広川町誌 上巻(2) 考古篇


文化誌



考古篇
 鷹島遺跡
   1遺跡の発見と調査の経過
   2遺跡位置と環境
   3調査の概要
   4遺構
   5出土遺物
   6総括
    
歴史篇
  1、広川町名の歴史
   1広川町名の由来
   2地名「ひろ」の起源
   3地名「ひろ」その後の歩み
    
 原始・古代史
  2、広川地方の原始文化の発祥
    1広川地方原始文化の誕生地
    2海を渡って来た鷹島文化
    3鷹島における原始社会の生活
    4縄文式文化の移動
    5上中野末所遺跡の発見
  3、広川古代文化への出発
    (1)原始文化から古代文化へ
    (2)古代文化の開幕
    1鷹島弥生式遺跡
    2上中野末所弥生式遺跡
    3高城山弥生式遺跡
    (3)弥生式文化の様相
  4、池ノ上古墳群が語るものー古代豪族の出現
    1池ノ上古墳群
    2古代豪族の出現
    3古墳時代の農耕社会
    4鷹島遺跡における古墳時代文化
  5、万葉時代の広川地方とその周辺
    1万葉歌の大葉山
    2万葉歌に見える広川地方周辺
    3郷地名
    4奈良時代の文化
  6、尊勝院文書とその時代―荘園制時代と貴族の熊野信仰―
    1尊勝院文書
    2荘園制時代
    3熊野信仰
  7、古寺追想
    1平安仏の遺存
    2光明寺
    3手眼寺
    4仙光寺
    

広川町誌 上巻(1) 地理篇
広川町誌 上巻(2) 考古篇
広川町誌 上巻(3) 中世史
広川町誌 上巻(4) 近世史
広川町誌 上巻(5) 近代史
広川町誌 下巻(1) 宗教篇
広川町誌 下巻(2) 産業史篇
広川町誌 下巻(3) 文教篇
広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
広川町誌 下巻(5) 雑輯篇

広川町誌下巻(6)年表
考古篇

鷹島遺跡


本考古篇は昭和44年3月発刊の「鷹島」より編者巽三郎氏の諒解をえて抜粋のうえ転載させて頂いたものである。
1 遺蹟の発見と調査の経過
昭和39年、鷹島は、観光開発のため広川町から、大阪府門真市の幸福産業株式会社(代表村井正雄氏)に売却された。元来、鷹島には、紀州が生んだ中世の高僧明恵上人が、いくたびもここで修業された記録が残っており、上人の修業跡として国指定史跡になっている有田郡内の8所遺跡に比肩しうる遺跡として、一部識者のあいだで知られていた。しかし、観光地として開発されるとは夢想だにしなかったことだけに、郷土史家や一般有識者のあいだで、遺跡保存の要望が起った。町当局も売却後はじめて鷹島の歴史的な重要性を認識し、また県当局もこれの保存を検討することになった。
昭和39年12月、文化財保護委員会(現文化庁)黒板昌夫調査官も現地を訪ずれ、本島の適切な保存を行なうよう指示された。そこで、県・町・幸福産業3者は協議をおこない、開発前に本島の文化財関係の調査を実施することになった。昭和40年1月、県文化財専門審議会委員を調査委員として、島内の文化財について予備調査を行った結果、明恵上人関係の遺跡と推定される地域2ヶ所を確認することができた。県教育委員会は、これ等明恵関係遺跡については極力保存するよう要望したところ、開発当局は快く了解し、現状保存の処置を講じることになった。
昭和39年12月黒板調査官が現地を訪ずれた際、随行した小賀直樹および北岡達吉は、本島の海岸線平坦部で、多数の土師器・製塩土器・須恵器等の破片が散布していることを確認していたが、昭和40年1月の調査で遺跡の範囲が広域にわかることが明確になった。しかし、製塩遺跡の所在する地点は、開発の第1期工事着手地であるため、緊急調査を行うことになり、幸福産業から和歌山県文化財研究会が委託をうけ実施することになった。しかし、調査は異三郎を調査員とし、昭和40年3月27日から4月5日にかけて実施した。調査の結果、当初予想しなかった縄文式土器、その他が発見され、第2次調査の必要性が明らかにされた。
県教育委員会では、広川町・幸福産業株式会社の協力のもとに第2次調査を実施することになり、和歌山県文化財研究会に調査団を組織し、巽が調査員となって昭和41年1月4日から19日まで発堀調査を行った。調査の結果、縄文式時代住居址と考えられる遺構が一部検出された。調査を担当した巽は、これら遺構の性格をより明確にするため、第3次調査の必要性を痛感した。このため、異が主催する南紀考古同好会において調査を継続することとし、県教育委員会・広川町教育委員会の協力を得て、昭和42年4月1日から4月23日にかけて、第3次調査を実施した。

2 遺跡の位置と環境


鷹島は、和歌山県有田郡広川町大字唐尾の西北2kmの海上に浮ぶ周囲2千5百m、面積約20?のかなり大ききな無人島である。島の中央部には海抜百mの高峰がそびえ、山頂には明恵上人が、はるか印度釈尊の遺跡をしのびながら修業された地と思われる、石積の基壇遺構がある。また島の西端南端には上人の遺徳をしのんで建てられたと伝える寺院址があり、ここから元応元年(1319年)在銘の筒瓦が出土している。また、鷹島は、鎌倉時代以降江戸時代まで、湊として紀伊水道の中でも重要な位置を占めていたと考えられる。
島の東方海岸、すなわち本土に面した側の海岸に形成された、長い半月状の砂丘上には、今回発掘調査した、縄文式時代から歴史時代にわたる遺跡が埋蔵されている。この東方海岸は、波浪の浸蝕が少なく、四季を通じて気候条件が良好で、住居地としては好適である。なお、島の西方海岸南端には、大半を波浪によって消失した、土師遺跡と製塩遺跡がある。
このように、紀伊の海岸には、大小さまざまな島が散在し、それらの島は、遺跡として記録されているものが多い。鷹島の近くでは、南方に黒島遺跡、はるか北方海上には、地ノ島遺跡・友ヶ島遺跡がある。これら島嶼という特殊な立地を占める遺跡の研究によって、紀州の古代史究明に新しい分野がひらかれつつある。

3 調査の概要


1、 第1次調査
本島の東南海岸において、遺物がもっとも濃密に散布する地域を選定し、長さ10メートル、巾2メートルの第1トレンチを設け、長さ10メートル、巾2メートルの第2トレンチを、第1トレンチに対し直角となるように設定した。一方番小屋の南方に当る平坦部に、長さ10メートル、巾2メートルの第4トレンチを設定し、第4トレンチの上方のゆるやかな傾斜面に、長さ4メートル、巾2メートルの第5トレンチを設けた。ところが、第2・第5トレンチは後世の攪乱を被り、層序的な発掘は困難であったので、第1・第4トレンチの発掘に主力を注いだ。
第1トレンチは、第一層から第4層にいたる比較的明確な層序が認められた。第一層は、約20センチで、各期の遺跡が混在していた。第2層は、約20センチあり、黒褐色の土砂層である。出土遺物は、須恵器・土師器片、?製鏡片、大量の手捏製コップ形土器・小形高杯形土器等の製塩関係のものであった。第3層は、約30センチの砂礫層}で、黒褐色の土砂が、かなり混入していた。遺物の出土量は、第2層に比して少ない。出土遺物は、古式土師器、弥生式土器、縄文式時代後期の沈線文土器・磨消縄文土器、晩期の深鉢形粗製条痕文土器・刻目突帯を施した深鉢形土器、方柱状石斧、石錘等、バラエティーに富んだ包含層であった。第4層は、厚く、約60センチで、大形の礫の堆積層である。この層は、上下2層に細分しうるのであるが、礫が大きく、土砂の混入が少ないため、明確に上下の1線を画することは、不可能であった。第4層上部は、縄文後期の遺物が多く下部は、縄文中期のものが多かった。第4層下部の、第5層との境付近からは、後述する鷹島式土器と大歳山式土器だけが出土している。
石器類には、サヌカイト製の石匙、砂岩及び片岩製の石錘が出土している。石匙はない。第5層以下は、砂礫層で、色調は黄褐色である。全くの無遺物層で、その深さは、測り知れない。
結局、第1トレンチにおいては、製塩遺跡の内容を推察しえた。また、弥生式時代から縄文式時代の遺物の堆積状況を確認することができたが、住居址その他の遺構と思われるものは、発見することができなかった。第4トレンチは、約15センチの表土層を取除くと、以下は黒褐色土層となる。多量の手捏製の製塩用土器・小形高杯形土器・須恵器が出土し、表土下40センチで、大きな礫を敷きつめた敷石遺構で終っていた。この敷石上にも多数の土器片が発見されたが、これらの土器は、すべて2次的火熱を受けており、黒色あるいは赤褐色を呈し、はなはだもろくなったものが多い。ただ1個ではあるが、緑釉土器の底部破片が、本トレンチ東端の黒褐色土層中から出土しており、当遺跡の年代を考えるうえに重要な発見であった。
第4トレンチにおいては、小範囲ながら、敷石遺構が発見され、敷石上において生産された、ある種の製塩様式が想定され、はなはだ有意義であった。


2、第2次調査
第1トレンチの北方に、第1トレンチと直交するように、巾2メートル、長さ約15メートルの山脚に達する第3トレンチを設け実施した。表土層の第一層は、約10センチで、ここにも各期の遺物が、混在して出土した。第2層は、約15センチで黒褐色を呈し、土砂の堆積が主で点在的に大形の礫石の混入が認められたが、その配置状態からは、遺構は認められなかった。遺物は土師質のいわゆる手捏製の製塩用土器と思われるものが非常に多く出土した、しかし、製塩址の遺構と思わしめるものは認められなかった。第2層の下部の砂層から丁字頭の勾玉と管玉を検出したことは、第1次調査時に検出した鏡とともに、特記せねばならない。
第3層は、黒褐色の土砂層で、第2層よりも礫の混入が少ない。遺物には、若干の弥生式土器・方柱状石斧・石錘・古式土師器があり、第3層最下部から、繩文後晩期の土器が多量に出土している。第3層と第4層の間には、赤褐色の土砂層が約10あり、この層には、遺物は認められなかった。
第4層は、土砂中に大形の礫石が、多量に混入し、一見礫層のような状況を呈する。第5層の黄褐色礫層まで、55センチ〜60センチを測る。第4層は、第1トレンチの層序と同じく、上下に細分することができ、上部は約25センチ、下部は約30センチである。下部から、縄文中期初頭の土器が出土し、第5層との境付近からは、それとともにと大歳山式土器が僅かながら出土している。したがって、本遺跡は、繩文前期にまで遡ることが知られる。今後、発掘範囲の拡張によって、前期の良好な包含層を検出し得るかもしれない。
第5層は、黄褐色礫層で、この層の厚さは、判らない。第5層上面に底面をもつ住居址が発見された。底面に、大形の礫石をほぼ平らに敷き、石囲いの炉址があった。しかし、トレンチの巾が、2メートルであり、全貌は確認しえなかったが、トレンチの西壁にそって、2つの柱穴と思われるものが検出された。炉址内から、2次的火熱をうけた土器と炭とが少量出土し、この住居址の時期決定の重要な資料となった。
第6トレンチは、巾3m、長さ10mで、第4トレンチの南方に設けた。第1次調査で、第4トレンチにおいて確認された、敷石遺構のつづきを調査するためである。第6トレンチは、予想に反して攪乱されており遺物の包含状態も雑然としており、第4トレンチで検出しえた敷石遺構は、認められなかった。出土遺物は、第4トレンチのものと大差ないが、量的には、やや少ないようである。

3、第3次調査
第2次調査で、第3トレンチに、縄文式時代の住居址の一部を確認していた。これを明確にするため第3トレンチの両側を発掘調査することを主目的として第3次調査を実施した。第3トレンチの両側に巾2メートル、長さ4メートルのグリッドを設定した。表土層は約10cmで、各期の土器片が混在した攪乱層であった。第2層は15センチ〜20センチで、黒褐色を呈する土砂層である。土師器・製塩用土器・須恵器片が出土し、大形の礫石が点在的に認められたが、製塩遺構らしきものは認められなかった。後世の攪乱が第2層までおよんでいたものと推定された。
第3層は、黒褐色土砂層で、大形礫石の混入が多く、遺物は遠賀川式土器片が若干と縄文晩期の条痕文土器片、口縁に刻目突帯のある深鉢形土器が雑然と出土した。第4層に接する層位に、ある時期の生活面と思われる、直径15センチ、深さ22センチ、底に扁平な礫石をおいたピットを発見したので、同層位を追って発掘したが、ピットの周囲は小範囲でおわり、ほかにピットらしきものが認められなかった。後世の攪乱がかなりの深さにまでおよんでいたようである。このピットは弥生期のものか縄文晩期のものかは不明であった。
第4層は、大形礫石の混入した黒色土砂層で、地山の黄褐色土層に敷石をした面からはピットらしきものは、ついに発見できず、住居址の全貌を、明確にすることはできなかった。第4層上部の約25センチは、縄文後期と晩期の土器が多い。下部の30センチからは、大形爪形文と縄文を施した深鉢形の土器片が多く、5領ヶ台式と船元式に比定すべき土器片も混在していた。石器は少ないが、今次の調査で、はじめて2本の石鏃が出土している。
石匙・石棒・鋸形の異形石器も出土している。
以上のように、今後、解決すべき問題を残して、第3次調査を終了したが、これらの問題の解決は、遺跡の再調査にまたねばならない。

4 遺構


鷹島には、第1遺跡の明恵上人修行址と考えられる石積基壇のある遺構と第2遺跡第3トレンチにおける縄文中期の住居址、第3遺跡第4トレンチにおける製塩址の遺構を検出したが、この報告書では、縄文中期の住居址遺構についての略述にとどめる。第2次発掘調査で、西壁にそって直径18センチ、深さ15センチのピット1と、直径15センチ、深さ12センチのピット2を検出し、その間隔は3、3メートルであった。両ピットから2メートルをへだてて、大小さまざまな礫石で囲んだ、直径40センチ、深さ15センチの炉址を検出した。炉址内にわ、鷹島式土器の火熱をうけてもろくなった小破片と炭灰が少量埋没していた。第3次調査で、ピットらしきものは、 ピットらしきものは、認められなかった。床面がいちじるしく破壊を被っていたためであろう。床面は、従来報告されている縄文式時代の住居址とは、はなはだ趣きを異にしていた。踏み固められた黄色層上に小礫石を全面に敷きつめ、礫石の間隙に鷹島式土器片が多く検出された。北側(山側)は黄褐色の山層を削り、さらに上方に、浅い溝を掘って1段低くした周壁の一部と思われるものが認められたが、東西両側および海側には、それらしい遺構は検出しえなかった。このように、本遺構は住居址としては、はなはだ不完全な遺構であり、その原形をうかがうことは困難である。
なお、近畿地方における縄文式時代の住居址の発見例はすくないが、中期にぞくするものとしては、小江慶雄氏が発掘調査した、滋賀県坂田郡山東町梓河内・番ノ面遺跡における実例がある。中期後半のもので、方形プラン、中央に炉、4方に穴柱を配している。構造的に鷹島の住居址とは、ただちに対比できない。
註@ 小江慶雄「滋賀県番の面縄文式住居遺跡」『京都学芸大学学報』第9冊、1956年。

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5 出土遺物


1、歴史時代遺物
(1)明磁  卵白色の磁肌に濃い藍がにじんだ染付の磁鉢底部片である。底面に「大明成化年製」の銘がある。第4トレンチの表面採集品である。

(2)青磁碗  口縁部と底部の破片である。釉はいちじるしく失透性で、暗い青緑色のものと明るい青緑色の2種種がみられる。ともに天竜寺手と称される元代から明初の渡来品であろう。第1トレンチの表土層から出土したものである。

(3)緑釉陶器
高台を失った底部の破片である。黄緑色の厚い釉薬が内外面にかかり、内面の一部に銀化がみられる。見込みには円圏をめぐらしている。

(4)黒色土器・瓦器
平安時代の所産であろう。生産窯については不明である。第4トレンチの上層から出土している。表土の攪乱層から細片となって出土しているが、量は少ない。内面は黒色、外面は赤褐色を呈する。高台を付した、一般に黒色土器と称せられるものと、内外面ともに黒煤色を呈し、内面に暗文を描き、断面三角形の高台をはりつけた瓦器の2種類がある。


2、古墳時代遺物
(1)土器
須恵器(第1図1〜6) 口縁下部に櫛描波状文を飾った、焼成堅緻な小形薄手の坩(あるいは駄か)の破片6は、本島内の須恵器としては、古式に属するものであろう。4・5は、大形壺の口縁部破片である。この形式の須恵器は、第1~3トレンチの第2層から、かなり多量に出土している。1・3は、第4トレンチの製塩址から、製塩用土器と伴出している。これらの土器は、後期古墳の副葬品にみられる形式であり、製塩址の年代を物語るものである。その他、図示していないが、内面に同心円状の叩文、外面には格子目状の叩文のある銭の胴部破片が、多量に出土している。
土師器(第1図11〜25図版6)各トレンチの第2層から、多量に出土しているが、ここでは、一部遺物の記載にとどめる。古式土師器から、歴史時代の土器に近いものまで、多種多様であるが、だいたい、新古2つに大別しうる。13・14・15のごとく、大きく外反する2重口縁に、円形浮文をはりつけ、櫛描波状文で装飾した古式土師器群と、16・17のごとく、厚い口縁を「く」の字形に内曲させた壺形土器とである。後者は、前者につづくものであろう。第4トレンチで、製塩用土器に伴った、1群の土師器(第1図17〜23)は、先述したように、須恵器の形式から推定して、後期古墳時代に編年しうる可能性がある。
手捏製土師器(第1図7〜10)第1トレンチの第2層から出土している。後述する、鏡・勾玉・管玉とともに、ある種の祭祀形態をほのめかす遺物である。いずれも、手捏ねの小形品で、円底をもつ。
製塩用土器(第2図1〜24 図版6) 第1・2・3トレンチの第2層から、多量の製塩用土器と考えられるものが、出土している。製塩関係のしかし、遺構と認めうるものは、検出しえなかった。製塩用土器は、次の4つの形式に大別しうる@は短い脚をもつ、コップ形(目良式B類に類似)のもの、(第2図1〜5)Aは短い脚をもち、杯状にひろがるもの(6〜12)、BはAと同形態で、小形のもの(13〜21) Cは大形で、碗状あるいは高杯状をなすもの(22・23)である。これらは、年代別に細分の可能性がある。古墳時代後期の須恵器を伴出する第4トレンチでは、前述ののA・B形式のものが大部分を占めており、本島の製塩址の年代推定の基礎資料と考えられる。
なお、本島西海岸の未調査地域である第4遺跡から出土した、大形で丸底をもつコップ形のものは、崎山第20号墳の封土から出土したものと同形式である。

(2)土製品
土錘(第2図25〜29図版4)漁・用具として、本島からかなりの土錘が出土している。 形態から、管状・棒状両孔式、菱形の3種類に大別しうるが、年代的分類は、今次の調査では困難であった。

(3)その他の遺物   鉄製品(図版5の4~5)2片の鉄製品が出土している。大きさは、7、5センチと4、8センチの断片である。明言できないが、鏃と刀子の破片であろう。第3トレンチA区2層より出土している。
丁字頭勾玉・管玉(図版5の1〜2)勾玉は、滑石製で、暗緑色を呈し、頭部には紐孔にむかって、浅い三条の溝を施し、丁字頭としている。穿孔は、直孔で、小さく、面取りをしていない。断面は、楕円形、尾端を丸く造り、古式を保っている。管玉は、碧玉製で、風化して淡緑色を呈する。
穿孔は、片抉りである。両者とも、第3トレンチA区2層より出土している。

倣製鏡破片(第3図 図版5の3)直径約10センチ、縁厚み0、4センチ、内区厚さ0、3センチの倣製内行花文鏡の破片と推定されるが、銅錆はなはだしく、文様が不明瞭であるため、明言しえない。上記の玉及び鉄製品の出土地点から、南方1〜1、5メートルの第1トレンチ第2層から出土したもので、古墳の副葬品としても不思議はないが、発掘にあたって何ら遺構と考えられるものは発見し得なかった。後述した手捏製土器も、これらと関連するものであろう。

3、弥生式時代遺物
弥生式土器(図版7、2―12)  第3トレンチの第3層上部から、縄文式時代晩期の土器と混在して出土した。
壺形土器と、成形土器の破片のみで、器形をうかがいうるものは、少ない。壺形土器には、頸部ちかくに、削り出し突帯のみられたもの、口縁が大きく外反し、胴下部で下ぶくれのみられるもの、胴部に2〜三条のヘラ描き沈線文を施したものがある。甕形土器には、口縁外側に、ヘラによる刻目文をめぐらしたもの、口縁外側および胴上部の段の端に、刻目文をめぐらしたものがある。畿内第一様式の中頃に比定しうる。
方柱状抉入石斧(図版7、13~14)弥生式時代の明瞭な遺物として、2本の方柱状石斧を検出している。
いずれも片岩製で、あさい抉りがある。使用のための刃こぼれが、著しい。いずれも、第3層上部の出土である。
今次の調査では、弥生式時代中期・後期の土器が出土していないからといって、この石斧が、前述した第一様式の土器に伴うものか、にわかに決しがたい。

4、縄文式時代遺物
(1)縄文式土器
本遺跡より出土した縄文式土器を、次の15群にわけて説明する。
第1群  非常に薄手で、焼成の良い土器である。頸部以下の破片・胴部の破片・底部の破片とが、それぞれ1片ある。第1の破片は、頸部に粘土紐の貼付による隆帯をめぐらし、先端をW形に加工した原体を用い変形爪形文を隆帯上に密にしている。繩文は、 L{RR らしいが、条の幅・深さ・節の傾斜が異っているので、一見 L{RR にR{"LL を巻きつけた付加条のようにみえる。第2の破片は縦方向に貼付した隆帯に貝殼文をほどこしている。第3の破片は、平面形が丸い底部の周囲数ヶ所に溝状のくぼみを加えたものの破片である。Lも、非常に薄手で、4ミリ内外である。底部の厚さは、胴部の厚さとかわらない。第1群土器は前期末の大歳山式土器である。

