広川町史 年表
 

年表


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広川町誌 年表

     広川町史年表(広川町誌ー下巻より)

西暦元   号干支記事
〜BC1000   紀元前約4千年より同千年ころまで  鷹島より縄文式時代(前、中、後、晩期)に属する土器、石器など出土。そのうち中期初頭に位置ずけられる土器の1型式として「鷹島式土器」と命名された角底土器(底が5角か4角型にしたもの)が発見された。
〜300    紀元前約3百年より紀元後3百年ころまで 弥生式(前、中、後期)に属する土器、石器など鷹島より出土。またこの時代後期に属する土器を、高城山中腹より出土。 大字上中野字末所より同時代と推定さる石器出土。
〜600    紀元3百年ころより6百年ころまで 古墳時代この期に属する古式土師器、須恵器、多量の製塩用土器、土錘、勾玉、管玉、彷製鏡破片、鉄製品など、鷹島より出土。この時代の後期に属する大字池ノ上古墳群(じよう穴古墳)および長山古墳群などがある。
553欽明13年壬申(仏教が伝来する、これより以前538戊午との説もある。)
593推古1年癸丑(聖徳太子摂政)
604推古12年甲子(聖徳太子憲法17条を発布する。)
636推古34年丙戌(3月長雨飢饉)
645大化元年乙巳(大化改新、この頃国司を置く、2年1月改新の詔を発布、始めて戸籍計帳、班田収授法を制定する。)
646大化2年丙午(熊野国を廃し、紀伊国に合併する。)
652白雉3年壬子(このころ50戸を里とし里長を置く。)
658斉明4年戊午(10月15日、天皇、皇太子と共に、牟婁の温泉に幸す。)(勅して今城寺を藤並に造営すると伝う。) 
684天武13年甲申10月14日、四国近畿に大地震、土佐湾陥没、紀州に地震津波。
689持統3年己丑詔して阿提郡那耆野2万頃魚猟を禁断、守護人を置く。(アリダ郡名史料に初見である。)(閏8月10日、諸国司に出し戸籍をつくり、浮浪をただし、国ごとの民4分の1を点検し武事を習はしむ。) (このころ上須谷に寺院建立。在田郡の公立寺院かとも推定さる。)
698文武2年戊戌(3月近江、紀伊に疫癘えきれい流行、4月3日、賑給、5月、諸国旱損。) 700年頃 管郡を伊都(伊刀)、那賀(奈賀)、名草、海部、有田(阿提)、日高(飯高)、牟婁の7と定める。
701大宝元年辛丑8月14日、淡路紀伊播磨大風あり、夏、畿内旱魃。10月文武天皇、太上天皇(持統)牟婁温泉に幸す。(小原越えにて在田に出て、千田から白上磯を過ぎたもよう。)(10月、律令領布。)
703大宝3年癸卯阿提(在田)、飯高(日高)、牟婁の3郡より銀を献ぜしむ。
706慶雲3年丙午閏正月近畿、中国、四国飢饉疫病。
713和銅6年癸丑(千田、中雄山に須佐神を勧請する、別伝に社殿修覆をし、従来西面であったのを南面に改めたと。 (諸国風土記を撰進。国、郡、郷名には好字2字を使用させる。
731天平3年辛未5月、阿志郡(在田郡)の海水変じて血の如き色を呈す。5日にして元に復す。
732天平4年壬申2月より7月、大旱。5穀不登。紀伊、淡路、阿波等大旱害。
741天平13年辛巳 (このころ国分寺建立。国分寺建立の詔。)
743天平15年癸未(墾田の永代私有を許可する。) (荘園の始り)
745天平17年乙酉(9月25日、井上忌寸磨を紀伊守に任す、紀伊守の初見)。 (天平年間「幡陀郷戸主奏人小度調塩3斗を貢す」との平城京跡より出土木簡あり。幡陀郷はおそらく有田郡中の1郷ではなかったかと推定さる。)
747天平19年丁亥(2月、紀伊国飢饉賑給さる。4月より7月に至る大和、紀伊旱魃。)
753天平勝宝5癸巳(6月、紀伊国地震強く3日間にわたる。)
760天平宝字4庚子(3月、紀伊等15国疫癘、賑給さる。)
765天平神護元乙巳(2、3月紀伊和泉等飢饉、賑給さる。) (3月、寺院以外の墾田等を禁止する。)
769神護景雲3己酉(3月、紀船守を紀伊介に任ず、明年紀伊守に任ずる。) (安諦郡荒田村牟婁沙弥の家宅焼失、その際、法華経の写経安泰であったという。荒田村は今の有田市宮原辺と推定さる。)
770宝亀元年庚戌(唐僧為光、金剛宝寺紀三井寺―を創建。 (4月、百万塔ダラニ印刷。)
772宝亀3年王子(8月6日、大暴風雨、京畿諸国損害大)
775宝亀6年乙卯(6月16日、大風雨洪水あり、吉備路の人紀ノ馬養、浜中郷の人中臣祖父麿漂流淡路に着いたという。)
782延暦元年壬戌(閏正月、大伴仲主紀伊守に任ず。)
789延暦8年己巳(5月、紀伊及諸国に飢饉あり賑給さる。この年より799年頃まで飢饉続くと伝えらる。
791延暦10年辛未(湯浅田の国主神この頃鎮座する。)
796延暦15年丙子(2月、南海道駅を廃止、待乳山越えをやめ、紀見峠の新路線を開く。)
806大同元年丙戌(7月7日、安諦郡を在田郡と改める。天皇の諱に渉る故である。) (阿波国の尼僧西阿、有田市の浄妙寺を創建するという。) (8月、空海帰朝、真言宗を伝える。)
816弘仁7年丙申(在田石垣上荘は阿瀬川として高野山領になる。) (5月空海高野山開創。)
820弘仁11年庚子(紀伊国正税、公解各18万束、国分寺料2万束とあり。)
848嘉祥元年戊辰(5月15日、在田郡を上郡とする。戸口増益課丁多数なるによる。)
850嘉祥3年庚午(有田奥地に大洪水あり。)
860貞觀2年庚辰(9月14日、海浜高潮被害あり。)
866貞觀8年丙戌(紀伊国飢饉、5月賑給する。)
887仁和3年丁未(7月30日、5畿7道大地震海嘯横溢。)
907延喜7年丁卯10月3日、宇田法皇熊野御幸。
947天暦元年丁未2月16日、天台僧円善上人熊野参詣の途次、鹿背山にて歿す(経王塚の由来)。 (この年間までに、郡内は、石垣上荘、石垣、藤並、田殿、広、湯浅、糸我、宮原、保田、宮崎の10荘になっていたもようである。)
986寛和2年丙戌(浄土念仏信仰が在田郡に入る。源信僧都、吉原歓喜寺開創。)
991正暦2年辛卯5月、花山法皇熊野御幸。(この頃在田郡諸荘は中納言平惟仲の領であった。)
1000長保2年庚子(浜中、長保寺創建さる。)
1021治安元年辛酉(8月、霖雨暴風、天下飢饉、餓死者多く出る。)
1024万寿元年甲子(7月、近畿四国旱、和泉紀伊淡路被害多し。)
1081永保元年辛酉(9月27日、藤原為房卿、熊野詣の途、宮原の土民の家に寄り、石垣荘より糧米を送る。同28日、鹿瀬山中の草庵に宿る。)
1086応徳3年丙寅11月13日、尚侍藤原氏、宮前荘(今の有田市宮崎)及び広荘のうち各々13町5段を那智神領として施入する。(那智山尊勝院文書に比呂荘とあり、ヒロの名、現存記録に見えた初めのもの。)後約80年間那智神領となっていたもよう。(11月白河上皇院政を始む。)
1090寛治4年庚午(正月、白河上皇熊野御幸、宮原の宮本宅に宿す。同22日、熊野三山検校を置く。) (検校職は明治の神仏混合廃止までつづく。) (10月11日白河上皇熊野御幸の恩賞として僧長快を初代熊野別当に任じる。)
1092寛治6年壬申(9月10月、和泉紀伊に旱魃あり。)
1099康和元年己卯(湯浅宗永、霊夢により八重桜を山中に得て粉河寺に寄進する。)
1109天仁2年己丑10月18日、中御門宗忠熊野詣、鹿瀬坂を越える。
1116永久4年丙申10月28日、白河上皇熊野御幸。 (以後上皇、女院等の御幸ひんぱん。
1117永久5年丁酉正月、白河上皇熊野御幸。10月22日、上同。
1118元永元年戊戌閏9月7日、上同。
1119元永2年己亥9月27日、上同。
1120保安元年庚子10月3日、上同。
1121保安2年辛丑5月26日、上同。
1124天治元年甲辰10月21日、右
1125天治2年己已11月9日、上同。 (鳥羽上皇侍賢門院御同列)
1126大治元年丙午11月9日、上同。(同樣)
1127大治2年丁未2月3日、上同。 (同樣)
1128大治3年戊申2月3日、上同。 (以上計12度仍御幸的召)J5頃、井関稲荷神社勧請するとの伝承あり。
1130大治5年庚戌11月28日、鳥羽上皇熊野御幸。(侍賢門院御同列)
1131天承元年辛亥2月9日、上同。(同樣)
1132長承元年壬子10月13日、上同。
1134長承3年甲寅正月13日、上同。(待賢門院御同道。)10月20日、上同。
1136保延2年丙辰2月21日、上同。
1137保延3年丁已10月19日、上同。(待賢門院御同列。
1138保延4年戊午正月26日、上同。
1140保延6年庚申2月23日、上同。(女御藤原得子御同列)(12月8日、高野山の衆徒、大伝院根来に追う)12月17日、鳥羽上皇侍賢院御同列熊野御幸。
1143康治2年癸亥閏2月5日、鳥羽上皇熊野御幸、崇コ上皇御同列。この年湯浅宗重平野城を築く。 (湯浅城)
1144天養元年甲子3月8日、鳥羽上皇熊野御幸。10月湯浅宗重、国主神を田村より勧請する。(今の頭国神社)
1147久安3年丁卯2月10日、鳥羽上皇熊野御幸。
1148久安4年戊辰2月23日、上同。
1149久安5年己已2月17日、上同。
1150久安6年庚午3月5日、上同。(美福門院御同列。)
1151仁平元年辛未3月5日、上同。 (8月、紀伊国暴風あり)
1152仁平2年壬申3月19日、上同。(美福門院姫宮御同列。
1153仁平3年癸酉正月28日、鳥羽上皇熊野御幸これで23度となる。
1156保元元年丙子この頃湯浅党の所領が保田、田殿、藤並、広、湯浅、石垣、山保田の諸荘に及んだもよう。
1159平治元年乙卯12月4日、平清盛熊野参詣。その間政敵源義朝、藤原信頼ら挙兵平治の乱起る。湯浅宗重、清盛を切目に迎え護衛して京師に帰還せしめる。
1160永暦元年庚辰湯浅宗重院宣心5日比叡山坂本に戦う。10月23日、後白河上皇熊野御幸。
1162応保2年壬午正月27日、後白河上皇熊野御幸。
1163長ェ元年癸未2月19日、12月14日の2回、上同。
1165永万元年乙西11月13日、上同。
1166仁安元年丙戌9月9日、上同。
1167仁安2年丁亥2月19日、上同。9月21日、上同。(女御平滋子御同列)
1168仁安3年戊子正月18日、上同。9月5日上同。
1169嘉忘元年己丑正月9日、上同。10月15日、上同。(建春門院御同列)(この年、田辺別当堪全の弟左エ門尉定範、宮崎荘に住み野村に城し、後4百年にわたってこの地を領有した。)
1170嘉忘2年庚寅2月12日、御白河上皇熊野御幸。
1171承安元年辛卯5月25日、12月16日62回、上同。
1172承安2年壬辰10月27日、上同。
1173承安3年癸已1月8日、明惠上人、東吉原、平重国の邸に生る。 (5月文覚上人伊豆に流罪。後白河上皇、正月30日、11月11日2度熊野御幸。
1174承安4年甲午3月1日、10月12日の2度、上同。
1175安元元年乙未3月13日、9月7日、上同。(建春門院平滋子御同列。3月源空、浄土宗をひらく。
1177治承元年丁酉8月9日、9月13日の2度熊野御幸。
1178治承2年戊戌3月5日、上同。
1179治承3年己亥1月5日、上同。
1180治承4年庚子9月3日、熊野別当堪増謀反、鹿瀬以南を掠領する。11月26日、紀伊熊野3日にわたる地震。
1181養和元年辛丑9月28日、熊野法師反して鹿瀬を扼す。 この年旱魃飢饉兵革等天下平かならず。(10月16日、平為盛を遣し熊野僧徒を討つ。)
1184元暦元年甲辰(寿永3年)源頼朝書を送って湯浅宗重に平家討伐の合力を求める。
2月4日 頼朝「湯浅入道について」書を義経につかわし伐つことを禁じる。(寂楽寺が阿氏川庄に乱入。住民の訴えにより高野山成就院の使者鎌倉に下り之を訴える。頼朝は高野山領を認める。)
4月26日、御白河上皇熊野御幸。(この年、佐原十郎左衛門尉義連、和泉、紀伊両国の守護となる。)
1185文治元年乙巳(寿永4年)2月、丹波侍従忠房(重盛第6子) 湯浅宗重を頼り来る。平家残党と岩室城に籠るが熊野別当のために敗死する。(3月、平家滅亡。)
1186文治2年丙午このころ広荘は、蓮華王院(京都33間堂)の領になっていた。
閏7月、広荘と由良荘に乱妨あり、鎌倉より木工頭範季(高倉家)に対し折紙下附される。広荘の名の出た古文献の2番目である。(頼朝下文をもって湯浅宗重の本領を安緒し、これより宗重鎌倉の御家人となる。) (阿氏川荘は鳥羽宮領となる。)
10月5日後白河上皇熊野御幸。
1187文治3年丁未12月11日、後白河上皇熊野御幸。
1188文治4年戊申明恵上人栂尾にて、上覚上人について剃髪する年16才。10月20日、後白河上皇熊野御幸。
1190建久元年庚戌(3月7日、後白河上皇上同。このとき宮原御所の芝に駐す。)
1191建久2年辛亥4月1日、これで御白河上皇33度の熊野御幸である。
4月28日、湯浅権守藤原宗重歿、69才、(建久6年とも)能仁寺に葬るとの伝あり。(7月栄西禅師帰朝、茶の実をもたらす。
1192建久3年壬子(7月、源頼朝征夷大将軍になる。)
1197建久8年丁巳(9月、頼朝、文覚上人に阿氏川荘下司職を命ずる。文覚之を湯浅宗光にゆずる。)
1198建久9年戊午8月、後鳥羽上皇熊野御幸。 この年ごろ明恵上人鷹島に渡り行法を修する。
1199正治元年乙未(3月、文覚勅勘を蒙り佐渡島配流。湯浅宗光も地頭職を失い失意に沈湎し、多少の狼籍あり、有田郡内乱れる。)
8月20日、後鳥羽上皇熊野御幸。
1200正治2年庚申11月28日、後鳥羽上皇上同。
1201建仁元年辛酉10月5日、後鳥羽上皇熊野御幸、9日、湯浅に1宿御歌合あり。藤原定家供奉しその紀行を著す「熊野御幸記」である。
1202建仁2年年壬戌11月29日、熊野御幸。
1203建仁3年癸亥3月10日、7月9日両度熊野御幸。
1204元久元年甲子(3月、畿内諸国大風あり。) 9月17日、熊野御幸。この年郡内地頭職違乱のことあり、湯浅一門勅勘を蒙り関東に召下さる。)
1205元久2年乙丑9月19日、熊野御幸。
1206建永元年丙寅5月1日、12月9日、両度熊野御幸。 (明惠上人11月、帰洛、栂尾1山を後鳥羽院より賜る。)
1207承元元年丁卯(守護職佐原義連死去の後、紀泉両国に守護を補任せず、院の熊野御幸諸駅家の雑用のためである。) 10月1日、熊野御幸(七条院御同列)。 (2月、念仏宗禁止、源空、親鸞配流。この年、(湯浅)宗光、阿弓川庄地頭に補せらる。
1208承元2年戊辰6月3日、熊野御幸。 (10月1日、尼将軍政子熊野詣。)
1209承元3年己巳9月21日、熊野御幸。
1210承元4年庚午湯浅宗光阿瀬川荘地頭に再補され、預所職を兼帯する。 5月22日、10月14日、両度熊野御幸。
1211建暦元年辛未1月30日、11月30日、両度熊野御幸。
1212建暦2年壬申8月24日、上同。
1213建保元年癸酉9月27日、上同。この年、、明惠上人「鷹島」に湊宿する。
1214建保2年甲戌4月6日(陰明院代参)、9月20日、両度熊野御幸。
1215建保3年乙亥10月8日、上同。
1216建保4年丙子8月16日、修明門院御同列上同。 (この途中湯浅に駐す。)
1217建保5年丁丑9月30日、上同。
1218建保6年戊寅10月23日、上同。
1219承久元年已卯8月、有田郡内地頭違乱あり、湯浅宗光対馬に流罪さる。9月、湯浅宗氏父宗光の所領を知行せしめらる。10月16日、熊野御幸七条院御同列。
1220承久2年庚辰3月5日、熊野御幸。
1221承久3年辛巳2月4日、上同。以上で29度の熊野御幸である。閏10月、宗光赦免、田殿、保田、石垣、河北荘などの地頭職安堵さる。(5月承久の乱)
1224元仁元年甲申(親鸞、浄土真宗を開創する。)
1226嘉禄2年丙戌この年9月、明恵上人鷹島に渡る、門人多数従う。
1227安貞元年丁亥(由良西方寺 (興国寺) 落慶、明恵上人招請される。)
1228安貞2年戊子(11月、六波羅探題高野山の刀狩実施。荘園領主としての高野山の勢力をおそれた結果である。)
1229寛喜元年己丑(寛徳以後の新立荘園を停止する。)
1230寛喜2年庚寅(6月、宣旨を下して米価を定める。1石に銭1貫文とする。この年全国に大風雨、大飢饉。)
1231寛喜3年辛卯(藤原景基〈森>施無畏寺を建て明恵上人に施入する。4月17日、明恵落慶供養に来る。郡中湯浅一門49人連署明恵の袖書き加判の文書あり。)
1232貞永元年壬辰(正月19日、明恵上人高山寺にて歿、60才。)
1233天福元年癸巳(2月5日、紀伊大地震、家倒れ人多く死す。)
1235嘉禎元年乙未(12月、宗光、寂楽寺修造の功により本所桜井宮より阿豆川庄預所職を与えられ尼住心〈宗光妻〉及びその子2代相伝を許される。)
1236嘉禎2年丙申(7月24日、湯浅太郎幕府の命により久米崎王子社を修覆する。) (11月19日、明恵の高弟喜海、八所遺跡に木製卒塔婆を建立する。)
1238暦仁元年戊戌(5月、湯浅一党、八条殿政所宿直結番を定める。10月、同じく八条辻固勤仕の家人結番を定める。
1248宝治2年戊申(5月、湯浅太郎宗弘湯浅荘地頭職を安堵される。)
1249建長元年己酉(4月18日、暴風雨あり。日高由良港では破船27、死者53名を出した。)
1250建長2年庚戌3月11日、後嵯峨上皇熊野御幸。
1253建長5年癸丑(4月、日蓮、法華宗を唱える。)
1255建長7年乙卯3月8日、御嵯峨上皇中宮大宮院藤原始子同道熊野御幸。
1257正嘉元年丁己3月3日、紀伊地震、疫病相つぎ餓死者多し。
1258正嘉2年戊午僧覚心、湯浅に来たり、経山寺味噌の製法を伝う。湯浅醤油はこれより始められたと伝承あり。
8月5日、広八幡宮焼失。またこの日、霊岸寺棟数13軒不残焼失するとの伝あり。(蓮専寺文書による。)
1281弘安4年辛巳2月16日、亀山上皇熊野御幸。
1288正応元年戊子(法勝寺未派、在田郡寂楽寺から再び当庄を押領せんとして迫ってきた。寂楽寺と高野山は阿氏川荘所領について争う。)
1289正応2年乙丑(保田宗家、田殿上荘地頭職となる。田殿下方地頭も同前。このころ湯浅党は阿氏川、石垣、田殿、藤並、保田、湯浅、広の各荘を支配した。) 12月湯浅一党の在京結番を定め、懈怠なく勤仕することを示す。
1290正応3年庚寅広八幡社の紺紙金泥法華経箱書に「正応3年12月」とあり、経筆者は法眼秀尊並法口良秀とあり。
1303嘉元元年癸卯4月1日、玄輝門院熊野参詣。
1304嘉元2年甲辰前田本山八幡社の棟札銘に、大願主散位藤原朝臣、大工津守為清とあり。
1311応長元年辛亥僧日像(日蓮晩年の弟子)紀国師子ノセに配流とあり。鹿瀬である。
1319元応元年己未もと鷹島堂ノ浦にあったという観音堂の瓦に、元応元年の陰刻銘あり、(法蔵寺蔵) 八幡神社ノ奉納札ニ、元応元年己3月十口口木国安梨諦郡那耆野八幡之前神奉納人18ヶ村産子中とあり。
1322元享2年壬戌(夏飢饉、野に生色なく餓死者巷に満つ、銭3百で粟1斗という。)
1331元弘元年辛未(北朝元徳3) 7月3日、大地震(震源地は紀伊水道と推定さる。)
1332元弘2年壬申(北朝正慶元) (楠木正成赤坂城攻撃、湯浅定仏ら湯浅党の人々南朝方となる。)
1333元弘3年癸酉(北朝正慶2) (正成赤坂城を復し、5月、天王寺に進出、軍中に湯浅氏1族もいた。)
1334建武元年甲戌(建武中興)
1336延元元年丙子(12月、後醍醐天皇吉野に遷幸、石垣阿瀬川等の湯浅一党の者供奉する。)
1338延元3年戊寅(北朝暦応元)畠山国清、紀伊守護職に補せらる。(尊氏征夷大将軍となる。)
1343興国4年癸未(北朝康永2) 玉木氏畠山氏と吉川(湯浅)にて戦う。
1344興国5年甲申(北朝康永3) 9月19日、勧進聖弁迂、明恵上人八所遺跡卒塔婆を石造とする。
1348正平3年戊子(北朝貞和4) 後村上天皇湯浅孫六の拠る阿瀬川城にて南朝軍を統べる。8月8日、足利直冬これを攻め9月4日、阿瀬川城陥ちる。
1351正平6年辛卯(北朝観応2) 能仁寺建立(開基は三光国済国師)後村上天皇勅願寺として広荘内水田40町を寄進。ここの薬師如来の胎内より正平6辛卯9月12日功了の銘出る。
1352正平7年壬辰(北朝文和元) 後村上天皇住吉に御幸。湯浅党の者たち参候する。このころ井関の稲荷神社兵火に焼失するとの伝承あり。
1357正平12年丁酉(北朝延文2) 鹿瀬峠附近に法華塚及び草庵をつくる。 朗妙なる僧が創めたと伝えらる。 (養源寺の源である。) ここに石の塔婆があるが、これはさらに後の造立と推定される。
1360正平15年庚子(北朝延文5) 閏4月、畠山国清、有田に侵入、湯浅石垣の諸城陥ちる。
10月4日、紀州一帯大地震、尾鷲より摂州兵庫に及ぶ。6日津波来襲牛馬死人多く出るという。
1361正平16年辛丑(北朝康安元)5月24日、能仁寺開基三光国済国師、和泉大雄寺にて歿、91才。
8月24日、摂津大和紀州阿波大地震紀州津波、広も被害あり。(この年天候不順天下飢饉)。(12月、南朝方、京都を攻める、湯浅、恩地の一党これに参加する。)
1362正平17年壬寅(北朝貞治元)4月、畠山義深、紀伊に来攻。湯浅城その他陥落する。
8月上旬より霜月中旬まで南空に彗星出現する。
1364正平19年甲辰(北朝貞治3) (細川淡路守宗茂紀伊守護となる。)
1371建コ2年辛亥(北朝応安4) 湯浅党再起、湯浅、石垣の各城に拠る。このころ仁木六郎なる者、広村湊の恵比須社を再興したと伝えらる。
1374文中3年甲寅(北朝応安7) 正月、湯浅白方の僧円勝(照)霊厳寺に草庵をいとなむという。
1375天授元年乙卯(北朝永和元) 9月、山名義理等有田に侵入湯浅城に攻入り本郡所々の宮方の城陥る。
1378天授4年戊午(北朝永和4) 楠正勝兵を挙げる、湯浅党は湯浅城に拠り之に応ずる。明年山名義理等来攻し遂に之に屈する。
1379天授5年己未(北朝康暦元) 2月、湯浅城陥り、石垣城等も陥落する(2月11日)。山名義理湯浅一族を全滅させる。春より翌秋まで飢饉死人多く、米麦高値つづく。
1380天授6年庚申(北朝康応2)山名義理、有田に攻入り、阿瀬川城、鹿瀬、蕪坂等攻め次に土丸城に押入り紀伊国を領す
1387嘉慶元年丁卯2月1日、岩渕の観音寺焼失したとの伝承あり。7月、性寿上人霊厳寺山に小庵を建つ。
1389元中6年己巳(北朝康応元)井関、円光寺に「康応」の銘ある石仏あり。
1390元中7年庚午(北朝明徳元) 11月3日、性寿法師霊厳寺本尊千手観音立像を造顕する。作者は名草郡六十谷直川仏師(法賢)という。
1391元中8年辛未(北朝明徳2) (山名1族謀判、大内義弘、山名氏清を亡す。功をもって紀伊和泉両国を賜う。) 2月13日、霊厳寺本尊を山上に安置する。
1392元中9年壬申(北朝明徳3) (大内義弘、山名義理を討つ義理由良へ走る。) (10月、後亀山天皇京都に還り、神器を後小松天皇に授ける。南北両朝合1する。) 南北合一後も湯浅式部少輔を初め、秋山、恩地、牡川、野川、福塚、山本、野長瀬等の紀伊の諸豪は降伏せず京都に伺候せず。)正月霊巌寺に観音堂を建立した。
1394応永元年甲戌11月27日、霊巌寺縁起成る。内大臣右近大将藤原長親(耕雲明魏)の筆と伝えらる。
1400応永7年庚辰畠山基国紀伊守護となる。その後、名島(高城)、鳥屋(鳥屋城)、岩室城を築く。このころ畠山氏、広海岸に4百間余の防波石垣を築く、広は繁栄し人家千7百軒を数えたという。畠山満国、鳥屋城主となり遊佐豊後守守護代として在城する。
1401応永8年辛巳高野山版の経典中に「8名普密陀羅尼経」1軸(高野山金剛三昧院蔵)および「阿弥陀経」版木、丈3尺1寸、巾8寸2分、厚6分の両面彫1枚(高野山宝寿院蔵)の刊記に「於紀伊国在田郡広庄彫之、奉為慈氏出世値遇之也、応永8年辛巳卯月、執筆明尊、願主金剛仏子円位」とあり。
1403応永10年癸未(秋、有田川大洪水山津波あり。)
1406応永13年丙戌(正月17日、畠山基国歿。佐衛門督満家守護を継ぐ。)
1408応永15年戊子「奉造立能野大権現御社擅応永拾伍.... 大工紀州在田郡東広庄内.... (文字不明)」の棟札あり。今のところ、広川町内に現存する1番古い棟札。
1411応永18年辛卯この年(正月とも12月とも)山本、西広、和田、唐尾の4ヵ村氏下争論のため「荘の天神」として広八幡社に在った天神社殿を山本薬師堂境内に移転し、上記4ヵ村の氏神とし、光明寺の支配となる。この天神社に午王器があって、その銘に応永18年辛卯6月1日了意恭白とあり(器は現存せず)。
1413応永20年癸巳「応永2年癸巳2月下旬始之紀伊国在田郡広庄八幡宮若宮武内2社造営」の棟札あり。このころ広八幡社再建造されたと推定される。(前田村本山八幡宮を遷すとも伝えらる。)
1414応永21年甲午正月、畠山久友なる者所願成就のため伊勢大神を、字森下に祀る。「雀の森、鎮々社」であると伝へらる。
1420応永27年庚子(夏近畿四国大旱、飢死者多く、翌年もまた旱魃疫癘飢餓続く。)
1421応永28年辛丑(宗祇法師、吉備野に生る。)
1426応永33年丙午(4月より8月15日まで大旱、5穀不登天下困窮、米260目、麦160「目という。
1427応永34年丁未9月23日、北野殿(義満側室)1行熊野詣り広に宿す。
1433永享5年癸丑(9月畠山満家歿。子佐衛門督持国守護をつぐ。)
1434永享6年甲寅(伊勢おかげまいり流行したとの記録あり。流行記録の初見。
1436永享8年丙辰明秀上人法蔵寺を創建する。(寺伝)
1438永享10年戊午9月南朝の遺臣ら鹿瀬城に拠り兵をあげる。畠山持国3千余騎で之を討伐す
1442嘉吉2年壬戌(8月20日より25日暴風雨あり。)
1443嘉吉3年癸亥5月6日、吉見左近進入道与竹斉といふ者、字沼政に磐長比売命を祠る。俗に「鳶の森社」という(口碑) (10月、湯浅掃部助ら義有王を奉じて十津川に挙兵する。) 薬師院什物「仁王経法則」奥書に「嘉吉3年癸亥5月3日書之於当八幡宮毎年恒例之仁王会修行之用口也薬師院」とあり。岩渕三輪明神社に、嘉吉の年号の銘ある鰐口が在ったという。 (今無し)
1444文安元年甲子(義有王〈後村上天皇孫>阿瀬川城に拠る。畠山勢之を攻め、南朝軍走って湯浅城に入る。)
1445文安2年乙丑(畠山持国岩室城を修築居城とする。)
1446文安3年丙寅宇都宮禅綱、遊佐兵庫介等湯浅城を攻めて利あらず粉河に退く。)
1447文安4年丁卯(畠山徳本、南朝方退治のため外屋城に入る。) (12月、宇都宮らまた湯浅城を攻める。城陥り楠木二郎ら湯浅の余類義有王に殉じ楠氏亡ぶ。王の首級は外屋城に渡る。)
1455庚正元年乙亥(3月、畠山持国歿。養子政長家督をつくが勘気を蒙り義就に渡す。)
1457庚正3年丁丑津木滝原オンブチの上にある宝筐印塔に康正と判読する銘あり。(12月、後南朝、忠義王吉野河野谷で敗死。有田より従う者多くこれに殉じた。)
1461寛正2年辛巳(天下飢饉悪疫流行死者多くでる。)
1462寛正3年壬午(明秀上人湯浅深専寺開創。)
1463寛正4年癸未(畠山尚順、鳥屋城に落居する。)
1466文正元年丙戌このころ竹中半弥明久、近江国より当地に来ると伝へらる(釈迦神主と称し広八幡社神官の祖。)
1472文明4年壬辰(春夏大旱諸国飢饉死者多し。)
1473文明5年癸巳7月23日、西広、鳥羽孫四郎、湯川政春より安堵状を受ける。
1475文明7年乙未8月6日、大風雨、同25日広浦津波あり、との口碑あり。広八幡社石段3段目まで波が寄せ、井関の三船池まで海水が入ったと伝えらる。
前田本山八幡社の棟札に「正25日本社八幡宮棟上大願主木氏朝臣大工吉行」とあり。12月伊勢外宮より杉本光良供奉勧請、広南市場の大神社(お伊勢さん)である。広八幡社楼門隅肘木下に文明7乙未時……の墨書銘あり。
1476文明8年丙申この年頃より、本願寺蓮如上人紀州を巡錫するという。広村円光寺、同覚円寺などこのころに建立されたという。
1487長享元年丁未(6月10日、明秀上人曾根田の竹園社にて歿、85才。)
1488長享2年戊申(この年、有田川に大洪水あったという。)
1493明応2年癸丑(4月25日、畠山政長、同族義豊のために攻められ、河内国正覚寺にて自殺。其長子尚順広に来たり蟄居、次子尚長は鳥屋城にかくれる。)
(5月、大地震、7月旱魃あり。)8月13日、広八幡社若宮再興上葺の棟札あり。この年ごろ、玄幽上人津木寺杣広源寺を建立する。
1494明応3年甲寅3月、明王院護摩堂建立、7月10日初修す。
1496明応5年丙辰(宗祇法師紀州に来たり、湯川氏に頼る。
1498明応7年戊午6月11日、更に8月25日、紀伊水道、東海大地震津波来襲、広村も相当被害あったもよう。 9月2日ごろまで余震つづく。
1499明応8年己未正月、畠山尚順、義豊を攻殺し高屋城に居るも、細川政元、赤沢某に攻めさせ、城陥り、再び広に来たり、後子植長に譲り剃髪してト山と号す。
1501文亀元年辛酉3月15日、石垣城主畠山康純より法蔵寺への寄進状あり。同月同日薬師院実全歿。
1502文亀2年壬戌(7月、晦日宗祇法師箱根にて歿82才。) 11月上旬、広八幡武内社造営の棟札あり。 (畠山尚順の3男小太郎政氏紀州に来り岩室城を補修する。)
1505永正2年乙丑12月2日、竹中半弥明久(釈迦神主)竹ヶ崎合戦に打死する。竹田永吉の感状を受ける。
1507永正4年丁卯9月16日、竹中久輝「烏の森社殿」を再興する。田村浦上国巣呂社より勧請した大巳貴神である。
1509永正6年己巳6月9日、釈正了、西の浜に松崎道場を建つ、後の安楽寺である。
1510永正7年庚午(8月8日、近畿地震)この年天下大飢饉この地方も稔り悪し。
1514永正11年甲戌(永正7年以来五穀のみのり悪しく、この年も天下大飢饉、この地方も不稔。)
1521大永元年辛已薬師院「仁王経」に「永正18年辛巳5月吉日書之」とあり。
1522大永2年壬午9月三好義永、日高の横浜に侵入する。広中野城主崎山飛弾守原谷の長尾にて防戦する。この年湯川勢直光高城を急襲、ト山広城をすてて淡路に逃れ、後同地光明寺で客死する。このとき額田甚三郎義正なる者この城に残って討死する。今甚三郎の壇という場所が東の丸附近に残っている。広は湯川氏の領となる。湯川光春、能仁寺に東広の田地40町を寄進する。
1523大永3年癸未4月4日、唐尾道場を建つ(今の善照寺) 本山より開基仏を受ける(開基は妙西尼)。
1524大永4年甲申釈教意、今の天王の地に道場を建つ、後の正覚寺である。
1526大永6年丙戌2月、広八幡社に多宝塔を建てる。
1527大永7年丁亥畠山植長(ト山の子)家督をつぎ高屋より紀州へ下向中、その留守をつかれ、弟長継が擁立される。植長、根来寺辺に流浪する。畠山氏の紀伊守護職はこれで最後となる。 この年広八幡社西門を建立する。
1532天文元年壬辰津木老賀八幡社宝物の鬼、鰐、獅子頭の銘文に「享禄5壬辰8月吉日奉寄進津木宮、藤原朝臣大家吉家作之」とあったという(現物今無し)。
1534天文3年甲午南金屋池永六右エ門へ湯川直光よりの感状あり。
1535天文4年乙未(4月湯浅赤桐善エ門醤油百余石を、海産物と密柑の船に托して大阪雑魚場小松屋伊兵衛に販売を依頼した。湯浅醤油の他国移出の最初といはれる。
1536天文5年丙申広八幡社竹中釈迦神主、神領の田地用水の事について湯川直光より免許状を受ける。
1541天文10年辛丑前田本山八幡棟札に「藤原朝臣大願主盛堅大工吉家の銘あり。
1542天文11年壬寅6月、広八幡社若宮再興の棟札、7月、同じく武内社造営棟札あり。
1544天文13年甲辰7月9日、畿内洪水郡内河川も氾濫する。霜月6日、 湯川光春より津村左京進直国をして法蔵寺に年3石を寄進する。これにつき林春直、尾崎家延ら添書をする。 この年一時広を領したという額田氏領地を離れて柳瀬に蟄居するという。
1547天文16年丁未6月10日、広八幡社拝殿上葺、奉加伍貫文公文津守入道云々の棟札あり。
1550天文19年庚戌養源寺墓地1石5輪塔にこの年の銘あり。
1556弘治2年丙辰津木老賀八幡社ワニ口銘弘治2年12月吉日とあり。
1557弘治3年丁巳(5月26日より8月9日まで雨降らず、8月26日暴風雨、米値高く1両に5斗という。)
1558永禄元年戌午広八幡社仙光寺仁王経奥書に弘治4年戊午中春下旬仙光寺宝珠院持主見維の名見える。(畠山深政鳥屋城にあり、安見直政守護代となる。)
1560永禄3年庚申10月5日、薬師院住職実栄歿。 この年唐尾善八綱由良より移住。藪添に居る。当時この地の戸数7戸であったと伝う。
1562永禄5年壬戌(3月、畠山高政、三好長慶と摂泉に戦い敗れる。湯川直光1族70余人と「共に討死する。高政漂泊して広に住むという。
