築造し、諸国廻船出入港の便を図った。当時、広は単なる郷町としてでなく、藩主御殿地として、なお、商業的にも繁栄が続いた。 その当時の繁栄は、とうてい現在の広の町から想像も及ばないものがあったらしい。第1港が栄えたに伴って、浜方商人が多かった。諸国廻船の入出港が盛んであったため、それをあてこんでの宿屋・呑み屋が軒を並べる有様であったという。夜は管弦が鳴りひびき、嬌声が巷にあふれでると言う賑やかさ。南市場・北市場にむらがる遠近商人の数も多く、広は郡内屈指の郷町として隣町湯浅を凌ぐものがあった。今も大路の名が残りその附近の地名となっているが、市場の浜への交通路として昔は、広では最も重要な役目の街道であった。 しかし、時代の変化は、広の繁栄を永続せしめなかった。近世商業の発展は、江戸・大阪・京都の3都を中心に進行するが、大名領でも城下町が商業の中心であった。領主や家臣団は年貢を現物で取り立て、これを換金して、必要な物資を整えるために、是非、城下町商業を発展させなければならなかった。いまさらいうまでもないが、紀伊藩の城下町は和歌山であった。従って、和歌山が城下町として、集中的に商工業が発展していった。それに反し、最早1郷町と化した広浦には、過去のような商業発展の条件がなくなった。宝永の大津浪や関東旅網不振もさることながら、広浦の衰微には、右の如き時代の変化という、1つの要因が存在したのでなかろうか。 上記の如く、広浦の隆盛期は、中世末期から近世初期の間である。商品流通が盛んとなりつつあった時代であるから、当然、広浦商人の取り扱う商品も、かなり多種類にわたっていたことであろう。しかし、前述のとおり、それが史料に徴し得ないので具体的に挙げる訳にゆかない。 諸国廻船の出入港が多かったというが、どのような物資の搬入搬出があったのか、これらの点についても、およそ想像以外に語るべき資料がないから、この辺で若干史料のある近世中期以降に移ろう。 さて、史料というのは、例の『手鑑』享和年間の『御用留帳』、享和2年の『広浦大波戸再築記録』その他である。 さきに、近世の農業について略述した。その中で、藍・甘蔗砂糖・菜種・棉・煙草など工芸作物の栽培および製品に言及したが、生産者がそれらを販売する場合、たいてい、指定の問屋に出荷しなければならない掟があった。前記御用留帳には、藍・砂糖などの買受商人指定の記事があり、既にその1部を述べたが、さらに、享和3年の御用留帳に、買受問屋でなく、中買商人指定関連記事が見える。左にそれを引いて参考に供したい。 御国製砂糖之儀ニ付追々被仰出之所有之別而此節締方被仰出先達相通し中買広湯浅両村ニ而7人被仰付候、自今砂糖之儀問屋ニ而置売不致中買より夫々小売店其外砂糖類取扱候者へ在中買より売出候筈、此上抜売買等致候者有之候而ハ如何様御取扱之儀も難斗候間、右之趣得と被申付自今急度相心得候様御取計可有之候、仍之申越候以上 8月7日 飯沼若太夫 右文書のあとに、7名中買人の名前が見え、広で2名、湯浅・栖原で5名となっている。なお、右の文書によれば、集荷商人である問屋があって、次ぎに中買人、次ぎに小売商人と、それぞれの営業が規定されている。そして、その掟に違反しないよう厳しく注意を与えている。 ここで、近世の問屋制度を少し説明しておこう。例を藍や砂糖問屋にとると、商人が農家に肥料など再生産資材や設備資金を前貸して、栽培なり製造なりを行なわせるのが普通であった。手工業の場合は、加工原料を前貸して、できた製品に対し加工賃を支払うという方法を通例とした。既に歴史篇でも述べ、さらに後述するはずの広・湯浅の漁網なども、それであったと思う。 なお、商工業者の資格を株と謂い、その組織を株仲間と呼んだ。御用留帳にしばしば見える言葉であり、向後引用の文に出るかも知れない詞である。 ところで、広浦問屋・広浦問屋仲間・広浦仲買中・広商人仲買中・広浦商人仲・広浦木屋中間株などの名称で、広浦における各層商人組織を示している記事は、享和2年の『広浦大波戸再築記録』中に知見する。しかし、木屋中間株とある以外は、どのような商品を取り扱かったのか不明である。尤もこの記録に現れるのは、寛政5年(1793)から享和2年まで、10ヶ年を要した広浦和田波戸再築に際して、上記各商人団体は、強力な加勢者であったからで、元もと商品とは直接関係の有する記録でない。 だが、その中で、寛政5年第1次工事に、銀3貫231匁7厘を拠出した広浦両問屋は、明らかに穀物問屋であったことが、同記録の文中に発見できる。 この両問屋というのが、播磨屋源之右エ門・江戸屋半七であったことも、関連記事からほぼ推測が可能である。 右の両問屋は、かねて波戸場普請入用銀として、仕切銀の内壱朱銀並びに、穀物1俵に付き差ロ1合宛、広商人中買人の了解を得て積金しておいたと記している。 なお、前述で江戸干鰯問屋8軒から寄付(銀2貫百匁)を得たことに触れたが、広浦商人の中には、干鰯を取り継ぐ中買人、その取り継ぎを得て販売する小売商人などの存在が、当然考えられる。 広浦和田の大波戸再築は、寛政5年第1次、同7年第2次、享和元年第3次と3期に分けて着工し、享和2年実に10ヶ年の歳月をかけて完成を見た。その間、広・湯浅両浦商人および船主など、資金・人夫両面において、随分加勢している。その中に広浦船手弁に浜商人仲間から実に夥しい無賃人足を提出しているが、この浜商人というのは、海産物商は勿論、浜方宿屋(漁夫や水夫を相手の宿屋)なども指しているものと思う。広浦商業の1面を物語るものとして注意を惹く。 さらに、大波戸再築記録には広・湯浅の関係者中特に功労あった者、藩から褒美銀を授与された者などを載せている。その中に、広・湯浅浦商人の名が見える。参考に広浦商人のみ挙げよう。屋号によって商売の内容が窺えるのも若干ありそうである。 商人年行司浜屋文助、同木下屋嘉助、広問屋播磨屋源之右ェ門、同江戸屋半七、五島屋藤兵衛、商人行司橋本与太夫、同吉田屋五衛、綿屋藤助、酒屋七右衛門、浜屋庄三郎、小間物屋源助、紐屋藤蔵、五島屋長右エ門、橋本屋平助、片山屋三郎兵衛、酒屋茂右衛エ門、五島屋忠右エ門。 なお、嘉永元年の『大波戸御普請御用留』 に、広浦商人で波戸行司を勤める浜屋林兵衛同雁野仁右エ門、同八百屋茂兵衛、井関屋新七、播磨屋八右エ門などの名前が見える。 以上はいうまでもなく、広商人中の1部有力者に過ぎず、勿論、これだけで広商人の全体を知る訳にゆかない。 ところで、波戸史料に同波戸場において取り扱かった主要貨物名が記載されている。その主要貨物とはどのようなものであったか、左に転載しよう。 米麦類ニ而 1、俵物凡20万俵 1、塩15万俵 1、批把蜜柑20万箱 1、醤油11万樽 1、葉煙草200万斤 1、刻煙草3万玉 右は前記『大波戸御普請御用留』の記である。近世末期、弘化・嘉永(1844〜53)頃のことであるらしい。当時、湯浅を中心に広も醤油の産地として有名であった。即ち湯浅醤油の名で、広く各方面に出荷された。 従って、醤油製造原料として塩の入荷も多かった訳である。 湯浅醤油は、江戸時代以前から、大阪方面などに出荷され、次第に盛んとなったもので、『湯浅町誌』に詳しく述べられている。江戸時代には、湯浅・広に随分業者が多かった。近世末期であるが、広では左記の諸家が挙げられる。(因に湯浅では33戸があった) 五島屋藤兵衛・橋本平助・飯沼仁兵衛・佐野屋庄三郎・片山甚太郎・松浦屋六兵衛・島屋長次郎。 さて、この辺で再び享和年間の御用留帳に戻り、これまで余り触れる機会のなかった問題について、若干述べて見たい。 上記で当地の醤油について述べたので、次ぎに酒造りに関する文書を引こう。数ある中から、左記の1連文書を挙げることにする。 此度 公儀被仰出候造酒調之儀ニ付在々造酒人共去戌年(享和3年)より当亥春造迄跡ニ造高被相調先達而帳面被相達候事にて右造酒高10歩1役米之儀株高取組夫々酒造人共へ預ヶ置追而御差図次第取計可仕との印形取勿論年行司承知印形も為致1組切帳面取組先達而御案文之趣を以組中造高役米高別紙目録相添早く差出可被申旨可被相達候仍之申趣候以上 7月17日 木村文左衛門 口6郡両能野宛 別紙之通御勘定奉行衆より申来候尚書面之通1組切造高役米高別紙目録相添来ル晦日迄指遣可被申候 仍之別而申越候以上 7月21日 寒川新左衛門 別紙之通申来候間造酒屋共村年行司郡年行司大庄屋元へ罷出候様早々御申付有之候仍之申越候 以上 7月22日 飯沼若太夫 広、湯浅、西広、井関アテ 右引用文書は、享和4年(1719)の御用留帳に控えのものである。例によって藩→郡→組→村宛を示した。ここで特に湯浅組大庄屋飯沼若太夫が、組下関係各村に宛てた、その村名に注意したい。湯浅組では4ヶ村のうち、広・西広・井関の3ヶ村は、当時広庄、現在の広川町に属する。そして、この3ヶ村に酒造家が存在したこと、右史料によって明らかである。勿論、規模は小さかったであろうが、当地方の醸造産業として、前記醤油に次ぐものであった。 次ぎに手工業とその販売に関する史料が1〜2知見するので挙げると、 在々に而百姓作間稼に紐糸并白木綿商売致候者共ハ其品願出吟味之上夫々札下ゲ遣し候事ニ付無株ニ而紛敷商売不相成儀ハ勿論之儀ニ付其趣毎々相達有之事候 然ニ近年無株ニ而毛綿紐系取扱者共多有之哉之趣相間聞エ甚以不埒之至り以来紐糸木綿共無札ニ而取扱致候者有之ハゞ夫々仲間共友吟味ニいたし紛敷品及見候ハゞ其所にて押置名所相糺之上其趣年行司共へ申出夫より其筋へ願出候様右等之品見遁いたし候而ハメ(締)リにも相成不申候ニ付若隠追而脇より相知れ候ハゞ急度申付候筈 1、近年在々にて文羽多出来候趣にて右ハ作間稼ニ致候儀ニ付夫々向寄紐屋共手前に而紐糸買受右糸を以文羽織之儀ハ其通り之事ニ候江共右之内には小前共へ口口口等仕入紐糸致取扱候者共も有之哉之趣に候右ハ決而不相成之間是まで仕来候筋ハ紐屋共手前2而紐糸買入織方取計之趣且右文羽無札ニ而取扱いたし候者共も有之哉之趣に候得共是以木綿同様之儀ニ付織主買主共無札ニ而取扱不相成候間夫々願出之上遂吟味札下ケ遣し候との筈 1、紐商売之者共之内淡州紐買入候儀不相成品は分ヶ而相通有之処近年淡州紐買入候筋も有之哉趣相聞候、右通にては御国紐糸自然と下値ニ相成、小前稼方手薄ク車元1統之難儀ニ相成候ニ付淡州紐ニ不拘地所より買入候儀1円不相成筈候間是又紐屋共友吟味ニ致右躰之儀及ハゞ其所に押置早速其品申出候趣右之通ニ付以来心得違相背候者共も有之見及候バゝ右押物取上之上急度吟味申付候而可有之条件之趣木綿紐糸商人共弁村役人共へ取申之趣共 入念可申付旨御達可成候以上 8月26日 井口八次郎 其組之紐札之儀ニ付御勘定吟味役中より別紙之通申来候ニ付右壱通差越候書面之趣不洩様入念取計可有之候仍之申越候以上 9月6日 木村平右衛門 右之通仰来候間御書面之趣其筋之正に違無之様入念御取計可有之候仍之写差越候以上 9月11日 飯沼若太夫 広・湯浅・栖原 右1連の文書は、享和2年の御用留帳によるものである。処で、多少長くなったが、当時の模様や掟がよく判明するので、あえて引用した。 上記文書によれば、その頃在々百姓は農耕の合間に、紐糸並に白木綿を製造し、それを商いする者が多くなった。しかし、これは許可の得た者のみが行い得ることであって、無札の者は掟違反とされていた。ただし、願出れば吟味の上、札下げ遣すというのであるから、百姓は絶対それを行ってはいけないというのでない。無札で商売を行なうことに対する警告であった。これは百姓ばかりでなく、たとえ商人の場合でも同様とされている。 また、近年在々にて、文羽織(絹織物の1種)を、紐糸や白木綿同様、農家が作間稼ぎに行なう者があるが、これも無札(無鑑札)は違反とされていた。文羽織の原料紐糸は紐屋から仕入れて織った者もあったらしいが、織主買主共、無札は許されないから、それぞれ願い出て、吟味を経た上、鑑札を受けよ、というのである。 なお、当時紐商人中に、淡州紐買入を行なう者があるが、それは堅く差し留めの品であった。それは国産紐糸の値下りを防ぐためであった。淡州紐の移入によって国産紐が値下りすれば、自然、小前稼(百姓の稼)の収入が少なくなる。そのため、淡州紐ばかりでなく、すべて他所からの買入は相成らぬ。違反する者があれば、その品物を差し押え、その者を吟味するという、紀伊藩の国産保護政策であった。 ところで、湯浅組においては広・湯浅・栖原の3ヶ村が、前掲で見た如く通知書を受けている。それは紐屋などあったからであろう。広では、さきに大波戸再築記録から引いて、紐屋藤蔵を挙げたが、この広には、彼ばかりでなく、その外にも同業者がいたかも知れない。なお、その翌年、即ち享和3年にも右同様の通知が再び発せ外にられている。特に此度は年行司共にも申付しているから、無株(無札)で紐糸・白毛綿・文羽織を、作間稼に商売する者は、早速年行司に願い出で、年行司から札下げ渡しを願い出でさすべしとの通知である。その文面の初めに左の1文が記されている。 在中にて作間稼紐糸致取扱候者共之内、名草、海士、有田、日高郡之儀者年行司相極有之、伊都、那賀両郡ハ糸と難相分差支候ニ付1郡切年行司両人にて相極、名前書付ヲ以早々申出候趣名草、海士、有田、日高之儀も代り合等之節申出後レ筋も有之哉難相分筋も有之候間是又此節早々夫々名前申出候趣 右の文は、在中にて作間稼ぎに紐糸や糸を撚りかつ取扱う者、年年司が相極め、その名簿差出に関するものである。伊都・那賀両郡おいては、紐糸と糸の区別難しいので云々とあるが、両者の相異点については、いまここで説明する知識がない。絹糸と綿糸の区別を指すのであろうか。それはとにかくとして、近世においては、諸藩領内農村の手工業として、絹糸・綿糸、絹織物・綿織物製造が盛んに行われたこと、既刊の産業史が明らかにしている。紀伊藩では熊野地方を除き、それが行なわれたこと、上記史料が物語るところである。 さらに、当地の旧記『手鑑』 には、有田郡の島木綿(縞木綿)に関する記事がある。江戸時代中期の頃を記録した中の1文で、当時の様子が判明する。それを左に引くと 1、新九郎島之事、郡中ニ8軒御座候、繰糸を買又ハ紐屋を相兼、島(縞)屋を致候も御座候、右島もめん元来有田屋新九郎と申者仕始メ申ニ付新九郎島と唱申候、藍染ハ常の紺屋ニ而染申候、茶染之類ハ新九郎染見に而染申筈外ニ而染事不成候、 1、右島丈尺極メ染色地奥になし織立申筈之証文書有之候、島の端へ新九郎手代改之朱印押国々へ売ニ出し申候、 1、島屋之内年行司と申者有之候、有田郡にも美人有之輪番と申5人有之候、大阪へ島売ニ罷登候、 右掲載文では、有田郡下の縞木綿染色(茶染)の特許的であったこと。郡内に8軒の業者があったこと。年行司が5人で交代制となっていること。製品は大阪方面へ出荷することなど詳細に述べられており、近世有田郡地方手工業の一端を知り得て興味ある史料というべきであろう。近世末期文化(1804〜17)頃、醤油業に転業しているが、湯浅組では広村の島屋長次郎、湯浅村の島屋半三郎の両家などは、かって縞屋であった。 なお、近世の手工業として、広川地方においても紺屋がかなり栄えた。現在屋号で名残を留めている家も若干ある。享和年間の御用留帳に、藍栽培およびその製品と関連して、比較的多く現れるのは、紺屋に関する記事といえる。河瀬鹿瀬六郎太夫の旧記『古歴枢要』に、天明(1781〜88)の頃、広村紺屋金兵衛・広紺屋六兵衛などの名が見える。なお井関には、紺屋平兵衛・紺屋忠兵衛・小路紺屋等の名が残る。 ところで、広・湯浅における手工業に醤油袋・漁網の製造があった。1種の特産的性格を有した。広浦の雁家は、各種の店をもち、本家は醤油袋製造、別に米物商店と海産物問屋を経営していた(安政2年写雁野仁右エ門記録)。同家の醤油袋製造業は問屋的経営であった模様で、橋本家なども同様でなかったかと思う。その他にも同業者が存在したかも知れないが、いま詳らかでない。 醤油袋製造と並んで盛んであったのは、広・湯浅の漁網であるが、史料に現われるのは前記『手鑑』である。さきの新九郎縞その他記事と併記している。既に歴史篇でも引いたが、あえて再録しよう。 1、魚漁網漉出し之事 第1湯浅組別而広湯浅ニ而多く出来仕候 関東国々へ捌ヶ申候 1、右網改役人有り比者家ニ而網之両方へ紙ヲ巻朱印ヲ押紀州湯浅村改広村改と仕候、右網数先年ハ広湯浅之内ニ而120万反も出来仕候へ共諸国浦々ニ而多く出来候由ニ而近年 捌ヶ悪敷宝暦年中ニ至漸く2万端程ならでハ出来不申むかしの十分1に成申候 右の記事によると、宝暦年中(1751〜63)に至って2万反に減ったが、昔は120万反にも及んだという。