第2群  (図版 8、9) いわゆるキャリパー形を呈し、粗い織文をほどこす土器である。装飾の多い第1類と、縄文のみの第2類とに区別する。


第1類  器形キャリパー形の深鉢である。口縁部は、緩やかに内彎しながら開き、胴部は肩にわずかな張りをもっている。
胴部上端から口縁部は、「く」字状に曲折して移行している(なお、以下の記述では、この曲折部分を頸部とよび、頸部より上の部分全体を口縁部の上端を口辺部、上端面を口唇部と呼び分ける。)
本類だけでなく、第2群土器全体を特徴づけるのは、その底部の状態である。底部の平面形は、5角形、あるいは4角形である(第5図 1・2・3 )。そのため、胴部の下端近くでは、器体自体も5角形(または4角形)となる。底面は、わずかに揚げ底となっている。
第1類土器の口縁部は、A大きな波状をなすもの、B小さな波状をなすもの、C平縁のものがある。Cは少ない。

胎土・焼成  第2群土器の焼成は、第1群土器に比べて、やや悪い。胎土中には、多量の砂粒を含み、それが器面に浮きでているものもある。しかし、口縁部内面は、概して丁寧に磨いている。
文様  外面全体に繩文を施したのち、粘土紐をはりつけた低い隆帯上に爪形文(幅1〜2センチ)を施す(以下爪形 文隆帯と呼ぶ)か、隆帯をくわえることなしに爪形文を施している。
縄文は、R{LLが大部分を占め、L{RRは1例ある。原体を口辺に対し、直角において横位に回転施文しているが、硬い材料の原体を用いているため、撚りが十分にきかず、細文は縦走に近く、条は左上り右下りの傾斜をとる。このような繩文は、船元式に一般的であるが、1・2類でことにめだつのは、節のなかに繊維痕がみえないか、あるいはかすかなことである。第1類土器の文様は、次の4つの文様帯に分けられる。

a  口縁部内面文様帯  口縁部内面には、口辺直下に狭い繩文帯(幅0.5〜1.5センチ)をもっている。この繩文帯の下には、かすかな稜がある。繩文は、斜行し、外面のものが縦走するものと対照的である。この縄文帯を欠くものが2例ある。

b  口唇部文様帯  この部分は爪形文を密に施している(大多数のものは、0.1〜0.25センチ間隔)。この爪形文はすべて”逆C”型で、口縁部以下の爪形文のほとんどすべてが、 "C"型であることと著しい対照をなしている。なお、酒杯状突起上面の爪形文もまた逆C型となるものは、2例にすぎない。


c  口縁部外面文様帯  口縁部外面文様帯上半部は、口辺にそって爪形文隆帯を1条貼付し、その下位に1〜3条の爪形文帯をめぐらしている。2条の実例が1番多い。ただし、爪形文隆帯をもたず、爪形文帯のみのものもある。最下帯の爪形文帯を逆C型にする例が2例ある。口縁部外面文様帯に繩文をほどこさず、上記の爪形文帯だけを加えるものもある。しかし、大部分の例では、口縁部外面文様帯下半部を縄文帯としている。なお、縄文帯上に爪形文隆帯を上開きの連弧状に貼付するものがある。口縁部外面文様帯に爪形文隆帯を円形に付貼したものがある。本遺跡から出土した破片では、口辺部の形態との関連はわからないが、他遺跡の出土例からみて、酒杯状突起又は山形口縁の下位につくことがわかり、前述した突起下の円孔文と対等の文様と考えることができる。
なお、円孔文の周囲に爪形文隆帯をめぐらしたものが1例ある。


d  胴部文様帯  胴部全面に縦走する繩文を施しており、胴部上端に爪形文隆帯か爪形文帯を2〜3条めぐらすのが常である。2条の実例が多い。この胴部上端を画する爪形文帯から、縦に爪形文隆帯・爪形文帯あるいは貝殼文その他の刺突文帯が底部にまで垂下するものがある。
この垂下文様は、角底の角の部分にまで達しており、1つの角に2本の垂下文様が集まることもあるらしい。したがって、器体の5ヶ所か4ヶ所、または10ヶ所か8ヶ所に施すものであろう。なお、この他、胴部の文様としては、胴部上端の爪形文帯・爪形文隆帯を円形に施し帯を円形に施したもの、大きく連弧を描くとみられるものがある。

第2類  繩文だけの土器である。器形・胎土・焼成・繩文は、第1類と同じである。器形は、口縁部が小さな波状をなすものと、平縁なものとがある。後者は、平縁であるが、縄文の圧痕が深いため、一見口唇部に刻目を加えたかのように見える。なお、第2類は、第1類のような酒杯状突起を用いないようである。
文様は、外面全体と口縁部内面とに繩文を施すのみで、他の文様はない。この口縁部内面の縄文帯の下に、かすかな稜をもっていることは、第1類と同様である。第1類の土器から、縄文以外の文様をすべて取り去ったものが、本類の土器であるといえよう。繩文は、第1類と同様で、縄文のみの破片では、第1・2類の区別をつけ難いものがある。
以上、第2群第1・2類土器は、本遺跡の縄文式土器の大部分を占める(総数1139片。この他、未整理の細片が相当量ある。)第2群土器は、従来、縄文式時代中期初頭に属し、船元式の名で総称されてきた土器に包括されるが、後に論ずるように、そのなかでも最古の位置をしめるものと考える。これを鷹島式と名付ける。

第3群  (図版10)従来、船元式として総称されてきた土器から、鷹島式を除外したものである。6類に分けられる。

第1類  深鉢形土器の口縁部が2片出土している。繩文を地文とし、巻貝の先端による圧痕を施す。口辺直下に巻貝の先端圧痕を1条めぐらし、その下位に、下開き弧状の低い隆帯を貼付するものと、隆帯をもたず、巻貝の先端圧痕を不開き弧状に施すものとがある。前者は、隆帯の上縁に巻貝の先端王痕、下縁に平らな先端の尖った原体による刺突文を施している。前者の繩文は、隆帯より上の部分では横走し、隆帯より下の部分では斜行する。
後者は、巻貝による弧状の圧痕の弧と弧の連結部に、口辺より2枚目の背面圧痕文を垂下している。後者の縄文は、ほぼ縦走する。
両者とも、口縁部内面に幅約1の縄文帯をもっているが、この縄文帯の下には稜をもたない。繩文は R{LL であるが、縄文の節の中の繊維痕が明瞭で、第2群土器の縄文とは異る。焼成よく堅緻、胎土中の砂粒はめだたない。

第2類  ゆるやかな波状をなす深鉢形土器である。口辺にそって、低い隆帯を貼付し、口辺直下と隆帯上又は隆帯の上縁に、巻貝の先端による刺突を施し、隆帯の上位及び下位に幅広い爪形文(2.5〜3cm)を密に施す。
口辺と隆帯の間の爪形文は、両端が深く、真中が浅くなっている。すべて、口縁部内面に繩文帯をもち、繩文はである。焼成は、第1類に比べて悪く、土中の砂粒がめだつ。

第3類  大きな波状口縁の深鉢形土器である。波状口縁の頂部から口辺にそって、上開き弧状の高い隆帯を貼付し、その隆帯の上縁及び口縁にそって先端の尖ったもので刺突している。地文はない。口縁部内面に繩文帯をもつ。繩文は、 R{LL である。

第4類  口辺直下に2枚貝(アナグラ属)の背面圧痕を1条めぐらしているもの地文に繩文をもつ。口縁部内面に縄文帯をもつ。繩文は、 R{LL である。焼成よく、堅緻である。

第5類  1片だけである。横位に1条の隆帯をめぐらし、そこから平行する2本の隆帯を垂下し、その間に円形の沈線文を加えている。地文に繩文をもつ。繩文は R{LL である。以上、第3群土器は、いずれも粗い船元式特有の縄文をもち、口縁部内面に繩文帯をもっている。しかし、縄文の節のなかの繊維痕は明瞭で、口縁部内面の繩文帯の下に稜がなく、鷹島式とは明らかに相異する。胎土・焼成等の点でも鷹島式との差が認められる。年代的位置は、鷹島式に続くものであろう。

第4群  (図版12)平行沈線・爪形文・三角形の沈刻などによって特徴づけられるもの。口辺直下に爪形文を施した陸帯をめぐらし、その下位に平行沈線や三角形の沈刻による文様を施す。平行沈線は、半截竹管状の原体を器面に強く押しつけてひいているため、沈線間の断面がカマボコ状となっている。焼成は比較的よく、胎土中の砂粒はめだたない。 地文に繩文をもつものがあり、繩文はR{LLである。以上、第4群土器は、北陸地方の新保式、中部地方の五領ヶ台式に対比できる。

第5群  (図版11)口縁が僅かに外反する深鉢形土器で、半蔵竹管状の原体による平行沈線文をもつ第1類と、縄文のみの2類とに分けられる。

第1類  縦走する繩文を地文とし、直線または弧状の平行沈線を施すものである。口唇部に刻み目を施すものがある。繩文は R{LL で、条の太さ・深さが異っている。

第2類  口縁部が僅かに開き、胴部は張りをもつものである。文様は縄文のみである。ロ辺直下に幅約1.5センチの無文帯をもつ。繩文は第1類と同様である。以上、第5群土器は、船元式の新しい部分、あるいは里木二式の古い部分に比定されるものである。

第6群  (図版13)繩文原体を縦位に回転施文しているもの。繩文は、間隔をあけて施し、縄文帯と縄文帯の間は、無文のまま残している。また、部分的に2本の平行する沈線を垂下している。繩文はLである。以上、この群の土器は、加曾利E式の新しい部分に併行するものである。

第7群  (図版14)縄文式時代後期前半に属する土器を一括して、本群に入れ、第3類とした。

第1類  櫛状の原体によって文様を施す深鉢形土器である。頸部に1条の沈線をめぐらし、その上位は無文、下位に縦位の櫛目文を施すものと、全面に不規則な波状の櫛目文を施すものとがある。両者とも焼成よく、土中の砂粒はめだたない。特に後者は、外面を丁寧にみがいている。

第2類  曲線的な沈線によって区画し、その間に繩文を施すもの。焼成よく、胎土中の砂粒はめだたない。なかに、特に焼成のよいものもある。この他、注口部が1点出土している。
第3類  縄文のみのものである。口辺直下が外側に肥厚し、その肥厚した部分にL{RR の繩文を施すものと、同一原体で90度回転方向を変えて施文することによって羽状縄文を作り出しているものがある。以上、第7群土器は、津雲A式・北白川上層式と関連をもっている。

第8群  加曾利BI式の注口土器の破片である。櫛状の原体によって、同心円を作り出し、その周囲4ヶ所に「S」字状の沈線を施すもの。焼成はよいが、器面はザラザラしている。

第9群  (図版15)
第1類
  擬似繩文を施す深鉢土器である。3本の沈線間に擬似繩文を施したものと、ロ辺直下に幅の狭い2枚貝の背面による擬似縄文帯をもつものがある。その他は、無文のまま残されている。焼成よく、胎土中の砂粒がめだたないものと、焼成悪く、土中の砂粒が浮き出ているものがある。

第2類  2片とも口縁部の破片である。ロ辺直下に2条の沈線を施し、この沈線の溝のなかに刺突を密に加えている。焼成よく、胎土中の砂粒はめだたない。
第3類   3本の沈線をめぐらし、その間に繩文を施すもの、1本の水平な沈線と上開き弧状の沈線を組み合わせ、その間に繩文を施すものがあり、両者とも沈線のところどころに、巻貝の先端又は 他の原体による刺突を加えている。比較的薄手で、焼成よく、胎土中に多量の砂粒を含む。外面が丁寧にみがかれているものもある。

第4類  縄文のみの破片である。口縁部にのみ繩文を施したもの、くびれより以下に繩文を施し、くびれより上は無文のまま残しているものなどがある。以上、第9群土器は、元住吉山I式であろう。
第10群  (図版17)
沈線文をもつ土器である。口縁部が内彎するものを第1類、外反するものを第2類とした。

第1類  類口縁部がわずかに内彎する土器である。口辺直下に1条の沈線を施すもの、口縁部に平行沈線を有するものがある。

第2類  口縁部が外反する土器である。口縁部内面に1条の沈線を施している。以上、第10群土器は、後期後半あるいは晩期前半に属するものであろう。

第11群  (図版18)平行沈線のみの文様をもつ深鉢形土器である。口縁部が外反し、口辺より約6cm下位で急にすぼまり、張りをもちながら底部にいたる。口辺直下に半截竹管状の原体による平行沈線を三条、稜の部分に1条、胴部中頃に3条めぐらしている。これらの間に、下開き弧状の連弧文を2〜3条ほどこしている。また、口辺部直下に内外面から交互に刻みを加えているものもある。以上、第11群土器は、後期末あるいは、晩期にはいるものかもしれない。

第12群  口縁部が外反する土器で、口唇部に繩文を施すものと、同心円状の沈線を施すものがある。前者は、外面に繩文をもつ。繩文はL{RRである以上、第12群土器は、第10・11群土器とほぼ同時期にぞくするものであろう。

第13群  口縁が外反し、外面に擦痕をもつもの。胎土中に多量の砂粒を含み、内面はザラザラしている。同様の土器は、図示したものの他にも少量出土している。以上、第13群土器は、晩期に属するものであろう。


第14群  (図版19)突帯文の土器である。大多数は、深鉢の形態をていするものである。

第1類  口縁部上半に1条の巾広い低い隆帯を貼付し、器面に押しつけるように刺突している。胎土中に多量の砂粒を含み、内外面は凹凸が多い。

第2類  口縁部上半に1条の細い高い隆帯を貼付し、口唇部及び隆帯上に細かい刻みを施すもの。地文はない。内外面は丁寧に整形している。胎土中の砂粒はめだたない。以上、第14群土器は、晩期末の船橋式であろう。

第15群  (図版20)所属時期が不詳のものを一括した。


第1類  R{LL とL{RR の原体を用いて、羽状縄文を作り出しているもの。
焼成はよく、土中の砂粒はめだたない。比較的厚手で、北白川下層式土器とは、明確に区別し得る。

第2類  地文に浅い細い不規則な沈線を施し、その上に半截竹管状の原体による平行沈線を施すもの。胎土に多量の砂粒を含み、焼成はよくない。

第3類  小破片のためよくわからないが、隆帯を曲線的に貼付し、その両縁に刺突文及び爪形文を加えているもの。口唇部に刻み目を加えている。焼成は比較的良好である。
第4類  口縁部が強く内折するもので、口縁部に3〜4の不規則な波状の太い沈線文を加えている。地文はない。
外面は丁寧にみがかれている。

(2)石器
(図版21)石鏃・石匙(つまみのあるもの)・スクレイパー(つまみのないもの)・異形石器・石錘が出土している。
石鏃  (1、2)2点出土している。2点とも無茎。サヌカイト製。背の高い二等辺三角形に近い形で、えぐりが深く、薄手のものと、正三角形に近い形で、えぐりが浅く、厚手のものがある。前者は、片方の戻りを一部欠損している。

石匙  (4〜8、11、27)5点出土している。サヌカイト製4点、石質不明1点(図版23)である。縦長のものと、横長のものがあり、縦長のものは、横長のものに比べて小さいものが多い。片面に第1次剥離面を残し、周囲に細いタッチを加えている。つまみはあるが、刃部と考えられるような部分をもたないものがある。

スクレイパー  (9、10、14、および12)24点出土している。ほとんどが、サヌカイト製で、チャート製のものが1点だけある(12はチャート製)大きな剥片をあまり加工せず、長い辺に細いタッチを加えて、刃部を作り出している。なかには、一部分に自然面を残すものがある。形態は一定していない。チャート製のものは、赤味がかったチャートで、片面に第1次剥離面を残し、片方の辺に細いタッチを加えている。

異形石器  (3)1点のみ出土。サヌカイト製。下向きの3本の突起のうち、真中のものの先端が欠損しており、上向きの2本も上端を欠損する。周辺には、細いタッチを加えている。

石錘  (図版22)16点出土している。石質はよくわからないが、砂岩と、片岩であろう。両端にタッチを加えて、くぼみを作り出している。タッチを加えないで、すって溝を作り出しているものがある。

(3)植物性遺物
第3トレンチ第4層より出土している。椎の実かとも思われるが、現在鑑定を依頼している。
これと同様のものは、和佐遺跡B地点からも出土している。

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6 総括


鷹島遺跡は平地の少ない離れ島という特殊な立地にもかかわらず、多少の断絶はあるが、縄文式時代の前期より室町時代にという長期わたる遺物が発見されている。本島の北方約10.5の地ノ島にも同様の遺跡が知られ、島嶼における生活のあり方を示す好例と考えられる。

鷹島式土器
この長期間にわたる遺物のうち、第1に問題となるのは鷹島式土器である。船元式は、瀬戸内地方から近畿地方にひろく分布し、中期前半に位置づけられるもので、これが数型式にわかれる可能性については、すでに鎌木義昌氏らが指摘している。今回の鷹島遺跡の調査によって、鷹島式が1型式としてとりあげられるようになった。鷹島式土器は、前期末の大歳山式と関連する特徴をもっていること、鷹島遺跡において、他の船元式より下層から出土していることながら、船元式のなかでも最古の位置を占めることが明らかとなった。

鷹島式土器にみる大歳山式からの伝統
ここで、まず鷹島式の大歳山式と関連する特徴をあげてみよう。

1、大歳山式土器の底は、平面形が基本的には円形であるが、その周囲に数個ないし、十数個の刺突文・貝殼圧痕文・凹みなどを加えている。また、2個づつ1対の凹みをいくつか加えていることも多い。鷹島式の角底は、大歳山式の底の凹みが大きくなり、ついに角底にいたったものである。この過程にあるものとして、底が角をききりおとした形態の平面形をもつ静岡県的場遺跡、九合洞窟の土器をあげることができよう。また、本遺跡にも、同様の底の破片が1片出土している。

2、大歳山式の胴部文様には、縦方向に爪形文隆帯あるいは貝殼文隆帯をほどこしたものがあり、これは先述した底部周囲の2個1対の凹みの部分にまでのびている。これは、鷹島式にもそのままひきつがれているが、隆帯が一見隆帯とみえない程、低くなっていることは、隆帯が栄えた時期から時を経ていることを示している。

3、大歳山式の口縁部内面には縄文帯があり、その縄文帯とそれ以下の部分との間には段がある。鷹島式には、この段の名残りとして、口縁部内面は縄文帯の下に、かすかな稜がついている。

4、鷹島式には、北白川下層3式以来の爪形文隆帯による円形文・連弧文を受けついでいる。



鷹島式土器における船元式的要素
つぎに鷹島式土器にみる船元式一般と共通する特徴をあげる。

1、縄文原体として、硬い材料の撚紐をもちいており、大歳山式までの前期の縄文とまったく異っている。

2、大歳山式に特徴的な、M字形の爪形文は、消失しており、かわりに幅の広い原体を用いている。

3、底面は、わずかに揚げ底となり、底面の厚さは、器壁よりもずっと厚くなっている。


鷹島式に特有な要素
第3に、鷹島式に特有な性質をあげる。

1、底の角は、5角形又は4角形となる

2、細文は、縄文の節のなかに、繊維痕がみえないことが多い。
あるとしてもかすかである。

3、爪形文は、口唇部に逆C型、その他の部分は、C型というふうに使い分けている。
以上、述べたように、鷹島式土器は、大歳山式の強い伝統と、船元式に一般的な特徴の双方を兼ねそなえており、縄文式時代中期初頭に位置づけられるものである。

鷹島式土器の分布
いまのところ、我々が知るかぎり、鷹島式土器あるいは、それと関連の強い土器の分布は、下記のとおりである。

 

静岡県吉原市境  的場遺跡
 長野県歌訪郡富士見町  籠烟遺跡
 長野県岡谷市  梨久保遺跡
 岐阜県吉城郡宮川村  大洞平
 岐阜県武儀郡洞戸村高賀  笠神
 岐阜県益田郡小坂町大字赤沼田  深作裏垣内遺跡
 岐阜県吉城群上宝村  細越杖石岩陰遺跡
 岐阜県吉城郡上宝村  上灘下野切遺跡
0岐阜県山県郡谷合村  九合洞窟
0愛知県渥美郡渥美町石神  北屋敷貝塚
 福井県足羽郡足羽町  篠尾遺跡
 滋賀県大津市晴嵐町  粟津琵琶湖底
0京都府竹野郡丹後町  平遺跡
 和歌山県和歌山市  彌宜貝塚
 和歌山県和歌山市  鳴神貝塚
 和歌山県和歌山市  吉礼貝塚
0和歌山県有田市  地ノ島遺跡
0和歌山県有田郡清水町  岩野川遺跡
 和歌山県日高郡川辺町  和佐遺跡
 和歌山県日高郡川辺町  和佐遺跡
 和歌山県日高郡南部町気佐藤 高田遺跡
 和歌山県田辺市天神  立戸遺跡
 和歌山県西牟婁郡白浜町  横浦遺跡
 和歌山県西牟婁郡白浜町  平遺跡
 和歌山県新宮市  御旅所遺跡
0兵庫県高砂市會根町  日笠山貝塚
0広島県神石郡神石町  名越岩蔭遺跡
 島根県8束郡鹿島町宮内分  佐太講武貝塚