1564永禄7年甲子養源寺墓地にこの年正月21日、日朗の銘ある1石5輪塔あり。
1569永禄12年己巳広八幡社上葺棟札あり。8月12日始同霜月2日午時棟上云々とあり。社務南金屋池永宗助39才の名見える。
(永禄年中湯浅醤油 を角屋右馬太郎、油屋伝七等が盛んに醸造出荷したという。)
1572元亀3年壬申広八幡社若宮再興造営元亀3年壬申霜月9日の棟札あり。
1573天正元年癸酉広八幡社拝殿上葺棟札、元亀4年癸酉7月5日、社務池永宗介43才などの銘文あり。
1574天正3年甲戌2月17日、湯川直春より、南金屋池永宗介への感状あり。
1576天正4年丙子このころ、本願寺と信長との間に行われた石山合戦に、広安楽寺第3世祐善師参戦し、この年2月討死する。
1579天正7年己卯(湯浅の地頭白樫実房、羽柴秀吉に内応し、保田荘の民家を劫掠し、須佐神神社を破壊する。)
1582天正10年壬午前田本山八幡社上茸の棟札に、4月吉日願主湯川民部卿(直春)池永清介、河瀬六郎兵衛などの名見ゆ。 山本光明寺に天正10年4月7日銘の1石5輪塔あり。
1584天正12年甲申広村の吹田父子小牧山の合戦に出陣する。(湯浅領主白樫左衛門尉、羽柴秀吉より領土安堵の起請文を受ける。(9月紀伊国大風あり) (鳥屋城主神保春茂降り畠山氏終焉。12月28日開城か。このころより郡内の社寺多く兵火にかかり退転する、秀吉の紀州征伐による。)
1585天正13年乙酉紀州の諸城陥り4、5月のころ、秀吉南紀を掃蕩、白樫、神保、宮原氏らは内応し、畠山、宮崎、貴志氏など征服され、諸社寺も多く兵火にかかる。広八幡社、名島能仁寺、山本光明寺もこの時火にかかるという。広荘の崎山氏も秀吉軍と広川で戦い破られ、この年広町大火災にあうとも伝えられる。
6月20日暴風雨あり、11月19日地震あり、同月29日大津波あり、辰ヶ浜と広村との被害最も大きく、広村当時千7百戸のうち7百戸が流失。(辰ヶ浜は大部分破壊され1漁村となる。)
(この年、羽柴秀長、秀吉弟)紀伊を領す。秀長は大和郡山城にあり、家臣桑山修理亮重晴を代官として治めしめる。)
1587天正15年丁亥8月朔日、津木老賀八幡社に座論あり、岩渕村民のみ八幡氏子を離れ、三輪神を勧請して、妙見社と相殿として産土神とする。このころ老賀八幡には、金龍坊、宝積院、安楽寺などの社僧があったが、のち安楽寺のみになったという。この年霜月、広八幡社へ、もと石垣庄御霊大明神之持経であった大般若経6百巻を御霊社を支配していた如意輪寺より預る。
1588天正16年戊子8月、広八幡社放生会法楽次第を定めた。
1589天正17年己丑広八幡社の3面装束、猿田彦面(鬼の面)天細女命面(ワニの面)獅子面あり。猿田彦面に八幡宮、天正17年巳丑8月、浜口安太夫作とあり。
1591天正19年辛卯(秀長関白となり秀俊紀伊国の封をつぐ。) (このころ湯浅赤桐三郎四郎、秀吉より大船建造の許しをうけ醤油運送船を造ったという。)
1592天正20年壬辰広八幡社の鐘銘の写しあり、7月28日釜屋(南金屋)にて鋳造したものという。
1594文禄3年甲午(秀俊歿し国除かる。但し桑山重晴は尚城代として国政をみる。)
1596慶長元年丙申(10月27日改元)8月、竹中某、広八幡社の御湯釜を寄附する。(文禄5年8月吉日) 慶長の初めごろより広浦から関東、西国方面へ出漁網数80帖を数う。広の家数も千3、4百軒はあったと伝えらる。(正月19日、鳥屋城最後の城代神保式部亮春奈良で歿。) (閏7月12日、京都近畿大地震あり。)
(このころから「みかん」上方へ出荷始まる。)
1597慶長2年丁酉10月28日、広円光寺9代了円、顕如上人画像を下附さる。 広八幡社、若宮造営と武内社造営の棟札2枚あり、11月23日銘。
1600慶長5年庚子(桑山重晴、和泉田川に去り、浅野幸長本国に封ぜられ、3月24日入国、禄高37万6千石であった。) (9月関ヶ原の戦)
1601慶長6年辛丑(浅野幸長領内の田地を検す。後世之を慶長検地という。)
湯浅深専寺第8世有伝上人(広村竹中半弥の庶子) 広川の流路を改修して現在の如く湯浅寄りに変更した。院ノ馬場にある小流は元の広川だという。
12月6日、国主浅野幸長広八幡社に社領10石を、中野法蔵寺に寺領7石を寄進する。(湯浅別所にあった弁財天社を7本松に勧請する。現在地。) (家康貨幣制度を定め、大判、小判、1分金の金貨、丁銀、豆板銀の銀貨をつくる。)
1602慶長7年壬寅(3月7日、徳川頼宣伏見城で生る。) (京都東本願寺建立)
1603慶長8年癸卯(2月、家康征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府をひらく) (3月、幕府「諸国郷村掟」を定め、逃散農民の帰村、直訴などについて定める。)
1604慶長9年甲辰(9月、浅野氏「定書」を出す。主として百姓に対して年貢のことについての規定5ヵ条よりなるもの。)
12月16日、東海南海、西海の諸道大地震津波あり、広もおそわれる。松崎道場(安楽寺の前身)現耐久中学校の松原にあり、この本堂へ難した者は助かったと口碑あり。
1606慶長11年丙午浅野侯、脇田蔵人俊継の裔、杉本六郎太夫に命じて、鹿瀬荘司の断絶していたのを継がせて、鹿瀬の地に居らしめる。それまでは殿村に居住していた。以後、鹿瀬六郎太夫と称す。8月25日、薬師院実秀歿。21才より在住、行年62才。(広八幡社別当であった。)(幕府江戸時代最初の銅銭「慶長通宝」をつくり、永楽銭の通用を停止する。)
1607慶長12年丁未8月12日、浅野侯より法蔵寺に竹木免状を寄せる。寺領7石、これらは元和の後も襲用された。
1608慶長13年戊申12月、永楽銭通用禁止。永楽銭1貫文を銀銭4貫文とし、これを金1両と公定する。翌年金1両は銀50匁替えとする。)
1609慶長14年乙酉(京畿諸国大風)
1611慶長16年辛亥8月、前田本山八幡社の上葺をする。棟札に慶長16年辛亥8月吉日奉八幡宮御社上葺奉勧鹿瀬六郎太夫成就の銘あり。(武家の官位を員外とする、即ち公卿と別にする。) この年崎山治郎右衛門生る。
1612慶長17年壬子6月21日、大風雨、沿海漁船7、80艘破船する。8月12日広八幡社武内社上符。棟札銘に、奉再典武内上葺造営各々勧進、大工藤原六左衛門日進寄進慶長17年壬子8月12日敬白とあり。(3月21日、幕府バテレン宗禁止。) (幕府たばこを禁止。)
1613慶長18年癸丑(幸長歿、38才。弟幸晟封をつぐ。) 2月、広中ノ町舟大工新右衛門広八幡神楽所に大太鼓を寄進する。 8月26日、暴風雨あり。
1614慶長19年甲寅1月より2月、大和、紀伊の土豪大阪方に味方し、「紀州一揆」起こり熊野を主軸にして日高有田郡に及ぶ、有田郡は544石8斗、成敗人数48人あり。このうち広は80石5斗、柳瀬村114石8斗、成敗人は津守左京進1族11名で、現在正覚寺のある附近で処刑されたと伝へられている。
9月暴風雨、10月25日、大地震、風疾国内に流行する。(11月、大阪冬の陣) この年法蔵寺火災にかかる。さきの紀州一揆の余波である。
1615元和元年乙卯(慶長20年7月13日、改元) 安楽寺西広村に西広道場を創設する。(浅野長晟大阪攻めの間に、紀州全土で大阪方の郷土たちが決起した。 〈日高一揆>本郡土豪の中でも多く大阪籠城に参加し討死する者が多かった。大阪落城により、白樫只光、湯浅に逃れきたるも吟味厳重で、12月、鷹島に渡たり自刃する。(大阪城から法馬金分銅の形にした金の棒〉を運び出す。) (5月、大阪夏の陣、豊臣氏亡ぶ。) (武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院法度、檀家制度〈寺請制度>神祇復興などの制定実施する。)
1616元和2年丙辰6月7日、有伝上人歿。山本光明寺わにぐち銘に元和式丙丙辰年霜月釜屋池永治兵エ寄附とあり、径5寸7分。 (幕府年貢米升目及びロ銭制銭をもって納める付加税〉を制定する。4月17日、家康死す。)
1617元和3年丁巳8月、前田本山八幡社の屋根葺をする。棟札銘に元和3丁巳8月吉日奉八幡宮御社上葺、伊都野前田河瀬両邑大工藤原六右エ門千時奉加高5石御地頭溝口権右エ門殿寄進とあり。
1618元和4年戊午夏より冬に至る夜毎に白気現われ形牛の如し。うしとらに彗星出る。(人身売買、たばこ栽培売買を禁ず。)
1619元和5年己未浅野侯封を安芸国に移され、8月13日、徳川頼宣本国を領す。18才。この時紀州の土豪中に安芸に従う者も多かった。 (小松弥助地士になる。)(山保田笠松太夫大庄屋となる。産業振興と農地開拓に努力する。) 頼宣入国後広八幡社に金燈竜、弓、剣、絵馬、戸帳などを寄附する。
(このころ頼宣有田郡を巡視し、みかんの栽培をすすめたという。)(元和通宝<銅銭>をつくる)
1620元和6年庚申(紀伊藩初めて大工運上を徴す、本役銀16匁3分、半役8匁1分5りなり。(和歌浦東照宮造営。) このころ広川の河道改修。頼宣、観魚亭を今の養源寺辺の地に造営。天王突堤を築造する(120間あり) 広田町に法華寺が出来る。(養源寺の前身) この年、池永家の由緒書あり。
1621元和7年辛酉安藤帯力に選定せしめた紀州国内の名家旧家の末裔に対して各切米(扶持米)60石を与えて在郷せしめる。60人者(60人地士)なり。井関村の地士宮崎勘兵衛はこの60人者であった、制度化して実施は8年より。) (郡内では10名。) (寺社、郷士改を行う。)
1622元和8年壬戌鹿ヶ瀬峠に、山本村より出張して茶屋を始めた者あり、もと鹿ヶ瀬家の従者であった。(以来3百余年続く)(この年荘を改め組とする。紀州藩内を67組に分けた。有田は5組とし、藤並、田殿は藤並組。湯浅、広は湯浅組。糸我以下4荘は宮崎組。外に石垣組、山保田組あり。主長を大庄屋という。)(4月17日、初めて和歌祭を行う。11月、駅馬駄賃を定めた。
1623元和9年癸亥栖原の栖原家上総国に新漁場を開く。(これよりさきすでに開拓された伝承あり、広、湯浅、栖原等の漁民による。) 元和年中、金屋村の旧家柏木喜右エ門店屋をつとめ後地士となる。
1624寛永元年甲子(元和1年2月1日改元)このころ広村の崎山次郎右エ門、浦づたいに漁をしつつ房総沿岸に到ったという。9月13日、法蔵寺10世長感娘(備後国法幢寺にて。) (この年2月ごろより「伊勢おどり」諸国に流行する、幕府禁止する。) 広八幡社拝殿棟ノ桁墨書に、寛永元甲子年7月2日再興云々とあり。
1625寛永2年乙丑8月10日広、覚円寺(今無し)へ親鸞聖人、蓮如上人の御影下付される、願主浄泉。 (11月2日、湯浅、本勝寺焼失する。) (関所伝馬の法度を出す。) 長崎県奈良尾町(広川町の姉妹町)水口下妙典無縁墓地内に広浦俗名長太郎の墓碑あり。
1626寛永3年丙寅もと松ノ下道場、天王にあったが(後の正覚寺)天正年中焼失したのをこの年再興した。6月、広八幡宮棟札あり。奈良尾町妙典墓地に広浦俗名和介、8月14日の墓あり。
1627寛永4年丁卯10月29日、明王院権大僧都阿闍梨快盛歿。(伊勢おかげ参り流行する。)
1628寛永5年戊辰(紀州大地震、この年もおかげ詣り行わる。)
1629寛永6年己巳(頼宣、7月21日、熊野へ湯治、8月9日帰城。) (この年踏絵の令を発す。)
1630寛永7年庚午8月、法蔵寺一空、金幡八流、御輿の懸物など広八幡社に寄附する。
8月15日、大風洪水、百姓に救米でる。(正月14日、須佐大社〈千田〉祭礼復興さる。)
1633寛永10年癸酉1月、河内の浪士永井利兵衛政好に山本村天王谷に35石8斗余の地をあたへ和田村とする。この年和田村に午頭天王社を勧請する。3月退廃している能仁寺に、薬師如来及開山像をまつる仮堂、2間4面茅葺を、名島村彦兵衛等が建立する。(5月5日、頼宣須佐神社に詣る。)(海外渡航及び海外よりの帰国を禁止。)
1634寛永11年甲戌正月、柳瀬石川家の由緒書あり。5月、池永治兵衛、広八幡社本殿にわにぐち寄進、経1尺5寸、銘文に八幡宮紀州在田郡広庄奉寄進池永治兵衛寛永11年甲戌5月吉日とある。6月、法蔵寺1空と弁財天院(八幡社別当仙光寺の1院、今なし)より観音堂へわにぐちを寄進する。このときともに寄進に応じた人、16名あり。(藩、難民救済のため「貸麦」の法を定める。)
(みかん藤こと宮原村藤兵衛海路江戸へみかん4百篭を初出荷する。) (武家諸法度―参勤交替を制度化する。)
1635寛永12年乙亥8月26日、百姓へ法度をわかち、検見、免定について大庄屋、庄屋の心得、旅宿、酒店などの規制をする。(11月、幕府寺社奉行をおく。)
1636寛永13年丙子6月10日、官許を得て、山本薬師堂境内においた天神社を乙田山の地に遷し新に神主をおき(乙田氏)光明寺の支配より離れる。このころ、広川口島之内及び入江松原の辺より、石をたたみ築造をする。 (江戸及び近江坂本で寛永通宝を鋳造。これから寛文期にかけて銅貨が大量につくられ貨幣流通が統一される。また銭貨の私鋳を禁止する。)
1637寛永14年丁丑3月1日、薬師院(八幡社別当仙光寺の1院)快算歿。18才より在住48年なり。10月、5人組制を定める。 (近隣の5戸を1組として犯罪、貸借、納税などほとんど日常生活一般にわたりお互に連帯責任を負わせた。)
10月、島原の乱おこる当地より鹿瀬氏出陣したという。
1638寛永15年戊寅能仁寺開山御影殊の外破損のため名島彦兵衛修復する。9月29日、明王院権大僧都快宏歿。(中野梅本氏の出なり。) (村高百石につき4斗種米として貸付ける、利米年3割である。)
1639寛永16年巳卯6月3日、広八幡社若宮上茸の棟札あり。(寛永通宝流通しはじめる。)
1640寛永17年庚辰紀州国内の牛の弊死多く百姓困窮する。大工新役(増株の分)運上銀8匁1分5厘を徴す。
1641寛永18年辛巳(2月13日、紀藩の憲法ともいうべき「御条目」42項目をふれ出す。)2月23日、西広村鳥羽家の先祖書あり。
春秋大いに飢える、大旱なり。米1石7、80匁となった。この年天王にあった松ノ下道場(正覚寺)を現在の地に移し本堂庫裡を建てる。(湯浅最勝寺改築する。)
1643寛永19年壬午去年の旱損により米高値1石銀90匁を越える。8月頼宣、広八幡社に内々陣の御戸帳3流、内陣御戸帳3流を寄附する。郡奉行各村を巡回、宗門改を行なうことを定めた。(本田畑へたばこ栽培を禁止。)
1643寛永20年癸未3月、幕府田畑永代売買禁令を出す。(検地帳に登録された百姓の田畑売買を禁じるもので、犯せば入牢追放没収の刑であった。しかし実際は公然と又は脱法的に売買は行なわれた。この禁令は明治5年まで生きていた。) 天王永井家の墓碑にこの3月の銘あり。寛永年間中、養源寺(善住院日泉上人の代という)画師大蔵尉のかいた大黒天に日蓮が讃したものを持っていたおかげで、海難をまぬがれ広浦に着いた九州の廻船者より、広浦の崎山国右衛門がこの画像を入手し之を当寺へ寄附したという。
この年浦組の制度が出来て、人員、船数、弓、槍 鉄砲などの数などをきめて沿海警備をすることになった、実際は運営不必要、幕末になって再編成された。
(「みかん方」をはじめてつくる。) この年3月、仙光寺の永代定申証文中に「みかん畑」とあり。わが広川町において、みかん記事の初見である。
1644寛永21年甲申(21年12月23日、正保と改元)1月薬師院実応歿。明王院護摩堂釜に「寛永21年2月吉日」の銘あり。
8月、諸士の祖先武功書を提出させる。 (この年キリシタン取締りのため全国的に宗旨改めを行ない、人別帳を提出さす。これは後にも度々行なわれ明治4年まで続けられた。) この年60人者地士の扶持をとりあげる。
1645正保2年乙西能仁寺薬師堂を名島彦兵衛が修繕する。 (3年9月、再興とも伝えらる。)山林保護のため6木(杉、松、欅、框、楠、桧)を留木とする。(60人者に土地を返納させる。士分の者はもとのままとする。)
1646正保3年丙戌(栖原の漁人銚子浦へ鰹漁に行く。)(11月、神託により須佐大社の秋祭りを明年より9月13日とする。) (今高制をはじめる。藩家臣に影響があったが百姓には直接影響無し。郡中3万4千722石3斗8升9合である。)
1647正保4年丁亥湯浅広の漁人、網代より鰹漁に銚子浦まで行く。 5月、安楽寺5代定善泉。
5月14日、大地震あり、(種貸利米を2割に減じる。)
1648慶安元年戊子(5年2月15日、改元)7月、広八幡社武内宮上葺の棟札あり。8月15日、広八幡社殺生禁制文書あり。(ヌカ、ワラを米高百石について1斗9升にかへて加徴することを定める。但し新田は免除。) (慶安年中関西醤油1升につき78文より百8文。関東方面では45匁より60文であったという。)
1649慶安2年己丑頼宣、広御殿で、日高小松原浪人作次の子源太郎当時4才を召して太鼓を打たせて物などを賜う。
(2月26日、幕府、検地条例、勧農条例である「諸国郷村へ被仰出」と題した全32ヵ条の触書を公布し農民に対する統制策を強化した(慶安御触書)。 (11月、親戚師弟の犯罪者を遁さぬようすること及び検約令などを布告する。)
1650慶安3年庚寅頼宣広八幡社に石燈篭2基を寄附する。銘に八幡宮紀伊国主寄献在田郡広庄慶安庚寅月日石膏之燈世伴光瑞とあり。李梅渓の筆という。能仁寺仮堂の脇に3間4面の庫裡を建てる。名島彦兵エ、日光月光12神将の破損を修繕する。前田本山八幡社を再興する。(おそらくは本殿を新築したか。)棟札銘に慶安3庚寅9月吉日良辰奉八幡宮御再興銀93匁鹿瀬六郎太夫、前田、河瀬、井関、殿それぞれ米5斗、本願人鹿瀬六郎太夫、社僧良順とあり。(伊勢「おかげまいり」流行する。)
1651慶安4年辛卯(このころ有田日高及び勢州川俣に各30人宛山家同心をおく。) (郷役米の制を定める。) (8月10日、由比正雪自殺慶安事件なり。)
1652承応元年壬辰(5年9月18日、改元) 12月2日、広八幡社へ金屋村の与一郎より御山寄進の証文あり。
1653承応2年癸巳この年青野五左衛門なる者紀州漁夫多数をつれて鰹、鯨漁のため銚子方面に行ったという。
6月6日、洪水あり。(11月湯浅に大火ありこのとき深専寺全焼。) (郷役米として百石につき1石3斗を徴集する、新田は免除。)
1654承応3年甲午和田の永井家火災、古記録、古証文等悉く焼失する。8月8日薬師院実海歿。承応年間、法師快円、明王院を再建中興する。
1655明暦元年乙未(4年4月13日、改元)3月3日より明王院護摩堂を建立、7月10日成る快円法師代。7月紀勢所々へ御制札御高札の立場は、郡内にては北湊村、清水村、市場村、井関村であった。(11月19日、和歌山城内より出火、侍屋敷60軒、町屋敷195軒焼失する。)
1656明暦2年丙申広八幡社、明暦2丙申卯月吉日若宮社上葺の棟札あり。
10月広村崎山治郎右エ門下総国銚子飯沼邑にいたり高神村外川を開き漁港を完成する。また「まかせ網」をはじめた。(木挽大鋸運上を定める、町新役は銀7匁5分、惣材木屋仲間抱えも7匁5分、口6郡在郷の者は5匁とする。)
(江戸送みかん組株10組5万篭段々に送る、問屋7軒あり。)
1657明暦3年丁酉(正月18日、江戸大火みかん問屋類焼仕切金滞納についてもめる。紀州侯の威光で仕切金の残金をとりたて万治元年解決する。振袖火事なり。)
1658万治元年戊戌(4年7月23日、改元) (笠松佐太夫、三田で保田紙を製造する。)8月3日、暴風雨洪水、有田川氾濫。(酒造制限を命じ半減、新規酒造は禁止。) 崎山次郎右衛門、今宮より外川に移する。
1659万治2年己亥もと広八幡社にあった大般若経429の跋文に「肥前国五島之堯舜房俊翁於能仁寺是書写者也、万治2年8月22日」とあり、広五島との関係を知る1資料とさる。10月、頼宣、広八幡社に大和守広信作太刀1口を寄附する。
キリシタン宗門惣改めを行う。(夏より伊勢おかげ詣り流行。)(須原屋茂兵衛、江戸の日本橋に書店を開く。)
1660万治3年庚子正月、頼宣「父母状」を領民にわかつ。正月、在々8才以上の総改をする。9月20日、近畿東海大風雨あり。この年8月、「浦組江組見事帳」出る。
1661寛文元年辛丑(4年4月25日、改元)河瀬地蔵寺に西国巡礼33度念仏供養碑あり。この年2月2日の銘あって、高野山円教法師建立とあり。崎山次郎右エ門外川浦に移住後波戸場を築き、本国より多くの漁夫をまねき漁業大繁昌。また夢告により西方寺を創建する。本年も宗門改郡奉行巡在して惣改を行う。宗門取締高札をかかげる。5月異国船条々をわかつ。山本庚申堂建立。広浦の波戸百余間、寛文年中に完成。この当時広村の戸数600余あり。7月22日、湯浅の田中清右エ門、明王院不動尊前に鏡1面を寄附する。11月、鹿瀬六郎太夫、頼宣より4町4方竹木諸役免許さる。
1662寛文2年壬寅5月1日、紀州大地震。この年鷹島にあった観音堂を広八幡社境内に移建す(3月京都方広寺の金銅の大仏、地震でこわれたため木像に替え、のちその銅で「文字銭」を鋳造する。7月16日、広八幡宮弁拝殿末社等国主命以重修葺之棟札あり(社記)。
1663寛文3年癸卯(湯浅深専寺本堂再建)(10月6日、湯浅大火、福蔵寺、真楽寺類焼)。(頼宣、有田郡巡視、郡奉行浅井次郎左エ門ら従う。) (12月6日、山城大和紀州地震。) 津木老賀八幡安楽寺蔵の庚申絵、30番神絵、16善神絵落箔甚しく藩主より白銀2枚をうけて修理する。(その後30番神、16善神の2幅は紛失。庚神絵は椎崎公門の家に伝へるという。)
1664寛文4年甲辰5月、頼宣広へ来る。23日、帰城。(6月12日、京都紀州新宮に強震あり。)
10月、彗星卯辰の方(東南)へ子刻(夜12時)に出現し巷説とりどりであった。
1665寛文5年乙巳正月、人別惣改なるも夫婦のみ印形をとりこの後は8才の者だけになる。南金屋蓮開寺の三界万霊塔に寛文5乙巳2月18日の銘あり。(木綿1反を2丈6尺と定めた。) (幕府分銅座を設けて後藤家の世襲とする。)諸宗寺院法度出る。
1666寛文6年丙午1月、堂ノ源太夫広八幡社へ大刀1口を寄附する。
4月より9月まで大ひでり五穀不登ききん。
7月、法蔵寺13世洪空、明秀上人略伝を書上ぐ。(この人寛文中退山行処を知らず。)(頼宣、長保寺を菩提寺と定める。)
1667寛文7年丁未(5月頼宣致職、光貞2代藩主となる。) (笠松佐太夫歿)本田畑の煙草栽培禁止
1668寛文8年戊申1月、広八幡社、薬師院、明王院へ、頼宣公より御弓2張、紺紙金泥大般若経73巻の箱、大般若経6百巻の箱を寄附する。
4月より8月に至る雨降らず旱魃飢民出る。
5月12日頼宣公来広。20日より網代へ御越、6月2日帰府。11月、広八幡社宝蔵の棟札、寛文8戊申箱月吉日大工六右衛門吉久とあり。 (幕府11月以降、京升を使用するよう布達。翌年全国的に統一さる。この1升枡は方4寸9分、深さ2寸7分で現在までも生きている。) (12月、頼宣、李梅渓に命じ湯浅顕国神社の扁額を書かせた。)
1669寛文9年乙酉5月23日、城内対面所で地士、大庄屋初の引見が行はれる。この年初代浜口儀兵衛生る。9月、広八幡社境内傍示文書あり(久野丹波守、安藤帯刀署名) (諸国困窮し伊勢おかげ詣流行この所諸候大家の施行多し。) (藩、借金断延令を出す。) 養源寺にこの年12月23日銘の墓碑あり。
1670寛文10年庚戌3月藩主より広八幡社に絵馬、金燈炉1対、翠簾3流を奉献する。(2月捨馬禁止、城米廻船条々など高札にかかげる。) 広八幡社境内山麓の墓地にこの年8月21日長円大徳不生位の墓碑あり。
1671寛文11年辛亥正月10日、頼宣(南龍公) 歿、享年70才、24日長保寺に葬る。8月、広八幡社鳥居再建国主の命による旨の棟札あり。11月、広八幡社観音堂修復、国主の命による棟札あり。鳥居と同様奉行は岡本五郎兵衛平重時、中瀬八郎左衛門平勝直、工頭、中村新平平久光、中村藤七平宗広の名あり。このころ明王院は権大僧都法印快円、薬師院は阿闍梨弘秀の代である。この年8月、覚円寺3代円智が寺を追われた。
1672寛文12年壬子2月、明王院快円愛染明王の御影を求む。7月、宇田の山伏不動院弁昌、湯浅満願寺跡に居住して、この寺を再興したという。11月28日、藩主日高郡へ鷹狩の途次、鹿瀬三十郎大雪を掻き除くなど種々奉仕する。ために附近4町4方竹木共諸役御免となる。
1673延宝元年癸丑(13年9月21日、改元)10月、銚子今宮村運上書写に、鰹船51艘広西ノ町又左エ門。8手網38帖、此船76艘惣左エ門と見える。この年「分地制限令」出さる。20石以下の名主、10石以下の百姓の土地分割相続を禁止。質入れや抵当名目で事実上土地をゆずり渡すのも違法。田畑の細分化を防止するこの令は形式上では明治初年まで存続した。)また作付制限令により本田畑で、たばこ、綿、なたねなどの栽培を禁止。
1674延宝2年甲寅(4月、6月、8月に畿内大雨洪水、8月16日大雨洪水有田川氾濫諸国ききん。)
7月、前田本山八幡社上葺弁に拝殿を新造。棟札銘に延宝甲寅7月吉日八幡宮上葺弁拝殿新造本願鹿瀬宗安、同六郎太夫、遷宮僧権大僧都法印明王院快円、大工藤原六右エ門吉久、社僧良賢とあり。
(この年より6年へかけて、気候不順米麦の稔りよろしからず。)
1675延宝3年乙卯1月、覚円寺に太子7高僧御影下付さる。初代の崎山次郎右衛門帰村する。65才。
この年凶作ききん米高値1石320匁、麦120匁、大豆130匁した。(伝馬駄賃を改定する。)
1676延宝4年丙辰5月8日、大雨洪水あり。(2代藩主光貞湯浅顕 国社参拝) 崎山治郎右衛門剃髪して教甫と称す。覚円寺にて念仏を修し上宮太子影像を寄附、また鐘楼を建立する。
1677延宝5年丁巳正月、在中百姓にお定書を読聞せる。養源寺釈迦涅槃絵にこの年2月26日願主修行院蓮純、蓮花院妙乗の銘あり。
10月、大風雨津波あり。
1678延宝6年戊午5月4日、安楽寺へ太子七高僧良如上人御影下付さる。8月、広八幡社上葺并に再興の棟札あり、広の町より、また中村地下中より修覆する。大工六右エ門吉久とあり。(9月より若山、日高米留。)
1679延宝7年巳未1月、薬師院宣職坊慶禄住職となる(在職39年間享保2年歿)5月12日、薬師院弘秀歿、39才より30年在住、年69才、殿村の人、
1680延宝8年庚申杉本氏である。広八幡境内山麓にこの年10月7日道慶信士霊位の幕碑あり。
1681天和元年辛酉(9年9月29日、改元)延宝9年8月津木老賀八幡社の神主氏子との間に争いごとおこる。椎崎吉太夫の名が見える。この年老賀八幡寺社改「書出」あり。また延宝年間に老賀八幡社馬場尻の空地へ安楽寺を再建したという。 (現存せず)
1682天和2年壬戌4月7日、唐尾道場に善照寺の寺号免許。5月毒薬にせ薬の取締、キリシタン訴人の高札をかかげる。 夏疫病流行する。(李梅渓歿す) )
1683天和3年癸亥(高値の衣類法度の触が出る。奢侈品輸入禁止。)
1684貞享元年甲子(4年2月21日、改元)3月21日、快円明王院へ高祖大師御影を納める。8月、福与兵エ、行器1対を八幡社に寄附する。9月、八幡社楼門の随身両体を彩色営繕する。(7月、和歌山、日高まで米留。) (検地改正、方6尺1分として歩300を1反として税率を定める。) この年間まで湯浅庄と広庄とで「広組」であった。後「湯浅組」と改称されたもようである。
1685貞享2年乙丑1月、広村板原彦太夫湯浅組大庄屋を辞す。
2月23日、流星とび音雷のごとし、亥刻(夜10時) 辰巳(東南)より乾(北西)へ光物とぶ。
7月25日、安楽寺6世善良歿。11月23日、山本光明寺薬師堂棟札の銘あり、棟梁大工九右エ門藤原吉久とあり。
(この年ごろ遠州灘で台風のため紀州漁船難破、多数の浦人網を流失、このうち広浦の漁人多く流死したとの伝へあり。(紀文台風の中を江戸へみかん輪送。) 広八幡社の来国光短刀に本阿(弥)の鑑定折紙あり。
1686貞享3年丙寅1月27日、明王院庫裡改築6月2日成る。3月18日、同じく護摩堂修覆、いずれも快円代。 6月26日、明王院権大僧都快詠歿、大和磯野の人なり。7月25日、広八幡社神楽殿棟札あり、竹中源助、大工広九右エ門の名あり。
1687貞享4年丁卯(1月、幕府生類あわれみ令を出す。この後この令を頻発する。) 4月津木中村、清兵エ、老賀八幡社へ馬場用地を寄附する。時の庄屋喜左エ門、肝煎太郎左エ門、また椎崎吉太夫の名も見える。
(9月9日、畿内大風洪水。) (北湊を経て江戸送りみかん10余万竜といわる、みかん方指定問屋制始まる。)
12月17日付古記録によるに、当時の村役人の名、広村庄屋甚兵エ、八郎左エ門、十三郎、吉兵エ、勘右エ門、宇田庄屋助太郎、名島庄屋彦右エ門、中村庄屋弥右エ門、金屋庄屋豊右エ門、中野庄屋伝四郎、井関仁左エ門、伝八、川瀬庄屋六郎兵エ、前田庄屋与太夫、鹿瀬伝九郎、山本庄屋善太夫、池上庄屋太右エ門、西広庄屋6左エ門、唐尾庄屋善兵エ、和田村惣七とある。キリシタン禁制法度出る。
1688元禄元年戊辰(5年9月30日改元)8月4日、初代崎山次郎右エ門源安久教甫歿、78才、銚子外川浦開発の人である。12月12日唐尾善照寺玄珍歿
1689元禄2年己巳(春伊勢遷宮、秋おかげ詣流行) (9月、伝馬駄賃1割増を定める)(たばこの運上銀を徴す。) 前田の八幡社石燈篭銘に「元禄2年巳8月14日奉献本山八幡宮御神前、前田、河瀬、鹿瀬惣中」とある。
1690元禄3年庚午天王、永井家の墓碑にこの年正月の銘あり。 3月、広八幡文書に見える庄屋名、広村庄右エ門、安太夫、勘右エ門、重五郎、宇田助左エ門、名島彦右エ門、中村孫右エ門、柳瀬次郎兵エ、殿村久左エ門、井関仁左エ門、釜屋豊左エ門、中野伝八、前田与太夫、大庄屋は橋本治右エ門であった。8月、広湊、鍛治与右エ門の子徳右エ門、広八幡社に指樽台共を寄進する。
8月14日、洪水あり。11月9日、津木老賀八幡社に妙見大菩薩上遷宮の棟札あり。社僧安楽寺阿闍梨快運の名見え、神無月(10月)25日西之時より初め霜月8日に成就した旨を記す。(この年「寺社総改」を行い寺社奉行宛報告する。)
1691元禄4年辛未11月、広八幡社鐘楼堂を修復する。このころ井関村衣川三右エ門「紀州ローソク」を製造する。
稲虫害甚し(イナゴの害)。「元禄4年寺社御改に付差上候控竹中源助」の文書あり。
1692元禄5年壬申(6月より8月へ高野山行人、学侶の紛争騒動おこる、有田郡地士も鎮圧のため橋本に出張した。)この時、鹿瀬家は清水久野原へ詰める。 12月5日、法蔵寺14世了運歿。この人藩主の帰依厚く、同寺の庫裡、書院などを再建する。
1693元禄6年癸酉3月広安楽寺本堂7間4面落慶する。8月2日、広八幡社の馬場を補修する、南北36間、横6尺。12月、在々地士所持の鉄砲、弓、槍の改めあり、高野山騒動にかんがみてなり。この年鹿瀬六郎太夫父子、長七様(4代頼職)にお目見え金子を拝領する。(この年田畑改をする。) 初代浜口儀兵衛25才にて関東に下る。
1694元禄7年甲戌2月14日、広八幡社鐘破損境内で鋳直しのこと寺社奉行に届出る。(この鐘は天正20年壬辰7月28日釜屋 〈南金屋〉で鋳たもので、これには銘あり。この年の2月10日に書写した記録あり。) 2月22日、鐘の改鋳成る、大工は若山広瀬善左エ門、庄兵エ。この鐘は無銘である。広三昧六地蔵にこの年4月24日の銘あり。閏5月、法蔵寺、広八幡社、寺社御改書付差出す。6月14日、覚円寺第6世専岡歿。
7月17日、大風雨洪水あり。前田本山八幡社本社上葺棟札銘に元禄7甲戌年8月5日八幡宮本社上葺大工藤原六右エ門、遷宮仙光寺明王院快円法印とあり。鹿瀬坂の道作りを9ヵ村承知の上定める。極月、鹿瀬家由緒書調あり。殿村正法寺宝物、寺地御改書付差出す。(この年寺社御改めあり。)
1695 元禄8年 乙亥 正月25日、新之助様(後の吉宗)広へ御成、法蔵寺へ入る。26日船にて日高へ御成29日帰城、御ひる鹿瀬六郎太夫私宅に入る、金2分いただく。 この年広八幡社湯浅勝楽寺の鐘楼を買受け境内に移建する。
7月21日夜、大風あり広八幡の大樹多数倒れる。8月、鹿瀬六郎太夫地士に仰付らる。
9月29日、8ツ時辰巳(南東)の空に彗星出現する。このころの庄屋は、山本村四郎左エ門 池ノ上延右エ門、西広小平次、唐尾善兵衛、大庄屋は橋本治右ェ門の名が見える。(金銀貨を改鋳する「元字金銀」。)
1696元禄9年丙子1月6日、覚円寺第5世南嶺歿。2月21日、第6世教円塩津より入寺36才。(2月米留解除)3月16日、仙光寺、薬師院再建上棟僧慶詠代。(8月、郡毎に山廻役2名をおく)9月20日、松崎道場本尊開山御影下付、安楽寺と公称する。11月4日、円光寺11代宗信歿12代円澄つぐ。 (宮原川舟渡賃を定める。常水の時2銭、中水3銭、大水の時は10銭)山焼お触出る。8才判は大庄屋が行なうことになった。