減った原因は、近年諸国浦々においても多く出来る様になり、売行が悪くなったためと述べている。昔とは何時頃を指すものか明らかでないが、120万反とは随分な数量である。とにかく、広・湯浅では、相当古くから、製網のことが盛んであったことが窺われる。 右の広・湯浅の製網は、問屋があって、附近の農家が賃仕事に行ったのである。近代に至ってもそれが続けられ、広の戸田保太郎など、網問屋として最も手広く経営していた。 以上、近世における当地方の手工業を、若干史料に基づいて述べて来たが、その殆んどは問屋があって、その附近の農家や漁家などが、副業的に手工者となった。普通問屋は原料を貸付けし、製品高に応じて工賃を支払うのであったが、原料を自家で栽培する種類の場合は、問屋が干鰯・菜種油粕・棉実粕等の肥料を前貸し、農家の生産物買受の際精算した。 なお家内工業的小規模生産であったが、広・湯浅に墨の製造があった。これは寛保2年(1742)湯浅の橋本治右衛門が紀伊第6代藩主徳川宗直の命により藤白墨の製造を始めた。 享和年間の御用留帳に湯浅御墨師 九郎次郎の名が見えるがその後、広においても墨庄(岩崎庄右衛門)、墨長(黍原)、墨善(崎山甚右エ門)などがあった。 近世末期の広川地方産業のうち、最も後世まで人口に膾炙されるのは、何と謂ても南紀男山焼と称した窯業である。文政10年(1827)当広庄井関村出身の崎山利兵衛が、広八幡神社東隣りの丘陵南麓に紀伊藩第10代徳川治宝の援助を得て開窯した。そして、明治11年(1878)閉窯するまで陶磁器を焼成し、その盛時は12基の窯を有したと伝える。この南紀男山焼については、歴史篇において特に1章を設けやや詳述したので、これ以上の叙述は避けたいと思う。が、同窯業染付陶磁器は当時においても名声高く大阪方面に相当の出荷量があった。 もう1つ当地方の窯業を掲げておきたい。これは陶磁窯でなく、石灰窯である。それもただ1例史料に知見するのみであるが、この広川地方石灰製造業の始まりと考えられる。 近世広川地方商人の中に、相当早くから江戸に商店を有する者があった。河瀬の旧家鹿瀬六郎太夫(数代襲名)の記録『古歴枢要』(貞享元年=1684から弘化5年=1848〈嘉永元〉まで164年間の年代記的備忘録)に、江戸時代中期から広浜口吉右衛門・同儀兵衛両家の江戸における店の出来事を、しばしば記録している。しかし、商売に関する記事が見えないので詳かでないが、多分、干鰯や醤油であったと思う。なお、上記浜口家その他2〜3の広商人が、房州銚子において醤油醸造業を始めたが、それも江戸中期前後からであった。(歴史篇近代史で記述)ところで、近代明治末期の史料であるが、広の渋谷伝八筆録の『夏之夜がたり』、1名『広村郷土史』なる稿本がある。罫紙28枚の記録であるので、内容はさして豊富でないが、その中に「藩幕制度」という1章があり、近世広村のことを記している。その中に 広商人多ク江戸ニ店ヲ出セリ、橋本・古田・岩崎・浜口・五忠(小林)等、オヨソ20家バカリアリキ、シカレドモ彼等ハ決シテ引キ越サズシテ宅ハ広二置キタリシカバ広村ハカッテ繁昌シタルナリ、(以下略) 近世広商人で江戸に店舗を構えたもの、およそ20家あったという。そのうち5つの苗字を挙げているが、右の外、堂源右衛門・梅野小右衛門・雁野仁右衛門・久徳六郎兵衛もいた。 近世広商人の都市進出は、江戸のみでなかった。湯川小兵衛家(藤之右衛門家)の如く、大阪に出店を経営したものもあった。 なお、前記『夏之夜がたり』に、左の如き1文がある。 広盛ナル頃ニハ呉服屋モアリ、中勘、木ノ下、角宇ノ如キ大キナル小間物屋アリキ、其他肥料商店・産物商等多カリキ、而レドモ出稼人少ナクナルト共ニ交通衰へ従テ問屋ノ如キハスタレ…… 杉村広太郎の『浜口梧陵伝』には、明らかに右の文、およびその前後の記述に基づいて、近世広浦の消長を記している。同書にも述べられているとおり 「広村は徳川時代中期以前、湯浅千戸広千戸と併称され、紀州においても隆昌の村邑として知られた」 それが、度重なる津浪や、旅網の不振により次第に疲弊し、遂には戸口減少、土地荒蕪、然るに年貢高のため、南海の偉人浜口梧陵の活躍時代は、広村の最も貧窮時代であった。 広といえば、まづ、浜口梧陵の名が出る。安政元年(1854)の大津浪に際しては多くの難民を救済し、かつ、私財を投じて大防浪堤を築いた功績は、近代の文豪小泉八雲(英人ラフカディオ・ハーン)の作品「生ける神」によって、広く海外にも知られている。 ところで、浜口梧陵は地方産業振興にも随分貢献している。前記『夏之夜がたり』にその一端が見える。有田郡に有田商会を創設し、広村に広商会を設立した。 広商会は井爪与次兵衛を頭取に、浜口吉右衛門を副頭取に、浦清兵衛を支配人に、店員には津森源七、上田惣助・渋谷伝八・児島庄右衛門など、帳方には山口幸助を配し、広大道(前掲記録に辻の桶屋の所とある)海岸寄りに、同商会建物を構えて発足したのであった。この広商会は勿論、本郡有田商会も浜口梧陵の肝入りで設立されたのである。そのうち、広商会は米穀取引を盛んに行うようになったが慶応2〜3年(1866〜67)頃からの米価急騰の煽りを喰って、明治2〜3年(1867〜70)頃、1万4千両の損失を招くに至った。だが、その跡始末は梧陵に頼らず、会頭以下各役員の拠出金と、特に渉谷伝八の献身的努力によって5〜6年で整理を付けたのであった。かくて、広商会も負債の始末は一応片付いたものの、これがもとで、間もなく閉鎖となった模様である。 この前後は謂うまでもなく、大変革の時代であった。幕末の動乱を経て明治維新を迎え、やがて、廃藩置県、地税改正など枚挙に暇ない情勢の変化は、即ち、日本近代化への始動であった。わが広川地方にも当然その波が及んできたことは、今更謂うまでもない。一応長い期間の封建時代に別れを告げ、近世から近代に移った。 4、 近代の産業先頭に戻る 1 近代の農業(1)明治時代 2世紀半にわたる幕藩体制が崩壊して、近世という封建社会が幕を閉じた。それに代って近代社会の幕が開かれた。明治維新がその幕開けを行ったのである。 だが、この明治維新という開幕によって、新しく舞台に登場した社会は、完全に王政楽士の名に値いするような、庶民に潤のある社会であったであろうか。政治・経済・思想その他あらゆる面に、また別の足枷が嵌められて、不自由な身で動作したのが、明治時代の一般民衆であった。そのうちでも特に農民は、旧幕藩時代に劣らぬ地租や小作料の足枷に苦しんだ。 明治新政府の行なった地租改正は、長い封建的支配から解放されて新生活を期待した農民にとって一大痛手であったことは否定できない。明治時代の農業を考える場合、まずこの地租改正の問題を取り上げなければならないであろう。だが既に、歴史篇近代史のところで述べたので、ここでは極めて簡単に触れる程度にしておきたい。 明治新政府は、幕藩体制の要である領主・武士階級の土地支配・知行を解体し、地主の私的土地所有制度を確立した。もっとも、その中で旧領主層も土地所有権が認められ、有力地主層の1員となるが、昔日の如き絶対権力者の座を保有するものでなかった。それに代って、天皇制を背景とした明治新政権が実権者の座についていた。この新政権が廃藩置県の後に行なったのが地租改正である。 明治6年(1837)、地租改正条例を布告し、地価を定めて、その3パーセントを地租とした。かつ、1パーセントを附加税(村費)とした。この併せて4パーセントの課税を、従来の物納から金納に改めた。これが、当時の収穫量の34パーセントに相当した高額であった。そのため、全国各地に農民一揆が頻発したのである。明治10年(1877)地租率を2・5パーセントに引下げられたが、それでも明治10年代(1877〜86)は税収入の80〜90パーセントに及んだという。 この高額地租に耐えかねて自作農の小作農への転落が広範に現われた。さらにいえることは地主は高額地租負担を理由に小作料を高額のままに据置くか一層高くしたことである。小作農民の貧窮は依然として改らなかった。 今も古老の伝によると、地租負担に耐えかねて、田地を放棄して他村之逃亡した農家、捨値同様で田地を人手に渡して、稼人(日雇労働者)となった百姓が多かったという。筆者の祖父も、地租負担の苦しさから約4反(40アール)程の田地を手放したと、その当時の苦労を述懐したのを子供心に記憶している。 とにかく明治維新は、土地を封建制領主の手から奪い取ることに成功したが農民の負担を軽くする結果にはならなかった。江戸時代には 右に見た如く、明治時代の高額地租は、農家経済を圧迫し、農業の発達を遅らせたことはいうまでもない。自作農民は、地租の負担に喘ぎ、それ以上に、小作農民は、小作料の負担に息も止まる思いであった。ただ、地主のみは、余剰をもって他の事業にも進出し、近代資本主義経済発展期の波に乗って、一層富有階級の仲間入りすることになった。地主はたいてい、資本家階級の系列に加わり、商工業方面で活動したのである。当広川地方の有力地主も例外でなかった。 明治時代農業の停滞性は、覆うべくもない事実であるが、その原因は、明治政府による高額地租徴収と地主による高額小作料(当時は現物小作料で米納を普通とした)にあった。 明治初期の頃、この広川地方には、どれ程の耕地があったのか明らかでない。しかし、その大半は水田であったことは確かである。この後に、明治6年(1873)広地区、明治20年(1887)南広地区の面積を載せることにするが、これによっても大体の見当がつくであろう。 ところで、明治時代、この水田の田植えは、繩も枠も利用せぬ全く昔ながらの見当植であった。これは随分古来からの方法である。他の産業が進歩発展期にあった明治時代において、なおかつ、農法には旧習を踏襲するのみで、何の進歩も見られなかった。 進歩のなかったのは田植えばかりでない。農器具にしてもまた然りであった。当地方の農具を例に取って見ても犂・ とにかく、明治時代および大正時代初期の農業には、目立った発展性は認められない。大正末期から当地方において 明治時代の農村は、農業生産力が高まらないままに、農民層の分解が進み、地主・小作の関係がより急速に拡大されていった。それを促進したのは、いうまでもなく、明治政府の行なった土地私有財産化・地租改正による高率地租賦課、その当然の帰結として高額小作料設定等であった。この地主―小作関係拡大の中で、当地方においては、広地区に在住、若しくは在籍の有力地主層は、近代資本主義発達期の波に乗って、商工業方面に投資し、資本家階級の系列に参加していったことは、さきにも言及したとおりである。 さて、この辺で、明治・大正期における当地方の農業の状態を数字の上から見ることにしよう。 明治6年(1873)宏村『明細所調御達帳』、明治20年(1887)調「役場土地台帳」。明治41年(1908)『南広村是』 大正3年(1914)『津木村郷土誌」などに、明治末期前後までの資料が、若干、知見し得るのでこれらに拠ることにする。 明治6年7月 明細所調御達帳 第5大区2之小区広村 戸数456戸 員数1717人 男 910人 女877人 士族1人 卒1人 庶人1774人 僧9人 旧神官2人 田 本田反別81町5反2歩5厘 同高1366石7斗4升8合4勺 新田反別2町5反4畝15歩 同高24石9斗7升5合 畑 本畑反別4町5反3畝6歩2厘 同高44石2斗9升5合6勺 新畑反別2町5反3畝15歩 同高16石7斗6升2合 1歳現石1203石2斗 貢米551石8斗6升2合5勺 貢金908円94銭 (筆者注。明治6年止地租改正前であり、幕藩時代そのままの石高制である。なお、戸数人口には農・工・商の内訳がないので、当時の農家戸数・人口が不明である。) 耕牛 50頭 悉皆牝牛 馬 7匹但3匹乗馬、4匹荷馬 車 4輪 悉皆小荷車也 土産 菜種 1歳員数凡62石 1歳価直凡 綿 1歳員数凡3千斤 1歳価直凡 大豆 1歳員数凡30石 1歳価直凡 麦 1歳員数凡840石 1歳価直凡 右は広地区のみの数字であるが、明治初期における農業の一端が窺えるであろう。 さて、左の表は、明治20年における南広地区の面積明細である。農業の基礎である耕地が判明する。 明治20年における南広地区面積明細 (広川町役場土地台帳による)
(筆者註、溜池は上記4ヶ村以外はどういう訳か記載がない 次に明治41年調査の「和歌山県有田郡南広村是」こよって挙げるとしよう。 まことに詳細にわたる調査であり、貴重な資料であるから、多少の煩瑣を厭わず引用することにする。 旧南広村農業関係統計表(明治41年調査) 第1号ノ1 戸口 明治41年12月末日現在
備考 既往5ヶ年の状態
第1号ノ2 職業別戸口
第2号の1 有租税地 明治41年12月末日現在
第2号の2 田畑所有区分 第2号の3 田畑耕作反別対農家戸数
第2号の5 作付け回数による反別
第2号の6 土地用水の関係反別
第2号の7 牛馬耕と人耕反別
第3号の1 本村民所有田畑耕作及び山林経営区別
第3号の3 自作小作兼小作者の戸数人口
第3号の4 耕作反別戸口当
第12号 生産 3ヶ年平均 農業部 (1)穀類
(2)豆類
(3)蔬菜類
(4)果実
(5)畜産
(6)雑類
(7)肥料類 生産高
農業部合計金17万3463円63銭8厘 以上、引用掲示したのは、ささにもいった如く、明治40年前後の南広地区農業実態調査結果である。右に掲載した農業総収入に対して、支出はどれ程であったか。この点については詳しいことは判明しないが、肥料代が挙げられているので、それによると。
肥料部合計金3万3441円82銭4厘 となっている。前記、農業総収入から右肥料代を差引くと、14万21円81銭4厘となる。これから更に、種苗代・農機具代・人件費など差引くと、まだまだ、農業収入は低くなる。その上公課公租を差引かなければならないし、小作農家は小作料を納付しなければならない。しかも、これが南広村総農家戸数468戸分の農業生産額である。1戸当り平均にすれば299円19銭2厘で、約3百円程度ということになろう。 『南広村是』には、地租および諸負担の明細を挙げ、さらに、それを1尸当実際負担額を表にしている。 第11号の4 実際負担現住戸口当
さきの肥料代を差引いた1戸当平均農業収入、およそ、3百円から公課租1戸当平均36円43銭1厘を差引くと263円56銭9厘の残である。これが、大体自作農の場合であって、小作農は、これよりもさらに残るところが少ない訳である。だが、同書には、小作料については、他町村から入る分、他町村へ出す分の対照表を掲げているのみで、村内の小作農民がどれ程小作料を負担していたかについては明らかにしていない。まず、その対照表を転載しよう。 第7号の2 小作料及び家賃輸出入高
右対照表および、前掲第3号ノ1、同2の資料に基づき推計を試みると、およそ、当時の南広村小作農家が負担した小作料は、次の如くになる。 1、本村民所有田畑を本村民が小作している面積、田95町1反8畝1歩、畑6町6反5畝18歩 2、他町村民所有田畑を本村民が小作している面積、田81町2反4畝10歩、畑3町2畝2歩 3、1及び2の合計 田176町4反2畝11歩 同 畑 9町6反7畝20歩 4、田小作料反当り平均1石1斗7升9合(他町村より納入分1石1斗6升8合3勺。他町村へ納付分1石2斗0升7合4勺) 畑小作料5斗2升3合7勺(他町村より納入分6斗4升7合3勺。他町村へ納付分4斗○○○) 5、田小作料高2080石3升5合 金額28、080円53銭 畑小作料高50石6斗7升8合 金額 684、16 合 計 2130石7斗1升7合 金額28、764、69 (1石22円50銭) 1戸当平均 金額 217、43 かりに肥料代引1尸当農業収入3百円として、右推計小作料代127円43銭を差引けば、残り172円57銭である。そして、小作農家であっても多少の公課負担があったであろうから、自作農民に比して百円程度低い収入となったことが推測される。 さて、次に、津木地区について見ることにしよう。大正3年編集の「津木村郷土誌」から、関係事項を引用することにする。 田 面積 142町9反5畝20歩 畑 面積 15町0反4畝25歩 宅地 8町1反2畝10歩 山林面積 2210町9反8畝21歩 原野面積 3町6反3畝16歩 ` 池沼 面積 5反5畝05歩 官有地面積 1町4反2畝24歩 明治末期10年間戸口累年比較表