0印の遺跡の土器は、爪形文にC型を用い、口唇部のみに逆C型をもちいていることが明らかなもの。


これら、各遺跡においては、鷹島式は、いずれも少量出土しているにすぎず、それのみが、主体をなしているとは考えられない。ただし、岐阜県九合洞窟では、かなりまとまって鷹島式が出土している。なお、同遺跡の調査報告では、大歳山式と鷹島式をまとめて、第5群土器と呼んでいる。長野県籠畑遺跡出土例は、現在までに知られている唯一の完形品である。4山の波状口縁をもち、4角形の底をもつ。
岡山県下では、船元式に角度があるというが、実例が図示されていないので、鷹島式とただちに対比できない。
岡山県浅口郡船穂町里木貝塚には、鷹島式と酷似する土器がある。これは、九合洞窟・北屋敷貝塚・的場遺跡・平遺跡・岩野川遺跡・地ノ島遺跡・名越岩陰の土器と同様、胴部にC型爪形文が、そしてロ唇部に逆C型爪形文を使いわけている。しかし、間壁忠彦氏によるとこの土器の底部は角底にならず、まるくなるらしい。鷹島式類似型式としてあつかいたい。このほか、九州地方の中期の竹崎式も、鷹島式との関連を考えさせる土器である。
これは、底の周辺に突脚を4〜5個つけたものである。
以上のように、鷹島式及び類似の土器は、九州から中部地方にかけて分布している。このうち和歌山県下では、もっとも多くの遺跡がみいだされており、本型式の分布の中心地域をなしている。しかし、鷹島式が主体を占める遺跡は、鷹島遺跡のほかに岩野川遺跡のみであって、他の遺跡における出土量は、数片ないし、十数片という僅かな量にすぎない。 これは、正式な発掘調査を実施しておらず、表面採集によるためかもしれない。

その他の縄文式土器
鷹島式以外の縄文式土器は、晩期にぞくするものが多く、ついで、後期・中期の順である。晩期の土器は200片程ある。条痕文の粗製土器が最も多く、刻目を有する突帯文の土器 (船橋式)は少ないようである。また、和佐遺跡A地点にみられたような、大洞系土器は、出土していない。第11群土器は、宮滝式・滋賀里式の深鉢にみる段をもつ。竹管文をもつ点で、一応、晩期にぞくするものとしてあつかう。後期・中期の土器は、いままで、和歌山県下で知られているものと、あまり変わりがない。しかし、加曾利BI式の注口土器が出土した例は、他にない。



弥生式遺物
弥生式時代の遺物は、畿内第一様式(中)に編年される土器のみで、縄文式時代晩期と同一層内に混在していた。弥生式時代中期以降の土器は出土していない。これは発掘区域の選定によるためか、あるいは、離島という特殊な立地のためかは、今次の調査では結論を見いだし得なかった。

古墳時代遺物
古墳時代の遺物は、本島特有の製塩用土器、土師器、須恵器(古墳時代後期)・土錘がある。
なかでも、製塩用土器は、おびただしい量で、一面に敷きつめたといっても過言ではないような状態で出土しており、生活を示す好資料である。とくに、第4トレンチにおいて、長方形の敷石遺構から大量の製塩用土器と、土師器・須恵器が発見され、古墳時代における製塩方法の究明に資する重要な遺構であろう。また、第1トレンチより、第3トレンチにかけて、?製鏡片・勾玉・管玉、手捏製土師器などの遺物が出土しており、ある種の祭祀の存在を察知することができた。




歴史時代の遺物
平安時代から鎌倉時代にかけて、本島は海上交通の要衝であったことは、緑釉土器や中国製青磁器の出土によって裏づけられよう。奈良時代の遺物と思われる若干の資料があるが、決定的な資料といいがたいので、全遺物の整理が済んでから、あらためて考究したい。


調査組織
予備調査
第1次調査

1、調査主体  広川町教調育委員会  教育長 石原久男
2、調査担当機関 和歌山鼻文化財研究会
会長 山口孫一
副会長 和中金助  中沢哲夫
調査員  巽三郎(和歌山界文化財專門委員)
     大谷力造(和歌山市役所庶務課員)
     山本賢(南部中学校教論)
     小賀直樹(和歌山學教育委員会主事)
     武部吉宏(鞆渕中学校教論)
     北岡達吉(広川町教育委員会主事)
3、協力機関
 和歌山県教育委員会  有田地方教育事務所  広川町企画部 広川町婦人会  広川町青年団  広川町郷土史研究会 広川町立耐久中学校  幸福産業株式会社 南紀考古同好会
4、調査協力者
 島津伊太郎 田中重雄 田村保雄 近藤賢一 田中美藤

第2次調査

1、調査主体  和歌山県教育委員会
2、調査担当機関 第1次に同じ
3 調査員  巽三郎 大谷力造 山本賢 小賀直樹 武部吉宏 北岡達吉 中村貞史(国学院大学生)
4、調査協力機関
広川町教育委員会 広川町企画部 和歌山県教育委員会 有田地方教育事務所 広川町郷土誌研究会 広川町立耐久中学校 幸福産業株式会社 広川町青年団
5、調査協力者  田中重雄 赤桐栄一 大野嶺夫 山口斌 田村保雄  近藤賢一

第3次調査
1、調査主体  南紀考古同好会
2、調査担当機関  同右
調査員  1次、2次心同じ
3、調査協力機関
和歌山県教育委員会  和歌山県教育委員会有田地方教育事務所 広川町教育委員会 広川町企画部 広川町青年団 広川郷土史研究会 広川町立耐久中学校 幸福産業株式会社

4、調査協力者
第2次調査協力者と同じ、 その他 山路幸次郎 井上正信 巽淳一郎 岩崎真求 岡本正信















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歴史篇
1、広川町名の歴史

1  広川町名の由来


広川町は、昭和30年(1950)4月1日、広町、南広村、津木村の1町2村合併によって、新たに発足した。その時、衆知を集めて誕生を見たのが、この町名である。
当広川町は、近代初頭まで長く広庄(荘)と称された地方である。町村合併によって、ゆくりなくも、再び1つの町名のもとで、また同じ歴史の途をたどる巡り合せとなった。
過去において、長い期間1つの庄名で呼ばれてきた有縁の地という関係からか、なんのわだかまりもなく、村合併の事が進捗した。だが、新町名選定となると、必ずしも容易でなかったであろう。歴史的伝統に従うなれば、当然、「広町」とすべきであった。しかしながら、そうすれば、既存の広町が、他の2村を吸収合併したかの感を抱かせる懸念が多分にあった。そこで、新たな町名として登場したのが「広川町」なる新地名である。
ところで、新規町名「広川」の称は、謂うまでもなく、旧3ヵ町村を流れて海に注ぐ当地最大の河川の名称を採ったものである。
産業の発展には、その地域の河川が果す役割は特に大きい。そして、広川は、旧3ヵ町村共通してその恩恵を蒙ってきた唯一の河川である。新町誕生に際しこれを町名としたこと、けだし適切な計いであった。さらに謂うなれば、元来この河川は、かって、この地方総称地名「広」から派生したものである。それが、町村合併という季節に遇って新町名に返り咲いたといってよい。この地方を代表する新地名として、他の何によりも相応しいことが、一般によく受入れられたのであった。
さて、現在の広川町は過去長い期間、前述のとおり広庄(荘)と呼ばれてきたが、その初見資料は、平安時代後期応徳3年(1086)の熊野那智山「尊勝院文書」である。同文書は今も那智大社の所蔵にかかるが、当時、京都の宮廷に仕えていた藤原氏出身の内待尚待という身分の1女官が、在田郡比呂庄(広荘)と同郡宮前庄(現在有田市の一部)において、各々免田拾参町5反を、熊野那智山尊勝院に寄進した時の書状、即ち、寄進状である。(このことに関連して、後章で若干再述する)同古文書では、広庄と書かずに比呂庄と記しているが、当地のことに間違いない。
ところが、それより23年後、同じ平安後期の天仁2年(1109)、中御門右大臣藤原宗忠が、熊野参詣の日記では、「弘王子社」「弘河原」と、弘の字を用いていること『中右記』に見える。この頃すでに、地名は2字を好しとする旧習に拘わることなかった模様である。
だが、いづれにしてもこの地方は、「ひろ」という地名で呼ばれていたこと、右の史料に照して明らかである。
そして、後世慣用の「広」字に統一されたのは、けだし、鎌倉時代以降であったと思う。その最初の例は、『吾妻鏡』文永2年(1168)条である。当時広庄が由良庄(旧海部郡現日高郡)と共に、京都蓮華王院領にして、そこに濫妨のあった記事が載る(このことについても、後章で述べる)因に同書は、『東鑑』とも書き、治承4年(1180)から、文治3年(1266)に至る間、80年を、鎌倉幕府の事蹟中心に、日記体に編集した書である。

それ以降、この地の圧名には、広字使用を普通とした。
ところで、先年、新たに町名として採用され、地方史の檜舞台に登る機会を得た広川の称は、河名として、一体、何時の頃に始まるのであろうか。これを文献上に求めて、管見に入るのは、前掲『中右記』を最古とする。
尤も同書では、弘河原と記してはいるが、この河のことに相違なく、当時、既に「ひろ川」と呼ばれていたことは疑問の余地がない。
広くもないこの河が広川と呼称された所以は、小さい乍らも当地最大の河川であり、稲作灌漑その他に、この河の恩恵甚だ大であったからで、当地総称地名「広」を採って河名とした。そして、この河名で呼ばれはじめたのは、おそらく、「ひろ」が当地方総称地名となってから間もない時代であったと推測される。想うに『中右記』の時代(平安時代後期)をさらに遡る時代であったであろう。とはいえ、確な時代推定には、なお一層の研究を要する。

2  地名「ひろ」の起源


たびたび繰り返した如く、古来当地方総称地名は「ひろ」であった。
さてこの地名「ひろ」が何処から起ったのであろうか。次ぎにこの地名の起源について、若干考察を試みてみたい。
元来地名というものは、小地域を指す名称として名付けられた。それが次第に広範囲の地に適用されてゆくのが、通例である。「ひろ」の場合もおそらく同様であったに相違ない。
そこで先づ「ひろ」の音をもつ 小字地名を調べて見た。すると、当町大字山本の中にそれがある。

同大字(池ノ上を含む)に、広芝、小広、東小広、西小広など「広」を主語とする4小字が所在する。しかも、この4つの小字地は、地続きをなして集中的分布状態を示す。
この一画は、緩やかな傾斜をもつ台地で、あたかも、山本台地の中心部を占める位置にある。だが、さして、広衣の地でない。それぞれに小の字が冠せられているのは、その故であろう。
この一画を小広、東小広、西小広、広芝などと呼ばれてきたのは、余り広くないが、とにかく、小平地という意味からであろうか。初めてこの附近の土地に、それぞれ地名を与えた昔の人の眼には、少くとも、そのように映ったのであったかも知れない。地名というものは、その附近に住みはじめた人達が、最初に関心を示した土地から名付けがおこる。前記の一画が、現在から見れば、さして広い土地でないが、周囲がまだ開けていなかった古い時代には、この台地が、特に小広く感じられたのであろうか。
だが、この解釈が必ずしも適切だとは断言し得ないかも知れない。それは、音の転訛ということを考えて見なければならないからである。そういう意味からもう1度、此処の地形と地名の関連性を見直す必要があろう。
先記した如く、此処の地形は、緩傾斜をなす。「ひろ」というより、むしろ、「ひら」の地形である。ひらとは、地名用語では、坂、傾斜地を意味する言葉であるという(山中常襄太氏著『地名語源辞典』)。
すると最初は、「小ひら」 「ひらしば」と呼ばれていた地でなかったろうか。それに該当する地形であるからである。それが、何時しか、「小びろ」「ひろしば」に転訛したということも考えられる。西や東は謂うまでもなく方位を示す言葉として冠せられた。はじめ、小びら、東小びら、西小びら、ひらしばと呼ばれたのが、やがて、小びろ、東小びろ、西小びろ、ひろしばなどと称されるに至ったとしても決して不可解でない、raがroに転訛する可能性が十分考えられるからである。(小はこでなく、おと発音している)

以上、甚だ不完全、かつ独断的に過ぎる点があるかも知れないが、一応、広なる地名の発祥地探求を試みた。
ところで、この地名が何時頃生れたのであろうか。これまた、困難な問題であるが、さきの問題に関連して言及してみたい。
前記の4小字地の中央に、同大字共同墓地が所在する。そこが、所謂、じょう穴古墳群の所在地である。その北方2〜300メートルのところに、小字地名長山なる丘陵がある。その南麓高台もまた古墳群の所在地だ。この両古墳群を併せて「池ノ上古墳群」と総称する。およそ、6・7世紀頃、所謂、古墳時代後期のそれである。
この広川地方が鷹島において、縄文式時代前期に、人間生活の舞台となって以降、この地方が、様々な文化の洗礼を受けた。だが、山本台地に初めて、文化が顕現するのは、現時点の知見では、古墳文化である。この文化の担い手達が、少なくとも、自分達の周囲の地に、それぞれの地名を与えて呼んだであろう。
山本台地に現存する前記地名などは、およそ、そこに由来するものと思われる。或はそれ以前、既に古代人が、住み、その人達によってはじまった地名であったかも知れないが、いまだ、それをいい得る資料がない。
とにかく、ここでは前記地名の原形が、古墳時代の地名知織によるものと解される。ところで古墳の築造されたその附近は、その時代における豪族の所在地、即ち、その地方における時代文化の中心地であった。だから、そこの地名が、次第に波及して、やがては、この地方全体を指す広域地名にまで発展していったものと思う。その結果、元来の小地域を意味する小の冠詞が省かれ、単に「ひろ」と呼称されるようになったと見られるのである。
そこまで拡大されたのは、古墳時代を経て律令制時代里郷制度の頃か否か、なお明らかでないが、次の荘園制時代、郷名が廃れて新に荘名が興ると、当地方は確に「比呂荘」と呼ばれたこと、前記「尊勝院文書」に明らかである。既にそれ以前から当地方総称地名が、「ひろ」であったと想像される。そのため、郷名から荘名に変化を見た際も、古来の地名「ひろ」がそのまま用いられたのであろう。それが、2字名が好まれた時代には比呂の字が用いられ、荘名もこの用例に随ったと解せられる。だが、次第に2字名に拘らなくなると、弘の字を用いる場合もあり、鎌倉時代から専ら広 に統一されていったこと、以後の史料に明らかである。




3  地名「広」その後の歩み


上来、広川町名の由来について、稗見を若干披歴した。
さて、その後、この広なる地名が、どのような歩みを示して、今日に至ったか。この点について、極めて簡単に述べてみよう。
さきに、鎌倉時代には「広庄」と記載されはじめたこと、『吾妻鏡』を例として述べた。次の南北朝時代にも、広庄は、当地全体地名であった。正平6年(1351)の『能仁寺文書』(名島能仁寺創建に関する文書) が、それらを物語る。ところが、南北朝時代から室町時代に移ると間もなく、広庄は東西に分けて呼ばれることになったらしい。津木老賀八幡に所伝された、熊野権現社建立の棟札は室町初期応永15年(1408)のもの。同棟札には、東広庄と見える。東広庄と西広庄に分けて呼ばれた証拠であろう。同後期大永2年(1522)の『能仁寺文書』にも東広庄とあることから見れば、おおむね、室町時代全期を通じて、東西に区分して称したものと思う。当町大字西広は、その当時の名残りであろうか。
だが、江戸時代になると、再び、もとの広庄(荘)1本に統一される。そのことは、近世の諸史料に明らかである。
ところで、近世初頭豊臣秀吉が農民支配の1手段として全国に検地を行わせた。わが紀伊国においては、先づ羽柴秀長が実施し、次いで徳川覇権となった慶長年間、浅野幸長が行った、所謂、慶長検地帳には、現在の当町広(旧広町)は、既に「広町」と記載されている。当地方総称地名「広」が何時の間にか、その中の1地域を指す言葉にもなっている。
例によって、その理由を考えてみよう。中世室町時代、畠山氏が紀伊国守護職を併任し、当庄名島に築城。同地高城山はその旧跡である。さらに、広養源寺現境内は、かつて、畠山氏の居館の所在地であった。それによって、現在の広は室町時代から著しい発展の時代を迎えた。そして、この地方における要衝の地となる。後、畠山氏が敗れて広庄は湯川氏の所領となるが、湯川氏また広に屋形を構えて、相変らず繁栄が続いた。中世末期から近世初期は広千軒の称があった。そして、広町旧来の町並は、湯川氏の作るところと伝えられる。その時、町と称される体栽が整えられたのであるという。
しかるに天正13年(1585)、大災厄(旧記には兵火とある。だが、津浪もか)に会い1時衰微を見たが、慶長の頃には、再び広千軒の町に復興していたという。
右の歴史が物語る如く、室町時代以降、広は、この地方における文化的・経済的中心地に発展した。その結果当地方代表地名「広」の称が、自然とこの中心地に吸収されていった。そこで、広庄といえば旧来どおり当庄全体名称。単に広といえば1地区地名と、ここに使い分けが始った。この使い分けは、おそらく、室町時代後期から起ったものと想像される。尤も室町時代、東広庄・西広庄の区別があったこと前記のとおりである。
慶長検地帳に広町と載る広の地も、その後、江戸時代には、広村と呼ばれている。広町と称された時代も、広村と呼ばれた時代も同じく広庄内の一部であった。
そして、近代に至り、明治22年(1889)市町村制が実施された際、かつての広庄が、3分されて、各各独立の行政地区を組織した。即ち、広村、南広村、津木村の3ヶ村が誕生を見たのである。その後、昭和25年(1950)町政を布いて、広村が広町になった。
近代初期、各々独立して、各自の歴史を創って来たこの3ヶ町村は、その後、半世紀余経て、昭和30年、再び、長い過去の縁に結ばれて、町名も新たな広川町と命名し、新たな出発を開始したのである。

原始・古代史
2、広川地方原始文化の発祥

1  広川地方原始文化の誕生地


この地上に人類が住みはじめると、そこに人間の生活から何等かの形で文化が生れる。わが広川地方においては、その最初の場所と、その最初の時代について、つい近年まで池ノ上古墳群を除いては、確実な資料が発見されていなかった。

ところが、最近、それを遙に遡る遺跡が発見された。広川町誌の歴史篇は一挙に数千年古い時代から筆を起し得る状況が図らずも出頭した。即ち、鷹島において縄文式前期に始まる遺跡が発見されたからである。
鷹島は、広川町西部海上に浮ぶ1孤島である。古来、明恵上人関係遺跡として知られていた以外、歴史的にはさほど注目を惹くところでなかった。それが、図らずも広川地方のみでなく、有田地方において最古の考古学的遺跡であり、しかも、同遺跡は中世―近世まで連続して各時代の遺物を出土せしめる点においても稀に見る長期間遺跡であることが判明した。
発見の動機や遺跡の調査については、本書考古篇(異三郎氏編『鷹島』より転載)で詳述されているから、ここでは繰り返さないが、これによって、広川地方文化の発祥地とその時代を、一応、窺い得たといえる。尤も将来のことは予測し得ないが、現時点では少くともこの鷹島から広川地方史の第1歩が踏み出されたと観ることができる。
考古篇で述べられているとおり、最初は、師楽式や弥生式の遺跡として鷹島が注目されたのであった。だが、発掘調査の進行に伴って、当初予想もしなかった縄文式遺跡であることが判明した。そして、同遺跡から出土した土器の中に縄文式前期様式を有するそれがあり、1躍、広川 地方史出発点が遙か原始時代に遡ることを示した。
さて、縄文式時代前期とは、一体、今からどれ程の昔に属するのであろうか。それを解くのが、土器の形式(形態・文様・その技法など)から編年している時期区分である。従来、この区分を早期、前期、中期、後期、晩期と5大別して、早期は大体8〜9000年前後、前期は大体5000年前後、中期は同4000年前後、後期は同3000年前後、晩期は同2500年前後遡った時代とされていた。ところが、最近、新しい編年が発表されている。即ち、草創期大体4500年前、早期同4100年前、前期同3700年前、中期同3300年前、後期同2900年前、晩期同2500年前と6期に区分し、縄文時代の年数を、従前の説に対する約半分に縮滅した

(山内清男氏「縄文文化の社会」 『日本と世界の歴史』第1巻日本古代文化編所載。および『古代文化』所載論文)
そこで、鷹島の縄文式前期を、右の新旧2説に照して推定すると、従来説では、およそ4千数百年前とすることができるが、山内氏の新説では、およそ3千数百年前と見なければならない。いづれが妥当であるか、今後の研究に俟つ外ないが、とにかく、この大きくもない島が、およそ数千年前広川地方文化の黎明地であったことが長く記念されるに相違ない。このあけぼのは、ひとり広川地方のみの曙でなく、やがて、広く有田地方原始文化のそれとなって拡まっていったと考えられるのである。

2  海を渡って来た鷹島原始文化


考古篇で詳しく述べられているとおり、この鷹島遺跡からは様々な型式の縄文式土器をはじめ・弥生式土器・土師器・師楽式土器・須恵器・瓦器など長い期間にわたる各時代の土器および緑釉陶や青磁など陶磁器類まで出土し、土を素材とした文化所産品の発見が多彩を極めている。また、石器では石錘その他が検出されており、同島における人間生活の歴史を物語ってくれる。
昭和40年から3次にわたる発掘調査によって、この孤島は古く縄文式前期から始まる遺跡であり、原始・古代・中世・近世へと連続する、当広川町内では他に類例を見ない長期間遺跡として注目される。だが、本章ではまづ、最初の鷹島の島民、即ち縄文式時代人は、一体どのような生活を営んだのであろうかという問題を取り上げて見たいと思う。考古篇では詳細にわたって出土土器や石器その他遺物の説明が行なわれているが、発掘調査報告書という性格上島民生活にまで及んでいない。それをこの歴史篇においていささか試みて見たい。
ところで、繰り返しいうようだが、この孤島を最初に生活の場所としたのは、縄文式時代人であり、それが数千年以前のことである。その頃、ここに住みついた縄文人は、必ず何処かから移住してきた人達である。そして、此処が島である以上、遙々海を渡って来たに相違いない。それでは、一体どの方面から渡航して来たのであろうか。
考古篇に記載があるとおり、この鷹島縄文遺跡から検出の土器中、最も時期の遡るのは、縄文式前期末とされる大歳山式土器である。それに次いで、同中期とされる船元式土器が出ている。前者の名称は、神戸市須磨区舞子の大歳山遺跡出土土器に由来しており、後者は、岡山県倉敷市粒江の船元遺跡出土のそれに由来する。いづれも瀬戸内海岸に近い地方である。以上のことから推想するなれば、おそらく、瀬戸内方面から渡航してきた原始社会人は、鷹島が四季を通じて居住に好適なることを発見し、此処を新しい生活の場所としたのであろう。