12月「大井井落し御証文」あり。金屋、中村、名島の田に引く水について上津木、下津木、井関、前田の井水切落しについて、大庄屋の指図に従うことを約束させた。(堀田八助、河島四郎太夫の名あり。)
1697元禄10年丁丑紀藩領内検地を行う、新田畑、かくし田を摘発する。慶長のそれに対して新検とよぶ。(酒を他国へ積出留、酒値段は、次7分、片白9分、諸白1匁。)
1698元禄11年戊寅(4月22日、光貞致職、綱教3代藩主となる。) 5月、広八幡社の御湯釜成る。6月、八幡文書にある庄屋名、広御兵エ、左右ェ門、宇田国右エ門、名島藤四郎、中村弥左エ門、柳瀬長作、殿村次太夫 井関次郎太夫、河瀬丹六、鹿瀬六郎太夫、金屋介右エ門、中野作七郎、山本仁兵衛、池上惣兵衛、西広半十郎、唐尾三郎太夫、和田惣七とあり大庄屋は橋本次郎右エ門。8月、広八幡社鳥居再建棟札銘に、国主之命修之社僧権大僧都快円、奉行山本藤四郎藤原正堅、村井左右エ門藤原勝晴、小奉行中村伊左エ門平忠久とあり。安藤采女田辺への途中、明王院に立寄る。このころ在田郡代官は藤新右エ門。
(この年江戸送みかん25万篭あり、この口銀1篭1分、近国廻り8厘を上納した。) (この年紀州一円牛疫癘流行、この地方でも被害あったもよう。)
1699元禄12年 己卯1月、明王院隆雄法印住職となる。(3月、人身売買禁止の高札出る)
(9月日、紀州一帯強震あり。) このころの庄屋名に、猿川長左衛門、同肝煎七郎兵衛、河瀬丹七、前田与太夫とあり。尚有田郡内の大庄屋は、宮原滝川喜太夫、湯浅橋本治右衛門、田殿川島亦十郎、石垣安井市兵衛、山保田笠松佐左衛門であった。 (この年紀州口6郡両熊野の百姓家数6万1千880戸であった。)
元禄13年庚辰 この年浜口知直下総国海上郡銚子荒野村にてヤマサ銚子店の開祖となり、初代儀兵衛を名のる。
3月26日より4月28日にいたり霖雨、作柄不良。4月3日、明王院1代権大僧都法印快円歿。6月、広八幡社楼門通肘木の墨書銘に、干時元禄13庚辰年林鐘中4日上棟広浜方氏子中社僧明王院本義薬師院源泉とあり(林鐘は陰暦6月) (7月19日、和歌山城下大火あり。) (11月、金銀両替規則を出し金1両を銀58匁と定める。) (寛永通宝が小型となり、荻原銭と俗称され悪銭となった。) 前田本山八幡社石燈篭に「元禄13年沓掛王子権現々」の銘あり。
(このころ、田村の伊達宗平、野生ビワを改良して、田村ビワの基をひらいたという。)
1701元禄14年辛巳(正月、地士改めり在田郡内にはこの時5名あり。) 3月、広安楽寺本堂落慶する。同年7月18日、批杷木徳左衛門、同与市郎施主となり半鐘を寄附する。山本光明寺に板碑に追刻されたこの年7月15日銘の三界万霊等あり。広安楽寺7世善教歿。
1702元禄15年壬午1月、三船池を堀る。3月附三船池の証文あり。この池のため三船谷の常水が止るので対策として、津兼池の「かさおき」をするについての証文。(正月、藩札発行、宝永4年まで通用した。 このころ広村の庄屋庄右衛門、与兵衛、勘右衛門、勘太夫、忠三郎、助右衛門、肝煎五兵衛、弥次兵衛、源次郎、伊右衛門、名島村庄屋藤四郎、十兵衛、中村庄屋源右衛門、同肝煎宇兵衛、同源八、金屋村庄屋助右衛門、同肝煎平十郎、井関村庄屋次郎太夫、同肝前与右衛門、同五郎大夫の名が見える。
1703元禄16年癸未 (7月26日、湯浅、真楽寺再建) 12月、地士所持の鉄砲改あり。このころの庄屋のうち唐尾村三郎太夫、肝入与左エ門。湯浅組大庄屋橋本治右エ門、有田代官田所平左エ門の名が見える。
(関東大震、戸川浦港破滅する、崎山治郎右エ門の孫これを再築する。)
1704宝永元年甲申17年3月13日、改元。4月18日夜5ツ(8時)光物東より乾の方(北西)へとぶ。5月12日、大風雨あり。(5月「百姓心得に関する覚書」出る。)
このころから次第に広浦より遠洋漁業に出る、また醤油醸造業が盛んになっていく。(崎山治郎右エ門教甫の17回忌にあたり邑人、小堂を建てその像をまつり開発の労を報ぜんとし、2年落慶、この時「外川由来記」1巻を草す。)
1705寛永2年乙酉(4月、伊勢おかげ詣流行する。) (5月14日、綱教歿〈高林院>3代藩主)6月、頼職4代藩主となるも9月8日歿〈深覚院〉。10月頼方〈後の吉宗>5代藩主となる。)(8月8日、光貞、2代藩主歿清渓院〉80才。)
藩、留木6木のうち有田郡内で松木伐採を許可する。(この年の伊勢おかげ詣り、全国で375万人と伝えらる。)
1706宝永3年丙戌8月上旬、スバル星につぎ東方に光強い星が出る。
11月11日、安楽寺の釣鐘が出来る。11月より15文以上の銀札通用する。(銀貨を改鋳「宝永2ツ宝丁銀、豆板銀をつくる。)
(この年より紀州で新田畑の検地がはじまる。畑は段1石4斗、上田1石8斗、下田1石2斗5升の年貢であった。)
1707宝永4年丁亥1月、吉宗養源寺の大黒天、日蓮の讃などを拝す(翌年実母の浄円院も拝すという)6月7日、広に疫病流行のため南ノ丁にあった「祇園」社を再興祭典を行った。 (7月、幕府各街道の運賃を2割より3割増加の高札をかかげる。)
この年9月の広家並判帳に戸数1、086戸とあり。(寛文年中より40年余で約4百軒が増えていた。)
10月4日午后1時ごろ大地震、駿河国より九州にまで及ぶ古来最大の地震といわれ、紀州は特に被害多く、広では地震より1時間後に高さ14、5メートルに及ぶ大津波が3度押寄せた。広村の人家大半流失、死者3百人に及び、天王大波戸もくずれる。広はこの時から疲弊の極に達した。広で流失家屋700軒、禿家150軒、土蔵70流失、20禿家、舟12艘流失、橋3ヵ所流失、貢納蔵流失のためお納米2石4斗4升、お納麦25石余流失、代官所流失など。西広村では流失49戸、大破3、和田村流失1戸、唐尾流失19戸、大破3戸、山本村大破1戸。広安楽寺覚円寺らこのとき流失。小字「寺村」地区は全滅し地形も1変する。
(11月23日、富士山噴火、山腹に宝永山出来る。) (10月19日、幕府全国の藩札の通用を禁止する。) 10月23日、日寛上人養源寺修営のため入寺、御殿など修築した。
1708宝永5年戊子閏1月、大地震津波あり、辰ヶ浜、北湊被害大。)
4月「宝永通宝」大銭を鋳て10文通用とする。9月21日養源寺に浄円院(吉宗生母)の折願文あり。
この年岩崎重次郎銚子に至りヤマサ醤油醸造をはじめる。去年の大津波に残った家数230余戸、其後漸次復旧して400戸余となった。
1709宝永6年己丑有田郡役所を湯浅村に設ける。大飢饉米諸色高値飢人多く、御救米下附。新銀不通説が流布し人心動揺する。
(湯浅呉服商久保瀬七醤油醸造をはじめ、大阪瀬戸内海方面に売りひろめる。(1月、将軍綱吉歿、64才、生類憐み令廃止さる。)
(7月4日畿内諸国大風洪水倒潰家屋多数。)
1710宝永7年庚寅4月、公儀巡視使伏見主殿以下57人来郡し村々より人足調達する。(金銀貨を吹替。)
1711正徳元年辛卯8年4月25日改元。1月、吉宗より南龍公の観魚亭跡である御殿の旧地を養源寺へ寄附、50間4方の地。鹿背山法華寺の名を長流山養源寺と改めた。 (5月18日、那智観音、若山へ出開帳百姓参拝するもの多し。) 8月10日、前田本山八幡社へ本尊3体を入れ御戸帳、机などを鹿瀬家より奉進した。
8月23日、大風雨、50年来の大風といわれ、潰家多し。(藩、農民の作間稼〈農閑期出稼〉の出国を禁止する。) (百姓心得条々ーキリシタン禁制、毒薬にせ薬禁止、火事用心、徒党強訴などの禁制―を出す。)
11月、宇田の人良有阿闍梨、高野山検校となる。11月28日、安楽寺8世専伝歿。この年間、広より関東行き、日向行の網方繁昌し、家数も600戸になったという。
1712正徳2年壬辰1月、養源寺の石垣地ならしなど普請する。またこの年より寺領9石余を受く。) 5月、藩主より広八幡社に打敷1枚を寄附する。
8月18日、大風雨洪水あり。(この年有田みかん江戸送り35万篭。組株26あった。) この年、五島奈良尾に西広新三郎の墓あり。
1713正徳3年癸巳1月、寛徳院〈吉宗室>御殿を養源寺に寄附、本堂、御成座敷その他諸堂宇を建てる。正月、中納言吉宗公、長福君、小次郎君、御武運長久願主浄円院の棟札あり。(正月米高値百15匁、銭相場も高し。)(奢侈禁止令出る)、 4月1日、1里塚36町打替のため鹿瀬峠の1里塚の松を植直す。
8月23日、暴風雨あり。9月、聖護院門跡御通過。 (藩に講堂を設け藩校の基を開く。)
1714正徳4年甲午1月養源寺境内土屏百余間を作る。8月8日、大風雨。9月16日、金剛峰寺276代検校法印大和尚位良有、広八幡社に白銀3貫目を奉納する。(この年凶作飢民多し、紀勢の帳尻総高21万3千百石余。) (吉宗庶政を革改、群臣に10年間節約を命じる。) (金貨を吹替へ慶長金の品位にもどす、又「寛永通宝」も改良する。) この年広橋本家法蔵寺へ大般若経を奉納する。
1715正徳5年乙未1月、吉宗母堂浄円院養源寺へ参拝。1月、円光寺12代円澄隠居、子円随13代住職となる。3月、飢民百姓へ貸麦拝借の措置をする。5月、無断で旅人の宿泊、夜間念仏廻りを禁止する。6月、23日、大風雨。9月、山本村庚申堂手水鉢に正徳5口9月の銘あり。
1716享保元年丙申(6年6月22日、改元)1月吉宗江戸に入る。養源寺に新田1町余を寄附する。(3月、浦組増補定書改定)4月、吉宗8代将軍となり、5月、宗直6代藩主となる。5月7日、良有(宇田の人、8才で湯浅満願寺弁昌法師の弟子となり、17才高野山に登り学侶方南院1代良意法師の弟子となる。後検校になった。)
秋ウンカ発生作柄不良。地士竹中助太郎、享保年中庄屋役をつとめる。(この年末紀勢強震あり) (幕府幣制の復古政策をつづけ金銀貨をつくる。)
1717享保2年丁酉2月、広村飯沼若太夫湯浅組大庄屋になる。7月10日、薬師院宜職坊慶詠歿、74才。 (在住39年間、殿村杉本氏弘秀の甥。)
蝗害により不作。5人組制創設さる。このころより寺小屋発展しはじめたもよう。
享保年間、醤油需要の増加と製法の改善とにより益々発展し早船で畿内の各所に運ばれたという。岩渕妙見社の棟札あり。享保2年 9月吉日、妙見大菩薩建立村中、日高郡南部気佐藤村大工藤原佳重五郎重太郎、社頭小原仁左衛門、神主長三郎庄屋小原武兵衛、肝煎彦兵衛とあり。8月朔日、寺杣椎崎吉太夫清平、老賀八幡社へ金幣を寄進する。このころ広村の庄屋五郎兵衛肝煎伝右エ門の名が見える。
1718享保3年戊戌5月より8月に至る大ひでり大凶作わが藩は吉宗の余沢で安泰であったとい8月、三宝院門跡当地通過。8月、三浦遠江守、水野対馬守の名で養源寺に殺生禁断の高札を建てる。柳瀬柳照寺地蔵台石に、この年の銘あり。
1719享保4年己亥6月、遊行上人鹿瀬通過、8月、梶取総持寺日高へ、23日法蔵寺へ入る。10月、藩主の命にて広八幡社鳥居改築する。(この年百姓の諸国往来についての規則を布告する)。長崎県奈良尾妙典無縁墓地に西広村新三郎組俗名助十郎の墓碑あり。
1730享保5年庚子5月7日、「乙田天神鳥羽之家法之事」なる宮座に関する文書あり。8月20日、円光寺13代円随歿、子円秋14代住職となる。10月15日、6代藩主宗直領内巡視熊野行きの途次、湯浅酒屋垣内太七郎方に止宿、このさい宮原及広にて大庄屋地士らを引見する。16日、鹿瀬通過。12月広八幡社並相殿末社藩主の命で修葺の棟札あり。12月13日、明王院法印権大僧都隆雄歿(快円の甥在住22年間)
1721享保6年辛丑(閏閏7月、有田川洪水)(紀伊藩、検地を行う。) (幕府全国の戸口田畝を調査する。)
この年、痘瘡流行、西広、唐尾方面 死者6名も出る。
1722享保7年壬寅4月1日、銚子店開祖初代浜口儀兵衛(知直)歿、法名は教西、54才。
1723享保8年癸卯2月、能仁寺境内三浦遠江守、水野大炊頭の名にて殺生禁断。正月、柳瀬石川家由緒書あり。同じく額田家由緒書 あり。(春おかげ詣り流行。) 9月9日、若山より日高間米留となる。大庄屋杖突ら御用出張の折の扶持方手形―旅費日当を改め定めた。このころ唐尾村庄屋藤九郎、肝煎仁左エ門、組頭平六、湯浅組大庄屋藤新左エ門、代官田所平左エ門の名が見える。(2月、相対死【つまり心中】の罰則を定めた。) 9月19日、山本光明寺住職善軒大徳歿。
1734享保9年甲辰閏4月、法蔵寺境内、三浦遠江守、水野大炊頭の名にて殺生禁断。寺の総門を建立する。16世懐龍代。5月より7月へ85日間ひでり。
1725享保10年乙巳正月、広八幡社常夜燈、池永伊兵衛奉納する。8月1日、覚円寺第6世教円歿。10月、岩渕観音寺、三輪、妙見神社の「書上」あり。12月吉旦、広八幡社拝殿左右に石灯篭2基、広村片山善右エ門、同じく栗山嘉右エ門寄進。山本村庚申堂石灯篭に為五穀成就の寄進の銘あり。この年、老賀八幡社の「書上」あり。奈良尾町庚申山無縁墓地にこの年8月24日紀州広紋十郎墓銘の1基あり。このころ唐尾村5人組頭由右エ門、西広村庄屋六右エ門、肝煎五郎太夫、有田代官片山吉兵衛、手代湯川善六の名が見える。(幕府良質の大判をつくり元禄大判を廃止する。)
(薬用人参、肉桂、甘蕉の栽培を在中へ奨励する。) 津木落合極楽寺墓地「6字名号碑」にこの年7月念仏講中、九三郎、善吉、清六、伝右エ門、善左エ門、源四郎、源兵衛などの名見える。
1736享保11年丙午(湯浅深専寺18世俊栄別所勝楽寺を再興する。) 5月5日、広八幡社神祇官領長卜部朝臣よりの神事参勤裁許状あり。この年、疱瘡流行す。
1737享保12年丁未1月23日、紀州大震。1月、山本村庚申堂官許を待て境内除地となる。4月、養源寺日寛浪華本長寺に転住。
(4月25日、有田川洪水堤防決壊7ヶ所)5月より風邪、痢病、麻疹流行する。
6月24日、円光寺14代円秋歿、弟円了15代住職となる。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年正月4日法、伝四郎の墓あり。
1728享保13年戊申1月、広八幡社石燈篭1基中野村金屋村より寄進する。1月、3代浜口吉右エ門(正勝)江戸小網町に出店する。(7月8日、有田川出水。)
1729享保14年己画この年法蔵寺後任のことにつきいきさつあり、維恵長老にきまる。
風邪痢病麻疹流行する。今年、大風4度吹く。 (8月26日、有田川大洪水山津波、流失76軒、死者百余人という。)
(4月、天一坊事件)9月21日、円光寺12代円澄歿、上中野法蔵寺石灯籠1対に「享保14歳次 6月25日、法蔵寺、広成川喜右エ門」とあり。
1730享保15年庚戌( (4月7月、両度有田川洪水、紀ノ川も洪水、田辺大風あり。) 夏8月より風邪痢病、冬麻疹大流行、死者多く出る。
(6月、銀札停止、物価騰貴、所謂銀札騒動起る。9月、銀札通用、このとき幕府藩札禁止令を解き、藩札発行を制度化する。)
1731享保16年辛亥1月吉宗御祈祷料として年々金66両を養源寺に寄進する。1月、大阪和泉屋清右エ門、広八幡社観音堂へ金燈篭1対を寄附する。9月6日橋本与太夫、片山文右エ門広八幡宮観音堂宝前の幡4流を寄附する。
1733享保17年壬子(閏5月霖雨、紀州領水入汐入損害2万6千石)県下イナゴ大群襲来31万余石の損害。作物凶作、漁業も不振、享保の飢饉、17年18年にかけて米価高騰飢人多数、県下で5千8百余人死亡する。(関西1円が大飢饉)米値130匁〜140匁であった。
7月、円光寺15代円了歿、円達16代をつぐ、日高郡野口村佐藤忠兵衛2男。
12月、雨降らず広八幡社雨乞。12月、米留御免。(7月銚子外川浦8手綱船印書上帳に、唐尾善兵衛、かろ弥兵エ、かろ市右エ門、池ノ上甚兵エ、北又市兵エ、いづ利兵エ、いづ利右エ門、いづ清兵エなどの名が見える。)
(紀藩歴代年表に、夏霖雨、国内諸川溢水家屋流失362戸、橋梁破損156ヶ所とあり。)
広八幡社に奉納の紺紙金泥心経の奥書きに享保17年の記あり。この頃の寺社奉行大島民右エ門の名が見える。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年5月7日、紀州広甚九良の墓あり。
1733享保18年癸丑1月、上津木太郎太夫の娘こな、孝行の故で褒賞をうける。(2月7日、栖原に18間の大鯨あがる。) 去年の凶作のため米価高値餓死者も出る。(6月8日、藩、幕命により藩札の通用停止運用面の失敗のためなり。領民困窮する。)
山本光明寺墓地内にこの年3月2日、奉納西国33ヵ所観世音菩薩、四国88ヶ所南無大師遍照金剛6親法界銘の墓あり。6月より秋にかけて疫病流行。広八幡社に奉納せる紺紙金泥大吉祥天名号経に享保18癸丑仲冬の記あり。この年、もと養源寺日寛上人、マンダラを書き日円に托し送り来るという。
1734享保19年甲寅広八幡社石燈篭にこの年7月の銘あり。このころ津木中村庄屋治右ェ門、猪谷庄屋新八、落合庄屋治兵エ、滝原庄屋藤兵衛、寺杣庄屋伴左エ門、猿川庄屋清七らの名見える。(紀国屋文左エ門江戸深川にて歿66才。4月24日。)
1735享保20年乙卯(7月13日畿内大風洪水) 7月24日、広三昧に石造弥陀3尊を安置。台石の「法界」の文字は広安楽寺玉龍の筆である。(10月、米価調節触れを出す) このころより津木中村西畑に長寿院なる修験者あり、老賀八幡の安楽寺に入り真言の修法などしたという。前田本山八幡社にこの年8月14日奉献の石燈篭銘あり。鹿瀬峠半町下道側にこの年10月15日銘の地蔵道標「是より紀三井寺7里」とあり。
1736元文元年丙辰21年4月28日、改元。(10月箕島田中善吉藩命により薩摩に甘庶苗を調達、またハゼ樹栽培を伝習する。) 前田本山八幡社舞台を建てる。2月、老賀八幡社改め「書出」差出す。同じく安楽寺由来覚書写しあり。これらに別当上松弥三郎国友、禰宜寺杣孫九郎、社下川端徳右エ門、寺杣庄屋椎崎吉太夫、滝原五右エ門、猿川清七、中村国右エ門、落合治兵エ、猪谷四郎太夫らの名あり。(熊野三山貸付業をはじめる。資金十万両、京阪へ出て富くじなどもした。)
1737元文2年丁巳(8月、有田川洪水。) (このころから甘藷栽培普及しだす。) (長崎県奈良尾町妙典無縁墓地にこの年11月17日、紀州広浦鎗庄三郎の墓あり。)
1738元文3年戊午9月25日、広八幡薬師院文職坊探奥、高野山延寿院にて歿。11月1日諸職人の賃銀を定め実施するよう郡奉行へ通達する。大工2匁1分、茅屋ワラ葺1匁7分。木挽1匁7分5厘但し樫の木挽きは3匁。石切1匁9分5厘、瓦屋根葺柿屋根葺1匁7分5厘、木挽(皮柳、桃)1匁2分、桶師左官1匁8分である。本山八幡本社上葺棟札に元文3戊午年霜月8日奉八幡宮本社上葺社僧直暁、野原別当、窪田大学、棟札筆者鹿瀬六良太夫とあり。このころ、寺社奉行、遠藤兵左エ門、寺村相右エ門郡奉行三宅藤右エ門。
(田中善吉の計画により各村にハゼの植付けをはじめる。
1739元文4年己未岩渕三輪明神社石段に元文4未3月吉日、神主井久保惣十良村氏子中の銘あり。(10月21日、異国船3隻熊野沖通過。) 12月25日、広安楽寺本堂鐘楼再建なる。
1740元文5年庚申(6月9日、畿内洪水、有田川出水)(木挽大鋸増株分に運上5分を徴す。)
1741寛保元年辛酉(正月11日、崎山次郎右エ門(教雲)歿。外川浦で網船 頭大納屋となり漁業に従事していた。)(6年2月27日改元)(11月、蝋専売の制を定める。) 井関稲荷社にこの年8月吉日銘の石灯篭2基あり、稲荷5社大明神とあり。
1742寛保2年壬戌(この年吉宗、大岡越前守らに命じ「公事方御定書」を定める。このうち刑訴法にあたる部分を特に「寛保律」という。主殺し2日さらし、引廻しのうえ、のこぎり引き、はりつけ。旧主に傷を負せても死罪。10両盗めば首がとんだ。罪と罰はすべて身分の上下で分類している。) (この年有田みかん凶作。)
1743寛保3年癸亥(4月6日、夜明ごろ「ひょう」降る、麦作皆無の村もあった。)
津木老賀八幡社入口、もと安楽寺跡に三界万霊碑あり、この年5月24日施主地蔵講中の銘あり。
(7月13日紀州産の白砂糖を将軍に献じた。本邦にてはじめてのことである。) 東町、源太夫道場この年教専寺の寺号を許される。長崎県奈良尾町妙典無縁墓地にこの年6月23日、広の人俗名林兵衛。広武右エ門網の墓あり。
1744延享元年甲子4年2月21日、改元)崎山半助良房広八幡社に石燈篭2基を寄進、銘に寛保4年甲子正月吉日とあり。 (3月15日、公儀巡見衆1行有田郡に入る。) (7月、古手行商人に鑑札を下附する。) 8月より銀札下落、1分で米4合ほど。
この年、旱害、虫害、稲くさりなど収穫皆無の所あり、御救米を願出る。12月17日、広八幡社、千田明神に雨乞仰付らる。広の1部で麦1町2反の内5反は未生だったという。12月10日、米留解除。
この年湯浅近海に津波あり。黒津常七 八幡社楼門入口左右に大石燈篭寄進、寛保4年甲子正月吉日銘。
1745延享2年乙丑(正月田中善吉、藩命によって海士、有田、日高3郡の荒廃地にハゼ樹栽培を奨励する。)
1月、広八幡社へ藩主より絵馬を奉納する。1月、安楽寺玉龍「幾難釣解」を著作自ら刻す。山本、光明寺墓地にこの年3月9日、廻国供養塔奥州松前志摩守内出生清八銘の碑あり。4月、在々へ倹約定書を読聞かせ、小前ども承知の印形をとられる。(6月8日、銀札停止。)
1746延享3年丙寅8月、広八幡社へ朝岡八左エ門代参する。8月24日、八幡薬師院専源坊清弁歿。慶詠の弟子で殿村の人。
今年ウンカ、サシムシ発生凶作。(有田郡田畠改3万6千627石余。)12月、殿様日高へ鷹狩、鹿瀬通過。(このころ湯浅組大庄屋橋本市郎右エ門)
1747延享4年丁卯(正月、田中善吉今年より口6郡在々打廻り仰付らる。) 7月旱ばつ雨乞祈願をするようお上より仰出さる。8月、広八幡社へ寺村清兵衛代参する。
1748ェ延元年戊辰(5年7月12日、改元)この年長崎県奈良尾町妙典無縁墓地に3基広の人の墓あり。8月広八幡社へ江戸屋半七、大刀1口を納める。
1749寛延2年己巳正月吉日、山本庚申堂に「庚申縁起」あり。神田浦より買求めたものである。8月広八幡社へ崎山猪之助大刀1口、広浦水主人中より長刀1振、塩崎善兵衛より長刀1口を納める。
1750ェ延3年庚午4月16日、河瀬王子権現尊像を修理する。(6月、直木六三右衛門有田郡奉行となる。) 前田本山八幡社の御輿を造る。銘に7月吉日大阪北御堂前浄覚町奉御輿作細工所船屋鳥居左兵衛とあり。
(みかん大豊作、江戸送41万篭余、郡中人気よろし。)
1751宝暦元年辛未4年11月27日、改元。 3月、鹿瀬伴蔵、六郎太夫跡地士相続仰付らる。
4月25日、夜7ツ大地震あり。 5月23日、養源寺日寛上人歿71才。6月20日、吉宗歿、66才(紀州5代藩主、後に8代将軍。) 今年ハシカ流行する。
(湯浅福蔵寺本堂再建。) (領内60人地士改。寺社改を行なう。) 乙田天神宮に石燈篭を寄附、山本村仁兵衛、寛延4未9月吉日とあり。(今広八幡天神社前にあり)
1752宝暦2年壬申広八幡社へ下総外川浦居住氏子中より大手洗水石を寄進する。銘に宝暦2壬申正月在下総州外川浦広氏子中講主崎山次郎右衛門源典生敬とあり。1月10日、鹿瀬六郎太夫歿。4月源寺鐘を作る。この年長崎県奈良尾町妙典無縁墓地に、紀州広甚兵衛組、紀州広浦鎚屋組が各自「一切聖霊為菩提」を建てる。(6月、中島武右衛門在田郡御代官となる。)6月15日、津木老賀八幡社へ銀御幣を岩渕次郎兵衛より、また御鉾大4本(9尺)小4本(4尺)を中村西畑伊勢講中古垣内安兵衛外7人、落合村中、猪谷村中、湯浅住谷輪権太郎宣義、寺杣若右衛門、岩崎善右衛門等が寄附する。
(2月、田中善吉、唐ハゼ在々植付見積表を作る。有田郡へは178、099本になっている。)
1753宝暦3年癸酉3月「郡奉行春廻りの節読聞かせる書付(御定書)を領つ。(内容は藩祖頼宣より以来の民政制度を集大成したもので38条あり) 3月1日、広村地士湯川主膳 藤之右衛門湯浅組大庄屋となる。広村へ大庄屋がめぐってきたのは、坂原彦太夫より69年目であるという。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年3月9日、紀州広俗名竹中左右衛門の自然石の墓あり。3月1日、湯川藤之右衛門、広八幡社へ大刀1口を寄進する。当時湯浅組大庄屋湯川藤之右衛門、庄屋弥左衛門、善兵衛、八兵衛、庄右衛門、肝煎太左衛門、源助、徳石衛門、代官中島武左衛門、手代西島七之右衛門であった。(6月、中島武左衛門腰物奉行に所替、高木五兵衛有田郡奉行となる。)10月17日、明王院、薬師院は従前より本寺無きところ、宗直(6代藩主)により勧修寺末寺となる。12月、広八幡石燈篭に宝暦3年西12月広田大四郎の名あり。(12月、田中善吉、有田郡山廻り役仰付、2人扶持下さる。) この頃唐尾村庄屋太八、肝煎儀八、河瀬庄屋嘉七の名見ゆ 。
1754宝暦4年甲戌1月、広村浜町中程にあった神宮寺はもと那賀郡畑毛村金子社の別当寺であったのを能仁寺弟子法入がこの年ここへ移したものと伝えらる。正月、津木広源寺火災焼失する(権蔵山にて)(4月、有田代官直木六右衛門白子代官に所替、後藤角兵衛郡奉行となる。)
(7月17日、有田川洪水)7月23日、外川浦網方商人御宗門改印形帳に、唐尾市右衛門件甚助弟治兵衛甚六、唐尾善兵衛忠五郎、唐尾弥兵衛藤七、庄三郎、唐尾治右衛門、伯父庄五郎の名が見える。8月、広村水主人数御改並に網数御改めに、水主人数361人。本役81人、歩役125人、無役119人、網数36帖。関東マカセ網6帖。 西国行8手網1帖。地引小綱などとあり。7月、鹿瀬伴蔵歿。8月、同人伯父右衛門地士相続庄屋役をつく。
1755宝暦5年乙亥9月、浜口吉右エ門、同儀兵衛、河瀬観音堂へ戸帳を寄附する。9月20日法蔵寺19世禅空素聞上人歿。和田村永井惣七の子である。
(この年みかん大凶作人気悪し。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年5月7日紀州広浦住前本彦太郎の墓あり。
1756宝暦6年丙子3月吉日、津木中村半右エ門66部供養塔を湯浅深専寺に建てた。8月、寺杣金七老賀八幡社へ刀(1尺5寸)を寄進した。8月29日、広安楽寺9世玉龍歿。(8月、郡奉行長野弥左エ門娘。)
9月16日、大風洪水あり。この年5月12日、井関白井原薬師鉦に三界万霊見空達道代の銘あり。 (有田郡田畑高改3万6千6百18石余、郷役米替銀86匁3分。)
(この年ごろ本郡ではじめて蝋を製造した。南村新七燈油メ取のすき間に蝋メを願い出た。) (このころ湯浅組大庄屋湯川藤之右エ門。
1757宝暦7年丁丑(正月11日、西端六右エ門有田郡奉行となる。) 広村崎山徳太夫大刀1口を明王院不動明王前に納める。津木村極楽寺に「餓死会」の碑あり、宝暦75年2月15日の銘。3月栖原北村半平源茂勝、来国光の短刀を広八幡社に納める。(7月2日6代藩主宗直歿76才。宗将、7代藩主となる。)8月、鹿瀬六郎太夫(大蔵)郡中地士総代を勤める。
(9月5日、大風雨有田川洪水。) 9月17聖護院宮御通り。12月2日、覚円寺7世瑞岩歿。(12月6日、高野五左エ門有田郡奉行となる。)津木村藤滝に「大乗妙典誦満供養碑」あり。3月17日の銘あり。(10月、藩主宗将、日蓮宗を制禁する。)
1758宝暦8年戊寅(3月19日加納吉兵衛在田郡御代官となる。) 2月ごろより上津木、下津木(上郷といった)と、下郷の16ヵ村との間に(即ち広庄全体)山草刈り(肥草や柴)について争論が起り村役人農民ともに話し合う、やっと翌年4月に入り解決した。
(6月22日、徳本上人日高郡志賀村に生る。) 8月、崎山半助良房広八幡社へ法華経1字1石塔を建てる。11月1日、藩主初国入りで、地士帯刀人等城内で御目見えする。11月、藩主より広八幡社へ絵馬奉納。(11月、西端六三右エ門 熊野へ所替。) この年鹿瀬六郎太夫、津木谷山繩取扱御用、翌卯年御用済。このころの庄屋肝煎は、広村庄屋太七、大右エ門、肝煎長兵衛、源之右エ門、利兵衛。宇田庄屋助左エ門、肝煎五右エ門。名島村庄屋十兵衛、中村庄屋新右エ門。肝煎平右エ門、柳瀬村肝煎六郎左エ門。殿村肝煎弥兵衛、井関前田村庄屋藤右エ門、井関肝煎与右エ門、前田肝煎四郎太夫。河瀬村肝煎市右エ門、金屋村庄屋助左エ門、肝煎勘兵衛。山本村肝煎伝7池ノ上庄屋十三郎、西広村肝煎甚兵衛、唐尾村肝煎儀8、上津木村庄屋次郎太夫、肝煎長次郎、下津木村庄屋善吉、肝煎金六、太右エ門。郡奉行は加納吉兵衛、高野五左エ門らであった。
1759宝暦9年己卯(この春の作柄、麦7、8分、菜種6、7分、蚕豆5、6分、茶芽出5、6分、みかん雄年であった。)
8月広八幡社に伝わる36歌仙の古画像あり、破損や紛失のものもあったので広村岩崎藤助武矩が修補して奉納する。(8月、服部八郎右エ門、長野九左エ門在田郡奉行となる。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年10月28日の紀州在田郡広浦久徳門重往永行年71才の銘ある墓あり。11月、在田郡5組の大庄屋から神社調書付を差出す。広庄の分は、広9社(含和田)南広26社、津木24社について報告している。(湯浅組大庄屋湯川藤之右エ門) (在田郡人別総数52、636人、内男19、921人、女22、715人。高42、574石1斗1升6合であった。) (米留になる。)
この年麦作は5、60年の大豊作であった。8月中村庄屋新右エ門病死、作新助庄屋役申付らる(9月14日。)
1760宝暦10年庚辰池ノ上法専寺什物唐銅隻盤鉦の銘に宝暦10庚申年3月旦徒中とあり。6月7日、遊行上人鹿瀬峠通過熊野へ。9月、実参性詣(浜口吉右エ門)「夜暁鳥」2巻を著す。8月15日、広八幡社へ朝岡荻右ェ門藩主の代参をする。この年広村地士湯川藤之右ェ門、郡奉行高野五左エ門、加納吉兵衛宛に、浦組御用のときは家来5人を引連れ弓2張、鉄砲3挺をもって御用に相立つ旨申出る。
1761宝暦11年辛巳1月、広村橋本小四郎地士に仰せ付けらる。2月、湯浅村斯波吉右エ門広八幡社へ国定の大刀1口を寄附する。
6月12日、将軍家重歿し喪中により広祭りにスモウ、シシマイ、モチナゲ等を禁じられる。
6月20日、山本村光明寺住職霊秀西堂歿。8月15日、広八幡社石燈篭2基の銘に宝暦11辛巳年江戸1軸中片山元筑とあり。8月28日、法蔵寺18世天空法道上人日高郡原谷光明寺にて歿。
8月中 西広地区に赤痢流行する。9月朔日、広八幡祭礼代参、畔柳甚在エ門。9月7日薬師院竜海坊智芳歿、延享のころより在住していた。(9月3日、加納吉兵衛日高郡へ所替、田所平右エ門在田郡奉行となる。)12月25日、津木八幡社の社僧隆仙坊慈雲薬師院に入る、山保田沼村岡氏である。 湯浅浦(田、栖原、広、湯浅)の水主米前納難渋のため未納につきこの年までの分は当分据置のことを願い出る。
この年、井関村の人火を失し北原山材木等を焼く。 広村橋本小四郎地士になる。
1762宝暦12年壬午(2月、寺院へ田畑寄附、寺を他地へ引き又は本寺離不相成と公儀より御触。)井関円光寺手洗鉢に、月待講中、井関村講親久兵衛、この年6月の銘あり。6月、湯川藤之右ェ門奉行直支配仰付らる。
(7月24日、禁裡〈桃園天皇〉崩。鳴物音曲等禁止の触が出る。) 9月吉日、広八幡社へ石燈籠1柱を、広日参講中より寄進する。10月浜口吉右エ門正勝地士に仰付らる。12月、3代浜口儀兵衛地士仰付らる。12月地士、60人、大庄屋に対して所持の鉄砲取扱いについて心得出る。(湯浅村垣内太7名字帯刀、同村庄屋(大庄屋格)池永徳左エ門地士に被付らる(13年のこととも)。 このころ広村の高は1394石3斗6升4合であった。 (有田郡人別総数改5万5296人あり、8才以上)(日高道成寺3重塔再建、同藤井村で銅鐸出土)奈良尾町妙典無縁墓地内にこの年、3月、10月銘広の人の自然石の墓2基あり。
1763宝暦13年癸未1月、広八幡社へ広村より永盛、行光の大刀2口を寄進する。3月、吉日、広八幡社鳥居両側に大石燈篭2柱を寄進、竹中半七定当、梅本利右衛門昌休再拝の銘あり。6月17日、明王院法印権大僧都聖仙歿、牟婁郡富田村の人である。
(9月3日、畿内大風雨、有田川洪水、沿海難破船多数)(藩主44才、その前後の厄年無事とのことで広八幡社に御礼参拝代参芝田理久右衛門来る。)
1764明和元年甲申14年6月2日、改元。(正月25日、百姓がみだりに、脇指をさすのを禁じる。) このころの庄屋名、中野村次助、広村市右衛門、利兵衛、仁兵衛、甚七、助太郎、中村新助、柳瀬村孫左衛門、名島村善兵衛、殿村藤助、金屋村助左衛門の名見ゆ。4月29日、浜口恒太郎、梅野利右衛門江戸にて地士仰付けらる。(4月郡奉行高野五郎右衛門田丸へ所替、5月宇野善右衛門郡奉行となる。)6月、浜口由右衛門地士に仰付らる。
8月1日、暴風雨あり被害出る。6月、前田本山八幡社修復する。