右に明治末期における津木地区の面積内訳と、戸数人口を「津木村郷土誌」から引用したが、この中で農家戸数と人口がどれ程存在したか、。同書によって見ると、明治44年(1911)12月末調査では左のとおりである。 戸数 人口 農業専業者 112 698 農業本業者 173 1、036 農家計 285 1、734 外に商工業者 17 75 合 計 302 1809 さらに、前記耕地の自作小作別を見ると、 自作田 74町8反5畝15歩 自作畑 13町5反8畝歩 自作面積 88町4反3畝15歩 小作田 68町1反0畝5歩 小作畑 1町4反6畝25歩 小作面積 69町5反7畝歩 となっている。このうち、2毛作田は93町4反7畝12歩、1毛作田は49町4反8畝8歩である。 上の田畑その他から生産される農作物は下の通りである。 農作物の生産表 津木村 明治44年調査
以上が大体明治時代における広川地方旧3ヶ村の農業概要である。明治時代約半世紀の中で、広の如く明治6年調査によるもの、南広・津木の如く明治40年代調査によるもの等、明治初期と末期の模様を知り得たに過ぎない。しかも、南広村の場合の如く、その調査精緻なるもの、広・津木村の如く簡略なるもの一様でないが、明治時代の当地方農業の状況を窺い得るであろう。 先頭に戻る 2 近代の農業 (2)大正・昭和時代前述の如く、明治時代の農業は非常に苦しいなかで経営された。それでは大正・昭和時代の農業はどうであったか。大正時代の農業に関する当地方の資料が意外に遺されていないので詳しく述べる訳にゆかないが、大正4年(1915)日高郡から罌粟の種子を得て罌粟栽培が行なわれるようになり、罌粟から採取した阿片の賠償金によって、従来の寒村から或程度脱却することができた。だが、それも栽培面積が除々に増加してゆくに伴ってであって、大正初期は相変らず農家は貧困生活に堪えてゆかなければならなかった。 歴史篇でも述べたことであるが、大正時代全国的に小作争議が発生した。当地方にもそれが及んだということは、やはり農家経済が苦しかった証拠である。第1次世界大戦の影響で1時好景気が訪ずれるが、大戦の終結と同時に大不況に見舞われ、この恐慌が相当長期にわたったため、農産物価格も暴落し、農村も疲弊を免れなかった。それを幾等か緩和したのが罌粟栽培による阿片の賠償金であった。 その大正時代、広川地方の戸数人口はどれほどであったか。その中で農家はどれほどの率を占めていたか、それを大正10年(1921)の調査によって窺うことにしたい。 大正10年広川地方人口戸数
上記統計書によれば、右のうち農家は広村で45パーセント、南広村では殆ど、津木村では87パーセントというのが、当時の模様であるという。これを平均すると広川地方の農家は、全戸数の70パーセント強を数えることになる。 ところで、この大正時代、当地方農家の経営耕地面積がどれ程であったのか。その耕地は田畑別に見てどうであったのか。農産物にはどのような種類があり。その収穫高はどれ程であったか。それらについては詳しくした資料が遂に管見に入らなかったが、大正末期から昭和初期における米穀生産面積並びに収穫高、昭和初期における麦類のそれを示した資料が、当時の和歌山県穀物検査所「穀物検査報告」(年刊)の中に見い出し得るので、それによって左の表を作成した。(和歌山食料事務所元検査部長中井稔氏より資料の提供を受ける。) 大正末期から昭和初期の稲作面積・収穫高 (和歌山県穀物検査報告書)
昭和初期の麦作面積・収穫高
次の表は昭和5年(1930)度における当地方の生産総金額である。その中で農業生産額の占める率は1体どれ程であったか、後述でそれに触れるとして、旧広村と旧南広村や旧津木村では大いに事情を異にするが、3地区合計で見ても工業生産額に遠く及ばない。 昭和5年度広川地方生産総金額
右の統計表によって見ると、農業生産金額は、第2位であるが、総生産金額に対して僅か9.7%に過ぎない。もっとも、工業生産金額が大半を占めているのは、大正13年(1924)広に紡績工場が建設され、繰業が行なわれるようになったからである。 次に同年度における主要農産物の収穫高と、その金額を挙げて見よう。 昭和5年度主要農産物 (『和歌山県統計書』)
以上に、若干、昭和初期の米麦生産高に関する資料を挙げたが、その当時における米穀及び麦類の受検数量を次に掲げて参考に供したい。生産者の販売米と小作米の合計および生産者の販売する麦類の俵数が次の表に現れているものとして注意されたい。 昭和初期米穀検査数量
備考 有田郡の米穀検査は昭和4年度から実施、生産者が直接販売する米穀及び小作料として地主に納付する米穀が検査対象とされた。 昭和初期麦類検査数量 俵
備考 有田郡の麦類検査は昭和8年から実施、生産者の販売用と見て差支えない。 農業統計としてはやや詳しい昭和7年(1935)度を『和歌山県農林統計書』から抜粋しよう。 昭和7年 耕地面積
昭和7年 麦作
大正4年に始まったと伝えられる当地方の罌粟栽培が、漸次盛んになり、昭和10年には上表の如く、殆どの農家がこれの栽培を行なった。阿片採取量・賠償金においては郡内第1位を占めた。米穀の33万8千85円に次いで第2位である。 柑橘類については、この後に挙げるが、阿片賠償金の約半分であった。この罌粟栽培については、後述で若干資料を挙げて、再度触れることにするが、昭和11年当地方においては飛躍的に増反している。さらに、同12年度は史上最大の栽培面積に達したのでないかと推測される。この罌粟栽培も敗戦後1時中絶し、昭和30年再び許可されて栽培が開始されたが、間もなく衰微し、現在では最早過去の産業となってしまった。 昭和10年 柑橘栽培
上昭和10年度における農業生産金額を前例に従って、同年の総生産金額中に占める比率を見ると次の如くである。 昭和10年度広川地方総生産金額
上の表で見ると、昭和5年に比し工業生産額の著しい伸びによって、総生産額が増大しているが、その中で農業生産額が10.87パーセントと比率が高まっている。これは、水田裏作が麦栽培から罌粟栽培に移行し、阿片の賠償金が増加した結果と考えられる。当地方の農家にとっては、何といってもこの収入は救の神であった。表作の米作りは、特に小作農家の場合、その収穫量の半分以上が小作料として地主へ納入しなければならなかったからである。前掲表によって、当時の米穀反当収量を計算すると広・南広においては2石4斗2升8合強、津木で1石9斗4升7合強。これに対して小作料は左表の如くであった。 註、左表は、現在野原茂八氏保管の広の旧家岩崎氏の資料に基づき作成。
ところで、当時の小作農家はどれ程であり、その小作農地はどれ程であったか、当地方に関する明確な資料は知見し得ない。だが、昭和22年(1947)の分については、『和歌山県統計書』によって大体窺い得るので、それを引用すると下記表のとおりである。 昭和22年度(1947)自作小作別農家戸数
昭和22年度(1947)自作小作別田畑面積 反
昭和22年といえば農地改革のために政府は第1回農地買収を行ない小作農民に払下げを実施した年である。この農地改革は翌年完了を見るのであるが、とにかく、22年には或る程度の小作地が地主の所有から小作者の所有に移っていた。従って、小作農家と小作地は、敗戦前より若干減少していたと思われる。それが前掲の表である。戦前の小作農家とその小作地はもっと多かったことは間違いないであろう。 前述した如く昭和22年は1部農地改革が行なわれているが、完了したのは翌23年である。その途中である22年、わが広川地方においては、耕地総てを小作する農家と耕地が小作地の方が多い小作兼自作農家を併せると、広では69、4パーセント、南広では30、6パーセント、津木20パーセント、当地方全体で35、47パーセントを占めていた。この外に自作兼小作農家が前掲表に見る如き戸数が存在した。 さて、農地改革の結果、当地方の自作・小作の戸数・面積にどのような変化が現われたか。それを例の『和歌山県統計書』によって窺うことにしよう。昭和2十5年(195〇)度分の同書がその結果を物語っている。 昭和25年度(1950)自作小作別農家戸数及び面積 畝
昭和25年度(1950)経営規模別農家戸数
昭和25年度(1950)専業兼業別農家戸数
昭和25年度の農家戸数、経営規模別、専業兼業別など上の如くであるが、同書には、さらに詳しい様々な農業統計が載せられているので、下に引用して参考に供したい。 昭和25年度(1950)1毛作2毛作別田面積 畝
昭和25年度(1950)主要農作物栽培戸数及面積 畝
昭和25年度(1950)果樹栽培戸数及面積 畝
昭和25年度(1950)役牛馬頭数
右に挙げた統計数字は、昭和25年2月1日実施の農業センサスに基く『和歌山県統計書』からの引用である。ところで、同書では収穫高が判明しない。そこで、統計調査事務所の資料から米麦について挙げると左のとおりである、面積においては両者に若干の相違があるが、調査機関の異る点からすればやむおえないであろう。 昭和25年度(1950)米麦生産状況
ところで、当地方の主要農産物として逸しがたい柑橘の生産高については、残念ながら資料が管見に入らなかったこと、もう1つ、是非参考に挙げておきたいと思ったが、その拠るべき資料に接することを得なかったのは、昭和17年頃から同25年頃までの米穀供出量である。歴史編近代史の中で昭和17年産米の供出割り当てに際しての忘れられない1つの思い出を物語った。昭和17年といえば食糧管理法の制定された年であり、日本が第2次世界大戦に突入した翌年である。その年から敗戦後の昭和25年頃までは、当地方の農家も随分重い米や麦の供出割当に喘いできた。それを数字を挙げて立証したいと思ったが、遂にその資料に接することができなかったのも残念である。だが、おそらくさきに載せた昭和初期の米穀検査数量を上廻るそれがあったであろうと思われる。 昭和30年(1955)広町・南広村・津木村が合併して広川町が誕生した。その時の農家戸数及び人口は明らかにし得ないが、その翌年、即ち昭和31年9月1日実施の夏期農業調査によると、 農家戸数 998戸 同総人口 5511人。男2724人、女2787人 右のうち農業に全然従事しない人、2162人 農業経営に中心となる人 998人 農作業に補助的に働く人 1521人 農繁期だけ従事する人 830人 農業人口計 3349人
兼業内訳 その1
兼業内訳 その2
経営規模別農家戸数
畜力・機械力使用状況
機械力
経営耕地面積内訳
主要農作物作付面積、実収穫・反当収量
罌粟(阿片採取量)
ところで、当地方の主要農作物の1つである柑橘類について、町村合併当時の面積及び収穫量を挙げる資料が管見に入らないので、昭和35年(1960)度のそれを、統計調査事務所の資料に基づいて左に掲げることにしたい。 柑橘栽培面積・収穫高 (昭和35年度 統計調査事務所調査)
上記において、昭和31年の夏期農業調査による諸統計及び同35年度の統計調査事務所調査による柑橘生産統計を引用して、広川町発足当時の農業概要を1応見た。その後当地方の農業にも著しい流動が始まる時代となる。それを昭和40年(1965)2月1日実施の農業センサスによって窺うことにしよう。耕地における田と畑が相半ばする現象が見られ、稲作農業から柑橘農業への転換進行を物語っている。 専業兼業別農家数 (昭和40年2月1日の農業センサス。以下同じ)
経営耕地面積別農家数
自小作別農家数
農産物販売額別農家数
農家人口
経営耕地別面積 a
果樹面積および栽培農家数
家畜家禽飼養農家数及び数量
農用機械所有台数
主要農産物収穫高
以上、農業センサスおよび統計調査事務所の調査資料によって、昭和40年度の広川町における農業状態を表示した。水稲や麦類が減少し、柑橘類が増加しているのが特徴といえるであろう。後述で明らかにするが、罌粟は、最早、衰微して僅かに十ヘクタール余りとなっている。 左に昭和45年(1970)度における水稲と柑橘の生産状況を挙げて、最近広川町の農業がどのような変貌を遂げたか、それを見ることにしよう。誰しも大きな変化に気付くであろう。 昭和45年産米穀生産状況
昭和45年産柑橘生産状況
右表の水稲並びに柑橘栽培と、前掲昭和31年のそれを比較した場合、水稲ではおよそ半分以下。柑橘では実に4倍以上となっている。米作農業から柑橘農業に転換したことを物語るものである。昭和35〜6年頃から水田の畑地転換が急速に進み、従来山畑を主にした柑橘栽培が平地柑橘園を主体とするように変化を示した。それに加えて、山地における畑開墾も盛んに行なわれ、当地方の農業の中心は、まさに柑橘経営となった。食糧増産を強く叫ばれた第2次大戦の戦中戦後と事情を大きく異にし、昭和35年(1960)政府が農業基本法を布いて米穀生産農業から果樹・畜産農業への転換を呼びかけたが、当地方の柑橘栽培もそれに即応するかの如く、この頃から急激に増加を示すに至ったのである。 いまは全く過去の産業となってしまったが、かって、水稲に次ぐ栽培面積を有し、広川地方を寒村から救った罌粟裁培に関して略叙しておきたい。最早や歴史の彼方に埋没せんとしているので、せめて、この産業史篇にでも記録を留めておくのも意義なしとしないであろう。 できるだけ多くの資料を挙げるために種々手を尽したが、町村別まで判明する資料は非常に稀である。戦前については、前記昭和10年とそれに同18年が詳しく知り得るに過ぎない。面積のみなれば、『湯浅町誌』によって昭和11年が判明する。 罌粟の栽培は同町誌でも述べられている如く、昭和10年前後から盛んとなった模様である。そして、同11年の有田郡内各町村別栽培面積を挙げているので、広川地方の分を左に引用すると、 南広村 252町4反8畝 津木村 73町0反3畝 広 村 51町1反6畝 計 376町6反7畝 である。前年に比して118町8反近く増えている。前年対比146.05パーセントなっている。だが、阿片納付量やその賠償金については不明である。おそらく、面積の増加率に似た賠償金の増加率があったことであろう。 ところで、罌粟栽培面積が最も大きかったのは、昭和12年である。それを町村別に示した資料が管見に入らないが、和歌山県薬務課の資料によって、昭和7年(1932)から同14年(1939)までの年別県合計が判明する。それを掲げて参考に供したい。 和歌山県罌粟栽培資料
右の表で見た場合、栽培許可人員は昭和10年が最高であるが、栽培面積は昭和12年が最大である。県下で第1位を誇った当時の南広村は、前掲11年度以上の栽培面積を有したであろうし、広村・津木村においても同様であったと思われる。 戦時中の昭和18年(1943) ・和歌山県下各町村別が判明するので、広川町関係分を挙げると 昭和18年広川町罌粟栽培資料
この頃、食糧増産と若い働手出征のため、最盛期の昭和11〜2年頃には及ばないが、なお、盛んであった。それが、昭和20年敗戦によって、連合軍指令部から罌粟栽培が禁止され、全国1を誇った当地方の罌粟栽培も、ここに1時中絶を余儀なくされた。 昭和28年(1953)再び阿片製造法が制定され、当地方においては、昭和30年から罌粟栽培が再開された。そして、広川町における状況を見ると左表の如くである(和歌山県薬務課資料による)。 広川町罌粟栽培状況一覧表
待望の罌粟栽培が許可されて、上記の如く十年振りで栽培があり、再び当地方晩春の田園を真白な花で装うことができたが、病虫害の発生が多く、期待した程の阿片採取量を得ることができず、右表の如く十年を経るか経ない間に衰微してしまったのである。 一時全国一を誇った当地方の罌粟栽培も、最早や影を没し、続いて2千年余当地方農業の首位を占めてきた米作りも、次第にその地位をみかん作りに奪われるに至った。今や柑橘栽培が当地方農業の王座を占める時代といっても必ずしも過言でない。 時代と共に農業も変化してゆくのは当然の理であるが、最近の変化には著しいものがある。繰り返し謂うまでもないであろうが、水田が柑橘園と化し、自家保有米さえ作らぬ農家が珍らしくなくなった程である。これが国策に添った農業の変貌にしても、正直にいって一抹の不安感を禁じ得ないものがある。 以上甚だ粗雑であったが、近代広川地方農業史を叙述してきた。 農業関係団体 近代農業進展の中で、重要な役割を果たしてきたのは、農会・産業組合・農業協同組合・柑橘出荷組合等各種農業関係団体である。 先頭に戻る (1)農会『有田郡誌』によると、有田郡内の町村農会は、明治27年(1894)12月藤並村に設置したのを初めとして、次いで鳥屋城、田殿の2村がこれを組織し、漸次他の町村に及び、同28年11月には郡中の町村これを有せざるものなきに至ったというから、広・南広・津木村も明治28年、それぞれ村農会の設立が行なわれたに相違ない。翌29年2月、町村農会の連合組織として有田郡農会の設置を見ている。 ところで、創立当時における広・南広・津木各村農会長は誰であったか、その後誰が就任したかは明確でない。 然し、当時の町村長が、その町村の農会長を兼任したケースが多かったから、おそらく、広・南広・津木各村もそのとおりであったと思う。 前掲書には大正2年(1913)の有田郡内町村農会費及び事業1覧表が載せられているので、当地方関係を左に抄録すると 農会