3  鷹島における原始社会の生活


前節で縄文式時代人が、新しい天地を求めて鷹島に居を定めたのであろうと推測を述べた。彼等が住みよい場所を選ぶとなると、当然、生活のしやすいところに着目するであろう。いまだ農耕技術を持たない彼等原始社会人は、魚介や海藻の豊富な鷹島のような土地が、何んといっても魅力であったに相違ない。当時の生活手段は、狩猟・漁撈・採集など、所謂、自然採取経済であった。この島では、主として魚粉と採取が行なわれ、魚貝や海藻、草木の若芽などが食糧品であったと思う。漁撈の盛んに行なわれたであろうことが、多数の石錘出土から想像されるところである。僅かであるが石鏃も発見されているから、狩猟も併せ行われたのであろう。
ところで、彼等が食糧を保存する器、食糧を盛る器、その他食糧の調理に必要な器は、殆んど土器であった。
その土器は粘土で成形し、さらに焼成して使用に堪え得るように工風した焼物であるが、まだ焼成技術が進んでいなかったため、火度が低く、軟質で甚だ脆い。割ればすぐ代りのを作るという工合で、彼等の住居址附近から夥しい破片が発掘されることが多い。鷹島縄文遺跡においても同様であった。この軟質の焼物を、考古学者は(現在では一般に)縄文式土器と呼んでいる。 この名称の由来は、粘土で形を造る時、様々な文様を表面に施した。
その文様の代表的なのが、細目文様であったからである。この縄目文様土器を略称して縄文土器と呼び、この時代のすべての土器を、縄文式土器と呼称するのが通例となった。縄文式土器には様々な形態、様々な文様、様々な技法などあるが、それについては 考古篇で既に詳述されているから、ここでは省略する。だが先記したように、この様式の相違によって、それが製作された時期を異にし、それらの土器を包含する地層や、伴出する有機物を科学的に検査して、その結果に基き、土器の編年を行うのである。その編年に照して、各地遺跡から発見される土器の製作時期を推定するのが考古学上の重要な仕事の1つである。鷹島遺跡が縄文式時代前期に始まり、中期・後期・晩期と、非常に長い期間、原始文化人が生活を営んだ場所であることを、土器の編年に照して教えて呉れている。
土器に次いで、この時代の生活用具といえば、まづ石器を挙げなければならない。鷹島縄文遺跡から発見されている石器は、考古篇で述べられているとおり、石錘が多い。漁撈の場合に網の重りに用いた石である。石鏃は弓の矢先に付つけて狩猟に用いたもので、発見数の少いのは、同島では漁撈を主とし狩猟を従としたためであろう。これは立地条件から考えれば、当然そうあったであろうと納得できる。石匙というのがある。スクレイパーというものと同様1種の小刀で、獣の皮剥ぎに、その肉の料理に、魚肉や野菜(天然の)の料理にと、様々な用途に役立てた小形石器である。
縄文式文化の時代には、まだ金属器が知られていなかったから、石器が殆んど後世の鉄器の役目をした。ところで、右の石鏃や石匙はサヌカイトという石を材料としている。この石材はこの附近で産する石でない。四国の讃岐か大和の2上山で採石されたもので、そこから各地へ搬出されたらしいが、鷹島遺跡出土のサヌカイトも、讃岐か大和から運ばれて来たものであろう。四国から運ばれて来たとすれば、当然、海上交通によったものである。繩文式時代といえば原始文化の時代であったが、既に独木舟(丸木舟とも書き刳舟のことである) があった。千葉県の加茂縄文式時代前期遺跡から独木舟が発見されている。同県千葉市畑町出土のそれは縄文式後期の遺物ということである。上記の例をもってしても、縄文式時代には早くから舟があり、海上交通の技術が開かれていた。
先記した如く、鷹島に初めて文化の灯を点したのは、瀬戸内方面から渡航して来た縄文式文化人であった。彼等もやはり、独木舟に乗って渡って来たのであろう。前記サヌカイトも讃岐産とすれば、舟で運ばれて来た交易品産に外ならない。これは鷹島での海産物魚貝や海草類と、物々交換で得た石材であろう。なお、同島縄文遺跡からは、前記型式の土器の外、北白川式・遠賀式など各種型式の土器が発見されている。これは、各々の時期において、各地部族との交渉があったことを物語るものである。
漁撈や採集によって生活の糧を得た鷹島の原始社会人は、一体どのような場所に、どのような住いをしたのであろうか。同島縄文遺跡から推察するなれば、島の東部、風浪静な湾内渚に続く小丘陵が、その場所である。冬季でも寒さを感じない好適の地点を選んで、彼等は起居の場としたらしい。考古篇に記載のある住居址は、それを物語っている。同住居址の中央に炉を造り、寒い時には暖をとり、これを囲んで寝たであろうし、日常食糧の煮炊にも使用されたに相違ない。この住居址は、完全な型で遺されていなかったから、その全貌を知るに由ないが、地中に竪穴を掘って、周囲に柱穴をつくり、それに柱基部をいけこんだ、所謂、掘立小屋式の簡単な建物であった。屋根はおそらく草葺とされていたであろう。余り大きな堅穴でないから、親子数人がかろうじて寝起できる程度の広さである。親子といっても、母と子だけが1つ家に住み、父は他家に住んで通って来るという、所謂、母系制社会であったとされている。

この鷹島遺跡からは、縄文時代人の信仰を暗示するような遺物が発見されていないが、同時代の社会制度の一端に触れたついでに、この社会の信仰についても1言しよう。
原始社会の縄文人においては自分の周囲に見られる自然物に神霊を感じた。自然の営みが、総て不思議な神の力によるものとした。日月、風雨などの自然現象をはじめ、山川草木や動物の類まで神霊の権化と見て、この神霊の恵みとして自然採取経済生活を行い、かつまた、家族や集団の安全を祈った。宗教としては、最も原始的な自然信仰である。
殊に、石への信仰は環状列石(秋田県大湯)の如き型に組立てられ、何かの儀式に用いられた。石に神霊を認めた1例である。
この時代の遺物に、土偶や土面がある。わが国でこれまでに発見された土偶は、はや、万に近い数にのぼるという。これらの土偶は千姿万態だが、ただ1つ共通するのは、殆ど女性をかたどっていることである。両乳の突 突起に腹部の膨張。たしかに妊婦を表現している。これは妊娠・出産という生殖機能を神秘化し、増殖は神の力によるものと信じて、ものの増殖を祈願したのでもあろうか。土面もまた女性を現わしているので、同じような意味の護符とされたのでないかと思う。とにかく、縄文時代の信仰は専ら呪術を伴ったものであったから、土偶も土面も等しく呪物であったと考えられる。あらゆるものに神霊を認めるのはアニミズムであり、呪物をもって祈ったり、占ったりする呪術は、この時代の宗教行事として最も重要なものであった。前記したように、鷹島遺跡からは以上のような原始信仰を証左する遺物は、遂に発見できなかったが、たとえトレンチを入れた地点からそれがなかったにしても、この島にもおそらく同じような原始信仰が行われたことであろう。(鷹島から最も近い土偶出土地を挙げれば、海南市鳥居遺跡がある。)

記述が若干前後するが、上記の如き原始信仰を維持した縄文式文化社会では、その集団内において、まだ、貧富の差別はなく、おそらく皆んな平等であった。その日その日の生活の糧は、狩猟・漁撈・採取によって毎日得るのであって、櫃、即ち富の蓄積というようなことは多分行わなかったであろう。だから、集団内には貧富の差別はなく、従って、貧富からくる階級差別のない社会であった。鷹島ばかりでなく、いづれの縄文遺跡からも、著しく身分の上下を示すような遺物が発見されていない。これがまた、この時代の特色といえるのではなかろうか。

4  縄文式文化の移動


先記したことであるが、海を渡って鷹島にたどりついた縄文式前期時代人は、この島で最初に広川原始文化の火を点したのであったが、やがて、その部族が分派して、新天地を求め移動を開始したと考えられる。有田市初島町地ノ島は、縄文中期からの遺跡として知られているが、おそらく、鷹島から移住していったのでないかと思われる。さらにまた分派した部族は有田川を遡り、鷹島・地ノ島等の海の幸と異る山の幸を求めて、奥有田の山間部に移動して行ったものであろう。有田川中流以上の河岸段地には、縄文遺跡が数多く知られている。そこでは、狩猟を主とした生活が行われたが、無論、有田川では漁撈も、周辺山野では採集も共に行なわれたであろうこというまでもない。
このようにして、有田地方における原始文化のあけぼのが告げられ、最初、海辺から開けた有田地方文化が、やがて山間部にも移動し、山も住みよい原始の生活を縄文時代人は体得したのであった。繰り返しいうなれば、有田文化の発祥の地は、一孤島鷹島であったと想像される。

5  上中野末所遺跡の発見


広川地方における縄文式遺跡といえば、ついこのあいだまで、上記鷹島のそれを除けば全く未知であった。
それが、極めて最近、大字上中野小字末所において知見した。同所の水田地下から耕作者馬所伴右衛門氏によって、数個のサヌカイト石片と2〜3点の小さな石鏃が採集された。そして、かねてから親交のあった筆者に通知して呉れたのである。同氏は以前にもその附近水田地中からサヌカイトの石鏃と紡垂車、その他サヌカイト石片など拾い上げたことがあり、それが弥生式時代の遺物と推定することができた。今回もおそらくそれと同じような時代の出土品であろうと予想しながら早速駆け付けたところ、どうして、縄文式時代石鏃があるでないか。
極めて小型のものであり、よくも見逃さずに採集して呉れたものであると感謝したのであった。
同遺跡の場所は、広八幡神社の森のすぐ北側。もと、同八幡神社別当仙光寺の塔頭明王院の北隣りの水田である。さきの弥生式遺物の出土地は、そこから約100m程東寄りの同じく水田であった。
郷土の歴史や古い事に興味を持たれている馬所伴右衛門氏なればこそ、一般人にはちよっと気付かない、小さな石器の発見が行われたのである。
ところで、この上中野末所遺跡は、前記鷹島遺跡と類似した縄文・弥生・古墳時代、さらに歴史時代へと継続する遺跡であることが、同氏採集の出土遺品によって判明した。
それはさておき、鷹島と異って、陸地は山麓も平地も早くから開墾が行われ、たいていの遺跡は耕地で覆われてしまった形である。それが偶然の機会に発見される場合がある。上中野末所遺跡などはその1例であるが、余程注意深い耕作者でなければ、その可能性がない。幸い馬所氏の如き熱心家のお陰でその一部が発見された訳である。この外にも縄文式遺跡が埋没しているであろうが、今後どのような機会で発見されないとも限らない。
さて、右の縄文式遺跡は、いまだ本格的な調査を経ていないが、住居址であると推定される。石鏃のほか、おそらく同時代の土器が埋蔵されているであろうが、まだ発見に至っていない。此処を住所とした縄文人は主として狩猟・採集を生活手段とし、海もさほど遠くないから漁撈も行われたであろう。大体において、鷹島を住所とした縄文人は漁撈・採集を主要な生活手段としたであろう点と対照的といえる。立地条件の相違がしからしめたところである。
とにかく、鷹島にあれほどの遺跡を形成した縄文人である。それが、近くの陸地に一部移住したと見てよいのでなかろうか。何んといっても、広川地方文化の原点というべき縄文式文化の跡が、単に鷹島のみでなく、陸地の方面でも発見されたこと、新たに注目されて然るべきであろう。


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3、広川古代文化への出発
ー 初期農耕社会の出現 ―

(1)原始文化から古代文化へ


鷹島における縄文式前期文化を胎動期とする広川原始文化も、同中期、後期、晩期と段階的な経過の後、ようやく、次の古代文化と交代する。この島にも弥生式文化の波が押寄せてきたからである。
考古篇で述べられているとおり、縄文式晩期の土器に混って、弥生式土器が出土した。縄文遺跡の上層に弥生遺跡が重なっていたのである。新規に渡来した弥生式文化は、それ以前の縄文式文化と質を異にした新文化であり、最早や、原始文化から1歩前進した古代文化であった。
弥生式文化をもって、原始文化と謂わずに古代文化と称する所以は、前代の縄文式時代は専ら狩猟・漁撈・採集などの、所謂、自然採取経済であったのに対して、稲作を中心とした農耕経済に進歩していたからである。鷹島は平地のない島嶼であるから、弥生式文化が農耕技術を折角もたらしながら、前代同様、漁撈や採集の生活を主にせざるを得なかった。だが、この時代になると、広川地方の陸地にも同文化が伝播し、農耕社会を形成するに至る。そのことは、後述の上中野末所および名島高城山遺跡などから、ほぼ推想されるところである。
ところで、この弥生式という名称は、どこからきたのであろうか。今では殆んど常識程度の事柄であるかも知れないが、一応、これを明らかにしておいて、次ぎに進もう。
明治17年(1884)、東京都文京区弥生町で遺跡が発掘された。その際出土した土器に記念して名付けたのが、即ち、弥生式土器。遺跡の町名をとって命名したのが起源だという。しかし、新種出土による記念命名でなく、縄文式土器や土師器とも異る様式の土器として、初めて識別されたからであったらしいともいう。
ところで、この弥生式土器、または、同土器の製作された時代を指す弥生式時代、さらに、同時代の文化をいう弥生式文化などの名称は、 まことに、この時代をいい得て妙である。弥生といえば季節にし早春。あたかも春色ようやく見え初めた頃にあたる。日本の弥生式時代は、縄文式時代の長い原始文化に終りを告げさせ、新たな古代文化への出発を開始した時代である。謂うなれば古代文化の萌芽期である。季節に例えれば、3月弥生の時期というべきであろう。
この弥生式時代文化の特色を挙げると、前記した如く、日本における稲作農耕の開始。同じく金属器使用の開始。それに、日本が朝鮮ないし中国と交渉をもち始め、直接間接に大陸文化の影響が現れだす時期である。さらにいえることは、部族集団内に支配者被支配者の階級分化が見えはじめる時代でもあった。
以上は既に専門家によって明らかにされている諸点である。わが広川町地域において、現在までに知見し得た2〜3の遺跡および、そこから発見された若干の遺物など紹介する中で、もう少し詳しく述べてゆきたい。

(2)古代文化の開幕


1  鷹島弥生式遺跡


広川地方における古代文化の萌芽は、いうまでもなく弥生式文化の波及にはじまる。そして、古代文化の種子が播かれた場所は、現在知り得る範囲で挙げると、前記のとおり、鷹島と上中野末所および名島の高城山附近である。無論、この外にも同様の場所があったであろうが、気付かないままにその遺跡が、過去における開墾等で煙滅したであろうし、なお、未発見のところもあるであろう。
ところで、鷹島遺跡では、縄文式晩期土器片と混在において、弥生式中期以前の土器片などが発見されている。
弥生式時代は前期・中期・後期と3期に区分されているが、その前期遺品に当っているという。そして、弥生式時代は大体、紀元前1〜2世紀から、紀元後2〜3世紀までの、およそ、4〜500年間と見るのが普通である。
すると、鷹島弥生式遺跡は紀元前1〜2世紀ころ。そのころに縄文式文化と異る新文化が、何処からか渡来し、同島にその跡を遺すことになった訳である。
ところで、同島出土の弥生式土器は、考古篇にも明記されているとおり、壺形土器と襲形土器である。いづれも破片のみであるが、時代文化の一端を物語る資料として注意しなければならない。
弥生式土器には、4つの基本的な器形がある。貯蔵用の壺、煮炊用の甕、食物を盛る高杯および鉢で、普通この4種類が1組のセットとして使用されたものである。製法は、前代の縄文式土器と大差ない紐造りの巻き上げ手法で、やはり表面に文様が施されているものが多いが、縄文式のそれと異っているので識別がつく。焼成は繩文式土器の場合に比較して、やや高い火度で行なわれている。縄文式土器は一般的に黒褐色であるに対し、弥生式土器は紅褐色を呈しているものが多い。酸化炎で焼成されたからである。
さて、器型というものは、その器の使用目的に随って決まり、変化もしてゆく。弥生式土器が前記の如き4つの基本的器型をもつようになった理由は、食生活の内容が前代と異なるものとなったためである。先記したとおり、この時代は、自然採取経済から脱脚して、農耕経済に進化していた。そして、主食は稲作による米食に変った。米の外、麦やその他の雑穀も常食とされるようになっていた。壺はその穀物を貯蔵するため、襲はそれを煮炊するため、高杯や鉢はそれを盛るための器であった。もちろん、前代同様、狩猟・漁撈・採集が行われていたこと、弥生式土器と伴出する土錘や石鏃によって証明されているところである。鷹島においても、これを証する同時代の土錘が発見されている。
鷹島には平地のないこと、先記したとおりである。折角、稲栽培技術を伴った弥生式文化が伝播しても、その技術を生かす土地がなかった。やはり、従前どおり漁撈や採集中心の生活を続けざるを得なかったであろうが、食糧は、物々交換によって、近くの弥生式文化集落から得た穀物を用いることもできたと思う。後述で挙げるが、この弥生式時代、有田川中下流沿岸平地はもとより、他の平地においても、各処に遺跡を留め、農耕主体の古代初期生活展開の跡をしのばしめている。



2  上中野末所弥生式遺跡


広八幡神社の森附近は、上中野字末所である。同神社の北側は可なり広い台地になっているが、そこから数個のサヌカイト製の石鏃と、石製紡錘車1点が発見されている。この附近の耕作者馬所伴右衛門氏が、作業中に偶々発見したもので、計画的な発掘調査による検出でない。だが、石鏃と共に紡錘車が出土したということは、少くともその附近は、かって古代人の住居跡であったことを示竣するものに外ならない。なお、この馬所氏の言によると、同所からは土器の破片が可なり多数出土し、完形品も1点発見された。しかし、完形品は強く所望する人があって、人手に渡り現在所在不明という。なお、その頃、土器片までが貴重な資料だとは、いまだ気付かなかったので埋戻してしまったという。そこで附近を表面採集したところ、弥生・土師・須恵器などの小破片を拾った。所謂、複合遺跡である。また、広八幡別当仙光寺関係遺跡でもある。
さて、此処から最初に発見された石器、即ち、サヌカイトの石鏃と紡錘車は、その様式からいづれも弥生式時代の出土品と推定される。石鉄は主として狩猟用で珍らしくないが、紡錘車は比較的出土例が少い。紡錘車とは糸を縫る場合、糸巻棒にさしてその回転を助けるための円盤形。又は截頭円錐形、算盤玉形の小器具である。紡錘車は弥生式時代から用いられ、この時代のものは、石製品と土器製品がある。そして、次の古墳時代になる

と、一般的に石製品が多くなるが、その場合、前期には碧玉製、中・後期には滑石製を普通とした。上記上中野末所出土の石製紡錘車は、サヌカイト製円盤形。石材・形式上から推して、おそらく、弥生式時代のそれと想われる。
右記の如く、上中野末所遺跡は、弥生式遺跡として織物の仕事も行われた場所であった。この台地北側は、すぐ沖積平地である。この時代は、既に、農耕文化社会に入っていたから、この台地に、前代と大差ない堅穴住居を構えた弥生式人は、附近の低湿地で稲の栽培を行ったであろう。此処では北側ばかりでなく、東側・西側も低地をなしているから、彼等の稲作地として十分利用できた筈である。かって、縄文式文化時代に見られなかった新規な経済生活が、此処でも始まったのである。
さらに、もう1つ、新しい仕事といえば、前記紡錘車が示唆する織物のことである。もっとも織物は、この時代に始ったものでないが、紡錘車で糸を紡ぎ、織機に掛けて布を織ることが新しく始まる。その原料は、縄文式時代は専ら天然植物に求めたのに異り、農耕技術の普及した弥生式時代には、麻などの繊維作物も栽培されるようになった。当時の技術では、上中野台地を水田にすることが無理であったであろうから、畠地として、麻などの繊維作物も栽培され、布を織る仕事も行われたのであった。
この上中野末所遺跡は、弥生式時代以前、既に縄文式遺跡であったこと。つい最近に至って知ることができた。
その事については、前章に書き加えて一応紹介したとおりである。
現在の知見では、広川地方において、鷹島に次ぐ原始時代からの遺跡である。そして、続く弥生式時代遺跡としても古い遺跡でないかと考えられる。だが、何分その時代の土器で、時代判定に役立つ程の出土品を見ていな ないので、今後の研究にまつ外ない。



3  高城山弥生式遺跡


広川町における既存の弥生式遺跡のうち、この遺跡だけは何故か山腹に所在する。同遺跡は弥生式後期に属し、壺・甕・高杯・鉢など、前記した弥生式土器セットの破片が多数出土を見た。
高城山は、広川の東側にある小高い山で、室町時代、紀伊国守護となった畠山氏が、此処に築城した広城跡である。高城山なる名称も、この歴史に基づいて生れたに外ならない。この城山の南面山腹のやや高所に、上記弥生式後期遺跡が発見された。此処も畑開墾による偶然の発掘で、完全な調査が行なわれていないが、土器の出土したのは地下約1メートルのところからであった。その深度のあたりが遺物包含層で夥しい土器片が、土の掘取口に姿を現していた。さらに、土器片に混って多数の川原石も発見された。近くの広川原から運び上げられたものであろう。おそらく、丸い川原石は、堅穴住居の床に敷き詰ていた敷石であったと見られる。
この住居あとは1度地滑りかなにかで攪乱されており、既に原形を留めない遺跡となっていた。その為もあって、綿密な調査を断念せざるを得なかった。
ところで、この遺跡もそうであるように、弥生式後期の住居あとは、往々にして山上や山腹で発見される例が多い。同前期や中期のそれは、平地に近い台地を普通とするが、後期に至ると、突然、高地に移動する。その理由は一体何んであろうか。この疑問について、若干触れて見たい。