8月20日、法蔵寺17世恵長丹波誓願寺にて歿。8月21日、円光寺16代円達歿。日高郡野口村佐藤氏の出である。10月、分銅改め郡内宮原村新町で検査を受けた。12月9日、湯川藤三右衛門主膳歿。子、直敬、父の跡をつぎ大庄屋となる。このころになってハゼ実村々に相当生産されるようになる。実の取り賃1日米1升であった。
1765明和2年乙酉1月、広八幡高良社上葺。(2月25日、7代宗将歿、46才。3月29日、重倫8代藩主となる。)
(7月31日、畿内大風雨、8月2日、また大風雨、有田川洪水人畜被害多く田殿村以西殊に甚し。)
12月8日、広八幡社拝殿改修瓦葺となる。同舞台改修、大工伊沼六右衛門、藤原久吉、社僧明王院権大僧都法印本宣代。
1766明和3年丙戌1月、水主米上納減額を願い出る。(3月、有田郡人別総改5万5千6百71人、内男3万1千4百55人。) 4月8日、前田本山八幡社の鏡を鋳る。5月、円光寺17代達賢歿。
6月より8月へ旱魃あり、西日本一帯であった。飲料水にもこと欠く所もあった。
(6月、田所平右衛門名草郡へ所替、津田軍右衛門有田郡奉行になる。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年8月の紀州広、武右衛門組彦七の墓あり。12月25日、広八幡社住吉祇園相殿の棟札あり、広村地士湯川藤之右衛門源直敏、大工伊沼六右衛門、藤原久吉、伊沼文吉、藤原吉為の銘あり。この年広八幡社に「神職裁可書」あり。この年極月ごくげつ【12月】、椎崎吉太夫清平の書いた「老賀八幡縁起」あり。
1767明和4年丁亥1月、中野村庄屋源七、肝煎九右衛門の名が見える。7月、広村橋本忠次郎直支配5人扶持となる。
(7月12日、本郡大水害有田川堤12ヵ所きれる。)
8月、広八幡社熊野権現上葺棟札、中野村西川治助、大工伊沼六右衛門久吉の銘あり。9月、広八幡文書「八幡宮諸事書上控」あり、薬師院慈雲の書である。(田中善吉歿、3月地士となり10月2日歿、74才) 12月、広八幡社熱田大神浜宮相殿、広村浜口吉右衛門、大工伊沼六右衛門藤原久吉の棟札銘あり。この年3月津木村椎崎吉太夫地士となる。柳瀬、柳照寺にこの年正月吉日銘の青面金剛童子碑あり
1768明和5年戊子この年正月、猿川不動堂石像銘あり。
(5月7日畿内洪水あり、7月21日、又洪水あり。) 7月17日、法蔵寺20世聞了歿。
7月28日、火光天に満ち諸人怪しみ見る。酉刻より卯刻に至って止む(1晩中)。 夏大ひでり。(このころ銚子大不漁つづき外川浦の漁場全くさびれる。)「6月、広村60人者吉田喜右衛門跡目相続する。
1769明和6年己丑1月、広円光寺18代智瑞住職となる。(本脇法専寺義龍の子) (5日より伊勢おかげ参り流行、3年間ほどつづく。) 11月、湯川藤之右衛門大庄屋役御免、跡役北村久次郎なる。柳瀬石川家本宅の棟札あり8月3日の銘。(このころ藩士で重倫の手刃に死するものしきりなり。) (農民の徒党を禁じる。)
1770明和7年庚寅4月20日、日高郡園にこぶち騒動おこる。) (3月、在々御仕置の儀郡奉行代官へ諭達する。)
夏百日のひでり、秋作凶。痘瘡、赤痢流行する。柳瀬村石川家の門の棟札に3月の銘あり。
1771明和8年辛卯1月鹿瀬六郎太夫、前田村庄屋兼帯を仰付らる。1月、「広村是」により売家引越しを禁じた。
夏80日の旱のあと、7月23日、大雨洪水となる。殿、気鎮社の石燈篭に御神燈、毛知大明神、明和8年辛卯8月村中の銘あり。この年伊勢おかげ参いり全国的に流行する。
1772安永元年壬辰9月11月16日、改元。3月 (明和9年)悪疫痘瘡流行する。(9月、南鐐2朱銀吹立発行する。) この年、米麦高値、秋米160匁、麦100匁に及ぶ。(幕府の布告に、酒、醤油、酢の営業をなすものは小前といえども冥加金を上納することを命ずる。) 8月2日、大風あり。
1773安永2年癸巳津木老賀八幡社の手洗鉢にこの年2月吉日願主落合日参講中の銘あり。8月15日、湯浅上西伊右衛門、広八幡社に信国の太刀1口を納む、刀身に八幡大菩薩と彫る。11月、湯浅組大庄屋宮井六郎右衛門、当時唐尾村庄屋善八、肝煎長右衛門、地方手代小島宇左衛門の名が見える。4月、鹿瀬大指出帳認む。
1774安永3年甲午正月、鹿瀬六郎太夫、前田村庄屋役兼帯御免。1月、井関村霊泉寺白井山宝厳院号を許さる。井関稲荷山境内に霊泉寺を再建、稲荷社僧となる。真言宗勧修寺末となる。
5月、崎山次郎右衛門、下総外川浦を引払い帰国する。宝暦5年より明和5年ごろまで13年間皆無の大不漁つづき、50余帖の網元2、3人となり、商人も6、7戸となってしまった。当時の次郎右衛門は3、4代目と推定さる。初代より約120年を経ている。
(6月23日、大風雨、有田川洪水)
8月、9月両度藩主重倫有田郡に来る。9月26日、日高郡より由良坂越えにて西広村法昌寺に小休止の後、広村橋本忠次郎宅に止宿した。このころ広村庄屋市右衛門、嘉右衛門、甚七、助五郎、肝煎長兵衛、庄右衛門、吉右衛門、平右衛門らの名が見える。柳瀬石川家の蔵に棟札あり、9月2日の銘あり。(湯浅組大庄屋宮井六郎兵衛、在田地方手代小嶋宇左衛門らの名が見える。この年9月、鹿瀬峠茶屋由緒書を提出する。茶屋三十良、同林三良、鹿瀬庄屋松八太より大庄屋宛。この年4月、井関霊泉寺玄性、井関稲荷社及霊泉寺の縁起を書上。このころ井関村庄屋藤兵衛、同肝煎儀平の名が見える。
1775安永4年乙未2月3日、重倫(大殿様)致職。治貞、9代藩主となる。) 奈良尾町庚申山無縁墓地にこの年3月20日紀州広浦五島屋長兵衛一又行蔵47才、戸田長兵衛銘の墓あり。8月9日、広安楽寺堅亮、京都学林にて十不二門指要鈔を講義する25才なり。 (9月、津田軍左衛門口熊野へ所替、南条和田右衛門郡奉行となる。) 12月、前田本山八幡神宮寺へ、小原福徳寺の法海坊移り来る。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年8月15日、紀州広浦、俗名若七銘の墓あり。この年から翌年へかけて広八幡社宝殿若宮高良社などの修理営繕をする。春藩主より材木百本の寄進をうけ、また郡中歓化して成就した。棟札に6月23日雪始、同5年6月12日棟上、遷宮8月9日の記あるもの、同じく5年8月9日浄棟遷宮の記あるもの、12月13日始、5年3月15日成就の記あるもの計3枚あり。また5年のものは8月9日八幡宮再建浄棟遷宮の記あるもの、同8月9日若宮修造の記あるもの、同8月9日若宮上棟遷宮御祓の記あるもの計4枚あり。この時の普請世話人湯川藤之右衛門源直敬、ほかに西川治助、甚左衛門、栗山嘉衛門、竹中吉右衛門、斯波五平次、窪田十次郎、片山用助、栗原長兵衛、柏木文左衛門、林多一、片山甚七、佐藤平右衛門、池永惣右衛門、石川彦四郎、竹中助太郎、岩崎武右衛門、名島善兵衛、堀川儀衛門、中村市兵衛、椎崎吉兵衛らの名が見える、いずれも氏下であり当時の村役人であったもの。この年津木落合金比羅小祠の麓、堂庭橋畔の、青面金剛童子石像に、12月庚申講中の銘あり。
1776安永5年丙申(2月湯浅最勝寺を再建する。) 4月7日、藩主治貞衣奈通り、日高へ行き帰途鹿瀬峠を越え、峠林三郎宅にて休み、帰城する。6月4日、遊行上人鹿瀬峠通過能野へ。8月、前田本山八幡社舞台を再建する。8月、明王院大法印慈昌秀仙歿。
この年麦大凶作。ハシカ大流行。8月21日、大風雨。広八幡社修理造営の際、池永家先祖が寄進したワニぐち(寛永11年銘)の破損個所を修理して、その裏へ従池永治兵衛5代後胤金屋村同姓新助為後代銘之干時安永5丙申歳6月吉日と追刻する。
1777安永6年丁画(5月、農民耕作を廃して奴僕になるを禁じる。)
1778安永7年戊戌6月、広八幡社舞台を瓦葺にする。毎年神事之節此舞台にて田楽踊という神踊あり、中野村より勤む(社記に始めて記載あり。) 奈良尾町砂典無縁墓地に2基、広人の墓あり、その1基に一又紀州広浦五島屋園田長兵衛摘子俗名与兵衛行年29歳の銘あり。8月初秋、南紀在田郡広庄八幡宮記録乾坤2冊成る。広、湯川直敏編著なり。 (9月小浦惣内、大畑喜八郎在田郡奉行になる。12月、広村木下三郎兵衛、広八幡観音堂に3具足を寄進する。
今年米麦共に凶作米高値難渋者多し。
1779安永8年己亥1月2日、明王院権大僧都法印慧雲歿、
7月23日、大風雨洪水あり。9月26日、雪降る。10月2日、桜島噴火この辺り灰降る。12月、飯沼若太夫、48才、広浜方庄屋役になる。
1780安永9年庚子1月21日より24日大殿様(8代重倫)室河越で日高へ御鷹野、津木椎崎吉太夫宅へお入御休み。
春より諸国困窮、3月、倹約令出る。米160匁、麦100匁。3月13日、夜南原山つかた谷より出火する。下総外川浦へ行っていた綱は残らず休み、広より出漁の漁民は働きも出来ず、帰国も出来ず流落する者あり。
6月21日、広村木下三郎兵衛、かって外祖父岩崎若右衛門が宝永4年高浪之節拾い上げた観音像を、この時京都東寺にて開眼供養して、広八幡社観音堂に納める。厨子入1尺3寸、京都大仏師北川運長作という。 この頃、前田村庄屋利兵衛、河瀬庄屋六良兵衛、鹿瀬伝次良、井関庄屋喜兵衛、殿村庄屋藤兵衛、金屋庄屋助十郎らの名見える。郡内大庄屋橋本治右衛門、上野山十太夫、川島又十郎、神保市右衛門、前島九左衛門であった。
1781天明元年辛丑(10年4月2日、改元) (2月22日、郡奉行南条和田右衛門御役御免)奈良尾町妙典無縁墓地に天明年間広浦人の墓15基あり。和田(天王)石堤の復旧工事を起企する。3月2日、河瀬地蔵寺本堂供養2夜3日間行なう。(9月、小沢彦右衛門初めて有田郡胡乱者うろんもの改助役申付らる。7月21日、大風雨あり。
1782天明2年壬寅1月、広八幡社拝殿瓦葺になる。棟の西側鬼瓦銘に、中野村寺嶋儀七作、側面に天明2、3月とある。3月、鹿瀬観音堂御屋根替をする。6月25日、薬師院隆仙坊慈雲歿。宝暦11年12月25日、津木老賀八幡より入院した。山保田沼村岡氏の出である。
7月9日、18日、大雨あり。8月、名草郡幡川の人、玄教光遍薬師院に入る。
この夏、霖雨、7月9日の大雨を初め出水すること13度、大風7度もあり凶作。
(8月戸田孫左衛門有田郡奉行になる。代官富田元七日高郡へ所替、跡役前田市右衛門。) 秋9月、広南市場大神社(おいせさん)社殿再建、子丑の方へ向ける。時の執事堤左衛門佐とあり。(11月、このころの村役人、湯浅組大庄屋宮井六郎兵衛、津守小右衛門、庄屋与右衛門、文三郎、小三郎、弥太夫、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代坂部角四郎の名が見える。)
以前より関東方面漁業不振、この年11月より12月にかけて関東網は全くつぶれた。
1783天明3年癸卯春より難渋者続出、米価暴騰する。6月6日9ッ時、虚空鳴動地震ではなく浅間山噴火の影響か。
8月、広八幡社神輿を五島及広の綱6張より修復する。楼門の随身両体修理彩色、宝鏡神輿を磨く、湯川小兵衛4神鏡を寄進する。 9月、浜口性詣著の「夜暁鳥」に朴庵の序、景海の跋をつけて出る。10月、雁仁右衛門、往古より銚子にて殼屋商なりしをやめ帰国する。その後また銚子に行き醤油袋を商う。11月、大殿様(重倫)日高小松原より鹿瀬に止宿する。12月、安楽寺堅亮住職となる。
この年天下飢饉の様相深刻となる、郡内の村々で救済願を出す、餓死者も出た、米価120。
1784天明4年甲辰(飢饉年。米諸色暴騰難民多し、有田郡へお救下げ銀67枚。湯浅組へは1〆336匁でる。) (正月3日、盗賊1人湯浅北川にて斬罪になる。) (4月、戸田孫右衛門所替、跡、高井儀八郎有田郡奉行となる。) (4月、お下げ銀と頭百姓醸出の救合銀とで弱百姓に粥をくばる。)
(5月より8月までひでり、春秋ともに凶作。米価ますます高値、このころ諸色物価米200匁、麦170匁、酒3、5匁、小豆190匁、油9、2匁。) 6月、浜口恒太郎願により地士御免。6月疫病流行、藩より救治療法を村々にわかつ。清信院(宗将妾)より御救いとて6郡へ金子百両を下げる。1ヵ村3匁5分あたりになった。11月14日、鹿瀬松八太地士相続許され六良太夫を襲名する。
1785天明5年乙巳春人気小康、3月米価62、2匁となる。5月より8月ひでり、郡内各社雨乞祈願。広八幡社へは群参する。このころ湯浅組大庄屋飯沼五左衛門6月仰付、56才。庄屋文三郎、半六、孫太夫、弥兵衛、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代林甚左衛門らの名見ゆ。8月7日、広安楽寺10世映宗歿80才。
秋霖雨、大凶作、人々またまた難渋する。柳瀬村額田家に、この年3月銘の棟札あり。(有田郡田畑改、3万6千598石2斗余。)
1786天明6年丙午飢饉年。この年凶作、寒中暴風霖雨、大水8度百姓難渋、秋作5分、みかん大不作、春霖雨、7月大風大雨しきり、米高値。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年6月14日広山本の人の墓あり。閏10月、順礼や行路病死人などについては村送りの取扱いについての定が出された。特に鹿瀬峠の関係で、河瀬、井関、日高郡原谷などの諸村で費用分担など取きめる。12月広八幡観音堂へ磐1具を寄進する。施主木下三郎兵衛。(この年田辺にてこぶち騒動あり。) 名島妙見講の書類箱にこの年の銘あり。
1787天明7年丁未4月11日より雨降り10日間止むことなし、田畑の麦悉くくさる。7月、広浦船頭新六、積米について不正事件をおこし米8石余を紛失する。
9月3日、明王院権大僧都法印光遍歿(昨6年1月薬師院より移ったもの)。11月、鹿瀬観音堂組障子を野間武平次寄進する。12月、権大僧都法印明遍明王院に入る、また覚賢薬師院に入る。大和五条の人川合氏。
この年また大飢饉、夏中米価180匁より200匁、麦150匁、米の小買4合5勺に制限。天明4年以来の凶荒。藩では米庫を開いて救助。夏洪水13度、有田川堤大切れ、村々へ空俵の供出を割当てる。また全国的に疫癘大流行死者多く出る。 紀州藩家中6ヶ年間半知を命じる。幕府倹約令を出す。) (5月13、4日両夜、和歌山で18軒ばかりがこぶち騒動をうける。) 井関円光寺手洗鉢にこの年正月吉日、当邑善九郎の銘あり。
1788天明8年戊申2月23日大殿様(重倫)鹿瀬越え日高へ、鹿瀬家で休憩、峠まで見送る。3月広村紺屋金兵衛入牢。10月25日病死する。
4月11日酉下刻 (午后7時前ごろ) 光り物北より南へ飛び赤きこと天地をこがす。4月、博奕制止令が出る。6月19日、広村の俳人、方池軒桃之(広仲町、岩崎藤助) 歿。(11月、小野権太夫高井次八郎有田郡奉行となる。) この年正月、前田本山八幡社護摩法執行の木札あり。天明8戊申正月吉祥日奉修八幡宮御本地護摩法当邑諸願如意満足祈処本山現住法印法口とあり。
1789寛政元年己酉(9年1月25日、改元) (5月14、5日、有田川、日高川洪水堤防決壊数ヵ所に及ぶ。) (8月、日根藤六、小野権右衛門有田郡奉行となる。) (10月26日、9代藩主治貞奴、12月、治宝10代藩主となる。
このころ、南金屋、岩崎久重、白砂糖製法をこの地方にひろめた功により賞せらる。
1790寛政2年庚戌1月、飯沼若太夫地士仰付(平右衛門と改名。 この人仁兵衛、五右衛門などの名あり。) 同じく金屋村庄屋柏木喜右衛門地士に仰付。
(8月18日、有田川大洪水、宮原にて死者60人。お茶屋芝も流失河原となる。) 10月、湯浅組大庄屋飯沼五右衛門、庄屋半六、次郎右衛門、孫左衛門、文三郎、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代田中音八の名見ゆ。 11月26日、山本村光明寺住職晩成歿。
1791寛政3年辛亥2月1日、広八幡社宝殿上葺棟札あり。6月、広八幡3面装束出来る。願主広町中、世話人湯川小兵衛。(7月9日、小笠原三右衛門、小野権右衛門跡有田郡奉行となる。) 8月、湯川小兵衛広八幡へ「さしは」1対を寄進する。
(8月20日、有田川、日高川洪水あり) 11月18日、養源寺貞玄、鹿瀬山法華塚碑を建てる。12月、岩渕観音寺慶道、身持よろしからず脱衣、国外へ追放さる。この時の他の諸宗寺院にも追放されたもの3ヶ寺もあった。本寺であった法蔵寺は7日間の閉門。この年3月27日ごろより熊野大島浦へ異国船4艘かかる。若山より役人、海士郡地士ら60人も出向く。有田郡地士ら60人にも心得書付を受ける。郡奉行湯浅にて鉄砲調べなどする。このころ、広村庄屋徳右衛門宇田組兼帯庄屋であった。
1792寛政4年壬子(4月18日、藩主治宝医学館を開設する。) 6月、広八幡社鳥居藩主の命で改築する。奉行日根藤六、明王院明遍、薬師院覚賢、大工飯沼六左衛門、世話人中野村大鳥林助らの名が見える。
7月、井関村大滝池の普請をする、人夫6千5百余人入用銀12メ760匁。(7月有田川出水、岩崎堤決壊、地元新田流失)
(8月、森田利平次有田郡代官となる。)(8月、森田利平次有田郡代官となる。) 11月、養源寺貞玄、開基日寛上人伝を作る。同月、浜口吉右衛門、浜口儀兵衛広八幡社に神鏡1基を寄進する。皇都御鏡師人見和泉掾重次作とあり。 (12月3日、藩主治宝伊勢松坂で本居宣長を引見召しかかえる。) このころ、広村百姓惣代小兵衛、与太夫、広村庄屋長之右衛門、十左衛門、徳兵衛門、広村肝煎長兵衛、庄兵衛、吉右衛門。金屋村百姓惣代和助、同庄屋喜右衛門、肝煎惣右衛門。名島村百姓惣代新太郎、同庄屋善兵衛、肝煎十兵衛、中村百姓惣代新右衛門、同庄屋善吉、肝煎新兵衛。湯浅組大庄屋飯沼五左衛門の名が見える。百姓住込み奉公人の給銀175匁前渡しのことを定める。
1793寛政5年癸丑2月、浦組備方下調ありとの内通郡奉行より出る、増補に関してなり。4月6日、天王波戸修理改築をはじめる(十ヵ年で完成)。6月、地士、60人者、帯刀人らの鉄砲調あり。
7月24日、広川大洪水、堤防破損百間余、20年来の大水といわれる。
広村庄屋栗山長之右衛門地士に被付。(このころの有田郡地士帯刀人書付けあり。) このころ唐尾村5人組善八、庄屋源次郎、肝煎半三郎。大庄屋飯沼五左衛門、地方手代田中善八らの名が見える。(8月、有田郡内で古手買鑑札を16枚交付した。)(8月29日、重倫来郡下津木より日高郡へ。) (10月、日根藤六、口熊野へ所替。) 金屋村庄屋柏木喜右衛門故あって数代つづいた庄屋役を退役した。この年3月、広村大指出帳あり。これによると、石高千3百93石75升4合、所出来物(産物)石海苔、青苔、白魚、綱、麻。家数496軒。寺及道場7。宮8社。牛36頭。池6つ。船数16艘。綱数7帖。鉄砲16艇。人口男1502人、女602人、女620人(これではつり合いがとれない書誤かとも考えらる。)庄屋栗山長之右衛門、橋本十左衛門、浜方庄屋湯川小兵衛、吉右衛門。肝煎崎山喜兵衛、地士湯川藤之右衛門、橋本忠次郎、崎山次郎左衛門、梅野長次郎、橋本新助、竹中助太郎、浜口由右衛門、飯沼平左衛門、浪人吹田庄兵衛などとの記載あり。
1794寛政6年甲寅2月、広浦庄屋小兵衛肝煎喜兵衛ら、御水主米250石貢納のこと難渋のため減免の請願を呈出。庄屋湯川小兵衛「広浦往古ヨリ成行覚」を認める。
7月12日夜、大風雨、諸木吹折れ、民家所々破損。13日、高浪浦々にて破船多くでる。
8月、明王院権大僧都法印覚善歿。10月熊野開帳藩主治貞社参の途次、加茂にて昼食、宮原にて小休、道村で有田郡内地士帯刀人大庄屋らお目見え、夕刻湯浅に宿泊。湯浅顕国神社、広八幡社に参拝する。湯川藤之右衛門地士心得となる。
(このころより享和元年まで徳本上人須谷岩室山で修行する。) (11月16日、本居宣長、大平を伴い千田神社岩橋氏にまねかれて来郡する、以来鈴屋派の和歌郡内にも栄える。鹿瀬土屋伝次郎、河瀬庄屋甚兵衛、肝煎七右衛門、大庄屋飯沼平左衛門らの名が見える。この秋より、養源寺堀川をさらえる、費用4貫3百匁。
1795寛政7年乙卯1月、広八幡社馬場正面の手水鉢並井戸を作る。手水鉢銘に「潔清」94翁西岡固江書、広浦住木下三郎兵衛、同所木下喜助、大阪□□吹田屋十兵衛、同口口口口屋半三郎、江戸深川三河屋儀兵衛、同本所上給屋源七、同浅草木下藤兵衛、ェ政7年卯正月吉日奉析所家運朱久相統願主敬白とあり。当春那智観音大阪へ出開帳、5月17日、帰途鹿瀬通過。5月、大波戸再建の功により、御褒美出る。大庄屋飯沼平左衛門、浜方庄屋湯川小兵衛、同肝煎崎山喜兵衛、地方庄屋栗山長之右衛門、橋本十左衛門、世話人五嶋屋藤兵衛、商人年行司木下屋嘉助、同浜屋文助、湯浅船行司藪五郎右衛門、同岡屋吉兵衛ら。(このころ御代官、小笠原三右衛門、河口作兵衛)。8月27日、大庄屋湯川藤之右衛門直敬歿60才(八幡記録著者)。
1796寛政8年丙辰1月、湯川藤之右衛門(直好)「寛永津浪記」を写す。2月、寺社改あり、井関、稲荷社の書上げあり。3月、有田郡内60人者先祖書親類書を差出せる。猿川庚神堂裏山にこの年3月の墓碑あり、浄道とあり。8月14日、津木老賀八幡社神事執行について、安楽寺僧寛瑞(真言僧)と論争おこり祭礼延引する。(諸職人に運上銀を徴し、済民倉に蓄積して飢饉時の難民救合に備えることにする。)(倹約令出る。小前の者にまで承知印形をとる。井関村庄屋藤兵衛、肝煎儀平の名見える。
1797寛政9年丁巳正月、天王波止石垣普請ほとんど成り、波戸神さんと俗称していた藻苅社を祀る、祭神は南龍公である。 (この石堤の完成したのは享和2年である。) 奈良尾町庚申山墓地内 この年6月29日戸田太郎松墓あり。5月ごろより、米安値となり1石50匁前後となる。 (木挽大鋸運上増株分、町は銀7匁、口6郡在郷は5匁と定めた。) (徳本上人岩室山に碑を建てる。) 12月、広安楽寺11世堅亮歿、57才。
この年男山焼創始者崎山利兵衛井関村に生れる。 (有田御代官、稲葉弥左衛門、中島雄左衛門)。湯浅組大庄屋飯沼若太夫、広村地方庄屋栗山嘉右衛門、橋本十左衛門、同浜方庄屋赤西甚左衛門、同肝煎崎山喜兵衛の名見える。
1798ェ政10年戊午(8月19日、有田川洪水) (8月郡中在々御留山反別、木数などの調査あり。) 12月、明王院権大僧都法印明遍隠居する(天明7年12月明王院に入った。)池上古墓地に名号石塔を建てる、寛改10干12月の銘あり。 (池ノ上、梶原氏の6代前の人が建てたという。) このころ広村庄屋吉右衛門、十右衛門、嘉右衛門、甚助、同肝煎定右衛門、長兵衛、庄兵衛、喜兵衛らの名が見える。
金屋村の人岩崎久重、この年62才の肖像画あり(白砂糖発明者)。この年甘庶植えひろめのため、他所より砂糖停止。(有田郡砂糖問屋は、田中孫右衛門、保田屋作右衛門の両人であった。)
1799寛政11年己未4月、薬師院覚賢(天明7未12月薬師院に入る、大和国五条の人) 明王院寺務を兼帯する。4月23日、大殿(重倫)熊野への途次、井関半六方へ止宿、24日、河瀬王子社及び替掛(馬留)王子社に参詣する。4月広教専寺の大太鼓に和州葛上郡岩崎村平四郎の寄進銘あり。 (この年5月以降より郡奉行は欠役常置せず、代官のみとなった。) このころ湯浅組大庄屋飯沼平左衛門。(土蔵以外は百姓の居宅など互葺を禁じる。また神事祭礼等の当日興行がましいことを禁じる。) (9月25日、菊地海荘、栖原で生る。) 8月、本山八幡社屋根上葺。
1800寛政12年庚申正月、浜口吉右衛門広八幡社拝殿のワニ口を寄附する。2月、湯川小兵衛直敬編著の広八幡社縁起をその子直好が増補して、広浦地士栗山長之右衛門入道喜道義直当時81才に浄書させ、八幡神庫に納入する。 (乾坤2冊)5月15日、遊行上人熊野参詣通過。
(領内村々へ郡吏をつかわして甘藷の裁培をすすめる。)6月末、猿川みの谷より出火あり。
1801享和元年辛酉(13年2月5日、改元)1月、市場波戸場石垣を修理する1月、中沢太四郎山本光明寺の喚鐘を寄進する。4月、大庄屋飯沼平左衛門悴仁兵衛に代役お仰せつけらる。5月、広浦藤蔵、有田日高甘蕉砂糖調役を仰せつかる。6月10日、法蔵寺21世千快隠居、22世一誠継ぐ。
8月13日大風雨洪水あり。9月12日、本山神宮寺(前田)住持玄昭坊歿。12月21日、後住那賀郡貴志大日寺より入院。(10月徳本上人須谷山より摂津勝尾寺に移る。)奈良尾町妙典無縁墓地内に享和年号の広浦出身者の墓8基あり。
1802享和2年壬戌1月、天王波戸場修理完成。寛文年間藩主頼宣が築いて、寛永の津波のため破壊。寛政5年(1793)4月に復旧に着工、第2回着工は同9年に、第3回は享和元年と3回に分けて修復した、着手以来十ヵ年を要した。1月、飯沼若太夫を波戸再築の功労者として直支配の地士仰せつけられ、年頭御目見熨斗目御免。2月6日、権崎十蔵倅角之助地士相続する。
5月有田川、広川洪水あり、家屋流され死者も出る。11月「広浦大波戸再築記録」成る。広浦商人仲買中とあり。12月3日、本山神宮寺後住五茗中村極楽寺へ移住する。この年、南金屋柏木彦四郎、有田郡甘蕉砂糖取調役仰付かる。
1803享和3年癸亥1月11日早朝、法蔵寺受陽軒焼失する。(2月21日、代官木村平右衛門奥熊野へ所替、寒川新右衛門有田郡代官となる。) 3月より5月にかけて麻疹大流行安永5申年以来のことである。
5月11日、大洪水、山々より水吹き出し、有田川、広川洪水、水死人流家多く出る。俗に「亥年の水」と呼ばれる。広川では橋梁流失、堤防破壊百余間、諸池も決壊する。河瀬井関川堤きれ殿村油屋専次郎方まで水押入る。
1804文化元年甲子(4年2月11日、改元) 8月12日、三宝院門跡熊野より鹿瀬通過。
8月18日、大雨大水、8月26日、洪水。
12月28日、地士栗山長右衛門病気につき地士御預け聞済みとなる。この年津木中村安楽寺へ僧泰因住む。那賀丸栖の人という。(3月胡乱者改、有田市場村地士小沢儀三郎倅利兵衛代役申付らる。) (5月7日、代官寒川新右衛門御小姓組に替り、跡中村新十郎となる。)(6月5日、鎌田一窓京都にて歿。)
文化年間湯浅醤油醸造戸数92軒にのぼり全盛時代となった。12月20日銘、殿村正法寺に塊門互鳥の句碑あり。奈良尾町妙典墓地に文化年間広浦出身者の墓26基あり。
1805文化2年乙丑5月、大庄屋飯沼若太夫隠居願済、倅元右衛門跡役となる。(7月、須山嘉平次有田代官となる。) 湯浅組の杖突、住山喜兵衛の名見える。8月2日、公儀より測量役人熊野路より浦辺づたいに当地に来る。
1806文化3年丙寅法蔵寺21世千快歿79才。6月広安楽寺庫裡再建(白梁代。) 9月12日、聖護院門跡鹿瀬通過。広村庄屋橋本十右衛門名字帯刀御免地士に成る。(10月12日、湯浅深専寺にて那智観音、江戸よりの帰途、出開帳あり、参拝するもの多数。(10月藩倹約定書を村々にわかつ。) (湯浅福蔵寺に鎌田一窓の碑を建てる。) 広村杖突次郎右衛門退役、仁右衛門枚突となる。(藩、仁井田好古、本居太平らをして紀伊続風土記の編纂をはじめ各方面へ資料提出方の通報出る。) この年奉公人給銀を定める。牛遺男120〜160匁。平、男100〜140匁。布織女70〜90匁。平、女50〜80匁。前貸もこの例による。津木、寺杣庄屋文四郎役儀数年村内よく治まりおほめ鳥目1メ文下さる。
1807文化4年丁卯(正月衣服について定を出す、倹約令に違反する者は吟味された。) (6月2日、有田川洪水8月6日また出水。) 8月13日、広八幡社宝殿上葺の棟札あり。
この年大井関水洩れ、任替え普請をする。12月、広円光寺第19代慈雲住職となる。このころ西広村総代甚兵衛、庄屋与太夫、肝茂八、湯浅組大庄屋飯沼元右衛門らの名が見える。3月10日夜、津木谷御留山より出火あり。7月地士60人、帯刀人等、武芸心掛、武器所持のことなど書付け提出させる。具足など他所へ売ることを止める。かなわぬ時は、上に御買上げとの通報を出す。4月6日、山本村光明寺住職沢瑞沙弥歿。3月26日、山本村光明寺住職察誠西堂歿。
1808文化5年戊辰4月3日、代官衆広庚申山にて地士60人帯刀人ら鉄砲打見分あり、30目玉鉄砲稽古初める。
5月、井関三船池の水を稲荷前の田へ盗み引き、争論あり。5月、(続風土記編纂のため)「広村風土記」を官へ出す。
7月25日、大風雨、有田川、広川出水、山田川堤防決壊、和歌浦で難船死者も出る。(7月寺村九郎右衛門有田代官となる。) 10月、権大僧都法印信(真)日、明王院に入る。海士郡の人なり。奈良尾町庚申小墓地にこの年9月初2日、紀州有田郡広浦岩本若左衛門行年46銘の墓あり。10月21日、河瀬地蔵寺住持仙然歿。
蘭その他鉢植など高価なる物売買停止。このころ湯浅組大庄屋飯沼元右衛門。(湯浅庄屋藤右衛門、儀右衛門、金八郎、肝煎伝之助、長五郎らの名見ゆ。) (11月、湯浅村伝三郎、箕島村清五郎、 「地藍」買受人免許さる。)
1809文化6年己巳3月19日、覚円寺8世瑞応歿。(8月朔日より向う十ヵ年間伝馬所人馬賃を1割増と定める。10月広村里正「大井之記事」を認め、池、大井のことについて記録をのこす。このころ広村庄屋長右衛門、吉右衛門、与十郎、肝煎源助、長兵衛、七右衛門、仁兵衛、湯浅組大庄屋飯沼元右衛門の名見える。
1810文化7年庚午3月、時疫流行する。3月、河瀬畑垣内御留山出火のため過料。河瀬庄屋九郎兵衛退役、跡役作兵衛、肝煎徳次郎となる。椎崎角兵衛山方御用出精につき2人ぶち下さる。
1811文化8年辛未2月15日、覚円寺10世瑞成住職になる。3月、浦組増補のことあり、有田郡浦組総人数2千686人となる。鹿瀬六郎太夫、津木中村不治のことあり、同村庄屋兼帯を仰せつかる。4月1日、鹿瀬家、藩のお犬「梅花」「花の露」の2匹あずかる。飼料1日6分、犬舎に3両下さる。(この年「紀伊名所図会」第1編3巻刊行さる)
1812文化9年壬申(5月27日、8代藩主であった重倫、徳本上人より受戒。重倫は残忍粗暴で恐れられていた。) 11月、権大僧都法印知行、明王院へ入寺する。この年、大井床ぬけ大破損、普請5月出来上る、入用銀計4百匁余、米2石3斗2升9合8勺。紀伊国名所図会第2篇3巻が刊行された。津木、広源寺に土地の人、岩崎市右衛門、岩崎九裕。中村、小畑紋右衛門ら釈迦涅槃絵を寄附する。
1813文化10年癸酉1月徳本上人法蔵寺に来る。(8月、胡乱者改。小沢儀三郎歿。勤続30年、倅彦右衛門相続する。)
この年8月より12月までひでり、うんか、さし虫発生するなど、みかん、稲凶作。正月より三船池前築普請する、172人が出役した。 (8月、湯浅山田村山火事あり、死者も出た。) 上中野法蔵寺境内手水鉢に「洗心、文化10年酉10月一誠代」の銘あり。
(この年ごろから有田郡内に「温州みかん」が栽培されだしたもよう。) (この年、和歌山城内出火。湯浅組地士帯刀人より百姓に至るまで冥加金又は人足手伝い、木材等を差出す。)
1814文化11年甲戌上中野法蔵寺境内石灯篭に、この年正月吉日奉献庚申中野村中の銘あり。1月広村嘉六家に盗賊入り金銀呉服等多く盗まれた。 9月3日、山本村光明寺住職察亮西堂歿。
1815文化12年乙亥正月26日、河瀬地蔵寺住持病歿。3月、明王院権大僧都法印智行、手平の興福寺に転住する。11月〜12月、広村地士橋本忠次郎、浜口吉右衛門御勘定奉行直支配、年頭お目見えの節熨斗目着用御免。同じく浜口儀兵衛、久徳六郎兵衛らは村作地御村方をなし、また百姓難渋の節はよく救済し、勧農も心得え、この度格別をもって地士仰付けらる。鹿瀬観音縁起由来書寺社奉行より御控えになる。
この年、天候定まらず、特にむし暑く順気よろしからず。お上より1郡へ銀2枚宛下げ神仏に祈祷させる。(夏有田川出水、大川筋一帯大に荒れる。) (この年みかん大不作。)
1816文化13年丙子1月〜2月、橋本忠次郎倅茂介に、内願通り地士株相続申付けらる。
3月、痘瘡流行4月なおやまず。春霖麦不作。7月25日、法蔵寺22世一誠歿。8月、時化洪水高潮。(12月8日有田御代官布施佐五衛門御役御免、小倉惣兵衛跡役申付らる。) この年、本山八幡社の鳥居再建。馬留王子社屋根替える。(倹約につきお触出る。) 西広村甚兵衛、甚右衛門、甚助の3名、律義者により御代官よりおほめあり。順気御祈蕎料、郡内5組へ御銀3枚下附さる。是従南、法蔵寺庵山33処3丁とある道標あり。(意味不明、観音山をさすかとも考えらる。)
1817文化14年丁丑正月、米価73、3匁。2月柏木匡朝、中野村観音山に33所由来の碑を建てる。 (8月、今村次郎兵衛有田御代官当分見習となる。) 10月、薬師院権大僧都法印直浄明王院に入る。このころ湯浅組大庄屋は垣内藤右衛門。
(藩、初めて養蚕方を置く、有田郡では二川に養蚕教師を傭う。上中野法蔵寺門前の歌碑に文化14年4月、俗名新助の銘あり。
1818文政元年戊寅(15年4月22日、改元)1月〜2月、浜口儀兵衛(准画)地士を辞す。