である。農会は病害虫駆除予防、家畜家禽改良、稲作・麦作、その他農産物栽培技術の向上、肥料の研究など、農業全般にわたる指導の任に当ってきた。因に記すと、明治31年農会法が発布され、次いでその翌年勅令を以て農会法が公布されている。爾来、全国的な組織を背景に農業指導機関として、近代農業の進展に大きな役割を果してきた。 この農会も第2次大戦時各種団体統合令によって、当時の産業組合と合併し農業会となるが、敗戦後の昭和23年(1948)法令を以て解散を命じられた。 (2)産業組合 近代農業関係団体として前記農会と共に重要な役割を果してきたのは産業組合である。農会は主として農業技術指導に当ってきたが、産業組合は農村経済の発展向上のために組織された団体である。信用購買販売利用組合とも称され、組合員の経済活動は、この産業組合を通じて行なうことを立て前とした。 さて、当地方広村・南広村・津木村における産業組合の創立は、何時頃であったのであろうか。津木は最も早く大正10年、広は昭和2年、南広は正確な資料に接し得なかったが、大体、大正末期と云うことである。 そして、右3ヵ村産業組合の歴代組合長は左のとおりであった。 広産業組合長 戸田保太郎、泉平兵衛、永井徹 南広産業組合長 直山政吉 津木産業組合長 丸畑雄次郎 (註。右3組合とも初め信用組合と称し、組合員の金融機関として出発した。) 然し、さきにも記した如く、第2次大戦となるや農会と合併して農業会となる。 (3)農業会 広農業会長 戸田勝彦、久保田半次郎 南広農業会長 衣川文一、新古勝、鉢内覚助 津木農業会長 丸畑雄次郎、森豊松 この農業会は昭和23年解散。 (4)農業協同組合 戦時体制の1翼を担った農業会が解散を命ぜられ、それに替わって新たに組織されたのは農業協同組合である。 昭和22年11月、片山内閣は新時代に即応した民主的農業団体創設を意図して、農業協同組合法を公布した。そして、その翌年、農業協同組合の誕生となるのである。 然し、実質的には産業組合―農業会―農業協同組合と1連の系譜をなすとの説もあり、卒直に云って、単位農協においては昔の産業組合の築いた基礎の上に成立していると看做される点もある。 それはさておき、昭和23年創立の広・南広・津木各農業協同組合、歴代組合長を挙げると左のとおりである。 広農業協同組合長 橋野昌雄・西島吉次郎 南広農業協同組合長 栗山永一・崎山政千代・山本保男 津木農業協同組合長 中谷正男・広畑武一郎 昭和45年5月、広・津木両農協は、湯浅中央農協・田栖川農協と大同合併して西有田農業協同組合となる (5)柑橘出荷組合 柑橘出荷組合は、最初、大字毎に栽培者有志によって組織された。大学によってそれに遅速があって一様でないが、生産者が東京や京阪神市場に直接出荷するようになって間もなく創立されたのであった。大体大正末期から昭和初期の頃であった模様である。だが、その頃の出荷組合は、たいてい個人撰果であり、特撰・沖・及・白帆と果実の大小によって規格が定められていたが、いまだ完全に統一された品物の出荷に至らなかった。そこでこの弊を打開すべく、戦後協同撰果に切り替える出荷組合が現われた。例えば南金屋・西広・山本・前田がそれである。 然し、趨勢は大字単位程度の共同撰果では最早や大規模の共同撰果共同出荷に太刀打ち出来ない状態となってきた。それに対応すべく、南広農協がバックとなって、南広一円の柑橘栽培農家を糾合した共同撰果を目差し、昭和32年(1952)共同撰果組合の創設となった。そして、やがて、南広全地域を統合したそれに発展し現在に至っている。因に、この組合の歴代組合長を挙げると左の通りである。 初代崎山政千代、2代目竹中永一、3代目中平健一郎、4代目崎山政千代、5代目中平亀 先頭に戻る 3 近代の林業当地方の林業は、専業的産業でなく、殆ど、農家の兼業であった。従って、その産額も少なかったが、特に津木地区においては、農業の低収入を林業によって補い生計を立てていたということもあった。南広地区においても、津木地区に近いところでは事情を同じくしたのである。その意味において、簡単に取り上げておきたいと思う。 資料を前記。『南広村是』および『津木村郷土誌』から得ることにする。 まづ、『津木村郷土史』によると。 津木村山林面積 2212町1反8畝22歩 村・部落有林 1140町8反1畝03歩 内訳 私有林 1068町3反8畝01歩 国有林 社寺有林 1町9反9畝18歩 林業額表 明治44年調査
津木山林における本格的な植林事業は遅れていた関係で、檜・杉などは、いまだ日浅く用材として伐採するに至らず、林業は主として薪炭製造であった。これは相当古くから行なわれ、津木谷農家の副業として主要なものであり、耕地の少なかった時代には、これを専業にするものも、かなりいたと思われる。 ところで、この薪炭製造等に従事した戸数は、どれ程に上ったか、前記郷土誌によると、林業戸数292戸、人口(家族人員)1781人としているが、さきに、近代の農業のところで挙げた農家戸数の中から農業専業戸数を除いた173戸(家族人員)1036人をもって農業兼林業戸数と見れば、林業専業は119戸と云うことになる。津木の林業は前掲表にも現われているとおり、主として薪炭製造であった。 次に『南広村是』によって見ることにすると、同書記載の表に 第4号の1 村内山林の状態
林業の部
右表の示す如く、南広村においても、津木村と同様、林業の中心は薪炭であった。 さきに近代の農業について叙述した章において、『和歌山県統計書』により、昭和5年と同10年度の広川地方における産業総生産金額を抄録した。その中で当地方の林業生産金額は第3位を占めている。第1位工業生産、第2位は農業生産、そして、第3位は林業生産であって、その金額は左の如くである。
右の表によって明らかであるが、津木地区はその殆んどを占めている。因に同地区における両年の農業生産額との比較を試みると 津木地区 林業・農業両生産額比較表
と、昭和5年度では林業生産額は農業生産額に及ばないが、昭和10年度では農業生産額を追越している。この生産額は、勿論、薪炭類のみでなく、用材も含めてであるが、やはり、薪炭生産による額は圧倒的に優位を占めていたであろうこと想像に難くない。 昭和10年の統計によると、広村は南広村を遙かに追越す林業生産額を示しているが、東浜殖林会社の事業成績が現れてきた結果でもあろうか。 ところで、昭和11年以降の統計書では、郡市別が載せられているが、町村別にまで及んでいない。従って、その後における推移は明らかでないが、最近、燃料が電化・ガス化され、薪炭類の需要は激減した。津木地区における林業は、前記の如く薪炭類生産を主体とした関係で、時代の変化によって衰微を余儀なくされた。 現在、広川町の林業は、用材を目的とした檜・杉・松などの殖林と伐採であるが、それが当地方産業に占める地位は、まことに低いといわざるを得ないであろう。 先頭に戻る 4 近代の商工業近代の商工業は、その出発期において、明治政府はわが国産業の生産力増強政策を具体的に実施したため、農業と事情を異にして、一路発展の方向に歩んだ。 内国勧業博覧会・共進会なども開催されて、産業奨励が着々と実を結んでいったなかで、わが広川地方の商工業は、どのような発展を示したのであったか。それを明確に記録した史料を、遂に発見するを得なかったか、広地区においては、確に産業の中心は、農業から商工業に移動したと見て間違いないであろう。特に近代広の産業は工業が主役となって発展した。 まづ、広は近世から醤油醸造をもって知られる。隣の湯浅醤油と名を1つにして、その醸造販売が盛んであった。近代に至ってもなおそれが暫らく続けられ、その一端が、湯浅町加納長兵衛氏所蔵の史料によって窺うことができる。左にその史料を紹介しよう。 『湯浅醤油同業組合 明治24年ヨリ醤油年々査定済高控』というのがそれである。 右の帳簿には、明治24年(1891)から同28年(1895)に至る組合員の醸造査定石数が記載されている。名称は湯浅醤油同業組合であるが、有田郡全体の同業者が加入している。年次によって、その数一定しないが、最も多いのは明治24年の31名、少ない年で21名。湯浅醤油の名のあるとおり湯浅は最も多数を占めており、広は6〜7名の業者が加入している。参考までに24年度分は全員を挙げ、後の4ヵ年は広のみを挙げることにしよう。 明治24年度諸味仕込高 (以下掲示は同様)
次に大正時代を挙げると下の如くである。 大正12年査定石数 (湯浅町栖原秋松家所蔵資料)
上の表によると、業者には若干変化があるが、大正期においては、明治20年代に比較して、その数と共に査定石数も増加している。 ところが、湯浅・広の醤油醸造も次第に大手メーカーに押されて不振となり、広においては近年に至るまで続けていたのは、岩崎・戸田・黍原の3業者であった。だが、それも現在では岩崎楠二郎ただ1軒という有様となった。 醤油と同様、この広川町では最早斜陽化した醸造業に酒造がある。明治以来の酒造業者を挙げると、広では浦清兵衛・崎山房吉・戸田貞吉、そして、名島に栗山豊松の4軒が数えられる。然し、浦・崎山両家はそれをやめてすでに久しく、現在では栗山のみ僅に酒造を続けている状態である。 もう1つ、これもすでに過去の産業に属するが、石灰製造業があった。かつての窯場所在地を挙げると、河瀬、前田、南金屋、広の海岸など。その盛んな頃は、有田郡内の農業用石灰の殆んどを供給したのであった。 近代の農業を叙述した際、昭和5年度における広川地方の産業総生産金額とその内訳を表示した。この統計表を見ると、当地方の工業生産金額は、総生産金額の87.55パーセントを占めている。同十年には85.55パーセントと、やはり大半は工業生産額である。これは、前述した如く、大正13年、広に紡績工場ができたからに外ならない。なお、また、同地の発展は、この紡績工場に負うところ大きいこと云うまでもなく、それ以後人口戸数が急激に増加して、商業の発展をも促した。この紡績工場に関しては、後述であらためて触れることにしたい。 さて、当地方の商工業について、戦前の統計資料は極めて管見に入るところ少ない。戦後に属するものも細部にわたるものを知見しないが、概要が窺い得るのでそれを挙げることにしよう。統計資料というのは、『和歌山県読計年鑑』の記事である。 第1表 産業大分類別事業所および従業者数
上に挙げた『和歌山県統計年鑑』では、前記した如く、概要を知ることが出来るが、至って大まかな分類である。この内容について、若干説明を要すると思われるが、それに代えて、昭和45年度における広川町商工事業者数と、従業員数が細分類された資料を挙げることにする。もっとも、前掲統計資料とその数に多少の増減があるが、詳細を知る上に参考となるところ多いと思う。 昭和45年(1970)度商業関係業種別事業所および従業者数
昭和45年(1970)度工業関係業種別事業所および従業者数
日東紡績株式会社和歌山工場 近代広川地方の商工業の上に特筆すべき、事業所と謂えば、当然、日東紡和歌山工場(旧広工場)を挙げなければならない。 この工場は、大正13年(1924)、内海紡績株式会社広工場として設立された。当時、主要機械設備は精紡機16720錘。現在これを第1工場と呼んでいる。 昭和6年(1931)上記第1工場に接続して第2工場を増設。主要機械設備は精紡機14084錘。第1工場・第2工場併せて紡績設備30804錘。外に特紡設備2016錘があった。後にこの2工場併せて第1工場と称することになった。 昭和12年(1937)、混棉室を中間にして、第1工場の反対側に近代的な第3工場を増設。主要機械設備は精紡機19320錘増設される。後にこれを第2工場と称した。広工場の規模は綿糸紡績設備50124錘及び特紡設備2016錘となる。 昭和17年(1942)、内海紡績は企業整備により豊田・中央・協和・柏原の4紡績会社と合併して、社名を中央紡績株式会社と変更し、この工場はその広工場となる。 昭和18年、中央紡績株式会社は、トヨダ自動車工業株式会社に吸収合併され、トヨダ工業会社の広工場となる。 昭和19年、第2次企業整備により、日東紡績株式会社に合併され、日東紡績株式会社広工場と称されるに至るが、その後、同会社の和歌山工場と改称され現在に至る。 昭和44年(1969)10月工場火災があり、大改築が行われて現在の工場景観と設備が新たに完成する。 敷地8千平方メートル。建物39526平方メートル。精紡機45600、コーマー8セット、撚糸機2520錘である。社員数、およそ500名(男子130名、女子370名)という。 最も人員の多かった時期には千名を越えたこともあったと聞くが、因に昭和30年(1955)1月現在の人員数(社員・工員数)633名、男子141名、女子492名であった。 歴史篇においても言及した如く、広に紡績工場が設立されたことにより、以来、広の発展に大きく作用した。 特にこの工場には、現在、とかく問題となっているような公害の発生はなく、地方の発展に寄与して来た点は大きい。 株式会社富士製作所 広川町において、前記日東紡績工場に次いで重きをなしているのはこの工場である。 昭和39年(1964)、富士製作所が鋼管製作工場として広川町に工場を建設した。その後同41年と42年に増設を重ねきたが、この地の工場を広川工場と称する。さらに昭和44年、当町前田に工場を新設して、これを津木工場と称する。 広川工場及び津木工場においては、各種の炭素鋼鋼管並びに一般産業機械が製造されているが、広川工場の敷地1万554平方メートル。建物5千795平方メートル、月産能力6千トン。この工場人員122名。津木工場の敷地1万7千917平方メートル、建物8千439平方メートル、月産能力1万2千トン。 この工場人員70名。両工場併て192名の職場となっている。 中央工業株式会社 富士製作所に次いで注目されるのは、噴霧器製造工場たるこの工場である。昭和29年(1954)創立。従業人員60名。工場は広川町広および同町和田に所在する。この中央工業株式会社は前記2社と異り、地元人浦清純氏の創立になるものである。 広川町商工会 昭和35年、わが町にも商工会が組織され、広川町商工会の名称で発足した。歴代会長は左記のとおりである。 初代田中馬楠、2代目萩平重次郎、3代目戸田善三郎、4代目橋本勘六、5代目萩平重三郎。 先頭に戻る 5、漁業史緒言 広川地方の漁業史は、縄文式時代人が鷹島を生活の舞台とした時から始まる。その長い歴史を有するこの地方の漁業史も、近世初期頃までは、史料に現われることなく、原始・古代の考古学的遺品を除いては、これという資料もないので、この漁業史では近世から叙述することにしたい。 ところで、わが郷土の漁業史について、現在、最も古い伝承として語られるのは、当町唐尾の善八網の起原である。室町末期永禄3年(1560)日高郡由良から移住と共にもたらされ、最初7軒で、その網を使って漁業を営んだということである。しかし、その頃の網はどのようなものであったかという伝えは残っていない。 広川町において、海に面しているのは、広・山本・西広・唐尾の4地区である。そして、近世の資料に最も多く現われるのは、広と西広である。それが、地元漁業でなく、関東や西国への出漁という点で、記録や口碑、或は墓碑銘などに遺る。そこで、まず、旅網漁業としての広川地方漁業史を若干述べて見たい。 ところで、既に歴史篇近世史の中で、若干触れた問題であるので、出来るだけ重複を避けて叙述を進めよう。 とはいうものの、近世広川地方漁業の最も特徴点を述べるとなると、期せずして、重複する場合が多い。この点了解願って、今日までに知見した資料に基づき叙述を試みる。歴史篇の分と併せて1つの近世広川地方漁業史と見て戴きたい。(註)近世史、「広浦往古より成行覚」の章参照 江戸時代寛政6年(1794)、広浦が水主年貢(漁業年貢)の負担に耐えかねて、広浦庄屋・同肝煎連名で、大庄屋に差出した年貢減免歎願書がある。