あちこちの弥生式土器からは、籾痕のついた遺品が相当発見されている外、同時代の住居跡から炭化した米粒などが出土していることから、この時代には、既に稲作農耕社会に入っていたことが明らかとなっているが、高城山弥生人も、おそらく、山麓低地で稲栽培を行って生活していたと想像される。すると、その住居は附近の台地の方が便利であった筈である。それが、相当高処な山腹に所在するのは、何にかそこに重大な理由があったに相違ない。大体2~3世紀とされる弥生式後期、急に高地性遺跡が目立ちだす。高城山遺跡の場合も同様である。
山上に住居を移したのは、何にか難を避けるためか、外敵から身を護るためであったに外ならない。
そこで注意にのぼるのは、『3国史』中の「魏志倭人伝」に見える記事である。即ち、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」(岩波文庫本)。これは、中国古文献に記載された、2世紀末頃の西日本の有様であった。当時の倭国は、多数の小国に分れていた。九州方面においてか、もっと広い地域を指してか明らかではないが、とにかく、30余国に分れていたと、同書の伝えるところである。そして、大乱を経たあと、邪馬台国の卑弥呼という女王の呪術的統率力によって、その国々が連合国を保った。今その国々の所在地をめぐって、甲論乙感、その帰するところを知らない有様。特に邪馬台国と女王卑弥呼の問題は、今や日本古代史の花形の観がある。邪馬台国は九州であったか、将又、大和であったか暫くおき、弥生式時代は小国家が群立していた何よりの証拠である。倭国乱れ、相攻伐すること歴年ということは、九州とか畿内に限らず、おそらく、日本全土の有様であったであろう。
その時代に強国は、附近の弱小国を次ぎ次ぎ征服して、国土統一を推進しはじめた時期であったのでないかと考えられる。1種の内乱の時代である。そのため、村落国家的部族集団が、山上や山腹に居を移し、山砦を構えたのであったと思う。 それが、いま、弥生式時代後期の高地性遺跡として、知見されるのであるまいか。

(3)弥生式文化の様相


上来、広川町内所在の弥生式遺跡を中心に、若干、この時代の文化について略述した。しかし、同時代の文化に関して、まだまだ重要な事柄が残っているので、次ぎに述べておきたいと思う。次章において、この時代に続く古墳時代を記述することになるが、その前提として、直接、前記3遺跡からは察知し得ない事項であるが触れておく必要があろう。
本章第1節で既に挙げたが、弥生式文化時代の特色は、(1)日本における稲作の開始、(2)金属器使用の開始、(3)大陸文化の影響、(4)階級社会の萌芽などの諸点である。(1)については多少述べたが、(2)(3)(4)については、遂ぞ触れる機会がなかった。そこで、残された点を簡単に叙述しておこう。
縄文式時代の利器といえば、石器か骨角器の類であった。それが、弥生式時代になると、新たに金属器が加わる。おそらく、この時代に朝鮮半島を経て、大陸文化が輸入され、それによって、わが国に金属器がもたらされたものである。最初、北九州方面に、銅剣・銅鉾・銅矛・銅才等が現れ、1時、青銅文化を形成する。また、近畿や南海道を中心に銅鐸が出現する。はじめは、銅剣・銅矛の類は武器として用いられたものであろうが、鉄器が知られるようになると、銅製利器は祭器に用途が変化していったらしい。銅鐸もやはり祭器の1種か、宝器であったと思われる。これらの青銅器は、何に故か、北九州と近畿・南海道とに2分して分布する。それを、北九州の銅剣・銅鉾文化圏、近畿中心の銅鐸文化圏という。
南海道に属する本県にも銅鐸の出土がかなり知られている。そのうち有田川下流沿岸地帯からも数個のそれがあった。

ところが、弥生式時代の銅鐸は、不思議なことに、次の古墳時代においては、全く姿を現わさない。弥生式末期頃にか、何かの理由で忽然として隠匿されたものらしい。それが、後世、偶然の発掘で山中から発見されているのである。
前述で、弥生式時代後期の高地性遺跡について、若干、見解を示した。上記銅鐸が隠匿されたのは、その時の内乱に起因するものであるまいか。村落国家的集団または地域国家的集団が祭器としたか、或はその集団の統治者が権威の象徴とした宝器であったのか、とにかく、銅鐸は弥生式文化社会の重宝であったに相違ない。それを守る方法として、山上への埋蔵というのが、最も安全であったのかも知れない。
北九州における利器的祭祀器や、近畿・南海道における銅鐸は、その最初の頃にあっては、大陸方面から輸入の青銅器を改鋳したものであろうが、やがて、この国内においても原料を得るようになると、純粋の国産品が生れたであろう。
さらに重要なことは、青銅器に次いで鉄器が輸入されたことである。これも早くから中国大陸に普及していたのが、朝鮮半島を経て、弥生式中期の頃に将来されたと見られている。最初は、銅器同様、渡来品にばかりたよっていたが、わが国においても銅鉱や砂鉄の発見となり、砂鉄から鉄器原料を得る方法が知られることになった鉄器の使用は何にもまして、文化の発展を促した。それまで、石器や木器を使っていた古代人は、鉄器を使って開墾や水利工事を行うことになる。急速に耕地が増加し、農業生産が高まってゆく。生産された農産物の貯蔵も始まり、富の蓄積がおこる。弥生式時代には、校倉式の貯蔵倉庫の存在したこと、銅鐸文様から、既に証明済みである。
ところで、この蓄積された富の分配に際して、部族集団内に采配を振る人物が現れる。経験豊かな長老か、優れた呪術者が選ばれて、その集団社会の支配者の地位につく。それが、次第に世襲化して、やがて、その部落に首長の家系が生れる。そこに、支配者と被支配者の階級が発生すると共に、その集団社会が、この首長を統率者として、部落国家を形成するのである。このような部落国家が各地に出現を見るが、当然のことながら、大小強弱の差がある。強大部落国家は弱小のそれを統合して村落国家へ、更に征服や統合を進めて地域国家へと発展してゆく。これらの各階層小国家の統治者は、自国の力に応じた豪族に生長してゆくのである。彼等の墳墓からは、その身分を示す高級な玉製装身具や、舶載の多亜細文鏡(前漢鏡)その他青銅器が発見されている。(北九州各地や兵庫県田能遺跡の墳墓がその例である)
前記『魏志倭人伝』より古い『漢書地理志』に「夫れ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となる。歳時を以って来り献見すと云う」(原漢文)の記事がある。分れて百余国とは、小国家分立の有様を物語るものであり、歳時を以って来り献見すと云うは、中国(漢の出先朝鮮の楽浪郡)と交通のあったことを物語る。年々歳時、貢物をたづさえて大陸半島に渡航したことを明かにしている。因に同書は、紀元前2世紀ごろの漢国地理誌である。前2世紀といえば、わが国では弥生式前期のころで、上記した同後期のころより3〜4世紀遡る。その時代、既に、北九州方面(『漢書地理誌』に見える百余国は、おそらく、北九州のことであろう)では、多くの小国家が群立して、その国々が中国と交渉をもっていたのである。弥生式文化は、朝鮮半島を経てわが国に渡来した大陸古代文化であって、先づ、北九州から開け、漸次東進して日本全土に拡がっただけに、近畿・南海道地方よりも、村落国家や地域国家の成立は早かったであろう。だが、とにかく、近畿や南海道でも弥生式後期には、相当勢力を有した地域国家が成立していたに違いない。それが基礎となって、次の古墳文化が築かれてゆくのである。

(4)広川地方周辺の弥生式遺跡


大体以上でもって、弥生式時代のことを概述した。ところが、広川地方周辺にはどのような同時代遺跡があるかについて、参考に挙げておきたい。当広川地方における弥生式文化人との間に、多分、何等かの交渉があったであろうから、せめて、その所在地だけでも挙げておく必要があろう。

遺跡名所在地遺跡・遺物
田殿尾中遺跡吉備町尾中集落跡石器・土器片多数
夏P森遺跡   〃〃出〃  〃  〃
宮原里神原遺跡  有田市宮原町東〃  土器片多数
〃奥の谷遺跡    〃〃  土器及び土器片
系我遺跡有田市系我町一円〃  〃 〃
星尾遺跡有田市星尾〃  土器片多数
津井浜遺跡有田市宮崎町津井〃  土器片
地/島遺跡有田市初島町〃  土器片
山田堂山遺跡湯浅町山田南谷〃  土器片
青木遺跡湯浅町青木〃  土器片

4、池ノ上古墳群が語るもの
―古代豪族の出現―


1  池の上古墳群


従来、この古墳群に対して、当地方では、池ノ上48塚の称があった。また、1説には、主従8塚とされていた。
右の伝承は、古墳及至古墳群の何たるか、真の意味が知られていない時代からであった。しかし、偉い人達の墳墓であるということ。その数が多かったということ。ある程度事実を伝えている。だが、その由緒となると、無理もないことながら、全く見当違いの説が行われていた。それが、相当郷土史家を自認する人達の間にも、かなり信じられていた。それは、次の如き伝説である。
名島の高城山に広城を築いて、この辺を治めていた畠山氏が、ト山(尚順) の頃、日高の湯川氏に攻め滅された。
その時、この附近も戦場となった。そして敵味方の戦死者を多く出した。その戦死者のうち、主だった武将と、主だった家来を葬ったのが、この塚である。大きいのは大将の塚で、小さいのが家来達の塚だ。それが皆で48塚あった。だから、昔から池ノ上48塚といわれた。
大体右のような里伝に対して、いや、48塚というのは、それは間違いである。実は主従8塚だ。と、主張する人達もいた。いづれにしても、戦国時代武将達の墳墓とする説には、変りはなかった。
ところで、この48塚説も、主従8塚説も、古墳の実数を正確に語るものではない。特に、48などは、仏教思想から出た48願とか、48軽戒などの影響を受けて、数の多いことを表現する場合に用いたのであろう。そこで、また、48塚は如何にも多過ぎる。主従8塚の誤りである。と真剣に訂正を唱える者も出た。これも、おそらく、実数を調査しての上でなく、その語呂から云い出したのであろう。とにかく、従来、この古墳群は、里人にとって伝説の対象でしかなかった。
ところが、池ノ上主従8塚説が、案外、現在までに承知し得た古墳数に近い。しかし、これが最初からの基数であったということができない。この附近は、随分古くから開墾されているので、その都度、破壊の厄に会った古墳もあったであろう。
さて、池ノ上古墳群の所在地であるが、本篇第1章において、広という地名の起源を述べたところで、少し触れた。それで、ほぼ説明が付いていると思うが、あらためて記しておこう。
広川町大字山本・池ノ上集落の中心部は、殆んど、山本台地上に所在する。そのまた中程に、同集落の共同墓地があり、そこが、通称、「定冗」で知られた古墳所在地である。同所には、かつて幾基かの古墳が所在した。
今なお、通称「じょう穴古墳」の他に小墳が遺っている模様である。昭和初期、国鉄紀勢線がこの附近に布設されたとき、この墓地の一部が開鑿された。その際、偶然3基が破壊に会い姿を消した。
上記じょう穴古墳群の北方、程近いところに長山丘陵がある。この丘陵山腹台地も、同様、古墳群所在地であった。此処も明治後期と昭和初期、2度の開墾で2基失なったが、それ以前、どれ程失っているか、知る由もない。現在1基が確実に遺存する。



鉄道布設工事で発掘された古墳は、石組の中から人骨・やきもの(須恵器であろう)・金属環など出土したと伝えられる。石室の天井石が小川の石橋に転用されて、つい近年まで遺っていたが、それも、コンクリート橋に架け替えられて、姿を消した。
発掘当時、金属環が出土したので、山伏の遺体を葬った塚だろうと、噂されたそうである。だが、その金属環もやきものも、今は見ることができない。
長山古墳群で発掘された出土品の一部が、現在も地元の伊豆茂氏と、南広小学校に所蔵されているので知見することができる。須恵器の提瓶と杯である。この時、同時に発見されたものに、玉(勾玉・管玉の類)があったとか。日高郡南部の農林学校(現在の南部高等学校)へ寄贈したということである。

じょう穴古墳群と長山古墳群を総称して、池ノ上古墳群と呼ぶ。現存2基は横穴式円型墳である。既に消滅した古墳もおそらく同形であったであろう。
じょう穴古墳は、何時の頃からか開口しており、具さに内部の構造が窺える。古墳時代後期に属する古代遺跡であって、後述でやや詳しくするが、従前語り伝えられていたような室町末期戦国武将達の墳墓ではない。

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2  古代豪族の出現


古墳とは何か。今更事新しく説明の心要もないであろうが、地元の伝承に誤りがある。で、まづ、古墳について一言しておきたい。
古墳とは、古代社会において、特権階級者のために造った墳墓である。弥生式時代と奈良時代の中間の時代、わが国における国家統一が、大和地方の豪族天皇氏を中心に大きく展開してゆく。その時代の豪族達は、さながら権威を誇るが如く、立派な高塚式墳墓を築いた。これを今では古墳と呼んで他の墳墓と区別している。大体、3世紀末及至4世紀初めのころから、7世紀ごろまで行なわれた。最近8世紀の古墳も発見されている。
そして、この高塚式墓制の時代を古墳時代と称し、その築造された時代を、外形の違い、内部構造の相違、副葬品の変化等、様々な状況に基いて、古墳時代前期(4世紀前後)、中期(5世紀前後)、後期(6世紀前後)、と3期に区分している。池ノ上古墳群の形成されたのが、このうち、最後の古墳時代後期に属する。
同時期は、日本歴史の上では、大和政権がようやく、確固たる地歩を占め、各地方の豪族群を、その傘下に収めるに至った頃である。
さて、古代豪族達の墳墓である古墳が、山本台地と、その附近に遺存するという事実は、同地区が、その時代におけるこの地方支配者層の所在地であったことを立証するものである。
ところで、広川町に近い湯浅町別所の天神山古墳(現在、宅地造成により、既に破壊されて跡方もない)は、『湯浅町誌』 (昭和42年刊)に載せられているところによると、副葬品は、刀剣のほか、勾玉・管玉・金環などであったという。そして各種の埴輪が3重に巡らされていた。同古墳は、丘陵全体を1古墳とし、その頂上部に堅穴石室をつくり、死者を納めた石棺を安置していた。その周囲には3重に円筒形埴輪をはじめとして、家形、人形衣笠等の像形埴輪がめぐらされた、古墳時代中期のそれであった。(埴輪の一部は湯浅中学校・湯浅公民館に保管)。
右の古墳はかなり規模を大にした遺跡であったが、同期には更に大規模な前方後円墳、その他の古墳も壮大化が目立った。それに比して後期古墳は小型化する。池ノ上古墳群もそれを物語っている。その理由等については後述で改めて触れる機会があるのであろうが、簡単にいうと、1地域に数多の古墳が築かれるようになると、労力や経費の面からしても、自ら限度があり、小形化せざるを得なかったのである。
再び天神山古墳に話を戻すが、池ノ上古墳群の頃よりおよそ1世紀ばかり早い時期のものと思う。あの周辺は弥生式時代からの集落遺跡の存在する処。間近には前章に記載の弥生式時代後期の高城山遺跡がある。また、湯浅町山田・青木辺にも、同時代の土器片が出土する処がある。高城山麓の低湿地や、山田・青木の低湿地で、稲作を行い初期農耕社会を形成していた弥生式人が、次の古墳時代、特にその中期頃においては、天神山古墳を死後の家となし得る程の豪族を首長として、更に発展した地域集団社会を形成していたに相違ない。古墳出土の刀剣・勾玉・管玉・金環など、武器や装身具は、この集団社会の首長生前の権威を示すものであった。
とにかく、湯浅天神山古墳は、その当時の広川地方古代人、特にその東北部住民と全く無関係でなかったであろう。

それから、およそ、1世紀後広川地方にも池ノ上古墳群が現われる。この古墳群附近が新たな豪族層の所在地となった証拠である。
その頃、湯浅辺の豪族は、いったいどうなったのであろうか。あの附近には天神山古墳以外、古墳の発見がない。しかし、前掲『湯浅町誌』によると、天神山の隣りに塚原という地名が残るとある。そこにはかつて、古墳が遺存していたのであろう。だが、今は古墳があったらしい形跡が全然見当らない。まして、古墳群の地であったと想像することはむつかしい。前代に引き続いて、古墳時代は征服や統合が盛んに行われた。そのような歴史の歯車は、この地方豪族の身辺にも廻転し、各地の豪族間に勢力の交替があったであろう。池ノ上古墳群は、古墳時代後期、この周辺に勢力を得た豪族層の墳墓である。
古墳時代と謂えば、天皇氏を中心とした大和朝廷が確立してゆく時代である。大和朝廷の国土統一が進行し、紀伊国における最大の豪族紀氏などは早くからその組織内に入って活動していた。当地方の諸豪族も征服・統合という時代進展の歯車の中に巻き込まれながら、その過程の中で、次第に大和朝廷の勢力下に収められていったであろう。
大和朝廷の国土統一が進展し、その勢力圏各地方へ役人層を派遣する。それらの役人達 (官人層)も、任地では、 、1種の地方豪族的存在を示す。そして、この派遣された官人層も、中央豪族にならって、身分相応の古墳を造るようになる。そのような次第で、各地方に新旧豪族が競って古墳を築造する時代が到来する。これが、古墳時代後期の古墳群形成の姿であった。各所に数多くの古墳が造られるようになると、さきにも記した如く、労力・経費などの関係で、必然的に古墳は小形化する。そして、その1例が池ノ上古墳群であるといってよい。

上述で大体古墳とは何かということが判明したと思うが、本書考古篇は鷹島遺跡のみとしたから、ここで古墳について参考までに、若干、補足的な説明を加えておくことにしたい。
さきに、高塚式墓制の時代を古墳時代と称し、大体、3世紀末乃至4世紀初め頃から7世紀頃までと記した。弥生式時代と奈良時代の間およそ4百年間と見て大過ないであろう。この古墳時代を前期・中期・後期と3期に区分されていることも前述のとおりである。
古墳時代を3期に区分したのには、それだけの理由があってのことであるが、古墳にはどのような形があるかをまづ挙げておこう。

1 円墳、各時期を通じて行われた。
2 前方後円墳、この形式のものに壮大なものが多く、後円部が遺骸埋葬の中核をなすのを普通とする。そして、前方部はその祭壇と観る説が多いが、必ずしもこの説は妥当と云い得ないとの説もある。
3 方墳、 基底のプランが方形で墳丘は4隅が稜線をなし、頂上は平らかなるを普通とする。
4 前方後方墳、前方後円墳の後円部にあたる部分が方形墳丘をなしている。
5 双円墳、円丘が2つ連っている形態である。そして、それぞれの円丘に遺骸が埋葬されているので、夫妻合葬の場合などは、この形式が適していたと思われる。

右の外にもまだ幾種類かあるが省略する。以上は古墳の外形上の区分であるが、内部の形態には、大別して堅穴式石室と横穴式石室がある。この石室は被葬者安置場所。謂うなれば死者の部屋である。遺骸はこの石室内に安置される場合に、石棺や木棺に収め、さらに種々行き届いた施設があった。例えば粘土床とか粘土外被施設、礫床とか礫の外被施設、木炭床とか木炭外被施設などである。遺骸の安全や腐蝕の除止というような意図に基いて行われたに相違ない。また、棺内に朱を用いて遺骸の腐蝕を防ぐ配慮までめぐらせていた事例もかなり知られている。
ところで、ちょっと云っておきたいのは、堅穴式石室の場合、石棺や木棺または陶棺をさきに置き、その周囲4壁を板状割石をもって積重ね、その上の天井も板石を横長に架して造る方法もとられたので、必ずしも石室がさきに造られて、そこに棺が安置されたとは限らないのである。堅穴式石室に割石でなく自然石塊を積築した例もある。

横穴式石室の場合は、石室がさきに造られて、そこに花が収められたのであった。
さて、古墳時代は前期・中期・後期の3期に区分されていると述べたが、それは如何なる理由でかということについて、いまだ触れていない。次ぎにそれを簡単に記しておこう。
古墳時代初期の古墳は、たいてい山稜丘頂の地形を利用して、外観は堂々たるものが多い。堅穴式の円墳、または前方後円墳を普通とする。副葬品には、舶載の三角縁神獣鏡や内行花文鏡等の鏡が主要素をなし、鉄製利器や農具、玉類や碧玉岩製品等もあり、被葬者は呪術的司祭者たるの性格を有した首長達であったと想像される。
中期の古墳は、次第に傾斜地または台地上に築造される傾向が見られる。そして墳丘が壮大化すのも特徴の1つである。円墳・前方後円墳の外に、前方後方墳・方墳なども造られるようになる。そして、墳丘には埴輪をめぐらしたものが多くなること。もう1つは、古墳の周辺に堀を繞らした例が多いことである。堀を繞らすということは、前期においては立地上無理であったが、中期古墳はそれが可能な立地に営まれたこと。古墳の封土は堀を掘った土をもってしたと考えてよいであろう。
副葬品には、前期古墳と同様、三角縁神獣鏡や内行花文鏡のほか、3神3獣鏡、方格規矩4神鏡などと鏡の種類が豊富になるが、それよりも一層注目を惹くのは甲冑や刀剣や馬具の類が目立って多くなることである。玉類や碧玉岩製品類も見られるが、蝋石や滑石による刀子・斧などの石製品が多量化すること。何んといっても中期古墳の副葬品の主要素は武器・武装具と観られる程に変化を示している。被葬者は武人的な性格の首長達であったと思われる。
後期の古墳は、まづ立地的な面からいうと、平地・台地または丘陵といろいろな場合がある。前方後円墳は一層形が整って来ることも、1つの特徴であるが、最も大きい変化は、畿内を中心にたいていの古墳は横穴式石室という方法がとられたことである。なお、副葬品にも著しい変化が窺われることも見逃せない。
前記した如く、池ノ上の定穴古墳は、後期円墳であるが、何時の頃にか盗掘され、既に開口しているので、横穴式石室の構造がよく窺われる。この古墳を例に若干説明を試みることにしたい。しかし、石室内には何に1つといってよい程遺物が残っていないので、単に横穴式石室とはどのように施工されたかの説明に留めざるを得ない。