夏ひでり、広八幡社で雨乞のため「しっぱら踊り」をする。(このころ高価なるカナリヤの飼育をする者あり。)
(10月6日、徳本上人江戸一行寺にて歿)(文政2分金をつくる、ひきつづいて貨幣の吹替をする。)前田村領露谷山畑より出火、東原御留山の8分通りを焼く。近ごろ在中にて宮座、座外を相分け毎年争論に及び、自然農作も怠りとなる。6月16日、法蔵寺住持入院、若山辺町光泉寺より。広村地士橋本新助実子忠次郎地士株相続する。
1819文政2年己卯3月15日、広八幡社僧明王院と社家と、神前で僧座、鐃鉢にょうはちをつくことにつき争論もつれる。 (閏4月4日、伝馬所人馬賃銭引きつづき向う5ヵ年1割増とする。) (5月9日、鉄砲御免の場所、鮎漁禁止の区域を定める。)
夏秋にかけて、米麦太物大値下げとなる。米40匁、他国麦24、5匁。) (藩、甘蕉植付をすすめる。) (有田郡内村々の家数、牛馬数などを調査する。) (11月7日より4年(辛巳)の冬まで、ロ6郡入米を禁じる。) (6月12日、京都伊勢美濃大地震。)
1820文政3年庚辰正月、さきに完成した波戸普請の記録を書写して広八幡社に納める、筆者は栗山杏国。広村地士久徳六郎兵衛、竹中弥八郎、橋本与十郎、梅野小右衛門、湯川藤之右衛門、橋本小四郎、吹田庄蔵右7人勤農の心掛よろしく、村内、村作地片付方骨折致し出精奇特なりとて、年頭御目見え節、熨斗目着用を許さる。
6月15日、浜口梧陵(幼名七太) 3代七右衛門の長子として広村にて生る。
8月23日、津木老賀八幡神主友国匡直神祇道師入門。須佐神社岩橋大膳、大江広持に古事記の講議を受ける。広村百姓、村作地片付により牛馬草場難儀につき、山本村白木御留山、柳瀬御留山の2ヵ所下草苅御免となる。この年、日高郡由良畑村山焼きの火、山越え鹿瀬城跡より水越横手まで焼失する。12月27日、湯川藤之右衛門直好歿。奈良尾町妙典墓地に文政年間広出身者の墓11基あり。
1821文政4年辛巳(6月28日松田左右衛門有田郡御代官となる。) 8月8日、大風雨、大水のため村内所々の井関ぬける。津木寺杣新池を普請する。広浜口吉右衛門江戸にて御勘定奉行直支配となる。12月、中村安楽寺僧泰因歿、日高郡塩屋村神宮寺弟子覚円来住する。(この年みかん大不作。)
1823文政5年壬午2月19日、津木老賀八幡社に互葺長床を造建する(神主友国兵庫具直、棟梁西畑清兵衛。)
9月、10月、疫病流行。10月23日、法蔵寺23世一道、京都祐楽寺にて歿。このころから有田郡内に製茶行なわれる。(有田地方手代坂部覚四郎不都合のかどで欠所追放される。) (藩、10ヶ年通用の銀札を発行する。) (石田冷雲栖原に生る。)
このころ津木各村の庄屋肝煎名が見える。中村。伴助、誉助。猪谷。林蔵、庄助。落合。吉十郎、才兵衛。寺杣。市右衛門、民右衛門。滝原。市右衛門、林右衛門。猿川。清蔵、源右衛門とある。
この年、広村医師竹中万寿、医業出精、難渋人には施薬し奇特なりとて御代官支配となる。(この年、新堂村で、神式による葬儀が営まれ、各寺院に1大ショックをあたえる。千田、立神両社が神主による神道葬が許可されたからである。仏教界から文句も出て、自今「宗門改め」だけは従来通り各寺院で行なうことで話がついた。従来神官といえど葬礼は仏式であったのである。)
1823文政6年癸未3月11日、津木老賀神主友国近直、易学を広村浪人佐々木将作、近江暉綱に学ぶ。
4月20日ごろより雨降らず、大ひでり、夏至になるも植付できぬ所あり、民情不穏、代官松田杢右衛門郡内巡視慰撫につとめる。各村々で神仏に雨乞祈祷をする。祈祷料の下賜もあり。老賀八幡にても3日間祈祷を行う。
(県下各地に百姓一揆あり、有田郡では箕島を中心に一揆起こる。郡内山家同心、地士帯刀人など鎮圧に従う。) (大旱により向う5ヵ年間倹約令が出る。下津木寺杣地士椎崎吉太夫、同村庄屋尚右衛門倅与吉ら、この夏の騒動中、村内かれこれ申す者などをとり鎮めたので御誉の上椎崎には金百疋、庄屋には銭1メ5百文を下さる。この冬、近年まれな厳寒であった。
1824文政7年甲申4月広教専寺へ太鼓張替寄進銘あり。7月、津木老賀八幡社の神輿を再建する。神主具直、棟梁宮崎荘新堂村宮崎長兵衛、塗師吉兵衛、同善蔵、金具師留吉、直吉等の銘あり、費用銀710目。(6月6日、治宝致職、斉順11代藩主となる。)
(この年ハシカ流行、禁食、妙薬など治療について代官所より指導する。)
5月29日、大風雨あり。6月朔日、在田郡神主のうち左の人々国学研修により御誉頂戴する。宮崎庄立神社中山甲斐守。保田庄須佐社岩橋大膳。上津木老賀社友国志摩、広八幡社野原直人。山本村天神社乙田縫殿。箕島村祇園社栗山石見。延坂植続左膳。このころ、津木村庄屋沼田伴助、肝煎小畑誉助の名が見える。広地士湯川藤之右衛門、養子了祐へ相続仰付けらる。(有田郡御代官松田左右衛門。湯浅組大庄屋垣内藤左衛門。) 12月15日、鹿瀬六郎太夫倅新蔵に地士相続願許さる。
1825文政8年乙酉3月3日、前田本山八幡神宮寺鳥居再建。4月29日、河瀬地蔵寺住職、山本光明寺に転住する。5月7日、津木老賀八幡社神主具直隠居ト翁と改め9男近直相続、志摩と改名28才。この時の神社宝物目録あり。(3月、農兵についての触が出る。) (和歌祭りの入用銀を6郡に割当てていたのを廃止、斉順就封の善政という。)
(痘瘡流行する。) 3月7日、津木村庄屋伴助病死、倅伴蔵跡目許さる。
8月13〜4日、大雨大風、村中の橋流失往来止、このため老賀八幡社祭礼を15日昼まで延ばす。伊勢詣りの者病気などで難儀いたすため、松坂へ「せったい宿」を建るため各村へ勧進あり、それぞれ出資する。前田村権之丞の飼犬「御山方御犬」になる。河瀬地蔵寺にこの年9月銘の鉦あり。
1826文政9年丙戌6月11日、日輪に虹の如き大軍あり、12日、月の脇に虹出現する。夏大ひでり雨乞祈願。
8月20日、松田生右衛門、白子代官に替り、寺内八左衛門有田御代官となり、伊達平三郎有田代官見習となる。(在々綿打唐弓弦、和田屋甚吉製のものを用いるよう指定する。) (他国売薬人の在廻りを差留する。) (野呂松廬、湯浅に移居して学塾を開き約15年間この地方の文学を指導する。
1827文政10年丁亥この年正月、湯浅組地士帯刀人姓名目録あり左の姓名をみる。寺杣地士椎崎吉太夫、井関60人宮崎為之丞、広村地士田端喜次郎、同橋本与十郎、同橋本新助、同橋本茂助、同湯川了祐、広浪人吹田庄兵衛、和田浪人永井惣七、広帯刀人竹中万寿、宇田地士竹中弥八郎、金屋地士柏木彦四郎、名島帯刀人堀川儀右衛門、鹿瀬地士鹿瀬六良太夫とあり。
この年、米諸色高値、米74、5匁、酒並80、5匁する。6月遊行上人熊野参詣、鹿瀬峠にて小休し名号を授ける、湯浅深専寺に止宿。
11月25日、井関村崎山利兵衛、舜恭公(治宝)の官許を受け男山陶器場を始める。この当時、宇田組頭利右衛門、肝煎紋右衛門、広村庄屋七右衛門、徳右衛門、久兵衛、茂右衛門、肝煎平右衛門、長兵衛、および湯浅組大庄屋垣内藤右衛門の名が見える。8月20日洪水、広川氾濫。9月吉日、広八幡社へ石燈篭2柱、岡屋儀兵衛寄進する。
1828文政11年戊子(在中倹約博奕禁制のことを村々へ読聞せ承知の印形をとる。) 霖雨、各村で日和乞祈を行なう。 10月、千田村地士佐原伝吉、広村地士橋本与十郎(茂助と改名)と共に男山陶器場に詰める。(野呂介石歿、82才。) (松原箕隠、古碧吟社小橋を編す。) 5月、米74、3匁、酒78、5匁する。2月6日、鹿瀬谷北原及南原三ノ水より由良の山まで焼失、午刻より出火、翌7日午になって漸く鎮る。未聞の大山火事。広村医師竹中万寿、養家之姓「板原」に改める。この年、前田村しし谷、ぐろこ谷焼ける。湯浅組大庄屋垣内藤右衛門依願役儀御免右跡役に広村橋本三十郎なる。
1829文政12年己丑正月より米高値となり80匁より百匁余、麦60匁ばかり、人気悪し。3月18日、浜口儀兵衛(灌画) 先年地士株御預けのところ再び地士となる。(6月2日、重倫歿、84才、大殿様、観自在院)
7月18日、大風雨あり。(江戸大火のため、みかん品払底、近年にない高値となった。)
1830天保元年庚寅(13年12月10日、改元) (2月、寺田八郎右衛門海士御代官に所替、山田郷助有田御代官となる。) 3月、宗門改法度書付読聞せる。(この春阿波よりはじまった「おかげ参り」(ぬけまいり)近畿各地に波及して本郡各村々からも参り流行する。) 秋作大体よろしく米75匁位となる。岩崎明岳生る(湯浅赤銅家) このころ井関村庄屋半次郎、組頭茂吉、猿川村庄屋甚右衛門、同肝煎源蔵、組頭長左衛門の名がみえる。10月21日、2日、前田本山八幡社屋根上葺のため、淡州菊太夫1座を銀百匁にて興行する。
1831天保2年辛卯正月、米価90匁位その後大分下値となる。(2月3日、山田郷助奥熊野御代官に所替、山東藤十郎有田御代官となる。) 4月、異国船に備へて小豆島、北湊、高田、栖原、湯浅、唐尾に浦組固場をつくる。
毛付後ひでり610日、村々雨乞。7月、浜口灌圃隠居、風信亭と号す。年末米値79・5匁。酒81・5匁。広村地士梅野小右衛門病死の節、地士株御預けのところ、この度長次郎へ御下げのこと願出、許さる。広村地士竹中弥八郎病死、助太郎へ相続仰付けられる。9月3日より三船池割波砂始める。この見積り137人。
1832天保3年壬辰春中、郡内村々に興業催され、麦作も良好、人気よろし。4月18日より広八幡社大日堂9輪を鋳る。5月、「能仁寺由来之記」を差出す。住職慧本快宥代。5月8日、明王院龍海阿闇梨災。 (紀三井寺の石垣築立費用各村々へ浄財勧化あり。) 年末、米値76匁、酒80、25匁。(7月5日、井爪丹岳生る。) (2朱金を鋳造する。) このころ中村庄屋善吉、金屋庄屋種右衛門。名島庄屋友右衛門、広村役人惣代伝兵衛の名が見える。
7月27日より7日間、雨乞祈願のため「しっぱら踊り」をする。風土記絵図書、田口村大江一郎この地方に来る。郡中野山火の元用心堅くするよう触出る。金屋村柏木彦四郎及び2男多賀七ともに役儀出精、且つ父彦四郎は老年まで郡役所を預りよく御用筋を勤めた故苗字帯刀をさし許さる。
1833天保4年癸巳正月、藩主治宝、位階昇進祝儀に催された城中のお能に、地士大庄屋も召された。2月12日夜、前田村串子谷大焼につき村々より人足くり出す。(3月、城下に出ることを従来出町出府などいったのを以後出府と用語を統一した。)加納諸平、仁井田増一郎、同名源一郎ら3人、有田日高を巡り「続風土記」編纂の史料を採訪する。当地へも来たり、井関村半七宅に止宿、広庄の村役人其外由緒ある者を呼び寄せ調査する。
夏、雨降り続き、秋凶作、秋末より米価暴騰、米100匁、麦80匁、冬さらに高値、米130匁、麦100匁になり、飢饉の様相あり。12月14日、飢饉用心書を領布する。順気祈祷料として各郡宛銀3枚下さる。男山陶器場支配に崎山利兵衛に申付ける。広村地士久徳六郎兵病死、倅六太郎へ地士株申付らる。河瀬村庄屋平兵衛退役、跡役惣助なる。
(この年みかん大豊作郡中百万籠、大安値になる。) 津木県道側にある椎崎角兵衛碑の前にこの年9月吉日銘の石灯竜(常夜燈)あり。
1834天保5年甲午(飢饉年といわれる)正月より米高値、2月には130匁、小麦140匁、麦115匁、7月になりやや下値になる。2月21日、本山八幡神宮寺にて弘法大師1千年忌を勤める。
8月6日、大風雨あり。(8月25日、山東藤三郎御代官となる。) 治宝、五穀成就祈祷札を村々へ配る。浜口吉右衛門、難渋人救合せる故、評定所奉行衆より直々おほめの上、文銀5匁下さる。湯浅組大庄屋代役橋本与十郎申付らる。津木谷御留山の火事は前田村より越火したもの故、諸入用は前田村にて負担の筈の所大庄屋挨拶で、4分6分にし前田村は6分を負担する。(この年みかん大不作。) 10月、名島地蔵の辻に道標を建てる。 (いま能仁寺石仏群の中にあり。)
1835天保6年乙未(正月栖原浦に鯨数10頭来る。) 去年冬より雨少く、麦作不良、八幡社へ雨乞祈願。3月12日より13日、雨降る。正月より米90匁位、閏7月、90匁より100匁。7月中、両度大風、所々の小家、長屋など破損多し。稲6分作、畑作も同様。
(9月、百文天保銭を鋳造。) 鹿瀬に山火事あり。井関村庄屋半次郎勤振り悪き故退役、跡役定五郎仰付らる。井関村の者5名博奕おとがめ「手沓」申付らる。宇田村吉兵衛後家おしゅん娘たつ、心得振りよろしく祖母並に母へよく仕え奇特なりとて鳥目3貫文下される。
広八幡社家野原山城守善兵衛と申す者「水巻車」の発売を願出る。治宝、法蔵寺へ「額」「懸物」など寄附、寺では冥加のため17日間大槃若経を転読する。鹿瀬家上津木中村庄屋を兼帯する。(松坂銀札全領内へ通用。)
1836天保7年丙申この年より8年へかけて天下大飢饉となる。米高値。藩より救米5百石を有田郡へ下附。春より霖雨冬の如き寒さ、7・8の両月大風雨しばしば、天明4年(1784)より以上の飢饉となる。乞食村々を横行し、行きだおれ、身投、捨子続出する。奈良尾町庚申山墓地にこの年3月20日戸田長兵衛銘の墓あり。6月7月、津木中村にて餓死者出る。このころの物価正月米90匁、麦40匁、10月、米120匁、麦80匁、大豆80匁、油4、8匁、綿1斤5匁、12月、米150匁、麦120匁、酒並2、5匁(参考、普通米価は1石60匁ぐらい。)
7月14日、覚円寺9世瑞龍歿、67才。8月27日、明王院権大僧都法印恵実歿、 (古江見の安養寺恵海の兄なり。) (この年、湯浅村郡役所補修建替。) 米貯蔵、酒減石、綿実その他積出しを差留る。(1里塚の調査をする。)
殿村田端喜次郎倅元三助へ地士相続仰付。名島妙見社石灯篭に、この年9月の銘あり。10月10日夜、上津木中村惣助家全焼する。
1837天保8年丁酉ひきつづき飢饉年。正月より物価漸騰、村々難渋多く乞食横行する。頭百姓の救合により米1合づつ、麦収穫時まで、難民にわかつ村もあった。4月ごろ順気よく麦作良好人気もちなおしたが、6月ごろより米また高く、米麦喰いじまいの感あり、松の皮の食い方法を領ったりした。
栖原菊地海荘難民救済のため私財を投じ、栖原坂の切下げ工事を行なう。 この年の物価、正月、米180、麦130匁、大豆120匁、油5、5匁、酒2、6匁。2月、米200匁、麦160匁。6月、米280匁、大豆160匁。9月、米180匁、麦170匁。10月、米160匁、油6、2。(年貢米買入れは200匁にきめた。当時箕島方面では米最高300匁にまでなった。秋米豊作になり百姓生活も一応は安定した。
10月4日、5代浜口儀兵衛(灌山)歿、59才。このころ猿川村庄屋甚右衛門、肝入林兵衛、組頭要助。宇田肝入助五郎、広村庄屋藤五郎、同助三郎、同七右衛門、同吉兵衛らの名が見える。 浜口吉右衛門御用筋出精相勤めおほめの上、白羽二重半定下さる。猪谷村庄屋松本庄右衛門苗字帯刀を許さる。広村大工弥四郎旅行の節苗字帯刀許さる。広村杖突仁右衛門倅六右衛門代役仰付。
城内御金蔵へ盗賊入り3千5百両盗まる。郡内地士帯刀人昼夜交替で警戒する。鹿瀬峠を固める。(2月、大塩平八郎の乱、大塩ら7名の者の「人相書」来たり召捕方の通知来る。)
「松のみどり」の喰い方仕方書をお上より配る。(金銀貨吹替、新に天保5両判をつくる。)
1838天保9年戊戌この年米価稍下値となるも秋作虫害米価上る。(江戸城西丸出火、復旧の手伝金紀州藩へ8万両、各村へそれぞれ割当られる。 (千田村山地方面の排水のため千田上田和隧道起工する。 (この年紀伊名所図会第3編6巻刊行。)
正月12日、鹿瀬「一ノ水」往還より出火、奥ノ谷まで焼抜ける。2月9日夜、寺杣村にて民家4軒焼失する。博奕禁制益々きびしく、全住民に言い聞せの上印形をとる。この年疱瘡流行する。大阪市中の人心不穏、追はぎ、盗賊、強盗、おどり込みなど多発、当地方へも厳重警戒するようお触れあり。この当時の湯浅組大庄屋橋本与十郎。
1839天保10年乙亥物価やや安定、米130〜116匁、麦120〜70匁、並酒2匁位、月末より米麦諸色下値になる。5月より8月中雨降らず、郡中各所で雨乞おどり、広八幡社にても7月14日より7日間「しっぱら踊り」する。
7月銘ある山本光明寺薬師堂前の石燈篭若連中寄進あり。9月12日、聖護院様熊野より御通行。長らく照続きのため、盆、祭りの際など騒動起さぬよう大庄屋より触出す。照続きのため各組に銀1枚づつ下げ祈祷をせしめる。くし、こうがい、きせる、煙草入金具その他益無き道具金銀など使用を禁じる、今まで持っていた者は差出すよう命じる。金屋村西岡種右衛門苗字帯刀許さる。津木中村庄屋退役、跡役市右衛門なる。
11月、12月に入り米大安値となり、65匁、麦50匁という珍らしい安値。 (菊池海荘江戸の剣客野田正吉を招き湯浅に道場をひらく。) (桑苗の植付を村々にすすめる。痘瘡流行する。)
(この年、幕命により編纂した「紀伊続風土記」192巻完成する。文化3年(1806)着手以来34年がかりだった。)
1840天保11年庚子(紀州総改め、男299、128人、女287、978人あり。) (在中へ女芸者、売女などの入込みを差留める。) 津木藤滝に徳本上人名号碑、7月吉日の銘あり。(11月、城内にて、治宝70賀お能拝見のとき地士大庄屋の席次が町年寄の次にあったことについて地士、大庄屋不満の意を表明して争う。)
殿村正法寺本堂大破のため壇中夜念仏勧進する。金屋村柏木多賀七、代々苗名帯刀になる。従前の米高値に備え、藩より郡へ2百石づつ伝法蔵へ貯米する。 (年末米値上り、みかん大不作、人気悪し。)
1841天保12年辛丑沿海浦組の調査が行なわれた。5月10日、出水、大井関破損する。普請6月19日出来上る。 (日高有田両川も大出水あり。)
(このころ紀伊藩に地士921名あった。) 11月下旬、広浦で海賊船を召捕り和歌山牢へ入れる。金銀融通のため「講」など組むが、以後新規之取組は禁止と触出る。益々倹約するようお達しあり。
1842天保13年壬寅上中野法蔵寺の手水鉢に、この年正月梅本伴蔵の銘あり。(6月、口6郡両熊野へ倹約。新板書物。出家社人山伏等の住居についての各お定書を領つ。) (「万1銀」として高1石につき銀1歩を口6郡一様に積立てる。)
(この年苦竹実つき枯死するもの多く出る。)(みかん箱を用いはじめる。)
(7月27日、千田上和田隧道貫通)御代官衆順在、広覚円寺にて種々心得をさとし、鉄砲など見分、浜口儀兵衛宅に宿る。井関村伊藤伴次郎苗字帯刀御免。金屋村柏木多賀七地士になる。中野村西川丈助代々地士、年頭お目見え節熨斗目着用御免。(この年近畿痘瘡流行する。
1843天保14年癸卯2月、ホーキ星出現、日数15日間、酉戌(西北)の間から夜4時(10時)西へ入る。
5月20日〜21日、大雨洪水、広川堤崩れ流家、田畑冠水、広橋落ちる。鹿瀬六郎太夫自宅地端にて石灰焼きを初める。(9月11日、栖原施無畏寺山崩れで被害、この時白檀の古木出現する。)
9月2日より広教専寺地揚6日まで、4日に由良蓮専寺より人足68人参り、銀札30目、のぼり1本をあげる。このころ広の庄屋弥四郎、助左衛門、良左衛門、肝煎多郎兵衛、宇兵衛、湯浅組大庄屋橋本与十郎の名が見える。河瀬地蔵寺本堂大破する。現在河瀬地蔵寺境内にある徳本名号をうつした道標にこの年晩秋建碑の銘記あり。上津木、藤滝への登り口にある庚申の石灯篭にこの年の銘記あり。
1844弘化元年甲辰(15年12月2日、改元) (最後の藩主茂承生る)3月11日、広安楽寺13世湛浄歿、32才。小沢彦右衛門歿し忌中、鹿瀬六郎太夫等郡内打廻り。津木神くさ滝に5月17日銘手洗鉢あり。津木藤滝に光蓮社明誉教善本霊和尚の墓碑あり、2月22日、その建碑者25名中広村宇田の人11名の名あり。地蔵寺住持原谷光明寺へ留主居のため退院する。猿川庄屋宇兵衛宅出火する。(陸奥宗光生る。)
1845弘化2年乙巳旧熊野街道鹿瀬峠道に7月に建てた道標あり、「右くまのみち」「左ふじたき念仏堂」正面は徳本上人6字名号、側面に和歌を刻む。感空動誉敬白とあり。広橋本与十郎病気につき金右衛門地士相続する。奈良尾町妙典墓地内に広令組綱建つ名号碑あり。
1846弘化3年丙午正月7日、広教専寺本堂再建なる。正月鹿瀬六郎太夫病死、松八太地士相続する。3月、橋本秀(柑園忠次郎)「江南竹枝」に序文を書く。 (閏5月、斉疆12代藩主となる。7月、和歌山城に落雷大小両天守閣焼く。)
1847弘化4年丁未正月3日8時、前田村与兵衛宅失火。広八幡社南端道路両側にこの正月銘の石燈篭あり、「武運長久」「商売繁栄」の文字あり。もと中野村、大将軍社にありしもの。2月、明王院権大僧都法印法勤歿。4月8日、9日大風雨、人家倒壊、海荒破船多し、湯浅の漁民衣奈沖で10名遭難死する。6月、第1回天王波戸修理を願出る。林兵衛、茂兵、仁右衛門、平助、彦十郎らの名が見える。(この願出は10月に第2回目、次年第3回目第4回と提出した。) (2月、無鑑札で在中筒薬行商、隠鉄砲所持を禁ず。) 津木藤滝の33番観音の碑にこの年仲夏以16信施建立銘あり。12月2日、金屋村柏木多賀七年頭御目見得え節熨斗目着用御免。名所図会の取調べのため、加納兵部、岩崎時十郎並に絵師同道鹿瀬家に来る。能仁寺石仏群中に、この年4月銘の馬頭観音石像あり。
1848嘉永元年戊申(5年2月28日、改元)代官春巡在の折、地士帯刀人の砲術稽古を見分する。5月、馬売買値段を抑制する。6月4、5日、大雨出水、広村全域被害あり。 (7月20日数見兵蔵有田御代官となる。)
1849嘉永2年己酉(3月斉奴、閏4月慶福〈後の家茂〉13代藩主となる。) (10月数見兵蔵名草郡に所替、仁井田源一郎有田代官となる。) 西広村庄屋大場常右衛門の名見ゆ。西広村庄屋大場常右衛門の名見ゆ。(この年諸国麦大豊作、50匁になる人気よろし。)
1850嘉永3年庚戌(正月、米百5匁、麦75匁、8月135匁、麦75匁の高値。栖原屋角兵衛難民救済に米3百俵を提供する。) 菊地海荘有田日高の文武総裁となる。浦組強化につくす。(御代官手元付手代曽根吉太郎、湯浅組大庄屋数見清七、杖突啓蔵) (浦組増補され15才〜60才の健康者を動員する。) (藩士山羽某、藩命により有田近海の測量をする。) 5月、雁仁右衛門広村里方庄屋になる。(和歌山城天守閣再建成る。)
1851嘉永4年辛亥1月4日、6代浜口吉右衛門(教実)歿、87才。 3月、風紀取締についての達し出る。素人の琴三味線のけいこを禁ず。 4月8日より8月15日まで日でり。8月8日、浜口梧陵、広八幡社前にて広村崇義団を結成する。国家有事の日に備うるところあるを期して村内の壮丁を集めてその覚悟と発奮を促したのである。9月、11月、5回目、6回目の波戸修理の願書を出す。(許されなかったもよう。其後の記載なし。) (米価漸、正月、米160匁、麦133匁。) このころ山本村庄屋源助、宇田肝煎甚太夫、組頭源吉の名が見える。(この年「紀伊名所図会後篇6巻刊行。全部で18巻前後42年間にわたって完成。)
1852嘉永5年壬子2月、安楽寺12世伯梁歿75才。2月、雁仁右衛門歿、仁兵衛代役をつとめる。3月、徳本上人の6字名号を刻り、溺死者供養の碑を建てる。(現耐久中学校入口土堤左側。)(3月、代官地方巡在の節地士帯刀人1所に会し出迎えするよう指示があり、かたがた組内の連絡談合することにする。)
5月より雨降らず、雨乞村々で行なわれる。赤痢流行する。(当時の代官小出平九郎。) 8月16日、大雨、田畑大荒、広橋落ちる。9月22日、大風雨あり大時化、広の船カルモで破船乗組員3名死亡する。民家倒壊も出る。
11月〜12月、梧陵、東江、明岳ら田町吉田慶蔵の裏納屋を利用して武道稽古場を設け、村内子弟に文武を習わしめる。剣道指南に田辺藩士沢直記、佐々木久馬之助(五十鈴)に漢籍を教授させる。耐久舎の前身である。(12月7日、10代藩主治宝歿82才。1位様と呼ばれる。) このころ名島村惣代権吉、組頭十兵衛、肝煎浅助、蔵庄屋由兵衛、庄屋口右衛門、世話人利助らの名が見える。
1853嘉永6年癸丑1月、菊地海荘大阪にて十斤野砲3門、テレゲンホイッスル砲1門を製造して広天王の浜に配備する。1月海上胤平(六郎) 広村に来たり3ヵ年ほど居住する(耐久舎で教えて、剣客であり、歌人でもあった。) 3月、西広村なばえの鼻に、のろし場を設置する。合図のため西広、唐尾より1人宛詰める。3月、異国船に備え浦組組織を強化する、広、和田、金屋、中野、名島、井関、殿、河瀬、寺杣、中村の各村より地士帯刀人、浪人、60人者ら計22名、各々鉄砲1丁を所持し、各村の動員割当は広村310人、中野村より6人、金屋村より5人、柳瀬村より7人、猿川村より5人、落合村より10人、西広村より95人、湯浅村より200人、唐尾村より64人、池ノ上10人その他各村に応じて人数割当あり。船20艘あまり準備。鉄砲の数は個人所持を加えて百丁あまりであった、外に津木中村より斧遺い13人が出ている。実際の動員計画人数はこれ以上にのぼるが、出人と在村とに分れていた。
5月13日〜8月13日、90日間のひでり。 7月16日より22日まで、西に慧星あらわれる。このころ、池ノ上庄屋源兵衛、同肝煎伊三郎、広村庄屋良裕らの名が見える。11月、雁仁兵衛、親後役を仰せ付けらる。里方庄屋役也。(褒賞としての地士取立を止める。) (11月、海防大船建造のため8才以上日銭積立をさせた。 (嘉永1朱銀を鋳る。)
1854安政元年甲寅正月24日、山本光明寺住職泰竜歿。(7年11月27日、改元)4月晦日、覚円寺10世瑞成退職7月19日歿、64才、瑞廉住職となる。
6月15日、地震あり、6月7日、郡内6社に銀8枚を下附して雨乞祈祷をさせた。(5月大砲鋳造のため諸寺院の梵鐘など出すようすすめる。)(6月、大船建造のため、掠、楠、榎材の献納又火薬材料として木灰の蒐集を申付ける。) (6月17日、小出平九郎転出し、武田善左衛門有田代官となる。) 9月16日、ロシア艦デァーナ号宮崎沖を通過、海岸防備に大動揺をきたす。藩兵を箕島に出張させ、郡内の大庄屋地士帯刀人を宮崎、湯浅、唐尾に集結させる。
【注以下の文は1853年に記載されていたが1954年と思われるので移動しました。】(9月15日、ロシア艦日高、有田沖通過、17日加太浦に碇泊。1藩震動する。)(10月15日、みかん仕入方支配に反対してみかん一揆を起す、29日解決。)
11月4日朝4ッ時(午前10時)大地震(これは7日ばかり続いた。5日大津波来襲、広、湯浅の被害甚大。当時広の戸数350戸、人口1323人あり、内流失家屋125戸、全潰10戸、半潰46戸、浸水破損158戸、死者30名、田32町9反、畑3町7反、新田6反7畝流失。津波の高さ最高8m、平均6mで、海岸より約400m上手の八幡社1本松の根元まで波がおしよせた。梧陵の活躍したのはこの時のことである。津波をまぬがれた他村も余震が永くつづき、十数日間を戸外で起居した。津木地区でも山の巨石が落下し、津波の音がきこえたという。天王大波戸破壊さる。湯浅でも190戸が流失した。(この年、ひでりだったが米豊作みかんも豊作であった。)
1855安政2年乙卯正月雁仁右衛門の「記録」あり。1月梧陵、浜口吉右衛門とともに長堤を築かんと官許を乞う。長さ5百間高さ2間半。2月長堤築造の工を起す、人夫4百余人、其後農閑期をえらび継続して、同5年12月成る。(人夫延人数56、736工、1工に1匁6分、費用銀95貫3百44匁、3年10ヵ月の日子をかけ、370間を完成させる。又民家50戸を新築して極貧者には無料で住わせた。)
米価下落して、3月末、85、麦65匁くらい。4月梧陵、佐久間象山よりケーベル銃若干を買う。また、前田時二郎に柔術、棒術などを農家の子弟に習わせる。この年、梧陵ら広安楽寺東側に「耐久舎」を建てる。 (8月20日、大風雨あり、有田川洪水。)(みかん方役人残らず御免になる、前年の騒動のため。)このころ、名島村庄屋庄蔵、肝煎儀助の名が見える。津木落合極楽寺墓地にこの年 11月銘の三界万霊碑あ
1856安政3年丙辰1月、仁兵衛、浜方庄屋兼帯となる。2月、梧陵「広橋」を架ける費用24貫を個人負担する。 (もともと広橋の修理費用は広村持ちの定であった。) (3月29日、有田郡砲術修練の者を箕島にあつめ見分を行なう。) 6月29日、明王院阿闍梨恵学歿。(湯浅深専寺門前に地震津波心得え記念碑を建てる。) (桶直し職に鑑札を下げ冥加金を納めしめる。)
(有田郡の制茶法を改め青茶にきりかえる。) 12月、梧陵、独礼格を賜わる。(2分金を吹替える、洋銀(メキシコ・ドル)に「改3分定」の刻印をおして国内通用をみとめる。) 猿川不動堂、この年2月20日、建立棟札あり。世話人組頭仙右衛門、同嘉七、兼帯庄屋前田村定右衛門の名など見ゆ。この年1月13日改の名島妙見講の記録あり。
1857安政4年丁巳1月〜2月、海上胤平、武者修業のため、九州に去る。(6月代官見習青山五左衛門口熊野代官助へ所替、金沢十太夫当分有田地方御代官見習となる。) 奈良尾町庚申山墓地に、この年6月25日俗名戸田弥助銘の墓あり。
米価上る。160匁。7月1日、大雨、有田川洪水。(江戸の剣客千葉重太郎湯浅に来たり北辰1刀流の指南をする。) 7月6日山本村光明寺柳朝歿、61才。広教専寺大鼓張替する、総代畠中太郎五郎の銘あり。広八幡社舞台に四季混題発句の額を奉納する。
1858安政5年戊午2月〜3月、山本光明寺本堂再建する。9月同時薬師堂12神将像を修理する。
4月より8月までひでり、村々で雨乞祈祷、火ぶりなど行なわる。(6月、慶福14代将軍職をつぎ、〈家茂〉茂承14代藩主となる。) (10月、コレラ流行、物価上昇、米120匁、麦90匁。) 12月、広の堤防竣成する。このころ、池ノ上庄屋重三郎、同肝煎伊兵衛の名が見える。(3月、代官山林四郎左衛門、名草郡へ所替大藪新右衛門有田代官となる。)
1859安政6年己未(この年7月より8月下旬までまたコレラ諸所に流行、「暴瀉病(コレラ)治療予防心得」をわかつ。また各村とも神託によるとて踊り流行する。) (小判1分金、1分銀、丁銀、豆板銀を吹替する。)
1860万延元年庚申(7年3月18日、改元)6月、橋本柑園歿57才(忠次郎)。
米大不作高値有田川洪水のため難民も出る。米185匁、麦130匁、油9、28匁する。(大判、小判、2分金、1分金、2朱金を改鋳、12月「4文銭」を鋳る。) (難民救済のため藩より1郡宛5百石を下附する。
1861文久元年辛酉(2年2月19日改元)5月、6月、雨降らず米値高295匁に及ぶ、米他所売差留。麦作やや良好、米価250匁、麦150匁となったが、諸色高し。11月21日、大ハヤテ難破船多数でる。 (有田代官青山五左衛門。湯浅組大庄屋千川伝七)広八幡社石燈篭にこの年9月の銘
1862文久2年壬戌3月6日、広村、里、浜兼勤庄屋雁仁兵衛、唐尾村庄屋兼帯となる。5月16日、浜口容所(十代吉右衛門) 広にて生る。7月、菊地海荘「農兵諭言」を出版し挙民一致外敵に当ることをさとす。(文久永宝〈銅銭〉を鋳る。) 山本、氏神社手洗にこの年森彦兵衛の銘あり。
1863文久3年癸亥(あいかわらず諸色高値、米190匁、油14、5匁、酒3、0匁、塩1匁に2升。木綿20匁、絹物格外高値。) (8月大和騒動、天誅組蜂起。在中地士帯刀人等山保田に出勤する。在夫として参加した農民もあった。) 10月、広村十次郎、庄屋浅右衛門庄三郎苗字帯刀を許さる。同月井関村代々苗字帯刀人長谷幸之助帯刀ゆるさる。(地士ら時局についての覚悟を述べた起請文を藩へ差出す。地士帯刀人の所有武器の調査もする。) 広八幡社来国光短刀に、この年の袋書あり。この年、正月、津木、広源寺堂宇を再建する。この年、金屋村庄屋善助、同肝煎平十郎の名見える。
1864元治元年甲子4年2月20日、改元。(正月在中所持の鉄砲、槍、長刀、槍長巻等武器調を行なう。) 1月〜2月、広正覚寺再建。物価給銀等高く住民の生活をおびやかす。7月中、米185匁、麦120匁、大豆2百80匁、小豆3百匁、男奉公人給銀半期3百匁〜3百50匁、女70〜百匁、男日傭入工1、5匁、草取賃1反20匁、田鋤賃1反12匁。後期物価暴騰。米395匁、麦320匁、へちま1斤7、5匁、油14、0匁、なわ1束(25ひろ)3、5匁、酒4匁、柴1荷3、2匁、みかん1篭10匁、温州1箱13匁。九年母1篭11匁などとあり。 (この間物価引下令出る。但し銚子のヤマサ、ヒゲタヤマ、チガミサと野田のキッコーマン、キハク、ジョージュウは最上品ゆえ値下げに及ばずとの許可あり。)
8月、長州征伐の騒ぎで広より五島行き、西海行きの漁業や商船など廃絶した。8月、藩主茂承長州征伐総督になり藩兵出動、村々よりは在夫を徴発、ともに広島に出陣する。 (この地よりも在夫として徴発された人々あり)(9月代官下村佐五郎那賀郡に所替。松田幸次郎有田御代官となる。)このころ殿村庄屋次兵衛の名みゆ。