この歎願書は『広浦往古ヨリ成行覚』と題して、室町時代畠山治世の頃から筆を起し、江戸時代後期寛政の頃までに至る旅網漁村広浦の盛衰を述べたものである。この文書は、広浦漁業に関する史料としては最も古く、かつ、詳しい。その他に、地元広の寺院の過去帳、千葉県銚子市や天津小湊などの寺院に遺る過去帳や墓碑、長崎県五島奈良尾の墓地に遺存する墓碑など重要な資料として注意を惹く。 特に出漁先における寺院の過去帳や墓碑銘によって、広浦漁民ばかりでなく、西広はじめ広川地方の各地からも出漁船に乗り組んだ漁民のあったことが明かとなった。 ところで、前記『広浦往古ヨリ成行覚」によると、最初、広浦漁民が出漁したのは、九州薩摩・肥前・日向大隅の沿海であったという。その年代については明確でないが、およそ、近世初頭天正(1573〜91)頃からとしている。西海に漁群を追って、漁季はその地の浦々を稼場とし、漁季が終ると国元へ帰航するという生活を繰り返していたのであった。だが、そのうち、西国の海も不漁期に入ったので、その後は、近国泉州灘或は熊野灘を漁場とした。やがて、そこも思わしくなくなったので、駿州・遠州・豆州辺の浦々へも立ち分かれ出漁することになった。その後は、常陸国陸原の浦に至って、この地を居浦に定め、そこから相州・房州・総州など関東地方沿海を稼場として旅網漁業を行なった。その頃の網は八手網・まかせ網というのを使い、主として鰯漁業であったという。そして、慶長初めの頃、広浦から関東・西国に出漁した網数80帖を数えたとある。この網1帖につき乗子3・40人ずつを要したという。 右のように、近世初期の広浦は、諸国沿海への出漁が盛んであったため、従って、水主年貢(漁業年貢)が高く、年々210石の負担を義務付けられたのである。それが、江戸時代貞享年間(1684〜87)遠州灘において、広浦出漁船団が難破し、夥しい溺死者を出し、網を流失し、致命的な大損害を蒙った。次いで宝永4年(1707)広浦は未曽有の大津波襲来によって、殆んど壊滅的被害を受け、毎年210石の漁業年貢が負担し得なくなるのである。そして、江戸時代中期以後関東方面沿海の不漁期に遭遇して、広浦漁民の関東出漁は遂に不振となるのである。その頃から、主に九州五島奈良尾近海に航行して旅網漁業を行なった。 近世における広浦および周辺漁民出漁の最後の地は、関東にあっては千葉県銚子外川浦と、同県天津小湊。西国では長崎県五島奈良尾であった。それ以前の地方については、調査の余裕はなく、殆んど新資料を知見する機会を得なかったので、以下、上記3地方と当広川地方の漁業をもって結ばれた関係を見てゆくことにしたい。 1 房総地方と広川漁民まづ、銚子外川浦との関係から見てゆくことにしよう。彼地には立派な『銚子市史』ができており、なお、それより古く『銚子木国史』がある。この両書には、わが紀州人の同地への出漁、漁場や土地の開発などが詳しく記載されている。 最初に『銚子木国史』の「紀州人と初代漁業」なる1項を紹介したい。(この書はヤマサ醤油株式会社専務の水崎一郎氏の御厚意により永く借覧することを得たので、ここに付記して感謝の意を表する次第である) 紀州人と初代漁業紀州人が最初、銚子地方に来たのは、何時の頃であったか、明白ではないが、旧記に依れば、文禄慶長の頃既にポツポツ此地に来て居った様である。目的は大抵漁業の為めで他の商売の為めのものは稀れである。降つて元和、寛永の頃から、集団的にやって来て釣漁(鰹・其他)をしたり、任せ網と称する方法で漁撈をしたと云う事である。此頃は専ら漁獲物があれば直ぐ帰ったか、或は止まって漁を更に続けたりした。止まって漁を続ける時は干鰯を造ったりした。大体に於いて春来て、秋帰ると云う方法を繰り返して居たのであるが、郷里と銚子との往復がだんだん頻繁になって来るに従って、銚子の地に居住する者も殖えて来た。慶安3年には、摂州西の宮の漁人惣左衛門が船子67人を率いて来た事があり、承応元年には飯貝根に多数の商店が出来た。同2年には紀州の青野五右衛門なるものが漁夫多数を引連れて来て鰹鯨などの漁をした。寛文延宝の頃に鰹船50艘を算した。明応2年に崎山治郎右衛門が来て外川築港を始め数年の後完成したので、一時に業者がやって来た事は勿論である。そうして此頃漁の方法は任せ網と称する網を用いたが、漸次八手網を用いるに至った。地元にも少しは漁業者があったが、割合に少かった為め外来者が入り込んで来る余地が充分あったものと見える。 斯うして地元船と旅船とが互に同じ場所で漁をする様になった為め、漁具も改良を早め、漁法も進歩した事であろう。今迄彼等は紀州へ持ち帰って居た獲物も、後には江戸問屋に送って販路を江戸市中に開くに至った。従って銚子に於ける漁業は益々加速度的に盛運に向って来て、紀州地方からの移住者もとみに殖え、商工業も輻輳して来た。外川は未曽有の大繁栄を見るに至った。 此間多少の変遷はあったが、享保5年には八手網の数が荒野18張、松本浦7張、飯貝根42張、里生3張、外川浦45張を有するに至った。元禄2年には外川、犬若、長崎54張、飯貝根、荒野20張大込6張を算したが宝歴5年の頃から漸次漁獲物の減少を来たし明和年間に至っては、其極に達し同5年には退転する者外川浦のみにても11張に及んだ。(以下略) 右は若干長文にわたったが、あえて引用し紹介した。まことに要領よくまとめてくれているので、当方としては、これに加えていうべきことはない。なお、前記『広浦往古ヨリ成行覚』に記載されている明和年間(1764〜71)頃からの関東出漁不振のこともよく証明されており、その他の点についても参考となるところ甚大である。 特に、崎山治郎右衛門の業績の大きかったことが述べられているが、この崎山治郎右衛門は、わが広川地方の出身である。当時広に本居を有したこの地方の有力者であり、室町時代広庄の地頭職にあった崎山家正の後商である。彼の祖先はもと日高郡由良長尾城主崎山飛騨入道と伝える。この崎山家、近世初期広に移住し来って、彼、治郎右衛門は地元の漁民を率いて関東出漁の業を盛んにし、外川浦に築港を行ない、外川浦繁栄の基礎を作った偉人である。(詳しいことは人物篇を参照されたい) 彼が外川浦に築港を造り、漁場を開発して、寛文元年(1661)その地に移住するが、漁業と海運業を営んで巨富を積んだ。その3代程の子孫に当たる崎山治郎右衛門らが、祖父の郷里の広村八幡神社に寄進した花崗岩の大手水鉢は、長さ2メートル40センチ、幅61センチ、高61センチを計る立派なものである。その銘文に「宝暦2壬申2月、在総州外川浦、広氏子中講首、崎山治郎右衛門源興生敬白」とある。 だが、この頃から次第に房総の海も不漁となり、明和5年(1768)の大不漁を限りに外川浦は寂れ、遂に安永2年(1773)5月、治郎右衛門は郷里広に帰った。これより先、初代治郎右衛門は延宝3年(1675)広に引退し、元禄元年(1688)享年78歳で死去している。 ところで、その昔、銚子や天津小湊で死歿した広川地方出身者が、彼地寺院の過去帳に名を留めるので、それを挙げて参考に供したい。広浦出身者の多いことは勿論であるが、意外に多いのは西広である。その他の地区からも参加していたことが判明するので、当時を窺う資料として重要な意義があると思う。 天津小湊については、善覚寺の過去帳以外に資料を知見する機会を得なかったので、ただ、それによって、現地で没した広川地方の人名を挙げるに過ぎないが、ここは専ら、漁業のための渡航先であったであろう。 千葉県銚子市妙福寺過去帳 元文5年 西広屋十兵衛 同 6年西?正月11日釈教夢外川大納屋治郎右衛門 同年 西広屋治郎右衛門娘 寛保3年 西広屋治右エ門 <p317〜p331途中まで省略 (過去帳 人名表のため> 前掲過去帳に載せられている人員は後表で言うとして、宝暦4年外川浦網方・商人御宗門御改印形帳には以上94名の名前が記されている。網方・商人とあるから漁業関係者と商業関係者であるが、前者の方が多数を占めていたと考えられる。同帳には、全部で227名の記載があり、そのうち泉州が15人、下総が7人、京都1人、あと204人が紀州である。紀州人204人中約その半数の94人がわが広川地方で占めており、特に広村が圧倒的に多い。隣接湯浅村も45名を数え広村に次いで2位を占めている。 さてまた別の調べであるが、宗門改の結果を社寺奉行に出した宗門改人別帳が、たまく銚子市高神町加瀬新右衛門家に所持されていて、夫れによると、 明和6年4月宗門改人別帳 広浦 文左衛門 源兵衛 小左衛門 四平 茂右衛門五郎太夫 彦重郎 小頭次郎 右衛門(外川浦) 同五兵衛 伝吉 宇兵衛 又三郎 伝藏 文衛門 紀伊広村 喜兵衛(大若村) 右衛門(外川住) 善太・与一郎・仁平次・門七・武左衛門・定衛門・与衛門・久衛門・伝吉 と載っている。 是等の事が今に其の地に遺されているという事は、これ以外の人々もあった筈だから、いかに多数の人々がこの地に移住しまたは出稼ぎにいったかを想像することができるであろう。なお付記すると、善覚寺の過去帳には広川町分の外に栖原が126人、宮原が19人、湯浅が38人、田村が2人記入されている。 銚子市宝満寺は戦災のため過去帳がない。たゞし浜口家・衣川家および垣内家の墓が同寺墓地にたてられている。 これらはいずれも広川町出身者である。 垣内家の墓の裏面の銘は左の様である。 垣内新六紀州有田郡殿村人 藤兵衛之子也某年始 来跳子卜居於荒野村 是為銚子垣内氏始祖 聞く処によると垣内家は銚子で「大新」旅館を経営されている。 (参考)関東で自分の船を持つ者、(銚子市木国会誌所載) 外川浦住居 紀伊広村 次郎右衛門(旗は3角形の中に1を入れた構図)以下各船に旗があるが省くのもある。 紀伊広村四平、同仁右衛門、同勘兵衛、又三郎、左衛門、佐兵衛、紀伊広村武左衛門、儀右ヱ門、広村門七、同五兵衛、同久次郎、同清兵衛、小浦村佐次兵衛、広村清兵衛、唐尾村市右衛門、同弥兵衛、広村茂左衛門、太郎左エ門、同清兵衛、前田村善七、広村半七、善右衛門、仝嘉右エ門、仝甚兵衛、孫兵衛、仝甚左衛門、勘兵衛、勘太郎、清兵衛、佐兵衛、唐子村四郎吉、弥治兵衛、広村惣兵衛、甚左エ門、唐尾村孫兵衛、広村弥左ヱ門、北又市兵衛、仝六右エ門、五郎太夫、源右エ門、唐子村松右衛門、広村小兵衛(1に3角を加えた印し)、仝小左工門(1に3角で同じ印)広村又右エ門(白地に又の字)、広村清兵衛、半七、太左ヱ門(各3に目を加えた印)、広村徳左工門(2に宝物のカギの形を加えた印)、広村佐兵衛、仁右衛門、伝七、広村久治郎、唐尾村弥兵衛(2に丸点1つ)、広村茂右エ門、清兵衛(1に丸点とその下に線が垂れる。)、広村半七、嘉右ヱ門、徳太夫、惣兵衛(旗の下半分が黒い。)、広村嘉右衛門、勘兵衛、徳太夫、惣兵衛(前同印) 以上は享保17年子歳3月の書上げによる広川町関係者のものである。 現地寺院の過去帳から観た広川漁民の動向 前掲、千葉県銚子市妙福寺および浄国寺の過去帳、同県安房郡天津小湊町善覚寺の過去帳、この総州と房州の寺院において知見した過去帳から、近世広川地方の漁民がどのような動向を示したかを、以下、簡単な考察を試みたい。勿論、以上の過去帳のみで容易に結論を引出し得ないが、その一端が窺い得るのでないかと思うのである。 まず前記銚子の妙福寺・浄国寺過去帳と天津小湊善覚寺過去帳を比較して、近世広川地方民の年代別死歿人員に注意の目を向けて見た。 善覚寺過去帳における初見は、明暦2年(1656)である。それに対して、銚子妙福寺過去帳では元文5年(1740)が始めてであった。もっとも、銚子宝満寺が第2次世界大戦時の戦災に会していなければ、銚子側でも、もっと年代が遡る資料を知見し得たであろうが。前引『銚子木国会史』によっても明暦2年、広村崎山治郎右衛門が銚子外川浦に来たって築港に着手したことが記述されている。なお、また、同書にはそれよりさらに古く、正保2年(1645)浜口儀兵衛氏の祖は広村より銚子に来り、醤油醸造を創めたことが載せられているところから見れば、広川地方民が、房州方面と総州方面のいづれを先に眼を付けたのか、にわかに判断し得ないが、途順としては房州が先でなかったかと想像される。『広浦往古ヨリ成行覚」の記事では、近世初期広浦漁民が遠州・駿州・豆州と次第に東進して、やがて、常陸国陸原に至り、そこを一時拠所としたとある。この常陸国陸原から附近浦々に船を出して漁を行ったというのであるから、下総銚子は常陸との国境で近い。そのために早くから広川漁民出漁の場所となったことは想像に難くない。だが、常陸や下総に至る途中に房州がある。この房州の漁場を見逃して素通りする筈はなかったであろう。今回の調査は常陸まで足を伸ばし得なかったが、下総銚子と房州天津小湊を踏査して、前記過去帳を実見した時、以上の如き判断が脳裏に浮んだのである。この判断を助ける1資料という意味で左の表を作成した。それは、天津小湊善覚寺過去帳と銚子妙福寺・浄国寺過去帳によって、広川地方民の年代別死歿人員比較表である。 房総地方における広川地方民年代別死歿人員比較表 (大体50年毎に刻んで計算)
右のうちには女・子供もある。従って、定住者も含んでいる訳であるが、広、若しくは西広と当地方の地名を冠している。 さきにも一言したことであるが、銚子宝満寺は戦災で古い過去帳が焼失し、早くから移住していた広村出身の崎山治郎右衛門家、同浜口家、同岩崎家など名家の菩提寺であった同寺においては、他の寺院の如き資料を得られなかったので、上記の比較表のみをもって断定することは、甚だ危険であるが、一応、天津小湊の方が年代の古いところに死歿者が多いということが云い得る。このことは房州の方が、より早くから広川地方民の渡航があったと解せられるのであるまいか。そして、年代が経過するに随って、下総銚子への渡航が多くなり、前掲比較表に見る如き反比例の現象が生れたのでないかと考えられる。 前掲比較表について、もう1度振り返って見ることにしよう。 明暦から宝永頃までのおよそ50年間においては、天津小湊で168名という多数に上る死亡者が挙げられている。この期間には、銚子の妙福寺・浄国寺過去帳ではそれが1名も見当らない。宝満寺の過去帳が焼失していなければ、多分記載があったであろうが、善覚寺過去帳程も多数の人名を記録していたか否か疑問である。宝永から宝暦までのおよそ50年間では、天津小湊においては約半分の80名に減っている。そして、銚子では12名が挙げられた。この12名の記載で最初の年号は元文5年である。同期間中でも3分の2を経過した頃となっている。 次ぎに宝暦から享和までのおよそ50年間では、天津小湊の方は、さらに20名に減少し、片や銚子側では37名に増加している。 ここで、過去帳に基づく死亡者でなく、宝暦頃の生存者を、前掲の宗門改帳によって一端を窺って見ることにしよう。原本が銚子宝満寺にあったという宝暦4年7月のものと、銚子市高神町加瀬新右衛門家所蔵の宝暦の次の年号、明和6年4月宗門改帳によると、前者では広川地方関係者94名、後者では25名、両者に15年の差があるが併せると119名となる。これに、妙福寺や浄国寺分を加えると、おそらく倍以上になったかも知れない。 再び、過去帳記載の死者数に戻って、享和の次の文化から幕末の慶応4年(明治元年)までの64年間では、天津小湊側で僅かに4名、銚子側においては80名と増加している。以上の外に年代不明なのが天津小湊で1名、銚子で8名ある。 以上は、1部の資料に基づいて挙げたものであるから、前記した如く、これをもって、全てを知るということにならないが、この時代の趨勢を窺うことができるであろう。なお、右の過去帳に名を留めているのは、いうまでもなく、現地で死亡したか、渡航の途中で死亡して、彼地に葬られた人達である。勿論、彼地に居住した人達もかなりあったこと、女子や子供の死亡者名が記載されているところからも明らかであるが、季節的に往来した人達もなお多かったであろう。 繰り返しいうと、広川地方民は総州よりも先に、その手前の房州沿海を漁場とし、次第に東進して、常陸国まで至り、1時そこを拠点として、その近海を漁場としたのであったであろう。下総銚子は常陸に至るまでの地であるが、同地の外川浦などは、いまだ漁場として開かれていなかったため、明暦の頃、崎山治郎右衛門がこの海岸に築港を造成し、郷里広川地方からも漁民を呼び寄せ、漁業を盛んにしたのである。なお、広川地方ばかりでなく、紀州各地からも出向き外川浦漁業の繁栄を見るに至ったと思うのである。