この横穴式古墳は、遺骸を安置する玄室と、その前方に玄室に通じる通路としての羨道を有する一般的な横穴式構造である。割石や切石等でもって構築し、その上に大きな石材を横架して天井石としている。玄室はかなり広い長方形で、羨道入口が多少埋っているが、通路としての役目を十分果し得る広さを用意している。
石室を覆って盛上げた封土も、今は長い歳月を経て低くなっているであろうし、北側は鉄道布設工事のときに幾分削り取られ、南側は耕地開墾や水路を設けたときに若干削り取られたであろうから、今の外形は余程当初のものと異っていることは確であるが、それでも小形ながら円形古墳の姿を留めており、池ノ上古墳群中で最もよく形の整ったものである。もう1基残っている長山古墳は、周囲が次第に削り取られ、墳形を僅かに留める程度に過ぎない。羨道構築の石材一部が露出しているが、この古墳はまだ盗掘に会っていないように観察される。
前記定穴古墳にしても、この長山古墳にしても、石室構築の石材は、この地方の砂岩を用いている。石材はその地方のものを使うので、県下でも有田市以北の古墳には、緑泥片岩を使ったものが多く、この石は比較的薄い板状をなしているので、それを平らに横積みにして4壁を造り、上に天井石を載せている。石の積み方には、石材による差異もあれば、地方的なそれもあって一様でない。だが、玄室の奥壁にはたいてい大磐石を使っており、池ノ上定穴古墳の場合にもそれが見られる。この方法は横穴式石室構築における通例とでも謂うべきものであろうか。
さて、次ぎは後期古墳の副葬品である。池ノ上古墳群の大方は、既に種々な事情で発掘されているが、それによって知見し、或は伝聞した副葬品は極めて僅かなものである。学術的なプランによっての発掘でなかったから、特に注意を
惹いたもののみを拾い上げたにとどまったからであろう。さきにも記したが、須恵器の提瓶と杯、勾玉・管玉、金属環などであった。しかし、発掘者が気付かなかったか、または無視した副葬品が多分あったであろうから、池ノ上古墳群のそれについては、その一部分を知り得るに過ぎない。
ところで、さきに後期古墳の副葬品にも著しい変化が窺われることを見逃し得ないと記した。ではどのような変化があったか。まづ、後期古墳の副葬品を挙げることにしよう。
一般的にいって鏡の類が少くなり、それがあっても六朝時代の鏡や、その簡単な倣製鏡で、概して小型のものである。

碧王岩製の石釧・車輪石・鍬形石なども姿を消し、石製模造品も影をひそめた。短甲・肩鎧・衝角付冑・眉庇付冑等甲冑類や馬具類が多くなる。そして、特に装身具類が豊になることである。垂飾付耳飾・冠帽・帯金具・履、殊に金環の耳飾というように装身具の豪華さが目立つ。そしてもう1つは、須恵器が副葬品に加わることである。古い古墳には土師器が副葬されていたのが、須恵器という新規な焼ものとの交替も新文化の伝来と普及を物語るものとして注意される。
右の如く副葬品の変化は、呪術的宝器または祭祀的性格のものの衰退を意味する反面、被葬者は武人的為政者という性格が顕著になり、その権威を示すために豪華な装身具で身を飾っていたのでないかと想像される。とにかく、副葬品は被葬者生前のありし姿を推測せしめる貴重な資料である。精密な学術的発掘調査による副葬品の検出は、古墳時代文化究明に大きな成果をもたらすこと謂うまでもない。偶然の発掘や恣意的な遺物採集では、その時代文化の片鱗を僅かに知り得る程度である。池ノ上古墳群の殆んどは既に破壊されており、そこから発見された副葬品も恣意的に拾い上げられたに過ぎない。従って、それだけの出土品をもって、古墳文化の内容を詳しく窺い得ないが、古墳時代後期、この地方にもその時代の文化に包まれ、豪族たるの権威を誇示した為政者が存在したことを物語っている。
後期の古墳は小型化したこと、それがまた古墳群形成のもとになることなど、既に述べたところである。池ノ上古墳群もその時代を反映した文化遺跡に外ならない。(参考文献・斉藤正博士著『古墳の研究』・小林行雄博士著『古墳時代の研究』など)

ところで、ここで、甚だ根拠不十分の誇りを受けるかも知れないが、1地名から、当時に関係ありそうな1事を述べて見たい。無論筆者の想像を越えるものでないが。
池ノ上古墳群から程遠くない、大字西広の東南部台地に、小字地名「身明」がある。西広は、海岸に面した低平地を中心とするが、それは現在のこと。往古は海湾が余程、内陸の方に湾入していたことであろう。すると、上記身明は、現在よりかなり海に近かった筈である。

さて、この小字地名「身明」は、一体、どういうところからきた地名であろうか。思い出されるのは、大化改新以前、大和朝廷が、その直轄領に、穀物を収納するため設けた倉庫や経営上の事務所に由来する「みやけ(屯合)」である。西広の身明(みやけと発音している)は、この屯倉からの用字転訛であるまいか。この地に屯倉を設倉けたとすれば、当然、それを司る地方官を、中央政府が派遣した筈である。年貢米の徴収、その米穀の運送、その他必要な事務の司が、この地方に駐在していたとすれば、池ノ上台地や、その附近に古墳群を形成したのは、当時、大和朝廷から派遣された彼等地方官であったかも知れない。
そのころ、西広の身明台地は海岸に近かった。そこから舟で海上輸送して(勿論、可能な処まで)、都に年貢米を運んだということも考えられる。なお、正式な小字地名となっていないが、池ノ上と西広の中間にも通称「みやけ」と呼ばれている地がある。そこは池ノ上古墳群と西広の身明と、どちらからも距離を有しない地点である。
往昔の屯倉の地はその辺まで含んでいたのかも知れない。余りにも想像に過ぎるかも知れないが、西広の「身明」やその近くに残る「みやけ」の地名は、古代の「屯倉」に起源するものであるまいか。
さらに、もう1つ、地名に関連して、次の想像を記しておこう。
西広身明台地より西南方の台地に「恥方」と呼ぶ小字地名がある。これも身明同様、そのままでは解釈に苦しむ地名である。だが上記と同じく用字の転化として考えれば、或る程度の解釈ができ得るのでないか。それは、恥方が土師方からの用字転化と解されるからである。土師とは、弥生式土器の系統をひく、古墳時代からのやきもの土師器のこと。またその工人に対する称でもあったと思う。その工人集団を土師部といったが、土師方も同意語であったやも知れない。西広の恥方は、土師方からの用字転化と解し、土師工人集団の居住地であった名残りと想像したい。現在同地からは瓦器の出土を見ているが、詳しく調査すれば土師器の発見があるのではあるまいか。

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3  古墳時代の農耕社会


古墳文化は古代豪族の占有した特権文化であった。彼等は死後もその権威を誇示するかの如く、壮大な高塚式墓制をもって、他の追随を許さなかった。
だが、この見事な文化を生んだ経済的な基盤は、弥生式時代に始まる稲作農業の発展であった。古墳時代の豪族は、田壮とそれを耕作する農民や、いまわれわれが眼を見張るような立派な品々を製作した工人達を私有化しその経済力を背景に勢力の強大化を得た。その中でも特に農業生産は彼等豪族達を支える主柱の役目をなした。
農業生産といえば、当然そこに農民の働き、しかも、未発達な技術のために一層辛苦の労働を必要としたことであろう。華やかな古墳文化の蔭には、農民はじめその他庶民の辛苦が捧げられている。
当地方にも関係あったと観られる湯浅天神山古墳、さらに深い関係を有する池ノ上古墳群、これらも決して例外でない。そこには、豪族の出現と、古墳の造成を可能にした農耕社会が形成されていたことは謂うまでもない。
当地方豪族の経済基盤となった農耕社会の姿は、どのようなものであったか、それを構成した農民の人口はどれ程であったか。その詳細を知るに由がないが、極めて僅の人口では、とうてい、古墳文化を形成する条件が整わなかったであろう。
それはとにかくとして、この時代ともなると、より一般的に鉄器が普及していた。鉄器は最初、弥生式時代、朝鮮半島を経て、大陸文化が輸入した際に、その1つとして舶載されたのであった。それがやがて、国産化に進むことなど、既に前章で略叙した。
鉄器の国産化、これほど、古代社会に大きな文化改革をもたらしたものは滅多にない。前章で既述のとおり、鉄器の使用は、石器・木器に比較して、作業能率を何倍か向上させた。鉄斧・鉄鍬・鎌など鉄器が普及すると、墾田が進み、沼澤地や低湿地ばかりでなく、一般平地にまで稲作地が及んだに相違ない。そのため、著しく農業生産が高まった。前代の弥生式時代を、その萌芽期とすると、古墳時代は、まさに、その生長期といえる。これが、まさしく、豪華な古墳文化の花を咲かせた温床に外ならなかった。
農民達はたゆみなく、大地に汗を流したであろうし、たたら師・鍛冶師は、砂鉄を集めて製錬し、鉄器製作に精根を傾けたであろう。その他の工人達も時代文化の奉仕者であった。
はなやかな古墳文化に眼を見張ることは多いが、その隣には汗と油にまみれて、営々辛苦した農民や工人達の存在を忘れてはならない。
当時の農業技術はいまだ幼稚な段階を脱していなかったと思われる。自然の恵みを頼りにそれを営んだであろう。米作り、麦作り、その他雑穀の豊凶は、何んといっても自然の力に最も左右された。その自然の力が即ち、神の力であった。前代から引続いて、自然信仰が、この時代においても変ることなく、古代宗教の中心をなしていた。特に稲栽培上欠くことのできない水に関する信仰が強かった筈である。即ち水神信仰である。その例として、池ノ上古墳群所在地の山本・池ノ上に伝承する雨司明神信仰を挙げよう。これは、必ずしも、古墳時代にはじまったという確証はないが、この地方に伝わる古来の信仰である。当地と日高郡由良町とを境する明神山頂に、大巌石がそびゆる。これを雨司神明と称して、今なお、厚く信仰している。水は山から流れてくるものであり、雨はこの山から降りはじめる。古代人にとっては、この山が、特にこの大巌が水の神、雨司神として尊いものであった。また、恐れも多かった。旱魃に雨乞をするのも、この山であり、豪雨など去るのを祈るのも、この山に向ってであった。

右の雨司明神信仰は、前記した如く、古墳時代にはじまったという証拠はない。しかし、このような水神信仰、一面山神信仰は、そう起源が新しいものでない筈である。すくなくとも、この地方に農耕社会が形成された当初からおこったものと考えられる。同様の信仰が、この広川地方各所に伝わるが、いちいち、その実例を挙げる繁を避けたい。
次ぎに、古代鍛冶と関係ありと見られる1地名について記そう。
山本台地の南西方、池ノ上集落の上手高台に「かじやひら」の称を有する土地がある。既に早くから開墾が行われ、今は何等旧跡らしい跡も見掛けないが、おそらく、鍛冶屋平ということであろう。往昔のたたらか、鍛冶に関係ある地名であるまいか。
たたらとは、古代以降の和鉄製錬法である。 この製鉄をもって、鉄器を製作したのは、いうまでもなく、鍛冶師即ち鍛冶屋である。此処の鍛冶屋平は、明神山麓の高台にあり、とうてい、中世・近世の鍛冶職人の住んだ跡とは考えられない。この北方に古墳群があるからといって、強いて、古墳時代の鍛冶遺跡と見る訳でないが、おそらく、古代のそれであったところから生れた地名と思われるのである。


4  鷹島遺跡における古墳時代文化


広川地方における古墳時代文化として顕著なものは、前記、池ノ上古墳群である。それに次いで、同時代の文化遺跡といえば、やはり、鷹島を挙げなければならない。
同島は縄文式時代前期以降の長期にわたる遺跡であること、しばしば、言及したが、古墳時代遺跡としても、注意をひく遺物が出土している。考古篇に記載されている如く、土師器・須恵器・師楽式製塩土器・防製青銅鏡片・勾玉・管玉などである。 なお、またこの時代の鉄器片と推定される遺物も発見されている。
土師器は、弥生式土器の系統を引く工人の手になり、その工人集団を土師部と称したこと先記した。須恵器は、古墳時代に初めて姿を現した焼ものであるが、これは、同時代中期の頃、朝鮮の新羅焼が伝えられたに起源する。
最初は彼地からの帰化工人によって作られたものであるが、次第に自国工人の手になった。この工人集団を陶部と称した。鷹島における須恵器は、おそらく、内陸の何処かの窯場から、物々交換の形で手に入れたものであろう(吉備町土生、湯浅町青木に須恵器古窯址が遺存)。
次ぎに製塩土器であるが、前代から引き続いて製塩の場であったことを物語る。この時代には、益々盛んに行われた模様であること、同時代と見られる師楽式土器の夥しい出土から想像される(同土器は、瀬戸内沿岸や鳥に出土遺跡が多い。この名称は、岡山県邑久郡牛窓町師楽遺跡に由来する。)
さて、防製青銅鏡片と勾玉・管玉の出土であるが、これは一般島民の遺品ではない。同島集団社会の支配者が所有していたものに外なるまい。古鏡は祭祀用か、権威の象徴として、勾玉・管玉は装身具として、この島の豪族の用いた貴重品であったに相違ない。同島の集団は例え小規模であったにしても、その首長は、銅鏡・勾玉・管玉を所持して、統率者たるの権威を示した証拠品として、いまわれわれの注意を惹く。この当時にあっても鷹島では、依然として漁撈・採集(製塩を含む)を主要な生活手段としたであろうが、足らざる物資は物々交換によって陸地から得ていたであろう。
以上で大体古墳時代の叙述を終りたいと思う。本章では主として池ノ上古墳群を手掛りに或る程度、古墳時代と呼ばれている弥生式時代の次の時代を書いた。この古墳時代およそ400年。この期間を前期・中期・後期と3期に区分していること、先記の通りである。池ノ上古墳群は最後の後期に当る遺跡であって、広川地方では、これより遡る古墳は発見されていない。それだけ発展が遅れていたと云うことができる。大きな河川がなく、そこに広い沖積平野もないという地理的条件がそうさせたのであろう。前記した如く、古墳時代の文化は農業生産を基盤として、その上に咲いた花であった。広川地方は、同時代後期に至って、ようやく、古墳文化を生み得る程の農業生産地となったと解してよいのであるまいか。この地方の稲作農業も弥生式時代から始っていても、地理的条件からその発展が遅れたという見解が、必ずしも誤りでないであろう。


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5、  万葉時代の広川地方とその周辺






1  万葉歌の大葉山



羈旅作きりょ さく    (注)羈旅・・・旅に関する感懐を詠んだ和歌
大葉山霞たなびき小夜深けて吾船舶てむ泊り知らずも

右の短歌は、『万葉集』巻7に収録されている作品である。同書巻9にも基師の歌として同様のが載せられている。
この大葉山の所在地については、古来、いろいろの説があり、いまだ定説を見ないところである。
だが、最近、当広川町大字西広の通称「浜の山」に比定する意見が注目を惹く。それは、西尾秀編『有田郷土誌研究のしおり』および『湯浅町誌』の所説である。
ところで、右の歌が載る万葉集とは、奈良時代(710~84)に編集された20巻にのぼる歌集で、仁徳天皇朝(4世紀)から奈良時代天平宝宇3年(759)までの長歌・短歌・旋頭歌など4千5百余首を収録。編者は大伴家持との説もある。日本文学史上極めて高く評価されている。
同歌集には、万葉歌人旅上の歌が多く、大葉山(大母山) の短歌もその1例である。紀行歌の中に有田地方を詠んだ作品が幾首かあり、地名の所在地がはっきりしているものが可成ある(後述)。 だが、その中で広川地方に関係あると目されるものは、西尾氏の新説が出るまでないとされていた。
前記大葉山の所在地については、『八重御抄』(順徳天皇の撰、鎌倉初期成立の歌学・歌論の古典) その他古書には紀伊国と記載がある。然し、紀伊の何処か不明とされている。日比野道男氏の『万葉地理研究(紀伊編)』においても、所在不明の部にあげられた。ところが、前記西尾秀氏は、広川町西広海岸に所在の通称浜ノ山が、大葉山だと新説を提唱された。それについて紹介しよう。
西尾氏の西広大葉山説の根拠は、大体、次のとおりである。
浜ノ山は西広海岸にあって、俗に西広富士の称ある山姿端麗の小高い山である。その山麓が「大場」の小字地名を有するところであり、西広集落の一部をなす地である。なお、この地に住する1旧家に大場を苗字とする家もある。いま1小字名として残る大場の地は、この附近は古くから「おおば」と呼ばれ、そこに所在する山は「おおば山」と称された頃の名残を留めるものと思う。現在、浜の山と一般に称しているが、その景観、古代旅ゆく人の眼を惹き、歌に詠まれて万葉集に収録されたのであろう。
右の推論はまことに傾聴に値するものであると思う。古来、紀伊国と推測されながら、小字地名まで調査して大葉山の所在地を研究した篤学者はいなかったので、所在不明とされてきたのであろう。西尾氏の新説はやがて定説となる日は必ずしも遠くあるまい。
万葉集巻7・巻9には、紀伊国の詠歌が多く、特に巻7の大葉山の歌が載る前後には、それが多い。
本章の冒頭にあげた万葉歌は、いうまでもなく、海上を航行する船中から詠んだものであり、霞たなびきとあるから、間近を舟行したのでなく、可成り沖合いを通った時の歌である。少くとも鷹島の西側の沖を通過したことを想わしめる。
古代には、天皇はじめ宮廷貴族の間に、風光明眉な牟婁の湯(西牟婁郡湯崎温泉)へ湯治に赴くことがあった。最も早く文献にあらわれるのは、斉明天皇の3年(657)有間皇子が天皇に紀伊の牟婁湯を推奨し、同4年、天皇紀伊国牟婁湯行幸の記事載せる『日本書紀』である。特に、天皇・上皇の行幸には、多くの陪従のあったこというまでもない。このようなことから、紀州海岸各所の詠歌が多く万葉集に収録される結果となったのであろう。
(日本書紀については、いまさら説明の要はないが、日本最古の勅撰史書。舎人親王・太安万呂等の撰にて、養老4年(720)に成立。六国史の1書)。
前掲大葉山の歌も、都人が牟婁の湯への往き還りに詠んだ万葉歌として理解される。ところで、広川地方では、西方海岸の大葉山だけが何故、詠まれたか。それは、万葉時代、いまだ広川地方においては、都人通行の公道が開けていなく、専ら海上交通によったからに外ならないであろう(理由は後述)。
因にここで、当時、都から牟婁に行く交通路を考えて見よう。大和から紀伊国へは、紀ノ川を下るか、紀ノ川添に陸路を下って、紀伊国北辺の海岸に出で、そこから海上を1路南航する船の旅と、海岸に近い陸路及び海路を適宜利用して南下する旅と、大体2とおりの方法がとられた。それをよく物語っているのは、何んといっても旅の歌が多い万葉集である。
そこで、万葉歌人の詠んだ数多作品の中から、当広川地方周辺の歌と思われるものをあげ、この有田地方における当時の交通路をたどって見たい。そのことによって広川地方は、当時、どうであったか、多少明らかとなるであろう。

2  万葉歌に見える広川地方周辺


ここでいう広川地方周辺とは、大体、有田郡市地域と、これに近接する若干の地方を含むものとする。

羈旅作
安太へ行く小為手乃山の直木の葉も久しく見ねば蘿むしにけり  (巻7)

この歌は現在の海草郡下津町方面から、山を越えて、有田地方に入って来る時、小為手山の真木(一般常緑樹か)の葉を見て感概を述べたものであるが、これを詠んだ人は、初めて越える山道でなかったらしい。久しく見ねばといっているから、以前にも通ったことがあったと解釈される。
ところで、この小為手山の所在地について訓み方の相違から、その所在地に2通りの意見がある。「小為手山」を「おしでやま」と訓んで、現在の清水町押手(旧安諦村押手)にあてる説(本居宣長『玉かつま』)。もう1つは、「さいでやま」と訓んで、下津町小畑から有田市宮原町滝辺に越える途中の才坂説である。才坂説の根拠は、才坂とはさいでやまの坂であり、 万葉歌の「小為手山」は此処だというのである。
右の2説を当時の事情から比較する場合、どうしても後者の説に同意せざるを得ない。万葉の古代にあっては、いまだ、奥有田の地は、都人通行の道路が開けていなかったと推測されるからである。それに比して、才坂には古代交通路として既に利用されていた可能性がある。後述する『日本霊異記』や、本章で重要な役目を果す万葉集のその他の歌から、才坂説を支持して然るべきであると考える。
(註才坂説をとっているのは『紀伊名所図会』である。日比野道男氏はその著『万葉地理研究』紀伊編では、やや押手説にかたむいている。)

羈旅作
足代過ぎて糸鹿の山の楼花散らずあらなむ還り来むまで  (巻7)