1865慶応元年乙丑(2年4月7日、改元) (正月15日、長州征伐の関東方敗残兵箕島に落ちてくる広、西広へも、由良へ落ちるとて3々5々通過する。) (5月18日、長州再征伐藩兵出勤、在夫徴発、郡内よりも多数従軍する。) 6月非常合図の早鐘のことを定める。(8月代官松田幸次郎日高に所替。松島杢之助有田代官となる。)
物価益々高騰の勢あり。9月、外国条約勅許となったので、海荘、既往15年にわたった訓練した壮丁を解散する。11月、在中百姓の衣服について紺屋染賃について定める。このころ唐尾村蔵庄屋善八、広村帯刀今庄屋仁兵衛、5人組頭茂兵衛、肝煎清助などの名が見える。
1866慶応2年丙寅田町に創った「文武稽古場」を「耐久社」と名づけて現在の安楽寺の地に移し、浜口大英(安楽寺住職)が之を監した。この年凶作、物価は時勢のため益々騰貴、9月ごろがピークであった。米1貫500匁、麦1貫400匁、大豆1貫400匁、小豆1貫600匁、御召チリメン1反600匁、足袋12、3匁、酒1升16匁、油1升28匁など。米つき賃1斗1、8匁、アンマ賃1匁。髪結賃1匁。その後も物価は上昇をつづけた。
(3月14日代官巡在、浦組見分、6月11日、時局安定について村々庄屋へ諭告があった。) 8月、各郡の地士帯刀人を和歌山に5〜6名宛集め蘭式銃隊調練を施し幹部として帰村のうえ百名につき仕丁1人をつのり、農兵を組織することになる。(8月、松見斧次郎有田郡代官となる。胡乱者改小沢駒之助罷免北村久次郎新任) 山畑茶青葉のままで売買を許される。1月〜2月、湯浅組内の二歩口役所は、広浦役所4間に2間半の瓦葺。唐尾浦役所4間に2間半のワラ葺で建てた。3月11日、広安楽寺大道にて再建遷坐式をした。
8月7日大風雨あり、諸作物人家にも被害甚大。9月25日、岩崎重次郎黍丘)京都にて歿、62才。このころ西広村5人組頭庄兵衛、肝煎次左衛門、同庄屋与左衛門、湯浅組大庄屋千川伝七、庄屋熊右衛門、伊右衛門、治郎兵衛、喜兵衛、肝前治助、惣七、清七、源兵衛などの名が見える。地方手代は岩橋藤蔵であった。12月7日、法蔵寺1代雲空密葬の夜、本堂、釈迦堂、僧坊など全焼する。
1867慶応3年丁卯(正月、農兵装備用のミニヘル銃買入れの資金お手伝いとして、在中より出銀さす。
田中善左衛門養蚕裁条を建白、御廉中より桑苗3万3千株を得て箕島村外17ヵ村に配布し郡中の養蚕向上をはかる。) 7月、ひでり雨乞各地で行なう。8月暴風雨、米凶作諸色高く、10月には米1貫380匁、麦1貫50匁する。(10月将軍慶喜大政を奉還する。) (師走25日、この前後よりお祓、仏像など天から降るとの風聞あり、エエジャナイカおどり流行のきざしあり。
12月9日、王政復古の大詔下る。)この年、法蔵寺庫裡、書院を新築する。
1868明治元年戊辰(9・8改元。1世1元の制を定める)正月29日、浜口梧陵抜躍されて藩の勘定奉行となる。(正月、鳥羽伏見の敗残兵紀州に逃れ来る者多く、郡内にも来たり、この地方まで来るものあり。) (このころ、世情騒然として諸物価高騰し、4メ匁年ともいわれたが、其後新政への希望のためか諸色やや下落、生活のおちつきを示す。)
(田中善右衛門再度桑苗1万2千3百本を郡内村々に配布する。)(3月14日、5ヶ条の御誓文発布。)
3月20日、神仏判然令(神仏分離廃仏毀釈) により、神社に菩薩権現などの号を禁じ、仏像を神体となすことを禁じる。4月、石田冷雲耐久社講師となる。社生20人ほどだった。 (4月13日、紀州藩朝敵の疑い強まり、藩主茂承、京都で人質となった。)4月、仁兵衛再3の願出により唐尾村庄屋兼帯を退役、後役は同村助三郎仰せつけらる。 田畑年貢は旧慣により復集するも検見をやめて3年の定免とする。諸荒、隠田畑を精査する。)
4月より5月にわたって霖雨、5月14日洪水あり。(7月18日、江戸を東京と改む。) (エエジャナイカおどり流行する。鳥羽伏見の戦のさわぎでこの踊りも止む。) (8月27日、明治天皇即位。 このころ猿川村組頭文平、同亀右衛門、同肝煎伴助、同庄屋伴左衛門。河瀬村庄屋徳右衛門らの名が見える。「トンヤレ節」流行する。
1869明治2年己巳(1月、藩主茂承は人質を許され帰藩。2月10日、版籍を奉還、6月16日知藩事に任ず、この時田辺安藤、新宮水野もそれぞれ知藩事に任ぜらる。藩政大改革。) 正月、浜口梧陵、孔雀之間席並に参政被仰付。2月、大広間席学習館知事被仰付。4月、藩侯に随行して東下。8月、有田郡民政知局事被仰付。 10月、名草郡民政知局事兼帯被仰付。11月、和歌山藩少参事に任ず。3月、郡内社寺の神仏混淆を取調べ神社の尊厳をたしかめる。
3月、郷学所を湯浅に設け教学の拠点とする。石田冷雲教学所教頭となる。春、米価暴騰3メ5百匁に至る。9月、郡代官所を廃止。 (役所はもと広に、のち湯浅においていた。最後の代官岩橋藤蔵廃官。有田民政局を湯浅道町元郡役所附近に設置、知局事は浜口梧陵についで鈴木三五衛門、副知局事に菊地海荘がなり、井関村帯刀人長谷幸之右衛門判局事試補となる。大庄屋をやめ郷長とする。杖突は書記と改む。各村の庄屋、肝煎はもとのままとする。従来の農兵小隊を民政局の常備兵として湯浅におく。
(田中善左衛門今年も藩に請い、桑苗12万株を64ヶ村にわかつ。 (お仕入方を産物方と改め更に開物局と改む。9月、野田四郎有田郡殖産取締りとなり、茶を重視し、「お仕入方」から民間に開放し、2万6千3百12斤の郡産をあげる。) (藩士の農商に従事することが自由になる。みかん方、苗字帯刀などの特権を失う。胡乱者改めは捕亡ほぼう手となる。) (神仏混淆取調御用係に中山俊彦(立神社)、小賀安諦雄(千田神社)を任命、郡内の社寺調査にあたる。) 3月〜4月、岩崎明岳、冷雲に代って耐久社で講議する。郡内の88才以上の老人に2人扶持をあたえられることになり(正月19日) 広村にて4名の者各々その父母の年令をいつわり発覚して押込の罰を受けた。このため当時の庄屋竹中助太郎、仁右衛門、肝煎六太郎、嘉助、郷長江川誠一郎らもお咎の申渡を受けた(5月7日)。2月19日、広村にて3名の者、去る12月23日、博奕のため徒役中逃亡して又盗み徒刑3年半を加えられた。正月、津木老賀八幡社へ鈴を寄進する(代銀50文目)。当時の庄屋肝煎に中村、伴左衛門、角助。寺杣、孫右衛門、市右衛門。落合、吉十郎、孝兵衛。猿川、伴左衛門、伴吉。猪谷、甚太良、仁右衛門。滝原、肝煎、角次郎らの名がみえる。(12月16日、洋式兵練教師カッペンを招く。)
1870明治3年庚午(1月29日、紀州藩「兵賦略則」を制定。日本最初の徴兵制度である。3月、牟婁郡木ノ本で徴兵検査をする。) (2月12日、日高民政局を廃し、有田民政局に併合する。) 2月、浜口梧陵松坂民政局長となる。6月9日、神式による葬儀(神葬)を正式に許可した、但しキリシタンでないこと、どこの氏子かはっきりして願い出ること。6月、耐久舎を増改築し浜口大英(松塘)之を監す。乙田八十吉、中村嘉右衛門剣道を指南する。10月耐久社「掲示」を制定する。
9月7日、同18日、大暴風有田川洪水倒潰家屋多し、このとき天王波戸大破する。9月19日、平民に苗字を許す。閏10月27日、窮民に救米下附、有田郡へは千5百俵下さる。同月、郷役所をやめ民政局出張所を各組においた。(12月、庶人の佩刀を禁じた。) 12月、浜口梧陵和歌山藩権大参事となる。(この年4月、藩より風俗改正令出る。売春婦、しゃく婦、めかけ、ぼんや(つれこみ宿)、春画、エロ本など厳重禁止。妾宅も禁止。)
1871明治4年辛未(2月、諸問屋の軒数を限ったり、仲間をたつることなどやめ自由業を認める。) 2月ごろ米価1メ8百匁。 (殖産方田中善左衛門、養蚕所を二川、織帛所を上中島に設ける。) 4月、月、戸籍法を定め、各村それぞれ編成に着手、翌年より実施した。「壬申戸籍」である。
5月17、8日、(暴風雨広川洪水。(7月、廃藩置県、和歌山藩は和歌山県、田辺県。新宮県となる。)14日、14代茂承致任。11月、田辺、新宮の2県を和歌山県に併合。9月、津田又太郎(正臣〉大参事になる、初代の権令(知事〉である。)
7月12、3日、広川氾濫。 (7月18日、文部省設置。) 7月27日、浜口梧陵駅逓頭となる。8月9日、散髪廃刀許可。8月28日、穢多非人の称を廃し士農工商の身分廃止。有田民政局を有田出庁と改称、12月、更に有田出張所と改めた。(12月20日、郵便役所開設、和歌山市を中心に各地に設けられた。初めて郵便切手発行。) このころ唐尾村組頭左門兵衛、肝煎森弁二郎、庄屋中塚助三郎、蔵庄屋舟瀬源次郎。湯浅組郷長池永万平の名が見える。この年宇田村庄屋増右衛門、5人組三右衛門の名見える。(神社の社格を定めた。) この年、安政元年の津波により破壊された天王波戸の改修成る。(11月、北島秀朝2代知事になる、6年10月まで。)
1872明治5年壬申(民政局および各村の庄屋、肝煎を廃止、区、戸長制となる。和歌山県を7大区に分ち各大区を更に小区に分ち133の小区となる。有田郡は第5大区となり、5小区に分けられた。宮原組が第1小区。湯浅組が第2小区(広はこのうちに入る)。藤並組が第3小区。石垣組が第4小区。山保田組が第5小区となった。各小区に戸長をおき、各村にはもとの庄屋が副戸長になった。) (1月、戸口調査で県人口55万6千919人あり。) (養蚕所、織帛所を閉鎖。) 11月中旬、広八幡社の鐘楼を法蔵寺に移建する。(2月、湯浅郵便取扱所を道町841番地に設置、8年8月1日に湯浅郵便局と改称。) 2月23日、始めて地券を下附して土地所有の確證とする。3月12日、一向宗を真宗と改称する。4月25日、僧侶の肉食、妻帯、蓬髪が許される。(8月2日、学制公布され近代的教育制度が発足。) このころ殿村副戸長田端喜次郎。肝煎西出文右衛門の名が見える。
(11月28日、全国徴兵の詔でる。
(12月3日、大陰暦を廃し太陽暦を採用、この日を明治6年1月1日とする。) この年、上地令によって各神社の境内は官有地となる。(4月我国最初の洋式印刷紙幣を発行。ドイツへ注文印刷したもの。) (2月、社寺の女人禁制を解く。) (この年より官有地払い下げで山林乱伐される。)
1873明治6年癸酉3月、戸長を副戸長、村の副戸長を戸長と改称する。当時広の戸長雁仁右衛門、竹中助太郎、竹中治兵衛、副戸長木下嘉助であった。
(7月、地租改正が行なわれ、地券を設けることになったが、この条例は直に実施されず、8月7日、諸国税法1両年は旧慣による旨の太政官布告が出る。)
(公立小学校を郡中に設置することになり、5月湯浅福蔵寺本堂を仮校舎として公立湯浅小学校開設、湯浅組25ヶ村唯1の小学校であり、広村も通学区域となり、8年までつづく。) このころ猿川戸長東濃文右衛門、大区2小区猿川(中長右衛門の名が見える。
(1月、徴兵令施行、大阪鎮台の管下であった) (有田警察署を湯浅に設置〈道町南、元民政局跡、現湯浅町役場西隣ンされ、最初は管轄区域は有田郡一円であった。)7月、広村(第5大区2之小区)明細取調書を提出した。4月、津木老賀八幡社。下津木岩渕三輪神社。6月前田八幡神社それぞれ村社となる。(10月、神山郡廉3代知事になる、16年10月まで。)
1874明治7年甲戌9月29日、浜口東江歿、74才。(5月22日、台湾征討出兵する。)
1875明治8年乙亥2月、広村地籍図を作製する。(3月、地租改正人民心得書領布、地券も改正する。)
(7月13日、捕亡手を警邏と改め、選卒ともいったのを10月、巡査と改称した。)
11月23日、広小学校の前身「広陵校」(開識校ともいった)を正覚寺に開く。修業4ヶ年、広、山本、和田、名島が学区であった。男75人、女26人の児童あり、教員は浜口大英(安楽寺住職)佐々木丑之助(広八幡社神官)であった。
6月、ひでり農作に被害あり。このころ河瀬村副戸長鹿瀬六郎太夫、広村副戸長竹中助太郎、雁仁右衛門の名見える。男山焼の崎山利兵衛79才にて2月29日歿し、土屋政吉、尾山嘉平、西島らが事業を継いだ。山本光明寺百度石清空代の銘あり(12月。) このころ米1斗で50銭から70銭位までであった。(5月、カラフト、千島交換調印。)
1876明治9年丙子1月、全国人口34、333、444人。(3月28日、廃刀令を定める。)(8月5日、華士族以下の家禄賞典禄を廃し、公債証書を下附。華族484人、士族40万8千8百余人あり。)
(このころ新みかん方設立。) (山口県より夏みかんを導入する。)
(和歌山師範学校創立)7月21日、殿小学校開設。学区は殿、上中野、南金屋、東中、柳瀬で、児童数は不明、教員は鈴木義登であった。8月10日、西広、法昌寺の堂宇をかりて西広小学校開設。学区は西広と唐尾。上下2等の小学科を教える。教員は楠山大厳、菅野孫一、小沢良海、8月4日、元の御蔵を仮用して下津木小学校開設。教員細谷貞三、児童数18、9名。又上津木小学校は安楽寺本堂を仮用して開設。 教員林昇龍。8月23日、法蔵寺25世大絶歿。9月8日、安楽寺15世大英歿、31才。(9月17日、有田川出水。) 当時津木村の戸長椎崎角兵衛、副戸長長谷庄兵衛、小区長岡文一郎らの名が見える。
1877明治10年丁丑1月、井関稲荷社、村社となる。2月西南の役起る。西郷騒動と呼ばれた。本郡出身兵の戦死する者20余名あり、うち広村3名戦死、1名戦病死。津木村より2名の戦死者を出す。(このころより鎮台除けといって名義上の戸籍変更〈長男は兵役免除だった〉が流行しだした。) 3月、湯浅に浦役場が置かれ、警察主管事務以外の船泊、海難事故等を取扱った。
今年春霖雨麦作不良。10月8日、2小区(湯浅組)は1号2号の分局をおいて、広川より北側は本局へつき、広村に1号分局をおき、井関に2号分局を設けて津木村を管掌した。(10月19日、現在の清水町一円に赤痢大流行。 このため県防疫規則から制度が完備。)
このころから灯火としてランプの使用が一般化してきた。この年広小学校新築、広村旧貢米倉庫用地に新築移転、この費用5百円余は東西両浜口家、岩崎重次郎、古田庄右衛門の4民が負担。児童数男94、女30名であった。4月10日、井関小学校設立、井関村370番地旧寺院の(霊泉寺)の堂宇を仮用、学区は井関、河瀬。教員長谷政楠、開元琢龍。このころ、香奠は3銭、4銭、4銭8厘、5銭ぐらいまで、特別で10銭、お寺への布施は1円50銭ほどであった。
1878明治11年戊寅(7月22日郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則のいわゆる3新法、公布。そのため12年へかけて大小区制をやめ、郡村制に復し、連合村の戸長役場を置くことになり、有田郡内に42役場ができた。) 5月ごろ、下津木村副戸長岩崎平三郎の名がみえる。この時広村の戸長は仁右衛門、竹中助太郎であった。
男山焼の事業不振、ついに閉窯さる。建物は12年湯浅山田小学校舎として移した。広小学校学級制度変更により上等3ヶ年、下等3ヶ年とする。児童は男134、女27名であった。津木神くさ滝社にこの年正月奉納の石灯篭銘あり、(10月、湯浅中川原に警察を新築、12名の巡査、常時全郡を巡回した。)
1879明治12年己卯2月、有田郡役所湯浅深専寺利生軒を庁舎として開庁。初代郡長鈴木三郎(16年12月まで)3月23日広村の戸長は久保源右衛門、後に橋本与平、村会議員公選、 議長互選で雁仁右衛門、副議長渋谷伝八、後に堂源右衛門。4月初めて県会議員選挙、5月5日、和歌山師範講堂で第1回県会開催、浜口梧陵初代議長となる。(ちなみに県会、村会議員及戸長は公選。選挙人は地租5円以上、20才以上の男子で人口比は4、9%であり、被選挙者は25才以上の男子、地租10円以上の者で人口比は2、7%であった。)
夏酷暑旱ばつ、毛付不能の所も出る。7月25日より8月1日まで、上中野雨乞踊を行う。(9月学制廃止。義務教育年限を16ヵ月に短縮。教育令公布。)(有田郡教育会発足、初代会長美山式、(広村に居住)
(今年みかん豊作、田栖川の三宝みかんこのころ出る。)7月17日、広、大神社(お伊勢さん)を大将軍社に合祀する。7月、津木村戸長椎崎 角兵衛。このころ津木村人口775人。戸数百55軒あり。10月27日、豪雨洪水あり。 (この年和歌山測候所へ気象台〉開設。) (6月、招魂社を靖国神社と改称。)
1880明治13年庚辰このころの広戸長久保源右衛門私財を投じて社会事業に尽す。上中野法蔵寺小手水鉢に、この年、3月施主大西伝七外とあり。3月、西広小学校分離して西広、唐尾の2校となった。3月、広小学校内に公立広夜学校(修業年限3年)を開設し、男子22名が入校した。 (12月、改正教育令公布、小学校義務年限を3年とする。昨年公布の教育令は教育に関する政府の権限を大幅に地方にゆずり、学区制を廃止したり就学義務をゆるめたりしたので、反対論起り、また改正されたものだが、結果は文部省の権限がつよまり全国画一的なものとなった。)8月、村社井関稲荷社の祭礼をこのときから行う。津兼王子社を御旅所とした。当時の戸長、長谷庄兵衛、筆生宮崎金兵衛らの名見ゆ。この年、明王院の明細書あり。
1881明治14年辛巳(1月16日、菊地海荘東京の自宅で歿、83才。) 7月、殿小学校は、上中野のみを就学区域とする上中野小学校を開いたため分離する。上中野小学校のこの時の教員宮原貞次郎7月13日、法蔵寺総本山より準檀林格を許可される、26世頓空代。
9月13日、暴風雨家屋田畑に被害あり。 (10月26日、有田郡のみかん方会議発足。) (10月12日、国会設立の詔出る。23年に開設。) このころ米値段上米1石、10円40銭。中米9円92銭。下米9円80銭。酒は1升19銭から17銭であった。
1882明治15年壬年(1月4日、軍人勅諭領布)2月、下津木小学校校舎を増築、児童数30名。当時津木地区には、前田、上津木、下津木、岩渕の4校があった。3月、浜口梧陵、木国同友会を組織して金千円を寄附する。6月、広小学校学制変更、初等3年、中等3年とする児童数男149、女57名。6月15日、西広小学校学制変更、初等中等とする。同じく井関小学校も同様。
7月18日、有田川洪水。夏霖雨、土用中もつづく。8月、井関稲荷社祭礼に青木村より3面指南を受ける。11月、古垣内安兵衛上津木戸長になる。この年耐久塾舎を新築して24坪の校舎にする(現在の記念館)このころ広村の戸数516戸あった。この年広村に気象観測所を設ける。(大正9年廃止)
1883明治16年癸未(4月、湯浅で郡内製茶共進会開催。) 春より夏にかけて65日間雨降らず、稀有の大ひでり、池がかりの田は米収皆無、種もみも得られなかった所もあった。7月9日より15日まで、16日より22日までいずれも上中野で雨乞踊を行う。8月19、21日に相当な降雨があったが、追いつかず飢饉年といわれた(北陸方面より米入荷する。) 津木地区では96日間ひでり収穫ほとんど無し。(7月1日、教科書認可制度実施、文部省小学校修身書出来る。)
9月13日、暴風。(12月鈴木郡長海草郡に転じ、野田四郎2代目有田郡長となる、37年5月まで。) 12月、耐久社改築27坪にする費用490円。このごろ柳瀬、名島村等6ヶ村戸長長谷定五郎の名が見える。12月、広三昧に石蓮台を設けた。浜口儀兵衛、同吉右衛門、浜口藤之助、同仁兵衛、岩崎重次郎、同吉兵衛各氏の寄附による。(この年、有田郡内の人力車数、108台あった。) (7月18日、有田物産共進会開催さる。) (10月20日、松本鼎4代知事になる、22年12月まで。) (この年県令の告示がでて山林の乱伐を禁じる。)
1884明治17年甲申5月30日、浜口梧陵、横浜出帆渡米する。7月1日、戸長役場の管轄が変更、連合戸長になり、何村外何ヶ村戸長役場と称し、これは明治22年町村制施行までつづいた。
7月8月、雨少し。 (8月、神仏教導職 〈神官僧侶の職制〉を廃して総て各管長に一任する。) 9月12日、暴風広小学校舎大破。このころから19年へかけて郡内に除虫菊が入った。 (5月、吉村英微、梧陵の勧で湯川氏宅にて医開業する。32、3年ごろ湯浅に移る。) この年、田中善左衛門、岩崎明岳、崎山半右衛門等協力して、広村に蚕業伝習所を開設した。 (このころの労力賃金は、上等男年給、15円以下、同男口雇12銭。上等女年給、6円以下、同女日雇6銭ぐらいだった)この年、東町地区一致協力、区の持山として霊岸寺山を購入する。
1885明治18年乙酉1月、乙田天神社の氏子を和田、山本、唐尾、西広各村惣代により再確認をした。4月21日、浜口梧陵ニューヨークにて客死する、66才、淡濃山麓に葬る。(6月6日、石田冷雲京都にて客死、64才。) 6月、下津木小学校、字権蔵原に新築移転する。7月、上中野小学校は山本小学校と合併、学区は唐尾、西広、山本、上中野、南金屋となる、訓導池下丈之助、授業生(助教師)片山源之助。井関小学校学区を井関、河瀬、柳瀬、殿、東中とする。(この年教育令再改正。公立小学校は授業料徴集するを原則とする。)
8月、雨少し。(11月9日種痘規則公布。しかしこの後にも流行した。)2月22日、太政官制度を廃止。内閣制度とし、第1次伊藤博文内閣成立する。)
1886明治19年丙戌(3月2日、帝国大学令、4月10日、小学校令、中学校令、師範教育令を公布。「国家のための教育」を強調されだす。) (5月10日、教科書検定制度成立。小学校の学科および程度、小学校簡易科要領制定。小学校を尋常科(4年)高等科(2年)の2つにわけた。)
6月、広村にて牧畜会社を設立、五島常治郎、小瀬新兵衛、渋谷善七、小原重助ら発起。(7月、県令を知事と改称する。) 12月、広小学校宇田分校を開設、3ヶ年の簡易科とする。男28、女6名が就学した。
1887明治20年丁亥1月14日、広村外2ヶ村戸長、仁右衛門。2月、3月ひでり。2月、上津木小学校は校舎として使用してきた安楽寺の本堂を取除き新校舎を新築(18坪余) 学区は落合、中村、猪谷。4月、下津木小学校はまだ寺小屋式授業をしていた 前田校を合併、 下津木尋常小学校となる。 学区は前田、猿川、寺杣、滝原。4月1日、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋の5ヶ村合併して山本村に校舎を設け、山本尋常小学校と称し、唐尾には3年までの簡易科をおく。同じく井関校は井関尋常小学校と改称。
(6月28日、水産取締規則を定め漁業組合を設立するようになる。) (郡内に茶の栽培、肉桂の植樹など盛んになる。) 9月19日、男山焼陶工だった土屋政吉(光川亭仙馬)湯浅で歿、78才。(8月、大出水箕島安諦橋流失。)
このころからハゼの木を伐り、みかん畑に改良することが行われだした。(初めて有田みかん北米へ輸出したのもこの年。) 広小学校学制変更、4ヶ年の尋常小学校となり、初めて校長をおき、岩崎英孝兼任する。児童男143、女57名であり、初めて1ヶ月6銭以下の授業料を徴集することにした。(徴兵のがれ、鎮台よけと称した名義上の戸籍変更はこの年ごろから禁止された。)(12月20日、保安条例施行。中江兆民、尾崎行雄ら弾圧さる。)
1888明治21年戊子(4月、法律第1号を以て市制及町村制公布。わが県は1市228町村1組合となった。) (県会議員の定数を44名とする。)
7月23日、津木、南広地区方面大暴風雨、山本、上出にて家屋全壊殆んど。乙田天神社地の樹木が殆んど倒れたのに社殿のみ残ったと言はれる。津木地区にて全壊家屋26戸、大木を倒すこと数百本、稲作も畑作も果樹も収穫皆無。村民一同困窮する。8月30日、夜暴風雨、日高、有田両郡も惨害を受ける。広地区も風水害、船舟の損害、倒潰家もでる。
この年、熱田共立汽船会社熱田大阪間に定期航路を開始。それまでにも広へは寄港した。渋谷伝八らの奔走による。(11月1日、和歌山区裁判所湯浅町仙光寺に開庁。27年に道町に移転。) (黒田隆内閣)この年4月中、米価大暴落。期米最低4円73銭、正米最低4円56銭。
1889明治22年己丑(2月11日、大日本帝国憲法発布)2月22日、市町村制が実施、町村の分合が行われ、従来の戸長役場を廃して市町村長、市町村役場がおかれた。その結果以前の前田、下津木(猿川、寺杣、滝原、岩渕)上津木(落合、中村、猪谷)の各村が津木村となり役場を椎崎角兵衛宅におく。山本(池上を含む)上中野、西広、唐尾、南金屋、中村(東中)、柳瀬、殿、井関、河瀬(鹿瀬を含む) 名島の各村が南広村となり、役場を南金屋の蓮開寺の1隅においた。和田村と広村とが広村となって、役場を、現在戸田信一郎氏の屋敷になっている所においた。ここに広川町以前の3村が成立した。それぞれの初代村長は津木村は古垣内安兵衛、南広村は宮井重儀、広村は仁右衛門であった。(3月23日、土地台帳規則を公布、地券は廃止。)
4月、3村に巡査駐在所を設置、広は浦氏の借家、後に円光寺門の側。南広村は蓮開寺の1隅。津木村は広源寺、坂ノ下に置いた。
8月19日、台風四国中部を北上、県下未曽有の大被害を受けた。大洪水、山津波、倒壊流失家屋死者多数。当地区も下記のような被害を受けた。死者津木で男1名。家屋全流失南広4戸。津木2戸。半流失南広4戸。津木1戸。全壊南広1戸。津木11戸。半壊広2戸。南広6戸。津木11戸。床上浸水広35戸。南広77戸。津木3戸。舟流失広1隻、破壊広1隻。家財流失、広2千5百円。南広千70円。津木千6百円。木材流失、津木50円。県道決潰、広162間。南広68間。破損、広3間。南広308間。里道決潰、広29間。南広750間。津木126間。破損広41間。南広千110間。津木160間。橋流失、広5。南広8。津木205。田の被害流失、広3反、津木、南広不明。浸水、広679反。南広833反。津木639反。地盤決壊広20反、南広480反。津木692反。畑被害、広78反。南広17反。津木5反。宅地流失、広1反。南広1反。津木2反。堤決壊、広214間。南広1643間。津木337間。山崩、南広90間。津木1066間などであった。この時、広川は上流津木地区での増水40尺(約12m)。最底で15尺。下流地域でも最高30尺。最底10尺に及んだ。南広では役場に避難者70名を収容した。又下津木では小社1宇が流失不明になった。
9月11日、大風雨各川再び洪水被害あり。(地租の米納廃止。) 上中野小学校は昨年8月風のため校舎を破壊、この年9月27日遂に山本校を分離する。上津木小学校、上津木簡易科小学校と改称。西広尋常小学校を設置、学区は唐尾、山本、西広とする。9月27日、上中野尋常小学校を創立、法蔵寺の坊舎を仮用。学区は上中野、南金屋、名島で児童は男47、女12名であった。この年米凶作。(10月1日、文部省、教員学生生徒が政治について討論などすることを禁止する。) (第1次山県有朋内閣)2月、石井忠亮5代知事になる、24年4月まで。
1890明治23年庚寅(5月小学校令公布) (7月1日、第1回衆議院議員選挙) 10月5日、風水害広川出水する。(10月30日教育に関する勅語下る。) この年夏より県下コレラ大流行死者981名、患者1333人出る。西広地区に「傷寒年」という言葉がのこっている。(この年有田郡の人口6万7千余あり。) 各村内学校に教育勅語謄本を拝載し、事ある毎に奉読するようになった。
広市場の波止附近修理、道路も1部改修、殿井橋架替完成。この橋は河瀬橋とともに、広村渋谷伝八が私費で架設して橋銭を徴集した(10年間)、ただし南広住民は無料とした。このころ南広村の戸数は、南金屋45。上中野71。山本73。西広86。唐尾70。殿35。井関101。東中31。柳瀬23。名島28。河瀬31戸あり。(11月、第1回帝国議会召集さる。)
12月、米価暴騰する。(第1次経済恐慌おこる。)
1891明治24年辛卯上津木簡易小学校、上津木尋常小学校と改称。(10月20日、湯浅祭りに馬90頭出たと伝う) (11月29日、有田郡教育展らん会を湯浅深専寺で開催。) (第1次松方正義内閣) (23、4年と不景気で、日稼人の働き口もなかった。) (4月9日、千田貞暁6代知事になる、25年1月まで。)
1892明治25年壬辰1月7日、下津木小学校新令により下津木尋常小学校と改称、単級編制であった。3月、浜口吉右衛門、同儀兵衛、岩崎明岳相図り耐久社員を募り維持方法をたて中学校普通教育を授け、郡長野田四郎を舎長とする。4月、浜口興教耐久舎教頭となり、本科3年、予科、普通科を設け補習科もおく。(7月1日、有田郡同友会を深専寺で開催出席者270名。)
7月22日、暴風雨あり。津木村夏明妙見社庁舎再建。同村高野八王子社再建。(この年湯浅に天理教会。金光教会が出来たという。) 水越峠車道成り、殿、大滝、水越畑に人力車、牛馬力車道の便がひらける。(湯浅に紀州航路扱店開業。)1月、沖 守固7代知事となる、30年4月まで。) (第2次伊藤内閣)
1893明治26年癸巳1月8日、西広小学校尋常小学校と称す、単級編成である。(3月27、8日、有田郡米麦品評会を湯浅で開く) 4月、浜口梧陵の記念碑を広八幡社山に建つ。(勝安房撰文並題額) 5月11日、湯川良祐、広村長になる。
夏47日間ひでり干害あり。7月より赤痢発生、郡内患者2千6百人、死者8百人を出す。広川町内にも各所に散発した。赤痢年といっておそれた。7月、山本明神山雨司明神社手水鉢に、山本松下伝三郎、池上北原平助、西広古川長助、唐尾森喜蔵、金屋西谷惣右衛門の銘あり、
8月16日、台風紀伊水道を北上豪雨あり。(10月1日、教育団体に対し政論を禁止、箝口令である。実業補習学校規則制定。「祝日、大祭日歌詞楽譜」を公布。式日などで「君が代」をうたわすようになる)。
1894明治27年甲午(1月7日、有田病院開業。) (8月1日、清国に宣戦布告。) 7月26日、安楽寺16代興教、耐久舎を退職、栖原極楽寺に帰る。(また県下に赤痢発生、患者4千3百余あり。)
8月11日、暴風雨、広川の川口つまる。(このころより「婦人従軍歌」歌われる。)
1895明治28年乙未(4月17日、清国と講和条約調印。) 日清戦争戦死者は郡内で17名。唐尾、井関から各1名の犠牲者が出る。6月、乙田天神社常夜燈2基、池ノ上森口丈助の銘あり。
夏赤痢また発生、連続3年である。9月ごろには類似コレラ患者まで出た。7月14日、「森の宮」の虫送り松明ふり行事を、駐在巡査によって中止を命ぜられ、地区民との間に、もんちゃく起り騒動となる。以来この伝統ある行事も中止されてしまった。この年、米1升10銭した、大変な高騰である。(この年有田郡の学齢児童数1万1千536名中、就学児童は5千815名であり、50・52%であった。 (3国干渉あり。)(「勇敢なる水兵」歌われる。)
1896明治29年丙申4月、津木中村、鎌谷七右衛門。落合、古瀬角蔵。老賀八幡社に直鍮燈篭1対を寄附する。5月25日、広村百姓一同自作小作約160名連署し、新池開鑿の嘆願書を提出する、発起人渋谷善七。(6月22日、湯浅町制施行。) 6月29日、湯川小兵衛広村長になる。
8月30日、台風四国南東端より県中部に上陸、各川洪水。(10月湯浅税務署、深専寺有陽軒に開庁。) 12月、古田詠処還暦につき自適集1巻を選す。
(このころより有田郡内に初めてネーブル栽植する。) (この年より盆おどり禁止さる。) 旧4月18日、西広手眼寺の遠州坊さま(小笠原文良)歿。
1897明治30年丁画1月10日、浜口恵璋耐久社に来る。(9月26日、安楽寺住職となる。) 1月、浜口梧陵の記念碑を銚子妙見山に建つ。(勝安房題額、重野安繹選文)3月、野田四郎耐久舎長を辞し、浜口吉右衛門舎長となる。3月31日、西島新一南広村長となる。5月津木街道完工。南広村境河瀬橋より前田、猿川、寺杣、落合、中村、鹿瀬山麓に至る2里半弱。
7月、8月ひでり、約30日間雨少し。8月4日、8代浜口吉右衛門(熊岳久道) 東京にて歿、64才。6月5日、古社寺保存法公布さる。郡制実施、有田郡会初めて召集さる。) (この年、有田郡の就学歩合男80・14、女44・46。) (地方視学官、郡視学、県視学をおく。)「軍艦マーチ」はやる。(この年森林保護法公布造林につとめる。)(4日、久保田貫18代知事になる、31年10月まで。)
1898明治31年戊戌1月広小学校々舎改築起工〜6月11日落成。1月、山本光明寺々格許可香衣地となる。2月観音講より11面観音菩薩1体を寄進する。6月、広伝染病隔離病室を新築する(天州浜)。8月10日、第6回衆議員選挙浜口吉右衛門当選する。9月6日、大暴風雨あり。(8月岩崎明岳、浜口慶治ら広出身者により銚子木国会を組織する。) 11月27日、西村天囚、南遊の途次古田咏処を訪う。(12月29日、第2回田畑地価修正。) (有田郡初めて柑橘品評会を開催。) (32年へかけて第3次伊藤。第1次大隈。第2次山県各内閣。) (10月、野村政明9代知事になる、32年4月まで。)