前掲死歿人員比較表によっても判断されるように、年代が降るに随って、天津小湊側の死歿者数が減少し、反対に銚子側でそれが増加するのは、広川地方民、特に漁民の活動舞台が、房州方面から総州方面に変っていったことを示唆するものであろう。 2 九州五島と広川漁民近世初期にはじまる広川地方漁民の旅網漁業は、最初、九州各地の沿海であったと、前掲『広浦往古ヨリ成行覚』が記すところである。だが、それを立証する確実な資料には、いまだ接しないが、近世中期以降に至ると、広の真宗寺院に所伝される過去帳によってそれが徴証し得る。そして、旅網漁業を主にした広川地方漁民が最後稼場としたのは五島の奈良尾近海であった。 広川地方と五島との交渉が、近世末期頃まで続いた関係で、当地方の古老もそれを語り、広には五島を苗字とする家もある。なお、近世五島において活躍した家々の子孫が彼地に立派に存在しておるなど、従来、1部の郷土史家の注意を惹くところとなっていた。しかし、五島との交渉が何時ごろ始まって何時ごろ終ったかについては、なお、不明な点があり、遠隔の地であるという関係で調査も十分でなかった。 ところで、昭和34年(1959)頃、長崎県福江市役場から広川町役場に問合せの文面があり、それから4年後の昭和38年には、五島奈良尾町(長崎県南松浦郡)から本村町長・津田町会議長一行の当広川町来訪、次いで、同町議会議員団の視察訪問などあって、両町が姉妹町の誓約となったのである。 このようなことで、互に過去の交渉に深い関心が寄せられることになった。昭和40年には、広川町から平井町長と、町会議員団一行が答礼を兼ねた奈良尾町視察旅行が行なわれた。そして、昭和44年5月、本町誌編集に関連して調査員2名の派遺となった。また、同年には奈良尾町助役津田豊水・同町教育委員長 岡本徹夫両氏の来訪を受け、両地方交渉史の探究に役立っところ少なくなかった。そして、津田豊水氏から蘊蓄を傾けられた玉稿が寄せられた。同氏の玉稿は近世における彼我交渉史を見事に纏めたものであり、甚だ裨益されるところ多いので、本篇にその全文を掲載し、津田氏の玉稿をもって、広川漁民の五島出漁史を代弁してもらうことにしたい。 津田氏の玉稿を載せる前に、前記した昭和34年福江市(五島)役場からの照会に対して、当方の回答文を浜口恵璋師が執筆し、近世広川地方漁民の西国出漁について述べているので、まづ、それを掲げて参考に供しよう。なお、同師は有田タイムス紙に『広川町と五島の関係』を載せているので、それも共に掲載することにする。 五島出漁者に就いて 浜口恵璋 1、五島列島(長崎県南松浦郡)と和歌山県有田郡広川町字広とは長期間に亘る交捗のあったことは故老から聞き及んで居りますが何時頃から始まって何時頃迄であったと云うことすら確乎たる史料に接しませんで確たる返答は出来ませんが、当地方から下総国外川銚子を中心とする進出が貞享・元禄・頃からであります所からやはりそれと前後して行なわれたものと推測して居ります。 当時関東にて初期に使用したものは八ツ手網であった所から見ると矢張りそんなものでなかったかと思われますが、確かな事は分りません。関東の方で出かけた家が幾軒もあってそれぞれ定数の旗印を建て、行ったことは「銚子木国史」などにもその図が出て居りますが五島進出の人々もやはりそのようにせられたものと思われます。 2、次に五島列島に行く航路は申す迄もなく瀬戸内海を通り豊後水道から日向大隅薩摩を過ぎ五島列島に達したものであることは申す迄もありませんが、その中で中途で遭難したりまた五島列島で病歿或は其他の事項で死んだ人々の名前が、当地の寺々の過去帳に記されてあるのを見ても、多くの人々が渡航した事が察せられます。 定めて五島の方にもそんな人々を弔うために石碑などが建てられてあること、思われます。御調査の程願います。 3、当地には安楽寺・覚円寺・円光寺・正覚寺の4ヶ寺があって何れも真宗で過去帳があります。また浄土宗は法蔵寺という寺があって過去帳もやけてしまったので、その分はわかりませんが、安楽寺の分の過去帳を見ますと 「宝永3年2月18日日向に死す。 長右ヱ門」 これが初めてで次に 正徳2年3月25日 五島にて死す 治太夫 同年8月13日 右同 四郎右ヱ門養子新三郎 同3年12月27日 五島船頭 七兵衛 同4年7月28日 西国にて死す 八郎兵衛 同5年3月25日 豊後にて死す 七ノ七重郎 享和4年正月11日 日向にて死す おさんの父庄介 〃 5月10日 豊後にて死す 勘三郎 〃 11月28日 同 庄次右ヱ門 六十一 〃 6年5月9日 西国にて死す 鱒 庄次郎 〃 9年正月15日 豊後にて死す 勘次郎 〃 3月26日 西国にて死す 安兵衛 〃 10年9月16日 五島にて死す 治太夫ノ子二十八 〃 12月3日 豊後にて死す エビスおとよノ兄 〃 12年6月1日 西国にて死す 庄次右ヱ門息庄平 享保17年7月13日 豊後にて死す 宇之介 〃 20年9月16日 右同 ゑびす 三郎兵衛 元文3年正月5日 西国にて死す 清吉 〃 4年5月3日 豊後にて死す 権四郎ノ父 〃 11月1日 右同 〃 12月7日 西国にて死す 西甚右ヱ門 寛保2年5月22日 豊後にて死す 安右ヱ門網組治郎兵衛 〃 8月1日 西国にて死す 西清吉息 〃 3年3月27日 右同 倉野清兵衛甥 〃 8月17日 右同 ? 彦兵衛 延享2年7月26日 右同 西七郎右ヱ門 〃 8月7日 右同 西藤兵衛 〃 3年5月11日 右同 小山久次郎 〃 8月2日 右同 勘7 〃 12月27日 豊後にて死す ?彦十郎 〃 4年7月21日 右同 ?林右ヱ門養子 〃 10月4日 右同 七ノ七十郎 〃 5年8月4日 力ネ堂表権七 〃 8月8日 西国にて死す ?彦吉養子I 〃 11月21日 豊後にて死す 西孫四郎 ェ延2年3月7日 右同 豐後楠右ヱ門養子 〃 4月25日 右同 ?林右了門 〃 8月25日 五島にて死す ヤリヤ甚三郎 〃 4年正月1日 西国にて死す ?彦三郎 宝?2年9月18日 五島にて死す エビス七兵衛 〃 3年3月22日 西国にて死す 安右ヱ門 〃 5月20日 右同 ?佐兵衛息 〃 9月7日 右同 勘十郎 〃 12月19日 右同 木八清八 二十 〃 8年4月25日 豊後にて死す 与八郎子丑松 〃 9年7月14日 右同 庄次右ヱ門網子伊兵衛 〃 7月16日 右同 浜町長八 〃 11年10月13日 日向にて死す 七ノ与右ヱ門 明和9年8月17日 西国にて死す 長右ヱ門 安永4年6月2日 豊後にて死す そうめんや武兵衛 〃 6年正月22日 右同 唐尾屋藤助 〃 3月4日 右同 ヱビス定平 〃 7年7月24日 五島にて死す 畠中武兵衛 〃 8年8月17日 豊後にて死す 与左ヱ門養子 安永10年5月19日 豊後にて死す 豐後屋五兵衛 天明4年11月2日 日向にて死す 七野与右ヱ門 〃 6年5月15日 右同 泥ノ養子 〃 9年6月3日 右同 泥ノ与兵衛 ェ政4年9月12日 五島にて死す やりや弥兵衛養子 〃 5年8月11日 豊後にて死す 七ノ与兵衛ノ子直吉 〃 6年11月14日 五島にて死す 元中永吉 〃 8年正月2日 豊後や平吉 〃 13年9月29日 五島浜浦にて死す 七ノ与兵衛養子 文政8年9月21日 五島なら尾にて死す 木屋吉蔵 以上のように63名がありますが、豊後にて死するもの26人、西国とするもの20人、日向6人、五島11人となりますが西国とするものは豊後か日向か五島かそれとも其処へ行く迄瀬戸内海あたりで死んだ人々でしよう。とに角旅に出て死んだ人数だけでこれ位あるのでそれが外の寺々の分を加えると随分多人数であったでしよう。まして活き残って帰りきたりしものはまだく沢山で五島列島を中心とする西国方面へ出進の漁猟は随分たいしたものと思われます。 4、因みに五島に通いたる家にて五島を姓とするものや家号とするものは2・3戸あり五島通いをしたと云う家も相当にありますが、詳かに調べてありませんから他日の事にします。此等の家には五島石と称する固形の石を持ち帰っている。(此の書簡は昭和34年彼地に送る。) 右長文書簡に対し其礼状が昭和34年6月8日当町に到着、文初に記した様に昭和38年11月7日に、五島列島奈良尾町と姉妹町の約束を交わすことになる。 次に昭和38年11月31日付の有田タイムス紙に掲載の浜口恵璋師の1文を挙げよう。 広川町と五島の関係 広川町と五島との関係についてはまとまった史料がありませんので明瞭なことは申し上げるわけには参りませんが取りいそぎ調査した2・3の記録によりその大略を申し述べることに致します。 それについて、まず何時ごろから交通があったかと云うと、文献の上に記載されたものは、後西院天皇の万治2年に始まります。万治2年は西暦1659年であって、徳川4代将軍家綱の治世であります。 広八幡神社に所蔵されている「大般若経」6百巻は、もと、北有田御霊神社の所蔵であって、南北朝の終期に写されたものでありますが、室町期から徳川初期にかけて紛失したものが大分あったために、明暦・万治・寛文あたりにかけて4・50巻ほど補充しました。その補充は当時近傍の寺の僧侶や、その他有力な信者達の手を煩わして書写したものでありますが、その補充の1巻たる大般若経429の跋文に 広八幡宮常住物 肥前国五島之堯舜房俊翁 於能仁寺是書写者也 万治2年8月23日 と誌されてありますが、堯舜房俊とは、何宗の僧侶で何という寺にいたかと云うことも明確ではありませんが、恐らくは禅宗の方と思われます。此方の能仁寺とは、日高郡由良町の興国寺開基、法灯国師の弟子であった国済三光国師が南北朝の正平年間に開かれた寺でありましたが、天正13年3月に豊臣勢のために焼き払われ、其後、寛永10年に至り、僅かに3間4方の仮堂をまた慶安2年に、ささやかな庫裡を仮作されたばかりの小房になって居たのであります。 俊翁はいつ当地に来て、いつ当地を去ったかと云うことは一切不明でありますが、前に掲げました大般若経巻429の跋文によれば五島から此地に来て書写せられたと云うことだけは確かであります。 それなれば五島との交通は、これより以前にはなかったかと申しますと、広町と橋ひとつを隔て居る湯浅町の庄助と云う漁夫が寛永3年に、五島へ捕鯨の術を指導に往ったことが昭和32年に平凡社から発行された「風土記日本」第1巻235頁以下に「熊野びと」と云う題目の下に7頁あまりにわたり委細に記されて居りますが、是については此方で何も記録は見当りません。然しこの事については先刻御承知と存じますので、くだくだしい事は略しますが、すでに寛永の初頃から湯浅の庄助が五島に往っている点などから考えますと、堯舜房俊翁が当地の能仁寺まで来たと云うことに何等かの関係があったのであるまいかと考えられます。 当地の漁業関係者が関東方面に進出し、また九州の豊後・日向から五島方面に進出して漁業その他に手を延ばしたに就いては種々の原因があったと思われますが、天正13年の兵乱に全村殆んどが焦土と化した事と、その上に同年の11月29日には地震、海鳴が襲って更に生活を因難ならしめた事は無論で、慶長19年には一揆が勃発して法蔵寺が焼かれたこともあり、また、寛文2年5月1日には大地震があって一般庶民の生活は窮地に追いやられた。そこで関東の方に進出の先駆をなした崎山治郎右衛門が総州外川に漁港を開拓したことである。 彼は明暦2年、下総ノ国銚子の傍なる高神村に至り、ついで飯沼村に至り、また今宮村に移り、後、寛文3年に外川を本拠として漁港を築き漁民安住の家屋を設け、また寺院を創め真に安住することが出来るようにしました。 その前後に相州・房州等に進出したものは当地のみならず、下は熊野より初め田辺・日高・箕島・下津に至るまで数百人に達した有様でありました。 九州方面、殊に五島を中心として豊後・日向・大隅・薩摩等にも進出しましたがこれは広村が主であって箕島を除いては余り他処では聞きません。 広村から九州方面に進出した時期はいつ頃かと申しますと、当時の寺に存する過去帳に五島などで死亡された方々の年月日と法名などを参考として、関東方面に進出したのと同じころではないかと推測するより他に方法がない訳であります。 当地には安楽寺・覚円寺・正覚寺・円光寺(以上真宗本願寺派)法蔵寺(浄土宗)の檀中から、五島通いをしたと推測しているわけであります。なお、前述以外の寺の過去帳を調べて見ましたが、何等の手掛りとなる記録がありませんので、以上の5ヶ寺の過去帳により推測しますと「五島にて死す」と誌されてあるのは正徳2年(1712)3月24日に治太夫と云う方が1番初めになって居るのでありますが、それは宝永4年の海鳴は正徳2年よりは6年程前になりますが、全村が殆んど流され寺々も共に災に遭うて過去帳も失ったようで色々と前後の聞き糺(ただ)して調べその前後の事を書き入れたような次第で、それ以前のことは不分明なのであろうと思われます。 併しその後、五島に進出して、その地に亡くなられた者が百人程、其の他に、ただ「西国にて死す」と記されたものが14人あり、その中の幾人かが五島であったかは知れないのであり、その他に豊後に18人、日向で4人ありまして、豊後・日向にも往ったのは明かでありますが、それも豊後・日向の何処を根拠地にしたかは不明で広村の漁業史を編する上に問題が残されて居るわけであります。 それらの死亡者の姓名はいちいち挙げるのを省略するが、百数十人の人達が五島に骨を埋めていると云うことだけでも如何に五島通いが壮んであったかが知られます。 次ぎも有田タイムス紙掲載の前引と同題の浜口恵璋師述の1文である。前段は庄屋小兵衛「広浦往古ヨリの成行覚」なのでこれを省略し後段をのせると、 関東行の方は宝暦頃から次第に減じ安永の末には全く止まって、ただ五島のみとなったのであるが、此の五島の方も寺の過去帳によれば万延元年9月18日、久徳六郎兵衛内の柳蔵を以て最後となっているから、その後に行った者があるとしても文久か元治ぐらいで、慶応や明治には及んでいないと思われます。 また五島あたりに行った家筋も家庭の都合で諸所に移住して今日では当地に留まって居る家は極めて少なく、久徳六郎兵衛家・戸田長兵衛家・久敷家・元中家・岩本家など数家に留まるようであります。その他に五島を姓とする家がありますからこの家も確かに五島通いをしたに違いないが、御承知の如く明治維新前は特別の家でなければ姓がなく一般の人々は何兵衛・何左衛門・何助等々唯名前のみであって幼名と成人名・隠居名など生涯の中に何度も名前が変っているから、寺院の過去帳を見まして何兵衛とあっても、それだけで何処の誰であると云うことは知れませんので現在に存在する家筋は何軒と確かなことは申上げられません。 さて、今までに申述べました通り当地の遠洋漁業はその初め頃は甚だ盛んでありましたが次第に立枯れの状態となったことは誠に残念でありますが、今さら致し方もありません。然し、明治の末から大正にかけて北亜米利加や南亜米利加あたりに移住や出稼ぎに行く方が少々あったのは、せめてもの慰めと存じます。地曳網の如きも甚だ振わず、漁業組合の組織はあっても網元は僅かに1・2軒に止まり、その下に働くものも十数軒に止まるような次第で全く往昔の意気はありませんが、屈するものは伸ぶ、と云う諺の如くまた何時か伸びる日のある事を期待して居る次第であります。 以上前記した如く、奈良尾町の津田豊水氏が、広川町誌編集の参考にと見事な「奈良尾妙典無縁墓考」を同誌編集委員田中宛てに寄せられた。その考証は見事に広川地方と奈良尾が漁業によって結ばれた関係を解明している。 漁業ばかりでなく、商業的な活動にも言及されており、この玉稿を左に掲載して同氏の御厚意を謝すとともに、この優れた考証をもって、この漁業史を飾り得ることを悦びとしたい。 奈良尾妙典無縁墓碑考 (奈良尾における広浦の漁民たち) (1) 大正7年版奈良尾村郷土誌に、奈良尾町奈良尾郷の沿革として、嘉永元年奈良尾郷の下代職江頭氏より、当時の代官坪井氏に宛てた書簡の1節が引用されている。 「奈良尾の儀は古昔人家としては無御座候処、紀州有田郡広浦の漁師ども釣船商売として初め日の島へ罷下り、それより佐尾浦へ引直り、同所より奈良尾見立て漁場に定め、真鰹釣を業となし、年々初秋の頃より罷下り(中略) 左候はば広浦の漁師ども五島之は慶長初年頃より罷下り、終に奈良尾へ居着、是れまで永続仕り候……」云々とある。 上記の記録からみても、今日の奈良尾町奈良尾の基礎づくりに紀州の漁師達が先達となったことは間違いなく、又多数の紀州人が奈良尾の現住民の先祖として、その大半を占めていると言えよう。 