この歌は都の方から下ってきた旅人が、現在の有田市糸我町から、湯浅町吉川へ越える途中の糸我山で、今を盛りと咲きほこる楼花を見て詠んだものである。季節は春で、牟婁の湯にでも赴くのであろうか。ところで、従来の研究家は、足代過ぎての解釈に少々とまどっているようである。一々例をあげる繁をさけたいが、足代を当時の、この地方郡名「阿提」と解することから、なお一層のとまどいを招いた。それを打開せんとしたのが、前記郷土史家西尾秀氏である。同氏の説は、足代の言葉は郡名を指すのでなく、有田川を云っているのだとしている(前掲『有田郷土誌研究のしおり』)。
しかし、この解釈も当を得たものとは受取り難い。それでは、一体、どのような見方をすればよいのか。次ぎに、筆者の所見を簡単に述べてみよう。
足代過ぎて糸鹿の山の「足代」と、安太へ行く小為手及山の「安太」とは、おそらく、同一地名を指す名詞であろう。これは、郡名「阿提」のことでなく、郷名「英多」(『和名抄』に見える本郡郷名の1つ) と解すべきである。後述において、本郡の郷名考を試み、若干、卑見を披歴するつもりであるが、現在の有田市宮原町を、東西に2分して、その東部地区と同市糸我町を併せて古代の「英多郷」と見るのである(『有田郡誌』の説と大体において近似している)。 この見方をすれば、足代過ぎて糸鹿の山の意味もよく理解できるし、さらに、安太へ行く小為手山の所在地も解決がつくのであるまいか。
さて、糸鹿山を越えて、次ぎは、どの方向に路をとったか、それを万葉歌から窺うと、

湯羅の前潮干にけらし白神の磯の浦みをあえて拷ぎ動む  (巻9)

湯羅の前は、日高郡由良の崎のこと。そして、白神の磯は、湯浅町栖原海岸のことである。右の歌意は、舟の向う由良の崎は干潮であろうが、 白神の浦をあえて舟出する。 というのである。 万葉時代には、日高方面に行くには、この栖原の浦から海上を由良の港に向って舟行したことを物語っている。それと同時に、糸鹿山を越えた旅人は、南行する場合、1時、栖原海岸に出たことを示す。
では、何故、糸我山を越えた旅人は、紀南へ向うのに、湯浅・広川方面の陸上を通らなかったか。次の平安時代に入ると、熊野参詣がはじまり、熊野路往還の宿所として、古代末期から中世には、あれ程、史上に名を残す湯浅であるが。
その理由を次の如く考えられないだろうか。飛鳥・奈良時代には、湯浅の北部地帯、今の山田川下流附近一帯は、最早や入江の時代が過ぎていたにしても、まだ余程の低湿地であった。そのため、陸上交通をさまたげた。
湯浅の南部、今の広川下流附近は、もっと後世まで入江であったこと文献(藤原定家の『明月記』)に見える。広川地方においても奈良時代、或いはそれ以後にあっても、広附近の沖積平地は湿地帯であったこと想像に難くない。
平安時代、熊野路が開通するころ、ようやく、湯浅・広川の上記地区が余程の湿地でなくなっていた。それでもなおその当初は、両地方とも街道は随分東部寄りに迂回し、低地を避けて南進している。(詳細は後述 別章に譲る)
右の事情が物語るように、飛鳥・奈良時代以前、湯浅・広川地方においては、陸上交通路といえば、地方人の交易路程度であったと思う。海岸以外に、万葉歌の見当らない理由も、おそらく、そこにあったであろう。 順序が多少前後するが、次の万葉歌も、当時の交通を知る上に、参考となろう。

味鳬あじの住む須沙乃入江の荒磯松 我を待つ児等は唯一人のみ  (巻11)

上の歌は、有田市の西南部地区に関係ある作品として知られている。現在の有田川河口辺は、奥深く入江をなしていたらしい。古代須佐の地名は、いま、須佐神社として遺っている。
この須佐の入江の所在地について、日比野道男氏は、有田市千田の高田浦を比定している(「万葉地理研究)。
だが、高田浦は、果して、入江と呼ばれる地形であったであろうか。現在、有田川下流沿岸に遺る若干地名から推して同地の入江は、有田市保田辺まで湾入していたと考えられるから、万葉歌の須沙ル入江は、有田川下流地方であったであろう。
それはさておき、この歌は、海上からでなく陸上から入江を眺めて詠んだものと思う。万葉の時代には、この入江附近を、都人が通行したことを立証するものである。「さいでやま」を越して来れば、須佐の入江の近くを通ることになる。

父君に吾はまな子ぞ、母刀自に吾はまな子ぞ、参上り八十氏人の、手向けする恐の坂に、幣奉り吾はぞまいるか、遠き土佐道を  (巻6)

この長歌には 「石上乙麻呂卿土佐国に配えし時の歌」 と前書がついている。後述で、若干、同時代の海上交通に触れるが、その場合に引用予定の大崎の歌と1連の作である。右の長歌も、当地方周辺の交通を考える上に、1資料と見られる外、古代旅路の風習を知る上にも、貴重な資料となる。
さて、右長歌に見える、恐の坂の所在地であるが、鹿持雅澄(1791〜1858)は、大和から河内へ越える所の坂という (『万葉集古義』)。 だが、日比野氏は、海草郡下津町仁義から、有田郡吉備町田角に越える賢坂と見ている(前掲書)。後述で引用する下津町大崎の歌との関連性を考慮する場合、後者の説が、より妥当性を有するのでないかと推測される。
ところで、この恐坂において、諸人が旅の安全を祈り、峠の神に奉幣するように、右長歌の作者も、それを行って、遠い土佐路に向う、というのである。古代人は旅するにも、峠などでは、必ず、神の加護を祈願して、幣を奉ったのである。
以上の外、次の3首は、この有田地方、特に、藤並方面に関係ある万葉歌との説もあるので、参考に挙げておこう。

妹がりと今木乃嶺にし立てる嬬待木はよき人見けむ  (巻9)
藤浪の散らまく惜しみ霍公鳥今城岳を鳴きて越ゆなり  (巻10)
哭沢の神社に神酒するのまめども我大君は高日しらしぬ  (巻2)

吉備町明王寺・天満にかけて、小字名今城があり、天満に小字地名泣澤があることから、同地方に関係ある作品と見る向もあるが、大和説もあるのでにわかに断定できない。しかしながら田殿の賢坂の辺を通った場合、南下すればこの辺も通行した可能性が考えられないこともない。だがこれも1試案に過ぎないこというまでもない。

次ぎに、海上交通を知る資料として、幾首か万葉歌を挙げて見たい。
交通は陸上交通にせよ、また、海上交通にせよ、その地方に新たな文化を伝播する重要な機関であった。直接関係なさそうに見えて、案外、影響を蒙っていたこと多言を要するまい。わが広川地方も、その例外でなかったであろう。

大崎乃神之小浜は狭けれども百船人も過ぐといわなくに  (巻6)

これは、前抄、恐乃坂の反歌である。石上乙磨が土佐に配せられて渡る時、この大崎の神の小浜から乗船したのである。大崎とは、古書にも既に記されているとおり、今の海草郡下津町大崎のことである。往古、四国の土佐に渡る場合や、紀伊国牟婁の湯に赴く際、船出港となった。次の短歌も、この大崎を詠んだものである。

大崎の荒磯の渡はう葛の行方なくや恋ひ渡りなむ  (巻12)

前掲白神磯の歌も、船出の場所を知る上に重要な史料となるが、その歌の中に見える湯羅乃前は、また湯等乃三崎とも記されている。日高郡由良の崎であること前記のとおりである。

妹が為め玉を拾うと木国之湯等乃三崎に此日暮しつ  (巻3)
あさびらき拷ぎ出で我は湯羅前釣する海人を見て帰り来む  (巻9)

由良は今も良港として知られるが、この港までの途中、船旅の万葉歌人によって詠まれた作品を抄録すると、大葉山の外に次の如きがある

山越えて遠津之浜の磯つつじ帰来むまでふふみてあり待て  (巻7)

これは必ずしも船上から詠んだ作とはかぎらないが、遠津之浜は古来紀伊国とされながら所在地不明の部に属したが、日高郡由良町遠津井浜であること間違いなかろう。

白崎は幸く在り待て大船に真滑繁貫きまた帰り見む  (巻9)

この白崎は、同じく由良町の白崎である。
大体以上で、広川地方周辺の海上交通を物語る万葉歌幾首をあげた。当時の旅行は、陸上にせよ、海上にせよ、言語に絶した辛苦の旅路であったこというまでもない。抵役のため、都や地方国衙に徴用された地方の農民で、その責務を果しての帰郷の途中、はかなく斃死するもの少なくなかった。然し、上述で挙げた万葉歌は、その人達の詠んだ作品でない。

3  郷名考


さきに、万葉歌に見える足代・安太という地名は、郡名を指すものでなく、郷名を指すものと解し、宮原、糸我方面の郷名英多説をとって、足代、安太、英多を同1地名とした。
ところで、万葉時代の末期、即ち奈良時代は、里郷制時代であった。 その頃、当広川地方辺の郷名は、一体、何んであったのであろうか。従来、定説となるもの、管見に入らない。あるものは、那者郷といい、ある書は、温笠郷と記し、また比呂郷とする説もある。果して、いづれが、当を得ているとすべきであろうか。それを知るために、一応、本郡全体の郷名から考えて見たいと思う。
わが国の里郷制度は、大体、中国の随か唐の制度を取り入れて、その制度が布かれたとされている。里が初めて置かれたのはおよそ大化(645〜49)の頃との説がある(岩崎小弥太著『上代食貨制度の研究』第1集)。
里は主として、農村地帯に置かれた行政組織の単位で、戸令の為里条(第1条)に

凡そ戸は50を以ちて里と為よ、里毎に長1人を置け、戸口を検校し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催就するを掌れ、若し山谷阻険にして、地遠く、人稀なる処には、便に随ひて、量りて置け。(前掲書より引用)

右、令の文から知ることは、50戸を1単位とした行政組織で、土地の広狭に規制は設けていない。地理的条件によって必ずしも50戸に限定していないが、原則は50戸をもって1つの里を形成するものとした。
最初にこの令をあげたのは、1里(後ちの郷と同じ)の中にどれ程の戸数があったかを示すためである。もっとも当時の戸は後世の戸と異り、1戸の構成人員は少くとも平均3・40名はあった(正倉院所蔵の大宝2年(702>と養老5年721〉の戸籍薄)。
初めは里といわれたが、やがて、それが郷と呼ばれるようになる。
さて、古来、有田郡の郷名で判然としているのは、『和名抄』に見える須佐、吉備、温笠、英多、奈郷の5郷である。同書は『倭名類聚鈔』というのが正しく、平安時代、源順の撰述になる。
『紀伊続風土記』(江戸末期、紀州藩の御用学者達の編纂)では、右の5郷を郡内5地域に分けて、左記のように配置している。

吉備郷 現在の吉備町、但し、大字吉見、徳田を除く。(根拠は同町大字下津野に吉備野があること)
温笠郷  現在の金屋町、但し、前記吉見、徳田を含む。
英多郷  現在の清水町。
奈郷  現在の湯浅町と広川町。(根拠は広川町に名島があること)
須佐郷  現在の有田市。但し初島を除く。(根拠は須佐神社の所在地であること)


ところが、和名抄より古い『続日本後紀』仁明天皇承和15年(848)の条に、次の記事が載る。
2月癸酉紀伊国在田郡為上郡以戸口増益課丁多数(『続日本後紀』は、藤原良房・春澄善繩らの編。貞観11年〈869〉成立。六国史の1書にして、平安初期の根本史料をなす。)

右同書の記載のとおり、在田郡が平安時代初期、上郡となったとすれば、12郷以上、15郷以下の郷数があった筈である。ところが、5郷説を取る続風土記は、続後紀の為上郡は、為下郡の誤りであろうとして、あえて前記の如く各郷名の配置を行ったらしい。
戸令には「凡そ郡は20里以下、16里以上を以ちて大郡と為よ。12里以上を上郡と為よ、8里以上を中郡と為よ、4里以上を下郡と為よ、2里以上を小郡と為よ」と規定がある。続風土記は、承知15年までは、本郡を小郡と見ている訳である。
これに対して、『有田郡誌』(編集主任佐々木定信大正4年有田郡役所発行)は、六国史中の1書であり正史である続後紀に誤記を載せる筈がないとして左記のような説を立てている。

吉備郷  吉備町のうち東西丹生図、垣倉、庄の4地区を当てる。(仁寿4年の東寺田券を証拠としている)

温笠郷  湯浅町(温笠は湯浅の古名とする。)
英多郷  有田市のうち、糸我町と宮原町。(万葉歌の安太へゆく小為手山を才坂とする)
須佐郷  有田市のうち旧保田村、同箕島町。
奈耆郷  吉備町のうち旧藤並村と旧田殿村の西部殆んど。(田殿河南の平地総反別は、日本書紀の那耆野2万頃に合致し、那耆野の地名が残る。)


右の外に郡誌の著者は、さらに次の諸郷を想定している。

石渕郷  広川町のうち津木谷および井関、河瀬。(和名抄、日高郡の部に石渕郷をあげるが、そのあと遺らず。津木に岩渕があること、)
比呂郷  広川町(但し、石渕郷に比定した地域を除く。)
栗栖郷  湯浅町のうち、旧田栖川村。(仁寿の田券に栗栖村あり、国主神社社伝に国栖人来るがあること。大字田に久授呂浜の古名がある。)
丹生郷  金屋町のうち旧生石村と吉備町のうち旧田殿村の東部。(夏瀬丹生の森、丹生津媛の古跡地)
企救郷  金屋町のうち、旧五西月村同鳥屋城村、同石垣村、同岩倉村のうち谷・立石、吉備町のうち徳田、吉見。(石垣郷)
石床郷  金屋町のうち、旧岩倉村の川口、岩野川 および清水町のうち旧城山村、5村。(丹生告門の岩倉の起源地名とする。)
清水郷  清水町のうち旧八幡村、同安諦村および伊都郡花園村。(丹生告門の石清水の地。日高郡下の清水郷はこの地の誤りかと見ている。)
(仁寿4年〈854〉の田券とは、東寺の真澄大徳が有田郡において、新田、宅地を買得した時の古券。)


繁をいとわず、続風土記と郡誌の両説をあげた。郡誌は続後紀の記事に基いて、承和15年以後の本郡を上郡と看做し、12郷としている。苦干無理を感じない訳ではないが、その仮説には裨益されるところが多い。
ところが、同書にも見えない郷名が、本郡において奈良時代に実在していた事実が、最近判明した。それは平城宮跡の発掘調査に伴い多数の木簡が発見された中に、次の墨書を有するそれがあった。
「紀伊国安諦郡幡陀郷戸主秦人小麻呂調塩3斗天平…」
この幡陀郷は郡内いづこの地を指す郷名なるか。この問題を含めて再検討を要する時となった。
続後紀の記事を信頼するとすれば、上郡となる以前、本郡はどうしても中郡であったと見なければならない。
一挙に下郡から中郡を飛び越えて上郡になるとは考えられないからである。それでは奈良時代本郡の諸郷成立の基本条件である戸の分布状態はどのように考えられるであろうか。
本郡における飛鳥時代以前の古墳分布状態から推して、有田川下流沿岸地方および郡の西南部洪積台地に人家聚落の密度が高く、有田川上流沿岸その他山間部は、その密度は低かった。だが、飛鳥時代を経て奈良時代頃に至ると次第に耕地の開墾も有田川上流沿岸の平地にまで進展し、また、山間のある地帯では鉱業の開発も見られるに至ったことであろう。それは、『続日本紀』文武天皇大宝3年(703)5月の条に、「令紀伊国阿提飯高牟妻3郡献銀」とあることによって知り得る。(同書は『日本書紀』に次ぐ勅撰史書。菅野真道らの撰述にて、延歴6年(797〕成立。六国史の1書。奈良時代の根本史料である。)

また、一方海岸地方での製塩も可成りのものがあったと見て差支えないこと、前記平城宮跡出土の木簡が物語るところである。
右の如き観点から奈良時代郡内の戸数人口の程度を想像する場合、中郡の地をなしていたとしても、さして無理ではないであろう。だが、有田川中・下流地域と上流地域とでは、かなり、その密度に差があったと観て間違あるまい。謂うまでもないが、前者には高く、後者には低かったと見るべきである。
地域における時代文化の進展度は、その時代の人口分布の粗密と重大な関係がある。その観点から本郡における中郡時代の郷形成の想像図を左の如く描いて見た。その郷名については、和名抄に記載の5郷と前記木簡に見えるもの、それ以外は、『有田郡誌』の説をとることにした。(但し承和15年以前は中郡と観て9郷を推定した。)

吉備郷  有田郡誌の説と大体同じ。
那着郡  右同書と大体同じ。
英多郷  有田市宮原町東部地区および糸我町方面。
幡陀郷  有田市宮原町西部地区以西有田川北部沿岸地域及び海草郡下津町南部。
須佐郷  有田市旧保田村河南および宮崎町方面。
温笠郷  湯浅町方面。
比呂郷  広川町方面。
丹生郷  金屋町のうち鳥屋城、生石、五西月の旧各村および旧岩倉村の谷・立石方面。
石垣郷  金屋町の旧石垣村および旧岩倉村、清水町方面。広川町岩渕地区も含むか。

右は大体を示したに過ぎないが、そのうち幡陀郷を前記の地域に比定した根拠について、極めて簡単に記しておきたい。
先づ第1の史料は、『日本霊異記』の記事である。同書は平安時代初期、奈良薬師寺の僧景戒の撰述。その下巻第29に「村重に木の仏像を刻み、愚なる夫研き破りて、現に悪死の報を得る縁」を載せて、その文中に「海部と安諦とに通ひて往き還る山に、山道あり、号けて玉坂と曰う。浜中より正南を指して論ゆれば、秦の里に到る。(日本古典文学大系『日本霊異記』の訳文による。) と見えるのがそれである。
詳しい解説は省略するが、海部は、海部・名草両都合併して海草郡となる以前の海岸地方の一部名。安諦は有田郡。浜中は下津町浜中。浜中から正南を指して越えれば秦の里に到るとある秦の里は、即ち、幡陀の里(郷)であろう。いまその名残と見られる地名に、宮原町畑、下津町小畑がある。なお付記すれば、幡陀郷に比定した地域は海に近く、製塩も可能な条件を備えている。
さて、広川町は、湯浅町と共に奈(者)郷説(続風土記)、温笠郷説(『湯浅町誌』)、湯浅町と別に、比呂郷説(有田郡誌)と、従来3説がてい立している中で、筆者は比呂郷説に賛同した。その理由は、前代既に古墳群の形成を可能ならしめた古代農業集落の地であった事実を重視したのである。そして、郷名については、本篇第1章で既述のとおり、この地域総称地名が、「ひろ」であったという前提に基いて、「ひろ郷」を想定した。なお、その用字は、当時2字名を好んだことに鑑み、比呂郷と称したのでないかと考えた。
ついでにもう1つ、書き添えておこう。石垣郷を比定した、前記地域は、あれ程の広さを有しながら、1郷の地とした見方である。この地域は、一部を除いて、古代後期から中世、阿弖河荘と称された地方である。同荘は上荘・下荘に分けられており、鎌倉時代建久4年(1193) 正嘉元年(1357) 文永10年(1273)上荘戸数の検校(史料編纂所編『高野山文書』巻5・巻6)の地に、下荘を加えたものが、古代の1郷構成の地と推定した。

(註)建久4年、本在家55宇、脇在家25宇、ゥ女5宇、此外逃亡之跡12ヶ所
正嘉元年、在家49家、内逃亡家家、
文永10年、本在家37宇、脇在家55宇、眞女6宇」


先記したことだが、奈良時代の戸は、大家族制度であった。郷戸は、幾つかの房戸によって構成された集合世帯であり、鎌倉時代は、古代の房戸が各々独立した形のようなものである。従って、鎌倉時代の戸数から推して、奈良時代には、後の阿豆河上・下両荘併せても、到底、50戸以上の地と考えられないのである。しかし、承和15年上郡とされる頃には、郷戸内の房戸が次第に独立して、2郷を構成する程の戸数に増加していたかも知れない。
ついでに有田郡の郡名の変遷について、文献に見えるところを載せ、参考に供したい。
『日本書紀』持統天皇3年(689)8月条には、「丙申禁断漁猟於(中略)紀伊国阿提郡那着野2萬頃」(以下略)
次ぎに『続日本紀』文武天皇大宝3年(703)5月条にも同じく、阿提郡と記している。また阿氏と書いた例としては『続日本紀』聖武天皇天平3年(731) 5月の条に「紀伊国阿氏郡海水変如血色経5日乃復」とある。
ところが、平安時代初期、『日本後記』平城天皇元年(805)7月条には「改紀伊国安諦郡為在田郡、以詞渉天諱也」と。即ち郡名安諦が天皇の諱名に通じるというので、それを避けて在田郡と改めた。在田郡が有田郡とも書かれるのは近世からで、近代は専ら、有田郡に用字が統一された。

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4  奈良時代の文化


池ノ上古墳群は、古墳時代後期の遺跡である。大体6世紀を中心に形成されたと見られるから、当地方における万葉時代一時期の考古学的遺跡であるこというまでもない。
ところで、この古墳群を形成した豪族達の子孫は、その後、いったいどうなったのであろうか。随分その遺跡・遺物を追跡調査したのであるが、当地方においては、ついに、それを発見することができなかった。
ところが、本歴史篇の執筆が殆んど終了に至らんとした頃、図らずも須恵器壺出土の知らせに接した。昭和46年6月の末頃であった。同土器の出土地は、当町和田海岸に臨む天王山中腹である。それが、同山の約3分の1程度の地点に当る。