1899明治32年己亥(3月7日、大和紀伊強度あり。) (4月1日、大阪商船大阪田辺航路開設。湯浅港に寄港。) 4月、広小学校に高等科を併置する。高等科は南広全部を包含する。3月14日、古田庄右衛門、広村長になる。10月、井関長谷定五郎、有田郡会議員に当選する。(36年10月まで。 このころ、西広戸数76。唐尾68戸ありとの記録あり。
(有田郡農会を湯浅有田郡役所内に創設する。) (4月、小倉久10代知事になる、33年10月まで。)
1900明治33年庚子(3月1日、学生生徒及児童の身体検査規定制定。)5月、古垣内村長在職12年余で退職、岩崎市右衛門2代津木村長になる。 7月19日、覚円寺瑞廉歿。9月、広小学校第1期増築をする。
9月27日、台風洪水被害あり、広八幡社石燈篭など倒れる。10月8、9日岩崎明岳所蔵品展らん会開催。11月、ペスト患者湯浅に発生。34年まで羅病者19名あり。西広にも1名出る。12月井上円了来広する。(県農会町村農会発足、農会法は前年公布、産業組合法公布、重要物産同業組合法などこの年公布。) (5月17日、井爪丹岳歿。) (小学校令施行細則で「君が代」を国歌として必ず唄うことを定める。) (第4次伊藤内閣) (10月椿蒸一郎、11代知事となる、36年6月まで。)
1901明治34年辛丑(湯浅のペスト4月に入りやむ。) (宮崎村町制施行、箕島町と改称。) (郡農会稲作改良のため短冊苗代を奨励する。) 1月、広宇田分校改築する。2月、山本光明寺薬師堂屋根営繕、寄進、山本、池上、西広、唐尾より。4月、耐久舎学制改革、高等小学校3年修了者を入学資格とする。6月10日、正覚寺松下皆順歿。12月、南金屋の山田松玄、広村湯川家の前に医を開業する。後湯浅に移る。(12月25日、有田新聞第1号発刊。) (和歌山城、公園となり、一般に公開される。)このころより「鉄道唱歌」「金太郎」「桃太郎」「鬼と亀」「浦島太郎」などうたわれる。(第1次桂太郎内閣)津木村人口、1849名(男939、女920)戸数310あり。
1902明治35年壬寅(1月30日、日英同盟成る。) 3月9日、犬養毅東浜口家に来る。6月池永市太郎、広八幡社へ石燈篭を奉納する。
7、8月低温多雨稲作況不良。(8月15日吉村英徴衆議院議員当選。) 8月中、津木清水崎妙見社、同丸山妙見社、同権蔵原権田神社、東中妙見社を、また10月中公門原天神社、夏明妙見社をそれぞれ老賀八幡社に合祀する。10月24日、湯川小兵衛広村長になる。11月、上中野梅本楠2郎、名島崎山政助、八幡社の官有林を買受け神社に寄附する。同16日、倉田積広八幡社に詣ず。この年、下津木尋常小学校舎建築移転する、字716番地へ。
1903明治36年癸卯3月15日、耐久社教室増築、27坪落成。修業年限を4ヶ年とし4学年を2分し第1部を高校に入学するもの、他を実業に従事する者とに分つ。(4月、小学校教科書を国定とする、37年実施。 5月銚子木国会「紀国人移住碑」を銚子妙見道口に建てる。6月岩崎明岳帰郷。
7月8、9日、暴風雨。清水で雨量380mm、有田川の増水1丈4尺、安諦橋流失、流域各地被害甚大、当地方も相当の被告あり、殿井橋や広橋も流失する。
9月23日、また暴風雨あり。10月、池上森口忠左衛門、有田郡会議員に当選。(44年10月まで) 12月13日、広村内有志ら会して毎年11月5日に、海岸堤防に土置きすることをきめ、津波50回忌を営む。(津波祭りの始まりといえる。)この年、下津木岩渕分校は従来寺小屋式であったのを校舎新築、1学級編成とする。南広村上中野、西広、井関の3尋常小学校を合併、南広尋常小学校と改称し、本校を上中野に、西広、井関の両校を分教場とする。児童数男54、女52名、教員5名、4月5日から発足した。8月、広小学校同窓会ができた。会員338名。この年、広及び唐尾に漁業組合できる。(6月、清棲家教12代知事になる、40年1月まで。)
1904明治37年甲辰1月6日、竹中茂兵衛広村長になる。2月、浜口帰朝、帰村し3月衆議院議員当選。(2月10日、露国に宣戦布告。) 3月、浜口吉右衛門耐久舎長を辞し宝山良雄舎長となる。(浜口吉右衛門、同儀兵衛、岩崎重次郎、浜口檐等評議員となる。) 4月、耐久中学校5年制となる。(5月佐佐木米三郎有田郡長となる(3代) 40年10月まで。)
7月9、10日暴風雨あり。 (小学国定教科書第1期〈黒表紙〉使用開始。読本巻1「イエスシ」なり。) (5月27日野田四郎〈梅倦〉歿、65才。) 9月7日、梧陵が植裁した防浪堤の黒松林が防潮防風保安林に編入。面積約4町歩。松数約1千本である。この年6月ごろ、「ジフテリア」各所に発生したという。)
1905明治38年乙巳3月31日、宮井重儀南広村長(2回目)となる。4月23日、耐久中学校講堂教室等落成、第10回卒業式挙行。(5月27日、日本海々戦。) 5月29日、広小学校に女子実業補習学校を併設する。(6月2日、津田出歿す。)
6月10日ごろより霖雨、7月26日、有田川大洪水。広川も洪水。流失田地7町8反。浸水99町。宅地1反3畝の被害。
7月広小学校第2期増築をする。養源寺境内1反歩を借り運動場とする。8月14日、浜口吉右衛門満韓視察より帰朝。8月19日南広小学校戦時記念林を鈴子丸山5町7反余に造成。毎年1回児童に松苗を植えさせる。 (9月5日、ポーツマス条約講和調印。) 日露戦争戦死者有田郡にて116名あり。うち上中野1名、井関2名、広5名、西広1名、猿川1名、山本1名、東中1名の犠牲者を出す。
この年全国的に米大凶作。 (8月、紀州有田柑橘同業組合創立。) 9月30日、安楽寺にて那耆青年会(第12回)を開催する。古田詠処、大阪にて自伝を選す。
1906明治39年丙午(2月10日、栖原でザトウ鯨を捕へる。) 3月29日、南広尋常小学校(上中野本校) 新築落成。4月1日より西広、井関両分校より4年生から本校に通学するようになる。4月2日、有田郡内の戦没者招魂祭を湯浅浜で行さる。4月、浜口檐、杉村広太郎(楚人冠)を同道帰村する。4月日、徳川頼倫、耐久社視察。
5月5日、西牟婁、日高、有田に強震あり。5月、津木村報徳社を結成、207戸が会員になる。6月耐久中学校専問学校入学無試験検定の資格を指定される。9月、西ノ浜に移転新築する、現在の校地である。
(6月、湯浅にペスト発生12月まで羅病者132名、死亡91名あり。)7月26日、台風雨。9月、広村忠魂碑を建てる。岩崎公健(明岳)の筆なり。10月25日、古田詠処(荘右衛門) 歿、71才。(12月17日、県より県下の神社を存置並に合併規準を示し1村1社に整理統合の通牒を出す。) (7月、湯浅山田に春秋閣図書館を設ける。) (12月24日、有田新聞廃刊。)
(この年、有田郡の柑橘裁培反別1510町2反余、527万7千6百貫の産額あり。) (第1次西園寺内閣)
1907明治40年丁未(3月、義務教育年限6ヵ年に延長。) 3月9日〜11日、米人G・T・ラッド博士夫妻(国賓)広村に来たり、耐久中学校視察、浜口容所邸に宿し、梧陵の業績を称讃する。また郡内学校教員及有志に教育に関する講演をする。(吉備実業学校、箕島実業学校開校。)
4月、広村にもペスト発生、患者2名死亡、約1ヵ月大混乱した。(4月「新有田」新聞(月3回)発刊。) この年、2月より11月にかけて津木村の小社21社を老賀八幡社へ合祀する。 7月29日、広八幡社佐々木五十鈴歿、89才。8月井関青年会創設、会員54名。10月、広村戸田保太郎有田郡会議員当選(大正4年10月まで。)(10月、松田巳之助4代有田郡長になる。大正元年12月まで。
10月19日、南広小学校にて農産物(特に米)品評会を開催。郡長佐々木米三郎知事代理として出席。) 10月26日、釋宗演来広、浜口吉右衛門宅に止宿。この年から明年へかけて井関、西広の両分教場校舎を改築。津木尋常小学校2学級編成、岩渕分教場は1学級で、1年より6年まで収容。この年鹿ヵ瀬トンネル成り、御坊まで車道がつく。この年、浜口容所、貴族院議員に当選。(1月、伊沢多喜男13代知事になる、42年7月まで。)
1908明治41年戊申1月、耐久社中学校令規定により私立耐久中学校と改称、浜口吉右衛門(容所)校主となり、独力経営にあたる。3月、第1回卒業式挙行。2月、西広青年会創設、会員40名。4月広小学校、旧役場、巡査駐在所を改築して校舎の1部とする。4月、津木岩崎村長退職。柳渕幸太郎3代村長となる。8月15日、広中ノ町にあった覚円寺を安楽寺に合併する。8月25日、下津木農業補習学校開設(男子)。10月、井関、河瀬、前田の10小社を前田八幡社へ合祀する。(10月13日、戌申詔書発布)10月20日、上津木、下津木川小学校を合併、村の中央部の落合に建築、津木尋常小学校と称し、上田利楠初代校長となる。11月、文部大臣小松英太郎広村に来り耐久中学校を視察する。(昨年の新令による尋常小学校は6ヶ年義務制となり高等科は2ヶ年、本年より実施)この年、広小学校学校林約6町歩を借入植林する。12月「おもひで草」成る(吉田詠処遺橋俳句集)。この年1月、南広村報徳会を創設、会員45名。
1909明治42年己酉(3月、歩兵第61連隊和歌山市に設置。) (日韓合併) 2月25日、下津木岩渕分校新築。この年3月、井関稲荷社合祀の跡地へ標石を建てる。津木村青年会創設7ヵ支部あり。男子13才より30才までを会員とする。4月3日、広小学校職員児童魂祭に参列する、以後恒例となる。4月8日、上津木石塚に鎮座の老賀八幡社を前田字宮前に移転、この月より6月にかけて附近の小社や境内社を前田八幡社に合祀。6月、老賀八幡と前田八幡を併合、津木村八幡神社と改称する。6月、乙田天神社を広八幡社境内にうつす。9月、県「郷土誌編さん要項」を定めて各郡市町村に示す。9月9日、午後7時、西浜口家出火全焼する。12月、宇田に自清会を結成する。この年、津木街道を県道に昇格編入さる。この年津木村の人口は1910人、男984、女926、戸数309軒であった。またこの年、津木村巡査駐在所を権蔵原に移転新築する。(第2次桂内閣) (7月、川上親晴14代知事になる、44年9月まで)
1910明治43年庚戌(2月、有田郡農会、田殿村に園芸試験を設置する。) 3月、広小学校宇田分校を廃止、全員本校へ登校。
3月15日、南海水力電気開業、広湯浅に電燈がつく。このころ湯浅郵便局に公衆電話開通する。
5月11日、暴風雨沿岸被害多く県下では死傷者も出る。7月21日、南広中央青年会発会式を行う。会員62名。
12月24、5日南広農業補習学校生徒農産物品評会開催、出品点数155、内授賞48点、この行事は恒例となり今に続く。12月中、広村の諸小社を広八幡神社に合祀する。 (4月1日より第2期改定国語教科書使用実施。読本巻1「ハタ タコタココマ」)
1911明治44年辛亥3月31日、広安楽寺にて親鸞上人650回忌法要を行う。4月、前田津木八幡神社の石段を5ヵ年計画で新造(250円)4月、津木青年会会員173名。4月21日、浜口梧陵祭を八幡社の碑前で執行。南広小学校校舎増築、ここで上中野小学校以来23年間仮用していた法蔵寺の廃院(奥ノ寺)とも別れることになった。
6月10日、午後8時強震あり。6月19日、暴風雨。7月、米価あがり庶民窮乏する。)
9月21日、広湯浅に電話開通する。
(9月22日、豪雨、有田川洪水1丈6尺、堤決潰10ヵ所)。9月、山本青年会創設、会員28名。10月、上中野馬所楠五郎有田郡会議員当選(45年7月まで。) 11月、森兵四郎4代津木村長になる。12月、法蔵寺本堂再建上棟。28世光道代。 この年浜口容所再び貴族院議員に当選。 (有田郡役所新築落成。) 4月、広村青年団「広陵」創設会員65名。 第2次西園寺内閣) (9月川村竹治15代知事となる、大正3年6月まで。) (6月10、有田紀伊新報創刊。) 8月唐尾青年会創設。会員67名。 (この年国定歴史教科書の「南北朝併立」の記事が衆議院で問題になる。南朝正閏問題である。文部省教科書の記述を改め、これから楠木正成が大忠臣となる。)
1912大正元年壬子(45年7月30日改元。(明治天皇崩)2月暖冬、明治23年以来のことである。3月、南広尋常小学校高等科を併置する。(今まで湯浅、広の高等科に通学していた者もどる。高等科1年男20、女5、2年男15、女4名であった。)3月、山本光明寺に吉水広瑞転住。(3月「新有田」紙月6回発行となる。) (6月「有田紀伊新報」月15回発行、11月20日に廃刊となる。)
7月2日、暴風高潮あり。8月、池ノ上森口忠左衛門有田郡会議員当選(4年10月まで。) 9月23日、台風紀伊水道北上、暴風雨高潮、海陸ともに被害大、広、田栖川の被害多し、広防波堤破損死者1名出る。
11月、森村長1年で退職栗田安龍5代津木村長となる。(11月岩河虎三郎5代有田郡長となる、5年6月まで)(湯浅町山家町(大宮通)改修。栖原坂切下改修。) (第3次桂内閣)
1913大正2年癸丑2月、耐久中学校宝山校長辞任。(「新有田」紙1月より月10回発行。) 3月17日、西広字大場の山林約1町5反、保安林(魚付)に編入、山本長吉所有林。
3月30日、紀伊地震。津波現象あり、広も高浪おしよせたが梧陵の防浪堤により被害なし。4月4日、西島新一南広村長になる。5月津木村忠魂碑を老賀八幡境内に建てる。5月9日、香川直勝、耐久中学校長として来広。6月14日有田郡役所内元教育品陳列所を図書館とする。)
6月より8月にかけて雨少なく、各地で雨乞、火振り行われる。7月5日、南広村各大字毎にあった青年会を統一する。9月15日、南広青年総会(第1回)を開く。12月11日、浜口容所娘、52才(9代吉右衛門)。(この年有田軽便鉄道起工。また有田郡青年会を設立。)(第1次山本権兵衛内閣。)
1914大正3年甲寅この年、前田の奥の谷をせきとめ大正池完成する。費用は利用者の耕地反別に割当る。広、栗原長兵衛、東中、蔵本新太郎らが、広南広耕地整理組合を設け、この池築造に奔走した。水量32万屯。広、津木、南広の水田約2百町歩の灌漑用水となる。(1月、桜島大噴火、この地方にまで降灰あり。) 3月5日、岩崎明岳(重次郎)銚子にて歿、85才。3月23日、津木小学校高等科を併置、津木尋常高等小学校と改称する。
5月30日、猪谷往来車道完成、これで津木坂を越えることなく県道に連絡する。7月徳川頼倫、耐久中学校視察。7月27日、高浪のため広川口閉塞、川水はんらん湯浅にて浸水180戸。 (8月23日ドイツに宣戦。) (11月、県にて「和歌山県誌」上下を発刊。)
(イセリヤカイガラムシ有田で発見、青酸ガスくんじょう実施さる。) この年津木村役場「津木村郷土誌」を編さんする。 (カチューシャの歌全国に流行する。) (第2次大隈内閣)
1915大正4年乙卯2月21日、南広処女会設立、会員140名。3月26日、広八幡神社来国光銘短刀、国宝に指定。
5月11日、暴風雨。(5月28日、有田軽便鉄道開通、湯浅海岸より金屋口まで。) 6月多雨、7月酷暑。この年日高郡より、ケシ種子を得て裁培を始める。以来麦の裏作として広、南広地区は全国でも最大の産額をあげるに至る。10月、広、玄後市郎兵衛。井関、衣川文三右衛門有田郡会議員当選。(8年10月まで。) 10月16日、南広村忠魂碑除幕式。法蔵寺境内に5月建立したもの神尾将軍筆。11月御大典祝賀で各町村踊りまわる。11月10日、浜口梧陵に従5位贈叙さる。12月、津木村にて製炭講習を行い、末日に終了。品質改良をめざしてなり。(この年5月有田郡役所「有田郡誌」を発刊。)
1916大正5年丙辰1月、暖冬平均気温従来の最高記録といわる。4月4日、南広尋常高等小学校へ裁縫学校設置、尋卒を乙部、高卒を甲部とする。新入生38名あり。5月9日、香川耐久校長辞任、近藤寿治校長事務取扱になる。(6月、柳瀬謹三、6代有田郡長になる。8年6月まで) 6月より7月にかけて梅雨執拗。12月9日、崎山房吉、広村長となる。(寺内正毅内閣)
1917大正6年丁巳1月酷寒、平年より1、3度低温。みかん凍害あり。1月、丸畑雄治郎、津木村長となる。4月1日、直山政吉、南広村長となる。6月17日、耐久中学校改称10周年記念式挙行。近藤寿治校長就任。 7月3日、津木尋常高等小学校に補習学校女子部を附設、入学生25名。7月、8月、雨少し。10月4日、「紀州有田柑橘同業組合」代議員20名のうち湯浅広で1名、南広、津木で1名を選出さる。(10月、ロシア革命。11月7日、ソビエト政権成立。) (10月17日、菊地海荘に従5位を贈位さる。) この年、広尋常高等小学校増築工事落成する。
この年、米不作、県下で平年作を7万石も下廻る、10数年来の凶作。
1918大正7年戊午1月2月、雨少くひでり。米価高値をつづけ、8月になり石50円に達す。全国所々に米騒動が起る。湯浅町にても8月9日から10日にかけて騒動が起った。 (8月、シベリア出兵。11月、第1次世界大戦休戦条約調印。) 9月24日、暴風雨県下被害あり。秋より流行性感冒(スペインかぜ)世界的に流行。当地方にも曼延死者多数出る。各村で学校閉鎖のところも出た。
この年、広村経由の湯浅衣奈県道乙号線完成。4月1日、国定第3期改定教科書使用、読本巻1「ハナハトマメマス」(元年ころから新教育運動が起り、全国的に自由教育、児童中心主義の教育が盛んになった。) (原敬内閣)1919 1919 大正8年 己未 (1月 パリ講和会議) (戦後諸物価騰貴する。) 3月、雁仁右衛門(楓岡)歿、66才。4月23日、永井徹、広村長となる。(5月9日、郡立有田高等女学校湯浅町に開設。)6月6日、広八幡社佐々木誉志雄歿、51才。7月1日、広村シベリア出征軍人凱施歓迎会並に平和克服祝賀会を広小学校で開催。 (8月6日、7代有田郡長松本三郎就任。9年6月まで。)
夏8月、ひでり、9月霖雨、作柄不良。9月1日南広小学校で「ケシ」裁培「アヘン」製造に関する講習会開催、出席者3百名あり、10月、広、橋本忠次郎、上中野、馬所楠五郎、有田郡会議員当選(12年3月まで) 秋はしか流行する。(11月3日、田中善吉(考敦) 贈従5位。) (このころから民力涵養運動起る。)
1920大正9年庚申4月1日、私立耐久中学校主浜口吉右衛門、校地校舎現金を寄附して県立に移管する。両浜口家及び戸田保太郎の甚力による。「和歌山県立耐久中学校」と改称する。
4月、戦後の金融恐慌おこる。5月、湯浅町の柿本銀行閉鎖さわぎあり。4月10日、浜口梧陵翁銅像を和歌山県会議事堂の傍に建つ(後城内に移す)。(6月、前田甚之助8代有田郡長になる、12年3月まで)
7月、井関三船池の樋を改修してトンネル式にする。 8月4日、台風高浪の被害あり。9月21日、大風被害甚大。(10月1日、第1回国勢調査) 11月5日、杉村楚人冠著「浜口梧陵」浜口梧陵銅像建設委員会により出版する。12月22日、広村共栄会をおこす。(大正デモクラシー高潮に達す。) (この年第1回メーデー)。
1921大正10年辛酉1月20日、有田郡会の決議により耐久中学校県立移管につき両浜口家および功労者戸田保太郎に対し感謝状を呈す。(1月14日、紀勢鉄道和歌山から着工する。)3月12日、法蔵寺に光明寺関本管長来る。(6月1日、文部省通俗教育を社会教育と改める。)
夏ひでり。9月25日、台風県下被害多し。10月4日、南広裁縫学校を廃し、農業補習学校女子部とする。12月、西広直山政吉、産業組合有田郡部会初代会長になる。
この年ごろより天王波止場内に「アサクサノリ」の養殖をはじめる。(枯れススキの歌大流行。)(高橋是清内閣)
1923大正11年壬戌3月、耐久中学校長近藤寿治転任。松扇得悟校長来任。 (3月1日、湯浅税務署南栄の新庁舎に移転。3月3日、京都にて全国水平社結成さる)。
6月雨少し。7、8月酷暑気象台観測開始以来の記録、8月13日には37度あり。8月15日、法蔵寺玉瑞、山本光明寺へ本魚1口を寄進する。9月10日、古田庄右衛門(信堂) 大阪天王寺にて歿、63才。9月16日、法蔵寺玉瑞歿。10月31日、各村小学校、耐久中学校にて学制発布50年記念式を行う。11月5、6日、耐久中学校創立70周年記念式典挙行。小川琢治理博、浜口檐両氏の記念講演あり。
11月30日、広村郵便局開設、局長金丸幸太郎。 (このまえ大正4、5年ごろから浦清兵衛が簡易局を開いていた。) 11月、津木農業補習学校主催の第5回農産物品評会開催する。(籠の鳥の歌大流行) (イタリヤファシスト内閣成立。) (加藤友三郎内閣)
1923大正12年癸亥1新月1日、新農会法により広村農会設立会長栗原長兵衛。(3月小野浅次郎9代有田郡長となる。)
6月23日、暴風雨、各川増水。7月、8月ひでり、約40日間雨少く酷暑、虫害で凶作。
7月、広村同和会設立。9月1日、勤倹奨励会設立。 (関東大震災。) (11月10日、国民精神作興に関する詔書発布。) 12月13日、広村愛郷会設立。
このころ、10年ごろからとも―米人J・H・ロイド師、日本聖公会の牧師として来広、雁氏の家で伝導する。現在ある教会はロイド氏が本国で寄附をつのり建設したものである。(第2次山本内閣)
1924大正13年甲子(2月28日、紀勢西線箕島まで開通。) 4月、県信用組合連合会有田郡支部開設、初代所長梶原政雄。広信用組合創立。5月1日、広尋常高等小学校の紋章を定める。6月、校旗をつくる。
6月中旬より8月中旬まで雨降らず、明治26年以来のひでりといはれた。(7月1日メートル法実施。) 8月13日、西牟婁日高有田強震。12月、内海紡績株式会社広工場設立 (後の日東紡広工場。)(この年大日本連合青年団発足。) (軍国主義教育高潮する。) (自由教育運動への弾圧強くなる。) (スットントン節流行する。) (14年へかけて清浦奎吾、第1次加藤高明内閣)
1925大正14年乙丑(2月22日、治安維持法公布。) (3月1日、東京放送局放送開始。)(4月1日、中学校以上に陸軍現役将校配属令公布。) (4月、湯浅紀伊万朝報創刊。) 4月、山本光明寺堀端年明「光明」誌発行。5月10日、還元社を創立する。
8月16日、暴風雨洪水あり。(12月10日、紀勢西線宮原駅まで延長開通。) (10月1日第2回国勢調査)11月29日より12月1日、広尋常高等小学校創立50周年記念式祝賀会を挙行する。(第2次加藤内閣)
1926昭和元年丙寅(15年12月25日改元、大正天皇崩。)3月、室河越往来県道昇格を請願する。3月17日、栗原長兵衛広村長となる。4月10日寺杣滝原間車道完工する。4月30日、方面委員選挙(現在の民生委員。) (6月30日、有田郡役所廃止。最後の郡長中筋松之助。) 7月、各町村に青年訓練所を設置、青少年に軍事訓練を実施する。)
7月7日、有田川、広川出水。7月、広上市場より通路のため防波堤1部切通しの所へ鉄扉をつける。8月、雨少し(8月8日、紀勢西線藤並駅開通。)(8月NHK設立。) このころから学校指導の下で小学児童の苗代の害虫駆除作業が行はれた。(1部では農業会の依頼で大正6、7年ごろから行ったところもあった)。12月7日、広小学校移転新築校舎第1期入札 (校地は現在所。) (この年国鉄由良トンネル開通。) (赤い屋根の文化住宅流行しだす。) (第1次若槻礼次郎内閣)
1927昭和2年丁卯1月、酷寒氷点下の日多し。2月、広火葬場に、煉瓦造かまを設け式場も建つ、経費は寄附による。(3月金融恐慌モラトリアム3週間。) 3月19日、広小学校新校舎第1期分落成、尋5年以上を収容する。(4月1日、大日本女子青年団創立。) (この4月から5月へかけて、米国より日米親善人形が各小学校に贈られ、その都度青い目の人形歓迎会を行った。)(5月、銚子の「紀国人移住碑」を妙見山境内に移転した。) 6月、池永柳潭、広村にて歿、75才。(7月、土地賃貸価格調査委員選挙。)8月10日、津木滝原トンネル完工する。8月13日、広村役場新築落成。
夏ひでり、農作物不良。 (8月14日、紀勢西線紀伊湯浅駅開通。) 10月10日、広小学校第2期工事入札。12月12日、第3期工事入札。(11月3日、を明治節とする。) 11月、栗原長兵衛「実験ケシ裁培とアヘン採取法」を著す(小冊子27頁)。11月、広村丁卯会を設立。 (12月16日、佐伯定胤、湯浅に来る。) (エロ、グロ、ナンセンス流行。) (田中義一内閣)
1928昭和3年戊辰1月、西ノ浜土堤の子安地蔵尊の堂宇を修繕、境地を整備する。2月7日、広小学校第4期工事入札、7月3日、第5期分入札。2月、院ノ馬場橋(新田川)コンクリート橋に架かえる。同じころ井関タイコ橋も同様。 (2月20日、普通選挙最初の衆議員選挙。) 3月7日、浄土宗西山派関本管長法蔵寺に来錫。4月22日、法蔵寺本堂満作供養法要執行。5月3日、南広尋常高等小学校創立50周年記念式を行う、この期に同窓会を創立する。(10月28日、紀勢西線由良駅まで開通。広小学校通学路に踏切が出来たので村より番人をおく。) (11月10日、即位式各町村祝賀行事で賑う。) 12月2日、有田地方強震あり。
1929昭和4年己巳1、2月ひでり飲料水に困る所も出る。(3月、摂陽商船、大阪商船紀州航路を継承就航する。) 3月31日より4月5日、石井咸一広村臨時村長代理となる。4月5日、栗原長兵衛広村長再任。4月6日、広八幡社本殿、若宮社、高良社建物国宝に指定。8月2日、岩渕車道完工する、約5ヵ年を要した。8月14日、滝原より小鶴谷へ車道完工する、当時の津木村長丸畑雄治郎。 (9月27日、本年度より産米検査開始さる。) 11月20日、有田日高強震あり。12月、喜田貞吉編「容所遺韻」成る。(浜口雄幸内閣)
1930昭和5年庚午(4月17日、盆踊り禁止布達廃止。) (4月、湯浅高等家政学校開校。)(5月24日、栖原施無畏寺に菊地海荘の碑を建つ。)
5月より7月ごろまで雨少し。(7月湯浅上水道会社設立、院ノ馬場。) 8月20日、戸田保太郎広村長となる。(9月9日、出口王仁三郎湯浅に来る。)月1日、第3回国勢調査)11月3日、広小学校講堂新築入札。(この年失業者40万人。世界的経済恐慌わが国へもおしよせる。) (金解禁実施。)
1931昭和6年辛未1月学童に流行性感冒まんえん臨時休業の小学校も出る。3月、広小学校新築落成式。 (5月16月官吏減俸、7月梅雨執よう農作不良。7月6日、明王院の兼務能仁寺辞任。湯浅町満願寺の兼務となる。7月17日、立川賢瑞、箕島新堂より山本光明寺に転住。7月28日、南金屋下馬の松(1本松)県天然記念物に指定。(9月18日、満州事変おこる。) 9月26日、明王院境内踏査、先代追悼会を行なう。(中学校に公民科設置。) ) (トーキー映画製作さる。「酒は涙かため息か」流行。)(第2次若槻、犬養毅内閣)
1932昭和7年壬申1月、暖冬雨少し。(1月28日、上海事変。) (5、15事件。) 7月、豪雨有田川出水。(満州国承認)。9月5日、「裁松宝山良雄先生」刊行さる。9月9日、新納忠介、国宝取調のため来広。(10月、日高銀行休業) (10月27日、燈火管制)11月15日、荒木陸相展墓帰郷。(全国農村欠食児童20万人。 (「影を慕ひて」流行。) (斉藤実内閣)
1933昭和8年癸酉(3月27日、国際連盟脱退。) 4月8日、殿村正法寺焼失する。4月15日、湯浅広築港防波堤起工。5月7日、耐久中学校創立60周年記念式典、挙行。6月14日、「感恩碑」建立地鎮祭を行う。(7月11日、鎌田一窓百30年祭を湯浅福蔵寺にて行はる。) 7月、山本西小広、「じょう穴古墳」県史蹟に指定。
8月1日、暴風雨あり。(10月1日、NHK大阪BK学校放送開始) 12月5日の津波祭に「感恩碑」の除幕式を挙行する、また浜口恵璋著「感恩碑の由来」を出版する。この年井関衣川文右衛門、前田の津木八幡社に保安林4反1畝を寄附する。鹿瀬峠のシイの大木、県天然記念物に指定。(小学校から軍国主義を教えこむ傾向が強まってくる。) (第4期国定教科書使用、読本巻1、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。)
1934昭和9年甲戌1、2月ひでり飲料水に困る所も出る。4月21日、梧陵翁50年奉讃会を組織、耐久中学校にて祭典挙行、また「浜口梧陵小伝」を出版する。広小学校はこれを記念しての肖像を各教室毎に常掲することにする。
7、8月夏ひでり30日間雨少く酷暑、水稲、柑橘にも被害出る。久しぶりで上中野「雨乞踊り」をする。9月21日、室戸台風、四国東部より北上被害甚大。暴風雨、高潮被害出る、辰ヶ浜、北湊被害甚大。このとき殿村出身栗山優教諭、堺市三宝小学校にて殉職する。12月22日、玄後宇一郎広村長となる。 この年、前田八幡社々務所を建立。(東北地方冷害飢饉おこる。) 岡田啓介内閣)
1935昭和10年乙亥1月30日、菅谷池改修なる。(2月6日、郡公会堂で衛生展らん会開催。)3月、白木トンネル完工、藤岡知事、荒木大将の銘文。山本黒岩より白木小浦までの車道出来る。(3月13日より21日、県醤油清酒品評会を郡公会堂で開催)。
3月、井関大滝上ノ段に畑地16町歩を開墾、昭和6年より着手した工事完成。4月26日、岩崎楠二郎広村長となる。5月、防波堤に鉄扉する。また西浜海面を浚渫し1部を埋立防潮林とする計画をする。5月下旬より6月中旬雨少く毛付困難な所あり。6月、紀州那耆保勝会設立(昭和15年事業中止。) 7月、天州浜に海水浴場を開設する。8月、岩渕観音寺を新築する。8月28日、暴風雨あり。9月19日広橋架替起工式。(この年6月青年訓練所、農業補習学校を廃し青年学校を設置義務制とした。) 12月8日、湯浅広港防波堤竣工式。(この年、愛国婦人会結成さる。)(天皇機関説問題おこる。)
1936昭和11年丙子1月、酷寒積雪あり。1月5日夜、殿村雲光寺焼失する(その後廃寺となる。)(1月15日、ロンドン軍縮会議脱退、無制限建艦競争にいる。)(2、26事件おこる。) 3月、河瀬王子社趾、県史蹟に指定。(3月、銚子木国会創立38年。「移住碑」建立より35周年の記念祭をした。)
4月21日、暴風雨河川増水。6月10日、広小学校にて「時の記念日」にちなみ町内の時計調査をする。時計所有戸数595軒、時計の数は899あった。6月、広橋架替工事成る(現在のもの) 7月17日、広小学校で遠泳を行い、鷹島天州浜間6キロに18名、小浦浜天州浜間3キロに26名の合格者があった。(9月25日、帝国在郷軍人会令公布、軍の公的機関となる。)このころ鷹島でメリーノ種緬羊を放牧していた。12月、異常高温、同月17日に23〜6度もあり。
ここ2、3年有田郡内のケシ栽培アヘンの生産は全国の9割にも達した。栽培反別は、南広村は郡内1位で252町4段8畝あり、津木村は73町3畝、広町で51町1段6畝であった。この年広防潮林補植と防浪堤補修を終り、西浜土堤耐久中学校門右側に記念碑を建つ。(「アアそれなのに」歌流行) (広田弘毅内閣)
1937昭和12年丁丑1、2月暖冬。3月1日、暴風雨あり。(4月1日、文部省「国体の本義」を全国に配布する。) 5月4日、広小上級生らハマユウ苗千本を天州浜東空地に植える。広小実習地として久徳氏より1反7畝余の田を備受ける。5月、広円光寺のソテツ。山本光明寺のクロガネモチ県天然記念物に指定。7月、法蔵寺の柏槇県天然記念物に指定(明秀上人手植と伝う)(7月、日華事変。国民精神総動員。8、9月酷暑旱天。 11月3日、コレラ子防注射を唐尾、西広方面の児童に行う。12月30日、南広小学校ピアノ購入。(「愛国行進曲」選定。「露営の歌」うたわれる。) (林銑十郎、第1次近衛文麿内閣)
1938昭和13年戊寅(1月、青年学校義務制となる) (3月、衣料キップ制) 4月1日「国家総動員法」公布) 5月1日、広村自治50周年記念式を行う。9月5日、暴風雨あり。(9月湯浅町営職業紹介所廃止。国営湯浅職業紹介所〈指導所〉発足)
10月17日、大風雨あり。12月14日、梧陵墓及広村堤防、文部省指定史蹟になる。(この年より満蒙開拓青少年義勇軍の募集さかん、当地より参加者あり。) (戦争文学盛んになる。「愛染かつら」の唄はやる。) (平沼騏一郎、阿部信行各内閣)
1939昭和14年乙卯(4月12日、米穀配給統制法公布) (4月全国の消防組は警防団に組織がへさる。) (5月22日、「青少年学徒ニ賜リタル勅語」公布。)
夏ひでり、上中野「雨乞い踊り」をする、大雨降る。山本、南金屋地区より礼米がとどけられた。この踊りもこれが最後になった。 (8月26日、統制法によって米の最高販売価格を玄米150kg当り38円に公定。)