このことは、戦後、世情の安定と共に、昭和38年の本村奈良尾町長、津田同町議会議長の広川町(昭和30年町村合併により「広町」を改称)訪門、ついで同町議会議員団の視察となり、これが契機に両町はお互に姉妹町としての決議宣言を行ない、昭和40年には平井広川町長外同町議員団の奈良尾町訪門、視察となったことも故なしとしないであろう。 昭和44年5月、広川町から広川町史編集委員田中・岩崎両氏が奈良尾を訪れた。両氏は3日間奈良尾に滞在し、町史編集のための資料の蒐集に当ったが、主として、漁業関係史の調査に重点をおき、広村漁民の眠る妙典共同墓地の無縁墓碑を中心に克明に調査し、日程の関係上、その年代別配列等の整理を筆者に託した。 以下は、その整理に当った妙典無縁基碑に開する1考察である。 (2) 妙典無縁墓碑は、総数163基であり、内当時の網元と思はれる者が建立した供養碑4基を除き、159となり、其他に庚申山基地に埋葬されたものが6基である。 しかし、この数が「広浦の漁師ども」が五島奈良尾に渡来しはじめてから幕末までの期間に奈良尾町に骨を埋めた者の総数であったかどうかについては、甚だ疑わしい。 何故かと言うと、広川町内安楽寺外3寺の過去帳で「広村の漁夫が五島に於て死亡したものの名簿」に誌された100人中35人の墓碑が同墓地にあり、残り65人分は碑がなく、なお、同墓地は、戦後まもなく所有主である奈良尾漁業協同組合が、新規の墓地購入希望者のために分譲処分した。その際、同漁協は、分譲地に雑然としていた墓碑を整理し、新たに供養塔を建立し、同墓地内の中心部に移して合祀した。 この時、長年の風雪にさらされ、碑銘の消滅した墓碑で処分されたものがかなりあったらしく、又個人の分譲地にあったもので、処分されたものもあった。聞くところから推して、恐らく、この墓地には、ごく近年まで、現存数に倍するほどの無縁仏があったろうと推測することは失当ではないであろう。 この墓碑は、古くは寛永年間から幕末万延年間まで約2百数十年間にわたっており、ほぼ徳川幕府の治世期間と一致する。 しかし、この間の墓碑数の分布状況は年代的にかなりの差があり、159基中、1番古い寛永2年(西歴1625年)のものから、享保未年(1732年)の約百年余に至る間に、わずかに9基、元文2年(1737年)から文政11年(1828年)の約百年近くの間に120基、天保2年(1831年)から万延2年(1860年)に至る約30年間に12基となっている。(残18基については年号不詳)この数字から推して、広浦の漁師は、徳川中期以降末期近くにかけてが最も多く五島通いをしたことが想像される。 彼等は、装備のない櫓こぎの和船で、数々の困難と斗いながら、一体何故に、千キロ以上も離れた西海の離島にまで足を伸ばしたのであろうか。 羽原又吉著「日本漁業経済史」によると、「京阪を中心とする生活圏の漁業は、この地域が古代から文化の中枢であっ っただけに、漁場は最も早くから開発され、特に瀬戸内海地方の如きは徳川時代に入ってからは、全体としてすでにその極限に達していた」このため「特に九州、土佐、摂泉、阿波、讃岐等の漁民の1部は徳川期の初期頃から九州西北沿海へ、或は遠く関東の海へ向け、年毎に出漁乃至移住するに至った」という。 この漁場荒廃とまではいかなくても、かなり資源の枯渇した瀬戸内海方面に見切りをつけ、生存のための活路を遠く五島方面まで求めた生活上の必然が第1の理由となったことは確実であろう。 第2の理由としては、九州南岸一帯をひとなめにする程、猛威を奮う大平洋からの津波の被害である。広村の記録にも宝永4年(1707年)、安政元年(1854年)の大津波によって、全聚落壊滅の災害を受けたとあり、現在広川町広に残る浜口梧陵翁の遺業といわれる延長650米の大防浪堤も津波禍防止の悲願の結晶であり、以上あげた大津波以外に数々の小津波の被害もあり、おそらく、当時の漁民は大自然の猛威にいくたびか辛惨を嘗めつくしたに違いない。 第3は旧紀州藩の水主米制度による漁民に対する課税権の徹底ではなかったろうか。日本の漁業の発達は古く、わけても九州沿岸は京阪に広大な需要地を控え、国内においても漁業の先進地であり、一方紀州は紀(木)の国といわれるほどの山国であり、紀の川流域に肥沃な耕地を有するものの、面積の割合いに米の生産高も低かった関係からか紀州藩における漁民に対する課税制度は、他の地方よりも徹底していたのではなかろうかと思われる。 もともと進取の気性に富み、開放的な紀州の漁民が、関東方面(主として千葉県)や西国わけても九州北西岸方面の新漁場に活路を求めたのは当然と言えよう。 (3) 彼等は、一体どのような方法で、どのような海路をとって五島通いをしたであろうか。 これらについては、残念ながら、現在のところ信頼すべき記録に接していない。 古老の話や、当時の状況を判断してそうであったろうという想定に立つしか解釈の方法がない。 五島行については、2つの海路説がある。 第1は、瀬戸内海を通り、開門海峡に出て、九州北岸にそって宇久、小値賀島に渡り南下する海路。第2は、紀州灘から一挙に土佐沖に出て、四国南岸を通過、九州東岸から南岸を迂回して、南西岸を通り、野田崎鼻方面から五島に渡る海路。この2説である。第2の海路も考えられないことはないが、筆者は第1の海路説を採りたい。 前掲奈良尾郷土誌中「年々初秋の頃より罷下り……」とあるように、九州南岸経由の場合はかなり長距離であり、風と櫓にのみ頼る当時の和船で初秋9月頃に到着するには、少くとも7、8月頃紀州を船出する必要があり、台風シーズンの7・8月頃に南九州を経由することは、冒険にすぎると考えるからである。 しかし、これもにわかに断定し難い。この初秋の頃より云々というのも、2百数十年間同じ時期であったかも疑がわしいし、南路でも寄港地で紀州方面の品々の商いをしながら風をみて五島に渡ったかもしれない。 これはいささか的はずれになるかもしれないが、五島わけても奈良尾方面の言語のアクセントが鹿児島方面のそれに酷似していることをみても、何かの形で同地方との交流があったものと考えられる。 彼等の出漁は集団的であったことは確実のようである。おそらくは広浦で資力のある2・3或は4・5人の人達がそれぞれ自己の持船を仕立てて、それと親類縁者や出漁希望者を乗組ませて、1時期にほぼ同時に船出したと思われる。1船団に何人位乗組んでいたろうか。船の大きさの記録がないので一概に言えないが、さらに時代によって船も大型化していったろうと思われるが、10人以下ではなかったろうと想像される。多い時は20乃至30人位乗組んでいたのではなかろうか。 往復の日数と漁撈期間を7・8ヶ月とみても、荒海をこえて重労働の漁撈に従事するというくらいの肉体的に強壮な漁師が、この短期間に、いくら医術に恵まれない時代であり僻遠の地とはいっても、海難事故以外にそう簡単に死ぬはずはなく、五島通いの爛熟期ともいえる文化・文政時代に墓碑数の多いことはそれだけ出漁者が多かったという証拠になろう。 五島通いの初期の船主と思われる者に新三郎というのがあり、宝暦2年には、甚兵衛組、鑓尾組、七兵衛組という3組がそれぞれ合同慰・碑を建立しており、武右エ門組所属の墓碑は西暦1700年代から1800年代まで百年間にわたっており、同じく五島屋(戸田又は園田)長兵衛組(現広川町の名家戸田憲作氏の先祖)の旗じるし(屋号)を刻みこまれた霊碑は、18世紀中紀から幕末まで数多く建立されている。 前記田中氏と岩崎氏は五島、主として上五島方面の関係寺院を列記したものを持参し、各寺の過去帳に広村出身者を当ったが、同じ紀州南岸の出身者でも、上五島各地にそれぞれ分散した模様で、新魚目町、上五島町、若松町とそれぞれ出身地が異っており、旧広村出身の漁民は奈良尾オンリーとも言えるほどで、彼等は毎年ある時期、おそらくは9月頃から翌年3月頃まで奈良尾に定着したと言っても間違いないであろう。 そして、彼等のうち相当数の者が、奈良尾を永住の地と定め、子孫をつくり、今日に至ったものと思われる。 (4) 彼等は、ただ単に漁撈にのみ従事したとも思われない。利にさとい関西商人の洗礼を受けた彼等が漁業に従事する目的のみで、はるばる五島行を決行したとは思われない。従業員を乗せ、(漁具、漁網等の大部分は現地に残して納屋に保管していたと思われる)かたわら、名産の醤油、九州地方よりは安価に求められる塩(これは魚運搬のための自給用のものもあったろうし)、それに関西方面の日用品や五島の場合は碇泊地の港でも商売をしたりして、利潤を上げて行っただろうし、或は五島侯あたりにも土産品類やその他金品を献上して有利な地盤を形成していったろうことは想像に難くない。 五島での漁撈は何を主体にしたものであったろうか。前掲奈良尾村郷土誌に真鰹釣りを業としとあるが、必ずしも鰹釣りとのみ限定するのは危険である。当初は1本釣りであったかもしれないが、2百年余も同じ漁法であったとは信じられない。この間には漁具、漁網の発達に伴なう漁法の変化もあったろうし、五島灘に無数に回遊する「いわし」の大群を経験豊かな漁師が見逃すはずがない。 五島雑記(太田誌運)の1節によれば 「(前略)五島領主淡路の守玄雅公代慶長年初めて鰯漁する人来り草葺小屋を相建て鱧の網を出しければ幸い漁運叶いしに其事紀州の人聞きて是もママリ網を出し益々漁運相叶い次第に繁昌し飛びとびに小屋を取立て自ら奈良尾と名付けしと……」 とあり、前掲誌との関連に矛盾があるとも言えるし、紀州人がいわし網を出した時代がはっきりしないが、最初は鰹釣りをしていたがいわし網漁業に主体が移ったと解釈するのが妥当のようである。しかもこの時期は比較的に早かったと見たい。 先にもふれたように、紀州南岸出身の漁民は、ひとり広浦の漁民のみならず、各地の者が、徳川初期から中期にかけて続々と五島各地に分散して、鯨捕りや鮪大敷に従事したり鰯網を仕出したりして、近世五島の漁業発達の基盤をつくった。五島では、慶長年間、紀州熊野の湯浅庄助という者を有川にまねいて鯨組を始めたという伝説があり、上五島町青方の旧家道津、法村両家も紀州の出身で地曳網、八田網を経営して大をなし、道津家は当時千両を献金して郷士格になったと言われている。この道津家は現在同町に30戸、法村家は50戸ぐらいになっている。(西村次彦著「五島新魚目郷土史」) しかしながら、奈良尾を根拠地とした広浦漁民は鮪網はともかくとして、捕鯨には従事していない。 宝暦から天明年間にかけての船主(網元)と思われるものに鑓屋組というのがあるが、この「鑓」という字から捕鯨に関係があるように考えられるが、五島における捕鯨は、主として、有川湾内に限られており、奈良尾沖まで回遊してくる鯨は稀であり、この鏡屋組は奈良尾に進出する以前先祖が紀州南岸で捕鯨に従事していたので、その屋号を五島出漁後も引続き使用していたものと思われる。 いずれにしても、最初鰹釣りのみに専従していた広浦漁民は、まもなく、主として鰯網を経営するようになり、1部鮪網なども仕出して漁業を続け、幕末を迎えたと解釈したい。 いわしを取る漁法は、当時としては地曳網8ッ張、4ッ張、その他八田網があるが、奈良尾の地形から見て8ッ張、4ッ張、そして八田網が主体であったと思われる。 漁場も海岸から遠くなり、北は福見鼻方面から奈良尾前沖にかけ、南は佐尾鼻から樺島の東西の沖あたりが妥当であろう。 漁獲物はどう処分したろうか。「いわし」の場合は干鰯(「ほしか」即ち海岸の空地に素乾しにしたもの)か塩鰯にして、長崎県本土や佐賀県方面に肥料又は食糧として出荷し、鰹や鮪等の高級魚は、天気次第では8丁櫓等の早船を仕立てて鮮魚で出荷したものだろう。 そして3・4月頃漁期の終る頃は親船(紀州から乗ってきた)に塩、干魚や海草類を満載して帰路につき、紀州方面に運んだものと思われる。 (5) 前にも述べたように、奈良尾には妙興墓地の外に、庚申山墓地がある。(この庚申山というのは奈良尾にあげる小字名であるが、この地名は広川町にもある)この墓地は土着の住民の墓地であり、妙典墓地は近年まで、主として旅行者を埋葬していた。即ち他国者又は他所者を葬むる墓地であった。 現在では、海岸から県道が真すぐに通り便利のよい場所にあるが、この県道が出来る昭和初期までは、曲りくねった狭い路地を通りぬけた人家のまばらな淋しい場所であった。 昭和初年にしてこのとおりであったから、徳川中・後期頃は、どれ位のところであったか、およそ想像がつこう。 死者を棺に入れ妙典墓地に運ぶことを「1本おこ」で行くという古い言葉がある。「1本おこ」というのは、庚申山墓地に棺を運ぶ「2本おこ」即ち棺桶に2本の担い棒をわたして親類縁者がかついで送るのに対して、道が狭いために1本の担い棒で埋葬に行くことを言い、転じて他国者の野辺送りの代名詞に使われている。 生活のためとは言え、これ等仏の中には、最愛の妻子にみとられることもなく、異郷の空で、さびしくその生涯を閉じていったであろう人々が多数であったことを思えば、切々たる燐憫の情に堪えない。 墓碑の大きさには、極端な大小の差はなく、又石材の質もすべてが同一ではない。中には海岸の自然石に銘を刻んだものもあり、これらのことから、ある時代に1時に建てられたものでなく、1基ごと、死亡直後又は死亡後間もなく建てられたことが窺われる。 死亡後、短期間のうちに建立されたものとすれば、当時、奈良尾には寺がなかったので、それぞれの戒名は誰かからもらったものであり、葬式の導師は誰がつとめたものであろうか。 当時は、現在と比較にならないほど信仰心が、強く民衆の心に植えつけられていたので、存命中にすでに戒名をもらっていたという説、旅の巡錫がつけたものであろうと言う説、或は、船団の中に古老がいて、戒名もつけ葬式の導師にもなったという各説がある。興味深いことには、この159の墓碑の中に、4基の女性がいることである。文化年間に2基、文政、天保にそれぞれ1基ずつである。彼女等も広浦出身であろうか。しかし、女性が荒海をこえる五島行に、しかも元気盛りの10数人の男の中に1人か2人同乗したとは常識上、考えられない。 おそらく、奈良尾の先住者の娘で、広浦の漁師と結婚したものと思われるが、正妻ではなく現地妻ではなかったろうか。年間の半ば以上も、1漁場に停着すれば、そこに女性関係が生じてくることは、現在といえども珍らしいことではない。婚姻や戸籍制度の確立した現在と違い、当時は現地の女性との間にかなりの交渉があったものと思はれる。 家を継ぐ必要のない次男、3男の独身者で現地の女性との間に関係のできたものは、漁期がすぎても故郷に帰らず、奈良尾を永住の地としたであろうし、妻帯者で異性との関係をつくったものは、現地妻として漁期中は夫婦生活を営み、死後は妙典に墓碑を建立したものと思われる。 異例と思われるのは「円誉寒月妙鏡信女」である。この女性は久徳六郎兵衛妻、六太郎実母と銘記されており、同戒名は広村の寺の過去帳にも残っていて、かなり手厚く供養されている。(他の3女性の名は広村の過去帳にない) この久徳姓は、現在でも広川町に同性の家があり、当時、苗字(或は地名を冠したかもしれないが)を有していたということは、かなりの資産家ではなかったかと思われる。この女性も広浦出身でないとすれば、六郎兵衛と奈良尾で親しくなり、久徳家の正妻の座を与えられ、実子ももうけて、幸福な生涯を終えたかもしれない。(以上津田氏論考) 奈良尾町では、奈良尾漁業協同組合が主となって、同町に新たに墓地を設けて往古広浦より出漁してこの地に眠った人の今は無縁となった墓碑を整理しかつ「紀念碑」を建て、立派にこれらの人たちを顕彰してくれている。 墓地の中央にこの無縁になった人たちの記念碑と、捕獲した魚族の供養碑とを建て、その左右に残された墓碑を階段状に建てられている。その記念碑の銘文には左の如く刻されている 奈良尾開拓の先達と云われる 紀州有田郡広浦を始め各地から の入漁者や移住者の中には 不幸単独にして世を終へ或は かりそめの病や事故によって 斃れた人々も少くなくその墓 碑は長い星霜と風雪に埋もれ て荒廃の巳むなきに至った。 私共はここに新たに墓地を設 け郷土開発の先覚を祭り謹ん でその霊に合掌冥福を祈念す る次第である。 昭和31年8月 奈良尾漁業協同組合 ここに奈良尾町の人々によって先人の霊が浮かび、遠い縁につらなるわれら広の町民も感激を新にするもので感謝の念にたえないのである。 奈良尾町には禅宗に属する寺院があるが、真宗東本願寺派の「説教所」がある。これにはちょっとした当地方奈良尾へ行った人々の宗籍は浄土真宗が多かったようであり、当広の真宗寺院の過去帳にも「西国で死す」と記入されたものが多いし、今回の調査によって、妙典墓地の碑名と当地の過去帳と一致するものもかなりある。ところで奈良尾に移り住んだ当地方出身の人々がじぶんたちの寺をもちたい希望から京都西本願寺へ願い出た所すげなく気のりもしないようすが見えたので、東本願寺へ依頼したところ、殊勝がってくれ、その上その費用も負担してくれて「説教所」を建てることが出来た。そしてその本尊の阿弥陀如来立像は広浦の人がもってきたものだと伝えられている。しかしその年代がはっきりしないことは残念である。次ぎに奈良尾妙典墓地において調査した当広川地方関係墓碑銘を列挙して、はるかに祖先をしのぶよすがとすると共に、津田氏の考証の基礎資料として活用されたものであることをここに紹介しておきたい。 (1)浄土信士、ェ永2年6月14日 紀州広浦、俗名長太郎 (2)釈浄心童子、ェ永3年戊8月14日 紀州広浦、俗名和介 (3)法名釈了雲不退位、元禄3年0月10日 □□□ (4)林翁道圭信士、享保4亥12月3日 紀州在田郡施主栄三郎 (以降からp370まで未修整) (5)林翁道圭信士、享保4亥12月4日 紀伊有田郡西宏村新三郎組俗名助十郎 (6)釈了円、享保9甲辰4月□日、俗名□治□ (7)釈浄心信士、□□□ 享保10年9月16日?心治太夫子 28(才) (8)法名釈入證、享保12丁未正月4日広伝四郎 (9)釈宗順、享保17年子5月7日紀州広甚9良 (10)法名釈受正、元文2丁巳年11月17日 紀州広浦 鎗 庄三郎 (11)法名釈教円、元文4未天8月19日 (12) ・ 応智舟信士、元文5申天9月7日□□□ (13)釈教善、ェ保306月23日(13日広村過去帳) 俗名林兵衛[・・・・・・・(ア山家かも?)] (14)釈徹秀、ェ保3亥6月廿3日 広 武右工門細 (15)法名釈教念 ェ延元年辰2月4日 紀州広浦□□□ (16)法名釈浄喜 ェ延元年辰8月□日 紀州広浦 俗名太郎兵衛 (17)釈道寿 (広過去帳教順) ェ延元戌辰10月朔日紀州広俗名 新三郎 (18)□□聖霊為菩提、宝?2年2月建之 紀州広甚兵衛組 (19)一切聖霊為菩提、宝?2申年5月建立 紀州広浦 鍵屋組 (20)一切聖霊為菩提、宝?2壬申6月建立 七兵衛組 (21)智信士 宝?2壬申8月18日 俗名権九郎 (22)景山自春信士 宝?3酉天3月9日 紀州広 俗名竹中左右ヱ門 (23)釈道慶、宝?5乙亥5月7日 紀州広浦住俗名岩本彦太郎 (24)釈往永、宝?9巳10月28日 紀州在田郡広浦 久徳門重往永行年70才 (25)法名釈道雲、宝?9年11月 20日 俗名 鍵屋弥助 (26)□□□□宝?11年3月28日 紀州広浦 俗名□□ (27)春道信士、宝?12年午3月16日 紀州広俗名八三郎 (28)釈浄円、宝?12年午10月19日 紀州広浦 弥次兵衛 (29)法名釈教音、明和元辰8月11日 一又俗名 長右衛門 (30)法名釈浄諦、明和2乙天2月3日(井ノ利兵衛) (31)□□□明和3戍8月19日 紀州広 武右工門組 俗名彦七 (32) 明和5子10月 俗名甚右工門 (33)釈良順信士 明和6巳8月17日 武右ヱ門組武兵衛 (34)法名?宗栫@ 明和7子年閏6月17日 俗名徳之丞 (35)法名釈秀円 明和7庚寅8月24日 俗名 太良左衛門 (36)法名釈涼心信士 明和9壬辰6月11日 俗名 伝九郎 (37)□□□ 明和9辰8月17日 俗名 谷名半七 (38)法名釈智翁 明和9辰年10月14日 (39)釈自性、安永3午7月19日 俗名 鑓屋市良兵衛 (40)釈□□ 安永3午年俗名□□甚吉 (41) 安永3年正月25日 俗名喜七 (42)釈□雲信士 安永4季8月15日 紀州広浦 俗名 若七 (43)釈ェ量 安永4未8月22日 一又武右ヱ門 細 俗名□□□ (44)釈受誓安永4□年□月22日 紀州広浦 俗名 五島屋源吉行年42 (45)海雲信士 安永6天西酉3月 俗名 治助 (46)釈覚真信士安永7戌年8月朔日 紀州広 武右ヱ門 細俗名李之丞 (47)釈空心 安永戌年12月29日 一又紀州広浦五島屋図田長兵衛 嫡子 俗名与兵衛 行年29? (48)000 安永008月7日 紀州広 武右ヱ門 細 文四郎 (49)釈慈光不退位 天明元年丑6月20日 紀州広浦住 俗名半助 (50)釈浄空 天明2寅12月26日 紀州広浦 俗名新助 (51)釈到西 天明3癸卯年7月27日 (五島屋長左右ヱ門内息 弥兵衛 (52)本光了源信士 天明4未(辰)8月15日 一又広浦 平治養子 (53)釈浄相信士 天明5已6月14日 紀州有田郡広浦 岩本善右ヱ門 (54)釈良? 天明5乙已年7月17日 一又行年18才 俗名友吉 (55)釈教春信士 □□□□ 一又天明6年2月10日教春 五島屋理右ヱ門2代目惣助 (56)釈教涼 天明6年6月13日 紀州広浦 武右ヱ門網楠太郎 (57)法名釈海円 天明6年6月14日 山本善左衛門 細 俗名□□ (58)法名釈玉峰 天明7未8月3日 紀州広浦 俗名 伝四郎 鑓屋伝7 養子 (59)釈智雲信士 天明7未8月24日 紀州広 俗名佐七 (60)釈浄源 天明8申年6月4日 紀州広 俗名 岩本新助 (61)證丘明順信士 天明9戊2月28日 俗名 文藏 89才 (62)浄心 天明12年12月17日 紀州広浦 俗名善七 (63)釈宗円 ェ政元年已酉8月18日 一又 広浦 俗名七左ヱ門 (64)釈静視 ェ政2年辰2月5日岩本善六 (65)釈静観 一又広浦 俗名孫平次 (66)釈浄観道智ェ政2巳戍4月29日 俗名 山本屋権七(祐山) (67)□誉信士霊 ェ政2□7月27日 紀州広浦 俗名長兵衛 (68)釈教裕信士 ェ政2年戊8月口日 紀州広 俗名茂兵衛 (69)釈教善 ェ政2年9月□日 紀州広 俗名□□ (鑓屋弥兵衛養子) (70)釈浄栄信士 ェ政4年9月9日 (9月20日権七の子息) (71)釈慧青信士 ェ政4年5月9日 (72)釈普光 ェ政6庚寅年7月19日 俗名源右了門 (73)釈修善 ェ政6寅年閏11月14日 俗名 永吉 (74)賢□信士 ェ政7卯2月俗名□□ (75)釈海岸信士 ェ政7卯10月10日 紀州広浦 権助 (76)釈海安 ェ政7已卯天 俗名 伝右ヱ門 (77)釈性海 ェ政8丙辰年4月12日 一又 俗名 長三郎 (78)釈慈舟信士 ェ政8丙辰天6月4日 紀州広 一入久市 (79)釈道仙信士 ェ政8辰6月0日 紀州広浦 俗名佐七 6月29日五島屋紋兵衛? (80)是心信士 ェ政8年7月8日 俗名竹松 (久徳六郎兵衛養子 竹松) (81)釈道本 ェ政9丁巳開閏7月29日 1入 紀州広 武右工門網俗名長右ヱ門 (82)釈秀月 ェ政9年8月21日 紀州広 俗名 政右ヱ門 (83)釈道教信士 ェ政10戊午6月10日 一又 俗名 甚助 (84)釈是信善男子 ェ政10年8月24日 紀州広浦中町竹中武衛門細同柳蔵 (85)釈徳雲 ェ政11年未10月7日 孫平次 養子 俗名喜助 (86)釈教心信士 ェ政□□□ 俗名京之丞 (87)釈教善信士□□□ 一又(69との関係不明) (88)法名釈浄現霊 享和2壬戌正月9日 紀州広浦 1802 (89)釈観光 享和2□2月8日一又俗名七兵衛 (90)釈雲芳位享和2年6月9日 俗名春松 (元中伝七の子春松) (91)釈□□信士 享和2戌7月18日 紀州広 徳左ヱ門 (92)釈教□ 享和2戍天8月7日 (93)覚翁 享和3年6月7日一又□□□ (94) 享和3亥7月15日 俗名 甚吉 目 (元中甚九郎養子) (95)釈教念信士 享和3年9月3日 一又行年56才 俗名甚蔵 (96)□□□信士 文化元庚子8月19日 俗名 □七 (97)釈教蓮 文化元8月 目 (元中太右ヱ門子長7) (98)釈道智霊 文化2乙丑年閏8月5日 (柳P屋 藤右3門) (99)00童子 文化2□8月21日俗名□□ (100) 文化2戌9月8日 忠七 (101)釈成正信士 文化3年4月7日 紀州広浦 岩本彦四郎 (102)釈清雲信士 文化3年4月8日 一又 俗名 利兵衛 (103)釈秋月 文化3年□□月□3日 俗名 卯兵衛 (104)釈道見信士 文化丁卯6月18日 俗名 梅松 (105)道智信士 文化4卯9月7日 (元中 太右ヱ門) (106)釈道見 文化5年戊辰6月26日 俗名 吉蔵 (107)釈賢光 文化5辰9月 俗名 源平次 (108)智月信士 文化7年8月12日 俗名 新助 (109)釈海見位 文化7年□月4日 俗名 武右ヱ門 細 (110)釈西念 文化8年9月17日 紀州広 俗名 忠右ヱ門 (111)釈雲光 文化9申7月20日 0左ヱ門養子 俗名市藏 (112)帰元妙永信女 文化9戌11月5 俗名 おかい (113)釈道光信士 文化10年酉7月27日 又俗名与想惣次郎 外流突 文助 勘兵衛 清八 甚助 安兵衛 (114)帰真理俊信女 文化10酉7月27日 俗名 い弥 (115)一空是聞信士 文化12亥年5月23日 俗名元助 (116)釈秋山信士 文化12丑9月8日 俗名 伝兵衛 (117)釈浄心 文化12亥12月7日 紀州由良 俗名善七 (118)釈仙翁信士 文化12年12月10日 〃 天草 佐八 (119)釈智光□□位 文化13□3月9日 (120)妙玄信女 文化14丑年3月29日 俗名 おとゑ (121)釈教栄 文政3壬午年5月18日 紀州広浦 俗名 (122)釈浄源 文政5甲午11月5日 紀州広浦 俗名 藤兵衛 (123)釈浄証信士 文政5午11月24日 俗名善四 郎(広浦浜町) (124) 文政6未8月21日 木村利吉 (125)釈道善 文政8酉8月18日 紀州広 俗名初太郎 (126)釈道光 文政0年酉9月8日 个 紀州広□□ (127)釈道金 文政8年酉9月21日 一又 紀州 源助 (128)釈願0信士 文政酉天10月27日 願誓(五島屋伝兵衛子) (129)文政丙戌11月10日 目 紀州広浦 俗名 金左ヱ門 (130) 釈00文政002月5日 目 紀州広浦 俗名 藤兵衛 (131)円誉塞月妙鏡信女 文政11年戊子12月10日 俗名久徳つる(12年12月10日久コ六郎兵衛妻6太郎実母) (132)釈寿仙 天保2卯6月7日 行年58才俗名清七(岩本彦四郎内) (133)釈□□信士 天保2年11月14日 俗名00 (134)義直玄定信士 天保2辛卯12月22日 紀州有田郡広浦 船頭源右ヱ門墓 (135)空寒松信士位 天保3辰12月2日 紀州広浦 俗名元中庄七 (136)釈智雲信士 天保7未(申)8月24日 紀州広 俗名 佐七 (137)釈兄妙自信女 天保9年4月5日 俗名 □ょし (138)釈永觀 天保11年子11月14日 俗名 善次郎 (139)釈道生 天保□□5月 俗名 久右工門 (140)南無阿弥陀仏 弘化2年巳8月□日 施主 个 (ヤマサ) (141)釈誓浄実相信士 弘化2巳12月9日 広屋勝次行年27才 (142)昌応諦山信士 安政2卯5月13日 俗名 梅太郎 (143) 安政5午5月9日 源七 同4巳5月12日 (144)釈静誓墓 万延元年申9月17日 (18日…広村過去帳) 久徳柳蔵行年40才(久徳六郎兵衛内柳蔵) 以下年号不詳 (145)秋道秋 (146)釈寂 (147)釈浄智信士 (148)釈 一又 俗名平蔵 (149)□□□ □□□8月・紀州広新三郎 (150) □□ 一又紀州広 行年42才 (151)仏光信士 □□□紀州広俗名善太郎 (152)釈梵ャ□□□ 伝七網 俗名源蔵 (153)釈道喜 (154)六地蔵仏 (155)釈□□ 俗名□七 (156)良円信士 (157)釈慧光道仙(破損)正月23日 広浦俗名 浜口由兵衛 (158)道悟信士 方312月19日 善吉 (159)釈福□善 妙眼 道□ (160)法名釈春海 5歳子4月 和州 佐野 みそ□□□ (161)釈了峰 (162)釈春光位 俗名□□ 奈良尾町庚申山墓地墓碑銘抄 0印は広の過去帳にある者 (1)紀州広紋十郎墓 享保10巳8月24日 (2)釈浄円 安永4乙末年3月20日 紀州広浦俗名五島屋長兵衛 釈敬明 一又行蔵47才 戸田長兵衛 (3)釈浄槃道清 ェ政9巳6月29日 戸田太郎松 (4)釈殖願 天保7年3月23日 戸田長兵衛 (5)釈曜照 文化5年辰9月初2日 紀州有田郡広浦 岩本若左ヱ門 行年46 (6)釈道修 安政4年巳6月25日 俗名戸田弥助 合計169基 地元漁業 近世における広川地方の漁業は、何といっても関東・西国への出漁が主であったため、地元漁業については史料に現われるところが少ない。しかし、全くない訳でなく、寛政5年(1793)広村の『大指出帳」には、広村船数16艘、内6艘は西国行漁船、拾艘は所稼船と見える。所稼船の内訳は2艘が地引網船、5艘は小廻り船、3艘は小てんま船である。網数7張、内6張は西国行8ツ手網、1張は所稼地引網となっている。 右に見た如く、全くない訳でないが、僅かに漁船2艘、網1張という微々たるものである。如何に遠国出漁漁業に重点を置いていたかが窺われる。そして、地元漁業は2艘1組で地引網1張、鰮漁を主としたことが間違いないであろう。西広村・唐尾村においてはどうであったか明らかでないが、この両地区の漁民も関東や西国に出漁したことが、前掲の資料等からも判明するので、広村と事情は余り異るところはなかったと想像される。 先頭に戻る 3 近代の漁業広川地方の漁業は、前記の如く、近世末期、それまでの遠国出漁が殆ど終息して、地元沿海漁業に戻る。それと同時に、漁業も昔日程の隆盛はなくなった模様である。それでも、近代初期には、まだ相当の漁船もあったらしく、明治6年(1873)7月の広村『明細所調達帳』によると、同村の漁舟28艘、魚網大網2畳、小網9畳とある。その漁獲魚類の量は判明いたし難いが年額凡そ720貫864文と記している。 また、明治41年(1928)12月末日現在の調査であるが、前記『南広村是』には、同村の漁船9艘、 その他40艘、沖引網5張、地引網9張と挙げている。そして、南広村の漁獲高は左表の如くである。 漁業部 1. 魚類
だが、大正時代になると、網元も広川地方全体で数軒となる。外に小職と称する釣船などもあったが、もはや広・西広・唐尾など、かっての漁村も、漁村というに当らない程の変貌であった。広は近代はやくから商工業中心の田舎町となり、西広は一般的な農村となる。ただ、唐尾のみが、僅かに漁村らしい面影を残した程度であった。だが、それもいまでは全く、普通の農村に姿を変えた。 それでは、大正・昭和初期頃の網元を参考に挙げると左の如くである。 広 虎山・丸山 唐尾 西出・鈴子 山本 栗山 右の網元が漁船を繰り出して漁撈したものは、広の虎山・丸山網では主として鰮・白子であり、唐尾の西出・鈴子網では鰮よりも、むしろ、鯖・鯛・鯵・鰹などであった。勿論前掲『村是』によって記した如き各種の漁獲物があったであろうし、網漁以外に小職と称する釣漁・突漁などもあった。これらの小職は、近年網漁が廃業された後にも、なお、小数ながら続けられたが、最近では殆どこれを生業とする者がなくなり、都市方面から押寄せてくる釣客の案内船に転業した。 それはさておき、別章「近代の農業」で『和歌山県統計書』によって昭和5年(1930)と同10年(1935)度における広川地方の産業総生産金額を挙げた。その中で当地方の水産品金額は左記の如くである。
近代における当地方の漁業は、右の昭和10年頃がまだ産業として経営の余地があった。しかし、次第に地元沿海の漁業資源が欠乏して、経営が困難となり、遂に近年網漁業は廃業となった訳である。 そして、これに替ってハマチの養殖と海苔の養殖が登場した。鷹島におけるハマチの養殖、広の海浜、次いで西広・唐尾海浜における海苔の養殖が現在広川町の主要水産業というべきであろう。 なお、さきにも記した如く、従来の漁業経験を生かして、都市人の客を乗せ、湯浅湾における観光的釣場の名声を高からしめた人達もいる。 もはや、当地方の沿海は、過去の如き網引く掛声の聴き得る漁場でなくなった。 広川町誌 上巻(1) 地理篇 広川町誌 上巻(2) 考古篇 広川町誌 上巻(3) 中世史 広川町誌 上巻(4) 近世史 広川町誌 上巻(5) 近代史 広川町誌 下巻(1) 宗教篇 広川町誌 下巻(2) 産業史篇 広川町誌 下巻(3) 文教篇 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇 広川町誌 下巻(5) 雑輯篇 広川町誌下巻(6)年表 |