(8月、椒村に東然工場起工式) (9月3日、第2次世界大戦おこる。) 10月15日、暴風雨、台風潮岬沖通過河川増水。(11月6日、米の公定価格を43円に引上げる。) (12月1日、白米禁止、7分つきに制限施行。) この年より小学校夏休みを廃し、児童の身心鍛錬運動はじまる。)
1940昭和15年庚辰2月、霊厳寺山に「開基之霊」石塔を建てる。(4月10日、米殼強制出荷命令発動する。) (8月1日、食堂などで米食の提供中止。) (8月1日、国民生活新体制運動始まる。)
8月26日、暴風雨。(9月10日、臨時米穀配給統制規則施行。) (9月11日、部落会、隣保班、常会設置を通牒する。) (9月27日、日独伊3国同盟を締結。) (10月1日、第5回国勢調査) (10月12日、大政翼賛会発足。) (11月1日、生産農民在村地主の自家保有米を除く総ての米を強制的に政府の管理下においた。) (10月10日、紀元2千6百年記念祝典。) (国民服制定さる。) 11月、耐久中学校奉祝記念として「郷土誌」を発刊する。紀元2千6百年奉祝として各学校林へ植林をする。 このころより学童たちドングリの実拾ひ、また草刈りなどして供出させる。(この年、小学校教員給料を県費支弁とする。それまでは各町村の負担であった。) この年浜口家の厚意により、今村明恒理博の「稲村の火」の教え方について、を再版、各学校各方面へ頒布する。(米内光政、第2次近衛各内閣)
1941昭和16年辛己(1月8日、「戦陣訓」公布。) (大日本青少年団発足。)(2月28日、尋常高等小学校の称を廃し、3月1日より「国民学校」と改称する。) 3月26日、衣川文一南広村長となる。(4月1日、生活必需物資統制令公布〈配給制になる〉、米の配給は1日に2合5勺とする。) 4月1日、吉水宏、明秀上人4百50回忌を修し「法蔵寺開山明秀上人御略伝」(星田義量著)を発刊する。(5月東燃操業開始)
6月11日、大雨洪水。(12月8日、米英に対し宣戦する。) この年より津木国民学校講堂建設及び運動場拡張工事をはじめる。学童たちに各村の道路清掃修理作業などをさせる(興亜奉公日と称して。) 各校とも、学校長を団長とする青少年団を結成さす。この年、各家庭から公共施設から金属製品を供出させる。このころもケシ栽培盛なり。(12月、新有田新聞廃刊。)(12月、新有田新聞廃刊。) 非常時で教育は益々軍国調になってくる。(文部省「臣民の道」を刊行「聖戦」を強調する。) (教科書第5期国定を使用実施、読本巻1「アカイ、アカイ、アサヒガアカイ」) (第3次近衛、東条英機各内閣)。
1942昭和17年壬午2月内海紡績。社名変更、中央紡績広工場と称す。(3月、愛国婦人会国防4月18日、米機来襲、空襲警報発令。) (東京初空襲) (5月、紀伊婦人会を村毎に結成させる。)万朝報廃刊。) 5月7日、耐久中学校創立90周年記念式を挙行する。(7月1日、有田地方事務所開庁(旧郡役所敷地)初代所長古久保隆一)
7月、酷暑ひでり32日間雨少く、7月としては64年間の新記録7月1日、食糧管理法施行、米の全面的統制はじまる。この年広川、山田川両河口浚渫する。本年の新嘗祭献殼(米)奉耕者として、井関石原文一、西広松下定一両氏が指定さる。
9月19日、暴風雨、台風四国沖通過河川増水。10月16日、戸田勝彦、広村長となる。各部落とも空閑地開拓作業を学童たちにさせ食糧増産の一助とすることをはじめる。(衣料点数キップ制となる)
1943昭和18年癸未1月1日より配給米7分つきから5分つきになる。) (団体統制令により農業会、漁業会として統一する。) (4月、県立湯浅保健所開所。) (6月、学徒戦時動員体制を令し、学徒出陣や工場作業に動員した。)6月10日第2回挙国造林大会並に大日本山林会より浜口梧陵に対して、広海岸防潮林育成の功により「有功章」を贈る、梧陵の曽孫浜口彰太之を受く、高野山にて。)
7月24日、豪雨河川増水。(2代有田地方事務所長杉原忠雄<20年6月まで> 就任)。熊野街道は国道に昇格、42号線と称す。各学校では学童たちに、勤労奉仕 (出征軍人家庭に対して)として荷物などの運搬作業、学校で炭焼作業などする。併設していた南広青年学校、家政女学校は廃校、広村外2ヵ村組合立「男山青年学校」に合併する。但し校舎は新築せず広、南広小学校校舎の1部を使用する。(12月1日、学徒出陣開始さる。同24日、徴兵適令を1年引下げる。) この年11月、さきに企業整備のため中央紡績広工場となった同工場は、トヨタ自動車工業に吸収合併され、同社広工場と改称した。
1944昭和19年甲申(1月、義務教育年限2年延長することは無期延期となる。)
2月1日、湯沖地震。トヨタ自動車工業広工場は日東紡績に合併され、日東紡績広工場となる。4月10日、広信用組合を農業組合と改称する。5月より8月15日まで雨少く田植もはかどらず。
9月8日、大阪市玉出国民学校初等科児童125名を学童疎開として受け入れ、養源寺、安楽寺、円光寺、耐久記念館などを宿舎とし、教室は広校の1教室を利用して2部教授をする。この年、商工企業整備により業者中廃業させられるものが出る。
各学校の運動場も開墾してサツマイモなどをうえる。南広校では唐尾浜で製塩作業などする。各校に母親学級を開設、竹槍訓練、消火作業訓練などをさせる。
12月7日午後1時35分、東南海大地震、紀伊半島の被害甚大、広も多少の被害あり。 (小磯国昭内閣)
1945昭和20年乙酉(6月、3代有田地方事務所長船橋績就任、22年5月まで) (7月9日、和歌山市大空襲をうける。旧市の大半以上焼野原となる。1月9日より終戦まで十数回の空襲あり、多数の死傷者も出る。) 7月22日、広校校舎に「暁第16709部隊」駐屯する。
(7月28日、東燃工場空襲をうけ全機能を失う。) (郡内各地にも空襲、機銃掃射を受ける。) (8月6日、米軍広島市へ原爆投下。) 8月15日、無条件降伏。正午、天皇の放送を聞く。8月31日、広校の駐屯部隊引揚げ、学童と交歓会をする。(9月25日、和市松江海岸へ米軍上陸。)
(9月17日、枕崎台風、10月3日アグネス台風あり。) 10月20日、広へ疎開していた大阪玉出の学童たち引揚げる、23日、出発を見送る。10月26日、久徳三郎広村長になる。(この年の産米は敗戦時の混乱、西日本の風水害など重なり作高3千9百万石、明治38年以来40年ぶりの大凶作であった。米の配給は1日2合1勺に減らされていたが、雑殻類やイモ類の代替配給の方が多く、22年まで米の配給の全くない月さへあった。
12月15日、連合国軍最高司令部の神道指令出る。これで政教は分離、内務省神社局神社院は廃止(21年2月2日) 明治以来80年にわたる神社の国家管理はなくなり、全国約8万の神社は、1宗教法人として、新に設立された神社本庁の下に包括される。
12月29日、連合軍の指示により耕地所有制度の改革が強制実施され、耕地は耕作農民の手に移され、小作農のほとんどが自作農になった。 (第1、第2、第3次「農地改革」がこの年から23年へかけて行われた。) 12月31日、GHQ「修身、地理、歴史」の授業中止と教科書の破棄、新教科書作制等を指令する。(鈴木貫太郎、東久邇、幣原喜重郎各内閣)
1946昭和21年丙戌(1月1日、天皇みずから神格否定を宣言する。) (2月、金融緊急措置 モラトリアム〉実施、 「旧円」を封鎖、「新円」切換、「新円」切換、旧円の右肩に証紙を張る。 封鎖解除は月に世帯主3百円、家族1人百円におさへる。) (2月より公職追放始まる。) (3月4日、第1次米国教育使節団来日。)各学校では御真影、教育勅語などを返還、青年学校等の銃武器など破棄、学童の教科書類、学校の重要書類図書まで破棄焼却を指令さる。各役場の兵事関係書類は全部焼却する。(4月、総選挙、はじめて婦人の参政権が認められる。) 4月22日、新古勝、南広村長になる。
6月、梅雨執よう。10月9日、男女共学を指示。11月3日、新憲法公布。 (11月11日、当用漢字、新かなづかい決定。)
12月21日午前4時19分6秒7、南海大地震。津波のため湯浅、広の被害甚大、津波は前後3回来襲、波の高さ5メートルと推定さる。広では死者24名、負傷45名、流失家屋2戸、半壊54戸、田浸水26町6反、畑浸水1町6反、耕地表土流失20町、船流失5、漁網2、30メ、漁具50万円、施設損害20万円。唐尾西広海岸一帯浸水家屋多数。道路破損など。(第1次吉田茂内閣) (このころ「リンゴの歌」サトウハチロー作詞、流行。暗い人心をなごませた。)
1947昭和22年丁亥1月25日、連合軍の放出物資による学校給食はじまる。 (1月31日、連合軍指令部通告により、2、1ゼネスト中止さる。) 2月26日、法蔵寺鐘楼および広八幡天神社、拝殿、楼門、棟札28枚ともに重文に指定さる。3月、国民学校を小学校と改め新学制実施。小学6年。中学3年。高校3年の6・3・3制を実施、義務教育は小、中で9ヵ年になる。このとき広、南広、津木の各村とも新制の中学校が出来る。やがて耐久中学校は有田高等女学校と合併して耐久高校となって湯浅町へ移る。これで長い校歴を経た「耐久社」以来の耐久中学校はその幕を閉じた。4月、津木村長に栗田信一。南広村長に栗原吉雄。広村長に五島徳三それぞれ就任する。 (メーデー復活する。)
5月3日、日本国憲法施行。この日、県下一斉に新制中学校開校。5月、広教専寺の鐘再鋳さる。 (5月湯浅簡易裁判所開庁、湯浅区検察庁発足。) (5月、4代有田地方事務所長、堀畑又五郎就任、23年5月まで) 6月8日、天皇南紀行幸、南海大地震被害を見舞う。この時浜口儀兵衛(梧洞)、梧陵の築いた「防波堤および防波林の由来」について言上した。(7月1日、湯浅済生会病院開院、治療開始。)
7月10日、紀南豪雨。7月下旬より9月上旬にかけて、日でり雨少く平年の半分以下。8月30日、前田の本山八幡社と併合していた老賀八幡社は元の地にもどり上津木を氏子とする。祭礼は10月3日。 (9月2日、有田新聞創刊。) (10月警察制度改革。) 11月19日、農協法公布さる。 この年、有田郡柑橘協会設立、果樹復興5ヵ年計画、荒廃園復旧に努力することになる。(12月4日、青年輿論創刊。) (片山哲内閣) (4月、小野真次知事に当選、42年4月まで38代より42代までの知事となる。) (4月参議院第1回通常選挙、衆議院第23回総選挙。)
1948昭和23年戊子(1月20日、農業会解散、各村に農業協同組合ができる(総司令部農村解放令による。) 2月7日、南広新制中学校校舎落成、記念学芸会開催。3月、今村明恒博士の「南海道沖地震津波、昭和の南海道大地震につき広村の人々に寄す」の1文を広村当局に寄せた。
3月29日、晴天続き空気乾燥、由良、南広間の雑木および松林の大山火事あり。これで南広地区の松茸の生産殆んどがなくなる。5月10日、県下21の新制高等学校一斉に開校する。(5月、5代有田地方事務所長吉田武雄、25年6月まで就任)。
8月27日、有田、日高に集中豪雨、洪水高潮あり、有田郡の被害甚大。広川も増水被害出る。8月、南広農業協同組合公報として「南広組合タイムス」を発刊する。10月5日、教育委員会法に基く初の県教育委員選挙、12人の候補者から4年委員3人、2年委員3人が当選、県議より選出の委員1名を加えて、11月15日から県教育委員会発足。教育行政の地方分権である。
12月、暖冬異変、みかん腐る。(12月20日、A級戦犯死刑執行、東条ら7被告) (芦田均、第2次吉田各内閣)
1949昭和24年己丑(4月1日より検定教科書使用開始。) 4月9日耐久中学校南広中学校と合併、5月18日、広中学校を廃校、広村、南広村学校組合立耐久中学校となり開校する。(この前後ごろより県下各学校に於ける責善教育(同和教育)益々盛んになる。) (5月31日、和歌山大学設立認可。)
6月18日、デラ台風豪雨。(7月、東燃工場操業再開許可さる) この年河川海岸の沈下対策護岸のため、湯浅山田川下流堤防、広川下流堤防、海岸の工事着工。 9月13日、名島の妙見社殿を改築する。津木中学校舎新築促進の運動起り挙村一致協力、12月31日、落成する。11月18日、南広公民館主事雑賀正晃、JOBKより「公民館教育の在り方」につき放送する。
11月、26、7日、南広村総合共進会、出品蔬菜300点、柑橘105点、穀類235点。11月29日、南広農協へ賊侵入犯人不明。12月25日、 「南広組合タイムス」廃刊、12月1日「南広村民の友 月刊を発刊、3村合併まで続く。12月15日漁業協同組合設立。これまで専用漁業権、特別漁業権の名で特定の網元だけがもっていた漁業権を国が買上げ共同漁業権とした。このころ米1升63円前後した。(1月26日、法隆寺金堂焼失。8月松川事件。古橋全米水上大会で新記録。11月、湯川秀樹にノーベル賞) (11月16日、有田タイムス創刊、郡内の小新聞を合同。) (第3次吉田内閣)
1950昭和25年庚寅1月、前田八幡神社境内に、氏子の英霊59柱を合祀して「平和神社」を鎮座する。
3月6日、暴風雨、有田夏柑20万貫落果する。(3月1日、湯浅産院開院) 4月19日、久保源右衛門の頌徳祭を行う。久保は明治12、3年の広村戸長であり、晩年貧困者や社会事業のため私財を投げうって尽力した。(7月、那耆新聞発刊) 8月1日、昭和18年以来中絶していた史蹟、名勝天然記念物の指定が復活され第1回の指定を発表した。広川町では「耐久舎」が県史蹟に指定(12月31日付)
9月3日、ジェーン台風紀淡海峡北上、有田郡の被害甚大、村内各学校とも相当被害出る。南広役場の調査によると、村内家屋全壊5戸、半壊50戸、公共建物20戸、非住宅150戸、田畑流失2町、冠水田畑6。10町、収穫50%減、漁船漁具の被害甚大、唐尾で1名死亡。また津木地区の被害も特に大きかった。
朝鮮動乱、米出兵。南海バス、和歌山電軌の両社湯浅に新線開業。有田鉄道湯浅駅に乗入れ開業) 10月1日、国勢調査、世帯数は、広、832。南広、659。津木、380。人口は、広4、890。男1、941。女2、949。南広3、527。男1、720。女1、807。津木1、992。男991。女1、002。10月1日、広村町制をしき「広町」となる。初代町長に五島徳三就任、15日より3日間祝賀会開催。12月9日、流感のため岩渕分校10日間臨休。(年令を満で数えることを実施。 (千円札発行。
1951昭和26年辛卯4月30日、土橋義三郎広町長になる。津木村長に東谷幸太郎就任する。(5月5日、児童憲章制定。)
7月20日、ケイト台風。 (8月3日、湯浅町制55周年記念祝賀式挙行。10月15日、ルース台風。(11月3日、県青少年保護条例施行。全国最初であった。) 6月29日、安楽寺にて宗祇法師遺墨展らん会を開催する。この年広町有線放送設備を完備する。このころ、米1升80円位。
1952昭和27年壬辰3月6日、旧耐久中学校舎校地を県より買収る(540万円)。4月1日、広幼稚園発足、開園は5月5日。4月19日、西川県議差別事件発生。県教委は県下各学校に2日間の臨休を発令。(4月28日、平和条約発効日、占領軍政解かれる。) 5月8日、広町主催で耐久学舎創立百年祭を行う。この時、旧舎地安楽寺東側に「耐久社之趾」の記念石標を建つ。浜口梧洞の筆。 (6月、7代有田地方事務所長板上義和就任(30年8月まで) 5月8日、銚子市木国会員ら、訪問来町する、浜口恵璋 「銚子と紀州」(パンフレット)を編纂して配布する。
6月23日、ダイナ台風。7月10日、豪雨あり。10月5日、津木村教育委員選挙。11月1日、南広村、広町教育委員会設置。11月20日、津木岩渕分校新築落成する。11月23日、広町文化祭開催。12月広町役場にて「津波略史と防災施設」を編さん出版する。
この年、田中啓策博士らが西広ナバエ鼻で、クサリサンゴ、ハチノスサンゴの化石を発見、同所がゴトランド紀の地層であることが証明された。(第4次吉田内閣)
1953昭和28年癸己(1月、初島町制) 3月1日、安楽寺にて佐伯定胤百ヵ日追悼会を修す。3月、広八幡社境内を風致保安林に指定さる。
6月7日、台風第2号、多少の被害出る。6月、7月へかけて梅雨執拗、高温多雨、7月3日、広小学校、日高郡松原海岸で捕えた大青海亀を購入飼育中約60個の産卵あり、10日放ちやることにきめ、全児童見送り海へ返へす。見物人多数。
7月18日、集中豪雨(24時間雨量400〜600mmと推定さる。) 県下各河川大氾濫、各地で山津波おこり、破滅的な大水害を引き起す。「7、18大水害」である。そのうち有田郡の災害最もひどく、有田水害とも呼ばれる。わが広町、南広村、津木村各町村も広川の大増水、上流地の特に岩渕地区における山崩れによる被害甚しく、広町はほとんど全町浸水、一時は孤立状態になった。8月5日、有田地方事務所発表による公式報告による被害は左の通りである。広町重傷2、軽傷4、家屋全壊123、半壊219、床上浸水424、床下浸水97、被災戸数863、被害者数4381。南広村重傷1、軽傷1、家屋流失2、全壊7、半壊16、床上浸水159、床下浸水181、被災戸数365、被害者数1986。津木村=死者3、重傷42、軽傷139、家屋流失18、全壊25、半壊25、床上浸水114、床下浸水87、被災戸数269、被災者数989である。(7月25日、永積侍従天皇の名代として来郡、見舞と激励のお言葉を伝達。8月12日、広小学校へ、かって戦争疎開してきていた大阪市玉出小学校区の代表者ら災害見舞に来校、金1封を寄贈慰問。(9月、町村合併促進法施行)
9月25日、台風13号来襲、各河川また氾濫、さきの7、18水害の応急復旧工事も殆んど破壊、流失、さらに各所に災害を増大した。(24時間雨量200〜400ミリ) 10月6日、国体聖炎旗、津木、南広、広地区を通過、学童青年団員たち送迎する。11月3日、広町役場新築落成する。11月20日、神宮式年遷宮に広八幡社、「有田田楽しっぱら」を奉納(宮司佐々木秀雄、上中野区長馬所虎男ら25名奉仕)
11月29日、有田郡内フォークダンス大会を広小にて挙行。この年名島橋架設する。長30幅2、5木造。(この年よりテレビ放送始まる) この年の暮、広農業組合を再建する。(第5次吉田内閣)
1954昭和29年甲午5月22日、津木和洋裁学園生徒減少のため閉鎖。(6月3日教育2法公布。教育の政治的中立、教員の政治活動禁止) (7月1日、防衛庁自衛隊発足) 8月、知事新生活運動提唱。(箕島、保田、宮原、糸我の4ヶ町村合併有田町となる、後に有田市) 12月、組合立五稜病院、組合立五稜火葬場設立、広町もこれに加盟する。この年より3年間にわたり「町村合併促進法」施行、行政史上の大変革である。)(第1次鳩山一郎内閣)
1955昭和30年乙未1月28日、津木村産業開発5ヵ年計画完成発表会をする。ケシ栽培復活、関係者組合を結成する。栽培反別戦前におよばず、年々減少する。
4月1日、広川町発足、津木、南広、広の3町村合併により新に「広川町」となり同日発足。 (人口1万410人、面積65、44?) (4月17日、旧3ヵ町村廃庁式を挙行)町長事務代行土橋義三郎。4月30日、町長選挙の結果栗原吉雄当選。5月、南広4Hクラブ発足。7月23日、町村合併祝賀式挙行。9月16日、初の広川町議選挙、広地区9名、南広地区8名、津木地区5名。教育委員は無投票で広地区2名、南広、津木地区各1名当選。9月29日、 広川町人権尊重推進委員会発足。10月1日、国勢調査世帯数1、897。男4、510。女4、960計9、470人。10月15日、町公報「ひろがわ」1号発行。10月20日、台風26号通過。10月25日、広川町職員組合結成。
11月19日夜8時ごろ広小学校講堂で爆発事件おこる。父兄児童に異常な不安感をあたえた、犯人は不明。(4月1日、金屋町、5月吉備町、清水町がそれぞれ発足。) (8月、8代目有田事務所長池田昇就任。32年2月まで、最後の所長なり。 (初の原爆禁止世界大会開催。) (第2次3次鳩山内閣)
1956昭和31年丙申(3月31日、湯浅町田栖川村合併。) 5月9日、津木小学校新校歌を制定。9月1日、地方教育委員会法成立、10月1日実施、教育委員は公選であったのを、知事又は市町村長の任命制となり、再び教育の中央集権の方向にむかう。9月27日、台風15号、11月1日、県立西有田公園指定、広川町天州海岸、霊厳寺山など含まる。11月、広川町観光協会発足。12月18日、国連総会わが国の国連加盟を可決する。12月26日、井関分校新築起工式。この年広八幡社にて徹底した改善結婚式を行う人々が増える。(石橋湛山内閣)
1957昭和32年丁酉1月8日、西広分校敷地問題もつれ、区民学童を本校へ登校させる、16日解決。2月18日、西広分校新築起工式(現在地)この年学童の流感多く休業する。4月7日、井関分校新築落成式挙行。6月、西広分校新校舎へ移転、24日、落成式挙行。9月16日、広町に赤痢発生。(10月4日ソ連人工衛星打上成功する。) 12月9日、広小学校鉄筋校舎起工式。 (3月1日有田地方事務所廃止。有田農林事務所、有田福止事務所、有田県税事務所発足する。平井正三郎、有田農林事務所初代所長になる。(この年IGY〈国際地球観測年〉の人工衛星の眼視観測ステーションを金屋町におく。) (第1次岸信介内閣)
1958昭和33年戊戌5月15日、広小学校鉄筋新校舎第1期竣工(3階9教室)。5月23日、津木小新校舎竣工式。6月3日、県教委学校教職員勤務評定実施発表。6月5、6日、勤評反対実力行使のため町教委各校臨時休校とする。(この年勤評反対について教育界は全国的混乱をきたす。)5月、南広果樹園芸研究会会報、南広果研報発刊。10月3日、広小学校第2期工事着工起工式。11月22、3日、南広小学校にて農産物品評会、文化祭を行う。(8月28日、文部省学習指導要領発表、道徳教育を義務化する。(10月、和歌山公園に天守閣を再建する。)
(県民所得、果実が米を上まわる。 (第2次岸内閣)
1959昭和34年巳亥1月、国道42号線1級国道に昇格。3月本町役場に公金消費事件おこる。3月、上中野、住吉社大将軍社再鎮座。4月30日、広川町長選挙、岩崎楠二郎当選。5月12日、広小学校新校舎第2期竣工。7月15日、紀勢線全通(和歌山―亀山)、紀勢本線と称す。 (大正9年工事を始め、戦時中断、昭和27年8月再開以来。)
8月3日、台風6号紀伊水道通過。8月、南広小学校鉄筋校舎に改築工事始める。9月26日、伊勢湾台風、当地にも被害あり。11月4、5日、津木地区麻疹流行のため1部学級閉鎖。
11月5日、新広橋竣成する(国道42号線) (この年1月1日より全面的にメートル法を実施他の度量衡廃止。)
1960昭和35年庚子(1月19日、日米新安保条約に調印。)1月末南広農業協同組合が旧南広地区に有線放送および電話を実施、年間前納金1600円。3月末、新国道湯浅顕国神社東より広川町に至る2、200m開通する。5月3日、南広小学校鉄筋校舎落成式。
8月29日、台風16号風雨出水あり。津木地区は町道はじめ耕地関係教育施設などの損害約5千万円と国の査定をうける。10月3日、広小学校講堂新築起工式。10月7日豪雨。津木小学校子供銀行表彰さる。11月22、3日、南広地区農産物品評会および文化祭を南広小学校にて開催。 この年広商工会設立。 (この年ごろより刃物追放運動起り、各学校でも学童にナイフ類の使用を禁じ、各教室に鉛筆削器を常備する。) (日米新安保条約調印。) (第1次池田勇人内閣)
1961昭和36年辛丑4月1日、井関分校改築のため、殿地区の学童は本校へ通学、井関分校は1年生のみとする。4月、広、教専寺に共栄頌徳碑を建つ(霊巌寺山講入についての名簿なり)。5月11日、広小学校講堂落成式。(5月24日、有田総合庁舎竣工、有田農林、福祉、県税、教育の4事務所をおく。) 7月、耐久中学校鉄筋校舎新築工事始める。8月8日、建設省より広、和田、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋、殿、東中、名島を都市計画法適用区域に指定。
9月16日、第2室戸台風紀伊水道を北上、大阪湾に入る。当地も羅災戸数735戸、人員2、667人、死者1人、行方不明1人、全壊31戸、流失3戸、半壊175、床上浸水25戸、床下51戸、水産、農用公共施設農作物などの被害3億5千6百万円。津木中学校の被害大。(青年與論紙廃刊)(第2次池田内閣)
1962昭和37年壬寅2月、3月中、学童流感のため1部学級閉鎖校も出る。8月、前田万福寺本堂庫裡新築落慶。9月1日、耐久中学校新校舎完工。9月8日、広川町中央公民館新築落成。11月3日、中央公民館にて広川町文化財展覧会開催。12月9日、浜口容所50年祭を広安楽寺にて挙行。12月11日、津木小学校子供銀行表彰さる。
本年度ケシ耕作許可申請大巾に減反、47町、304名(昨年は100町8反543名だった。) (8月1日、初島町有田市と合併)1963 1963 昭和38年癸卯 4月、久徳幸一広町に青少年会館を寄附する。(4月17日、知事県議選挙 、小野真次知事当選、土橋義三郎県議員に当選。)
4月20日、町内各学校への給食センター設置、起工式広小にて。4月23日、耐久中学校新校舎落成式。4月30日、平井正三郎広川町長になる。5月28日より31日、南広小学校麻疹のため1部学級閉鎖、7月5、6日も同様。本年度ケシ栽培反別14町。9月7日、南広小学校講堂新築落成。9月15日、小野知事本郡最高齢者津木中村の丸畑かめ98才を慰問祝辞する。9月17日、広川町議会議員選挙。11月7日、長崎県五島奈良尾町より昔広町から移住した人々やその他の関係事項などについて調査団15名来町され、姉妹町として縁組のことを話し合う。
11月12日、給食センター竣工により、町内各校学童に完全給食を開始する。11月12日、津木中学校鉄筋新築起工式。(この年より小、中学校教科書無償配布、本年は小学校1、2、3年用から実施。) (本年より果実税廃止。) (第3次池田内閣)
1964昭和39年甲辰2月25日、近年まれな大雪、津木地区学校は臨休。4月24日。広小学校学童赤痢発生、5月19日まで保菌者を加えて172名。郡内各病院、および講堂を臨時病舎として収容。5月25日まで臨休となる。このため町内各学校給食停止。7月10日、津木中学校鉄筋新校舎落成式。
9月25日、台風25号多少被害あり。10月8日、奈良尾町長ら本町を訪問、旋網本船の模型を寄贈される。10月10日〜23日に至る「東京オリンピック」開催、日本金メダル16個。南広小学校児童より コンゴ、アルジェリア、ジェールの選手達へ激励文と千羽鶴を贈った。12月15日、南広小学校、植山佳美、健康優良児として県より表彰。「鷹島」を大阪府門真市幸福産業KKに売却する。12月文化財保護委員会(文化庁) 黒板調査官来島する。(3月10日、有田市暴力追放都市宣言。) (11月1日、東海道新幹線開通。)
この年、広川町漁業改善事業により「ノリ生産組合」を設立。唐尾西広地区組合員約51名によりノリ生産の諸施設をする。年間生産約220万枚。
11月、国道42号線水越トンネル完成、長さ約551、2m、幅7、50mあり。(第1次佐藤内閣)12月、南広地区内大谷、大滝、水越に総額1億3千万円の県営開拓パイロット事業着工。
1965昭和40年乙巳1月、県文化財専問審議会委員「鷹島」の予備調査をする。明恵上人遺蹟2ヵ所を確認する。
3月16日、明神山大火。水越峠附近より出火、1時は人家へもせまる。被害5百余町歩。3月20日、安楽寺浜口恵璋第1回県文化賞を受ける。
3月27日より4月5日まで、鷹島第1次発掘調査実施する。本年度、ケシ栽培反別は僅か13名、1町4反8畝歩に減少する。
4月3日、国道42号線水越トンネル開通。4月21日、津木中学校「マス」養漁池を築造。マスの飼育をする。(産業教育として。6月10日、山本、第2踏切に陸橋を架ける。8月3日、広小学校プール完成、使用開始する。9月10日、台風23号。天州の大松数本倒される。10月20日、津木小学校開設89年を迎う。尚本年度より下津木分校(前田)閉校、本校へ統合さる。12月5日、津木地区文化祭開催(会場を小学校中学校舎をまわりもちで従来から実施されている。) 12月「県の鳥」としてメジロを選定する。この年養源寺鐘(戦時供出)を再鋳供養する。
(この年県農林部に「みかん課」新設。甘い夏柑開発されサニーと命名する。) (朝永振一郎ノーベル賞受賞。) この年、天王突堤に航路標識灯完成。高さ9、8m。800燭光自動点滅装置である。12月4日、富士広川工場完成する。
1966昭和41年丙午1月4日〜19日、鷹島第2次発堀調査。(建国記念日制定) 耐久中学校講堂竣工。5月6日、津木地区、旧国道舗装祝賀式。津木小学校この年度中、はしか流行、本分校とも低学年学級閉鎖する。9月10日、「県の木」に「ウバメガシ」を選定する。10月7日、安楽寺17代浜口恵璋歿、93才。
1967昭和42年丁未1月31日、浜口梧陵翁像を耐久中学校庭に建設。町当局および町民の寄附による。(総工費6百万円、製作者木下繁氏) (2月11日を建国記念日とする。)
4月1日より23日、鷹島第3次調査。(4月15日、大橋正雄知事に当選。) (本郡より県議、栩野九爾明、矢野岩太郎、大橋栄一ら当選。) 8月22日、台風18号。9月17日、広川町議選挙。(米国温州みかんの輸入を26年ぶりに解禁さる。) (第2次佐藤内閣) (4月、大橋正雄知事に当選、43代目になる。)
1968昭和43年戊申1月15日、明王院護持会発足する。3月「県の花」として「ウメ」を選定する。(10月23日、明治百年記念式挙行。) 各校に記念植樹する。10月23日から11月18日に至る間、広小学校児童に赤痢患者出る。家族も含めて41人の患者を出したが、大事には至らなかった。この年の広川町全世帯数「2、026」あり。
1969昭和44年乙酉3月、広橋に歩道橋完成。長さ57、5、幅1、5目。4月、広湾ノリ漁場造成工事(防波導流棚) 設置完成。広ノリ生産組合員約20名。西有田農協設立。津木、広、湯浅、田栖川の各農協が合併する。5月1日より新発足する。
7月8日、大雨。広川水位、寺杣で4m、広で3、4m、警戒水位を上廻る。前田、河瀬、鈴子で県道と崩土あり。床上浸水5、床下220戸出る。 (7月20日アメリカ、アポロ11号月面到着人類が月に第1歩を印す。) 10月16日朝、日東紡績広工場出火。1工場を全焼。直に復旧工事にかかる。 10月殿、正法寺貞浄歿、87才。
1970昭和45年庚戌1月中旬ごろより風邪流行、小、中学校で学級閉鎖も出る。
1月27日、冬ひでり、降雨ゼロ、53日を記録する。明治12年和歌山気象台開設以来という。
(3月14日、大阪千里岡にて東洋最初の万国博覧会〈EXPO〉開催。参加77ヵ国。入場者6、421万人という。9月13日閉会。) 6月2日「万博世界広場」で、広八幡社しっぱら(田楽)を公開する。(7月31日、この日 日から、我国で最長の元号へ年号〉を記録する。) 9月29日、広川「町章」決定この日より使用することを告示。(町章は公募による。) 10月1日、広八幡社秋祭りに、しばらく中断していた乙田獅子舞を復活奉納する。県無形文化財に指定(内定)。11月9日広院ノ馬場にあった湯浅上水道は湯浅町高城山麓に移転。新施設により1日7、200トン。給水戸数は湯浅広川で1万6千戸。 この年10月1日、国勢調査。広川町全世帯数2、123、人口男4、106、女4、814、計8、920である。地域別に見ると次の通りである。

    昭和45年人口
  字  名  世 帯 数  男      女      総  数  
1147202425904614
  
唐尾110229253482
西広86195192387
池ノ上4495111206
山本73151173324
上中野57129138267
南金屋44113109222
殿357985164
井関77172182354
河瀬206452116
柳瀬327073143
東中316774141
名島417484158
  
前田69131155286
猿川285669125
寺杣65133139272
滝原24484795
岩淵366467131
落合367386159
中村58119108227
猪谷10202747
  
合計2123410648148920
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