早速実見に及ぶと、殆んど完形の奈良時代遺品である。奈良正倉院伝蔵の須恵器薬壺と同型で、胴の最大直径25センチメートル、高さ19.2センチメートル、口径11.5センチメートルの大きさを持つ。肩部には薄暗緑色の自然釉が懸り、美術的見地からも見瓷品といっても過言でない。
出土地は、同地永井旭氏所有の山林で、現在、開発工事のブルドーザーが入っている。このブルドーザーによって掘出されたものであった。全く偶然の発見で、どのような遺構を有した中に埋蔵されていたか、全然不明という。筆者が実見に及んだ時は、最早や、附近は道路の敷地となっており、壺も綺麗に水洗いされ、壺中に充満していたという土塊も完全に除去された後であった。しかし、出土場所から推して、おそらく蔵骨器として埋蔵されていたものでないかと想像される。
広川地方では、原始・古代遺跡として、既に、しばしば登場した鷹島遺跡においては、やはり、奈良時代遺物の出土を見ている。だが、陸地では同時代の遺跡・遺物としては、現在のところ、この天王山山腹と同須恵器壺が唯一の知見である。尤も遺跡地といっても、何等特別の遺構が認められる訳でないが、奈良時代遺品が埋蔵されていた事実は、まぎれもなく、同時代遺跡たることを証明している。
同遺跡は、天王山東南山腹で、展望良好な場所である。この附近に居住していた奈良時代人が、火葬者の遺骨を納めて埋蔵したのがこの須恵器であったと思う。本県伊都郡高野口町北名古曾出土の奈良三彩壺を蔵骨器とした程の大豪族でなかったにしても、和田天王山腹に骨を埋めたのは、やはり、当地方の豪族であったであろう。
さきにも記した如く、鷹島以外に奈良時代の考古学的遺跡として、この天王山須恵器壺出土は、当地方唯一の貴重な存在である。それまでは、殆んど空白状態であった奈良時代文化所産が知見し得る結果が生れた。僅な事例に過ぎないが、とにかく、新たな資料の出現によって、広川地方史奈良時代の部に、改めて1頁を加え得ることになった。
6・7世紀頃、池ノ上台地に古墳群を形成した豪族達の子孫は、奈良時代に天王山麓台地辺りにも、居を構えていたのであったかも知れない。
池ノ上古墳群と和田の天王山とでは距離にして僅である。かつては、同じ山本村であった程の地縁関係の地域である。古墳時代後期、山本台地(池ノ上古墳群周辺)を拠点として、周辺の農民集落を統率していた豪族達の子孫が、奈良時代、高塚式墓制に替えて、火葬骨を須恵器壺に納め、展望絶佳の天王山腹に埋蔵したとしても、何等不思議でない。
わが国に仏教が渡来したのは、飛鳥時代初期とされているが、この仏教の影響により、次第に火葬が行われることになる。そして、大化の薄葬令が、もう1つの契機となって、漸次古墳の制が終癒し、古来の埋葬法から火葬法に移行する。6・7世紀頃、円型高塚墳を造って埋葬した池ノ上古墳群の豪族達も、やがて、この風習に終止符を打ち、新たに波及した火葬法を取り入れたものと思う。

しかし、一般庶民階級は依然として、極めて簡単な土葬法を踏襲し続けたのでなかろうか。いまも山本・池ノ上地区民が、やはり、土葬を行っているのは、おそらく、古来の風習をそのまま受け継いでいるものと推想される。
ところで、奈良時代といえば、豪族が土地と人民を占有して、強大な勢力を誇り得た時代でなかった。天皇家の権威が他の諸豪族を傘下に収め、国土統一が完成していた。そして、律令制が布かれ、法治国家が樹立されていたのである。奈良時代は即ち律令制時代と呼ばれる。
大化の改新に始まる奈良時代の律令制度は、次の如き根本政策を打出した。

(1)部民(豪族の私民)と田荘(豪族の私有地)を廃し、これを朝廷に収め、私民は公民とし、土地は公有とする。
(2)戸籍と計帳(検地帳)を作って、人口を調査し、これに基いて班田収授の法を行う。
(3)新しい税制を定め、租・庸・調等の制度を布く。
(4)中央には、神祇官と大政官の8省を設け、地方には、郡県里制度を布いて、中央集権的政治組織の確立を図る。
(5)その他交通・国防等にも新政策を施す。

など律令制国家の基本方針が定まり、地方には、郡県制の下に里(後ちの郷)制が布かれ、地方統治の末端組織とされた。それは、さきに郷名考で触れたところである。
前述で引用した戸令為里条に「里毎に長1人置け、戸口を検校し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催駈するを掌れ」との定めがあり、里(郷)長は、行政権と警察権を与えられ、管内を統治した。
奈良時代の豪族は、最早や、古墳時代の豪族とその性格を異にしていた。律令制以前の豪族は、附近の土地と人民を占有し、その利益は豪族自身のものであった。しかし、律令制国家では、上記の如く、土地と人民は国有化され、豪族の私有化は認められなくなっていた。ただし、彼等の中には、里の長(郷の長)となって、管内の統治に当ったものもあったであろう。
豪族の部民から解放され、公民となった人民は、これも豪族の田荘から公地となった班田を、班田収授法に基き、口分田として一定規準で支給されて農業を営んだ。そのかわり国税として、祖(および庸・調)を負担した。
さきに引用した戸令為里条に定めた里長の任務の1つに、農桑を課殖しとあり、律令制国家の農業振興政策が謳われている。国家・社会の財政・経済の殆んどは、農業生産によって支えられていたからに外ならない。
いうまでもないが、当地方の郷民も、班田を耕して米や麦、および雑穀を作り、或は桑を植えて養蚕も行うなど、当時の農民一般と異るところはなかったであろう。尤も、鷹島や海岸に住居した郷民は、漁撈・採集、製塩などに、山間地では狩猟や採集などに、それぞれ立地条件に適した仕事に携さわったこと、勿論である。
ところで奈良時代における当地方の養蚕を想うとき、忽ち思い出されるのは『日本霊異記』に見える1説話である。同書上巻第34に 「絹の衣を盗まれ、妙見菩薩に祈願し、その絹を修得むる縁」 として左の如き記事が載る。

紀伊国安諦の郡の私部寺の前に、昔1つの家有り。絹の衣10を盗人に取られ、妙見菩薩に憑って、祈り願いき。盗みし絹は木の市人に売りき。7日に満た不、校に猛風来りて、厥の絹を纏へる鹿、衣を褒けて南を指して往き、主の家の庭に随きて衣を得しめ、乃ち天に去り賜ひき。買へ人転へ聞きて、乃ち盗みし衣なることを知り、当頭キテ求め、安眠にして動か邦りき。斯れも亦部異しき事なり。(日本古典文学大系本)

当地のことでないかも知れないが、あえて、全文を掲げた。紀伊国安諦郡というのは、勿論、本県有田郡(現在の有田市も含む)のことであるが、私部寺があったというのは、その何処の地であるか詳らかでない。だが、現在の考古学的知見からすれば、有田川下流沿岸の有田市宮原・吉備町田殿方面でなかろうかと思う。上須谷の田殿廃寺址(宮原と田殿の境)・滝の旧多喜寺址(滝寺、有田市宮原町)・大谷の築那院|(吉備町田殿)など、奈良時代古出土で注目される。
上記3寺址中、田殿廃寺址は白風前期古瓦出土で知られ、おそらく、有田地方最古の仏教遺跡であろう。滝寺址と築那院址からは天平様式の古瓦が発見されている。序に記すると奈良時代における有田地方文化の中心地は、右の遺跡地域と見るのが妥当であろうし、郡荷の所在地も、およそ、このあたりであったであろう。田殿廃寺などは郡家の寺院であったのではなかろうか、との臆説もなされている程である。
さて、私部寺は何処という決め手はないが、宮原・田殿方面との想像が、最も成立しやすいのであるまいか。
その私部寺の前の家で、絹の衣10枚盗難に会ったというのである。この絹衣10は、同地方の養蚕や製糸、さらに織絹を思わせるに十分でなかろうか。これが単に私部寺所在地のみでなく、広く行われていた仕事の1つであったであろう。勿論この広川地方も例外でなかったと思う。当時、絹の衣というような高級品は、一般庶民の着するものでなかった。上流階級用であった。それを農民が製作したのである。また庸・調として貢献する品でもあった。
奈良時代といえば、都では相当高度の文化が創造されている。だが、当地方ではどうであったか、その実例を示すものは、前述の須恵器壺があるのみ。そして、近郷では、上記廃寺址出土の古瓦がある程度に過ぎない。しかし、この2種類の窯業品を見ても、当時の地方文化も、かなり高い水準にあったことが窺われる。尤も、この高い文化を享受したのは、地方の上層階級であった。だが、この文化所産に直接携わったのは、いうまでもなく、一般庶民階級に属する工人達に外ならなかった。因に記すと前記3寺院|出土古瓦の製作地は、吉備町土生であろう。その頃からの窯址がある。

大体、何時の時代においても、文化の所産者は庶民階級であって、それを享受する者は、およそ上流階級ということであった。


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6、尊勝院文書とその時代


―荘園制時代と貴族の熊野信仰―

1  尊勝院文書



藤原氏敬白  奉施入  山事
1、処紀伊国在田郡比呂庄  在免田拾参町伍段
1、処同国同郡宮前庄  在免田拾参町伍段
右件庄、任処分旨伝領之、然断末葉之生、無可訪後世之人、只所仰者、仏陀薩三宝境界也、而投家中財宝当時
供養許也、奉寄所領田島、偏為永年御供養 抑伝承 熊野権弥陀観音垂跡、以無縁慈悲利益法界衆生、愛弟子
子情以者、乏戒善力受女人身、雖運帰依志、更?得参拜之便 永年念願、專不成熟、仍邪气数求短、悪魔頻伺
隙 拔済三途苦患 為擬後世資糧 永迴向三菩提、无仏性燈油懈怠 値遇向後和光 若以貧欲、横相妨輩出来
者不満所願 権現現王子眷属神等、必令知見給 加証判 令修念願給、敬白
応コ3年11月13日    内待尚待藤原氏

まづ、右の文を直訳すると

右件の庄、処分の旨に任し之を伝領す、然れども末葉を断つの生、後世訪れるべき人無し、只仰の所は、仏陀薩三宝の境界なり、家中財宝を投じ当時供養許りなり、寄せ奉る所領田畠、偏に永年御供養と為す。抑伝え承る、熊野権現弥陀観音の垂跡、無縁(の)慈悲を以て法界衆生利益す。愛弟子債以ては、善力の戒乏くして女人の身を受く、帰依の志を運ぶと雖も、更に参拝の便を得ず、永年の念願、専ら成熟せず、仍て邪気数短を求め悪魔頻と隙を伺う、三途の苦患を抜済し、後世の資糧に擬る為め、永く3菩提を廻向し、仏性燈油懈怠なくば、向後和光に遇うに値する。若し貧欲を以て、横相妨の輩出で来れば、所願満さず、権現王子眷族神等、必ず知見せしめ給う、証判を加て、念願をして修めしめ給へ。敬白、

右の古文書は、現在、那智神社に所蔵されているが、約900年近い歳月を経ているので、文字不明のところがあり、解読に誤りなしとは云い難い。しかし、大体の文意は窺えるであろう。極めて簡単にいうなれば、

応徳3年(186)11月13日、当時京都の宮廷に仕えていた内侍尚待(ないじのかみ)の藤原氏(藤原氏出身の女官頭)なる貴族女性が、自分の荘園である比呂・宮前(崎)庄内で免田各13町5反を、後世安楽のため、熊野那智山に寄進する。そして、若し貧欲な者が出て、これを横領するようなことがあれば、熊野諸神は決して寛恕せないであろう。

と述べている。上記で拙いながら訳文を載せ、さらに簡単な説明を加えたので、これ以上は、蛇足かも知れないが、もっと判り易く書き改めると、

 右件の庄、即ち、比呂庄・宮前庄は、前領者の意志によって伝領した。然しながら、自分は世継ぎのない身。後世訪れる(面倒を見てくれる)人もない。只仰ぐところは仏の救である。だから、家産を喜捨して供養するばかり。今回寄進し奉る田畠をもって、永く供養の資といたしたい。そもそも伝え承るに、熊野権現は弥陀観音の垂跡(仏・菩薩の仮の姿)。無辺の慈悲をもってすべての衆生を利益するという。 愛弟子(私)よくよくもっては、前生業深く、戒乏しかった故に、女人に生れた。帰依信仰の志を抱いているけれども、さらに、参詣(熊野詣)の便宜を得ることができないので、一向永年の念願は達せられず、そのため、邪気が時々自分の短所に付け入り、悪魔は頻と心の隙間に忍び寄る。地獄への苦患を抜き済し、後世の安楽に資するため、永く3菩提(3競3菩提の略、正等覚または正遍智と訳す)即ち仏の悟りを廻回し、仏心と奉仕に怠りなければ、向後知恵の光に浴するであろう。若し貧欲を以て、この寄進した田畑を横領するような者が出たならば、私の志は達せられなくなる。だが、そのような時は、熊野権現はじめ諸神が必ず御覧になっていられるから、お許しになることなく、きっと私の念願が収められるであろう。以上謹んで申上げる。

以上が大体、内待尚待(ないじのかみ)藤原氏が、当広庄並に宮前庄を那智山へ寄進した時の趣旨である。後述において更に触れるであろうが、古代末期から中世初期の間、上皇・法皇・女院及び公卿等貴族層の間に、熊野信仰と熊野参詣が盛んであった。当時の交通事情からすれば、この参詣は容易なことでなかった、にもかかわらずかよわい貴族女性の間にもその風習が及んだ。前記内待尚待藤原氏も、熊野詣は永年の念願であったと記している。だが、その機会に恵まれず、せめて自分の荘園を寄進し、信仰の本意を伝えたのである。
彼女の在世時代は、最早や藤原氏の全盛期も過ぎ、新興武士階級の台頭が始まっていたとはいえ、藤原一門の勢力を抜くものがなかった。それに彼女は荘園も所領し、宮廷にあっては、内待尚待という高い地位にもあった

従って経済的には何等熊野詣に支障はなかったであろうが、宮中での仕事の関係、それにも増して、僻遠難路という障碍が、なかなか彼女に参詣の便を得がたくしたのであったかも知れない。男性さえも容易な旅路でなかった。中御門宗忠は、天仁2年(1109)10月の熊野参詣に、随分路次の難儀を冒して遂に20有余日目、その宿願を果し得た程である。彼の日記『中右記』によると、その時の感慨を「難行苦行若存若亡、誠是渉生死之嶮路、至菩提之彼岸者欺。と洩らしている。まして、女性の藤原氏には、「雖運帰依志、更回得参拝之便、永年念願、専不成熱」と嘆かせたのであろう。
ところで、右の内待尚待藤原氏なる女官は、御堂関白と称された藤原道長の子関白教通(997〜1076)の女真子でなかろうかという説が、宮地直一博士著『熊野三山之研究」に見える由。教通は左大臣の時、兄頼通から氏長者を譲られ、娘歓子が後冷泉天皇后に入った機に関白となる。だが、後宮に入った娘に皇子が生れず、そのため外戚の地位が得られず、藤原氏の勢力は次第に下り坂になったという(高柳光寿・竹内理三共編日本史辞典)。
それはとにかくとして、内侍尚侍藤原氏は、藤原氏一門の氏長者の娘として、父教通の遺産分配に際して、比呂・宮前庄を所領することになったのか、或はまた、それ以前から譲与されていたのか、父教通死後10年にして、彼女は自分の庄園である比呂・宮前庄において免田各拾参町5反を熊野那智山領に施入して、現当2世安楽を願ったのであった。かくて、比呂庄が那智山領となる時代が到来するのである。然し、それが何時頃まで続いたのか、筆者は管見にしてその史料に接し得ない。


2  荘園制時代


前掲古文書は、繰り返しいうまでもなく、平安時代宮庭貴族の1女性が、熊野信仰に基いて、自分の荘園を那智山に施入した意趣を記したものである。
この荘園とは、律令制以前の豪族が私有していた土地を田荘と呼ぶと同様、律令制崩壊以後権門勢家の領有した土地のことである。
尊勝院文書の時代は、まさに、荘園制時代である。では、この荘園制時代は、どのようにして発生し、どのようにして成立したか。以下、若干述べておきたい。
前章において、極めて簡単ではあったが、大化の改新に始まる律令制度について述べた。この制度の最も根本理念は、公地公民の理想実現にあった。それが、完全に実を結ぶ暇もなく、この理想が次第に崩壊する。その根原の1つは、公地公民制度の不徹底にあった。即ち、貴族・社寺・官僚等に付与されていた特権、若しくは特典である(貴族・官僚には封戸・位田・職田・功田・賜田など。神社の神田・封戸。寺院の寺田・封戸など)。
さらにもう1つ、班田収授の口分田は、元来、終身用益権のみ認められ、所有権はなかった。ところが、死亡した者の口分田が、父祖から子孫に継承される慣習が生まれ、遂に私有地化に変貌する。それに加えて、多くの家族と奴婢を擁した富戸は、貧戸の口分田を買収し、没落農家を吸収兼併して、益々富をなした。ここにも、土地と富の扁在が生じるのである。
なお、また、貧戸の百姓は、重課から逃れんとして、班給田を捨てて浮浪人となり、権門勢家の領有地に逃亡し、そこで奴婢の如くなって働く者が頻に出るという有様であった。このため、国庫の収入が減少し、国の財政が困窮する一方なので、その対策として、政府は、養老6年(722)国費を以って1万町歩の開墾事業を進めると共に、その翌年、3世1身法を定めた(新たに池や溝を作って開墾した者は子孫3代、既存の施設を利用する場合は1代限りの所有権。)だが、この法も期待する程の効果が得られなかったので、天平15年(741)、遂に政府は、一切の制限を撤廃して、墾田永代私有令の施行に踏切った。
右の如くにして、早くも奈良朝後期、律令制国家の基礎に大きな割目が生じ、その後は急速に崩壊に向うのである。
そして、やがて、平安時代を迎える頃は、貴族・社寺・富戸など権門勢家の土地私有化が進み、所謂、荘園制時代の出現となった。これらの特権階級は、さらに新たな墾田と、それに伴う灌漑工事を行い、荘園の拡大を図った。それに要する土地は、貧戸から買収、または、山野占有等の方法によった。そのため、土地を無くし、入会地の山野も失った多数農民は、やむを得ず、権門勢家や社寺の門に降って、そこで開墾に従事し、耕作に従った。
初期荘園時代の頃は、その開墾に従事したのは、主に、貴族や寺院に隷属した奴隷であった。だが、上記の如く、農民から浮浪人に零落して、荘園に流入した者達も加わるようになった外、荘園近郷に住む班田農民も、やがて、1年契約で荘園の小作者となる。
このようにして、律令制社会から荘園制社会へと移行するにつれ、いつしか、郷名が廃れ、荘名が起る。前掲勝尊院文書で知る如く、当広川地方は比呂荘・有田市西部地区は宮前荘と称された。平安時代後期、有田郡内の荘名は、宮崎・保田・宮原・糸我・湯浅・広・藤並・田殿・石垣・阿豆川などの10荘が知られている。
一般的に荘園初期の時代は、荘園領主の土地直接経営であった。だが、次第にそれが間接経営に変化してゆく。平安後期、応徳3年(1086)、比呂・宮前本庄において、免田各拾参町5段を内待尚待藤原氏によって、熊野那智山に寄進されたが、その頃、既に、間接経営の時代となっていたと思う。次ぎにその間接経営への発展過程を、簡単に述べておきたい。
農業生産力の向上によって、荘園や公領に住む農民も、自力で開墾し、次第に墾田の所有者となるものが現れる。この墾田は、所有者の名を冠して名田と呼ばれた。当広川地方にも、殿に十郎、寺杣に権蔵原と名田が小字地名として遺るが、何時頃の名田か詳らかでない。とにかく、有力農民の地主化である。これを初め田堵といい、後に名主と称した。
かかる田堵、または名主層が、公領私領に成長してくると、中央貴族や有力寺院は、地方豪族の在地権力を恃んで、堵・名主を自己の荘園経営に動員する。これが、荘園領主の執った間接経営の一方式であった。
他にもう1つ、中央貴族や有力社寺が、荘園の本所、または、領所となって間接支配者の地位を得る場合が少なくなかった。
それは、地方豪族もまた、盛んに庄の内外にわたって、土地の開墾を押し進め、勢力の伸長を図った。ところが、一方では、名主層の進出、他方では、国衙からの侵略、重課の負担などがあった。この苦境を遁れる手段として、土豪自から土地を、名儀上、中央貴族や有力社寺の荘領に寄進した。寄進を受けた貴族・社寺は、即ち、荘園の本所、または領所となる。そして、名儀上、領主権を寄進した土豪は、本所または領所の荘官となり、荘園経営の現地執行者となった。
年貢の徴収その他、荘園管理は、この荘官によって行われたのである。
当広川地方には、古く鹿背庄司なる名が遺る。そして、この庄司、熊野8庄司の1人という。比呂荘が熊野那智山嶺となってから置かれた荘官であったのかも知れない。
ところで、比呂荘免田拾参町5反が、平安貴族の女性藤原氏によって、那智山領に施入されるが、それ以前、何時、誰の寄進によるものか、中央貴族藤原氏の荘園となっていた。その理由は、ここに改めていうまでもないが、この特権貴族の袖の蔭に保護を求めて地領の安堵を図ったものがいたのであろう。
比呂・宮前庄とも免田拾参町5反と、かく記載されている。特権階級の荘園としての性格が窺えるというものでなかろうか。荘園といえども、本来、租税貢納の義務を有した。だが、有力貴族、有力社寺は、その地位を利用して、免租の特典を確保し、これを不輸といった。免田とは、この不輸地のことである。なお、不輸の地は、検非違使の警察力の入部をも拒否し得るまで特権を拡大した。これを不入と称した。この不輸不入の特権が、さらに、一層、在地豪族の領地寄進を促進せしめたのであった。

3  熊野信仰


古代末期、皇族や公卿の熊野信仰が盛んになり、熊野参詣の行われたこと、さきに、若干言及した。比呂荘や宮前荘で、免田各拾参町5反が、那智山領となるのも、この熊野信仰に由来している。そこで、熊野三山信仰について、以下簡単に述べておきたい。
さて、熊野神社信仰の起原は、余程、古い時代に遡るであろうが、その名の顕れるのは、奈良時代からである。だが、それも伊勢の神に比較すれば、いまだ微々たるものであった。例えば、国家から受けた 封戸にしても、天平神護2年(766)、熊野牟婁美神が4戸。神護景雲2年(768)、速玉神が同じく4戸である。それに比し、伊勢宮は1、130戸の多きに上る封戸を受けている。因に、日前神の56戸、国懸須神の60戸にも及ばなかった。『新抄勅格符抄』「神符」・大同2年(807)『国史大系』所収)。

ところが、平安時代に至ると熊野三山は、日前・国懸宮はもとより、伊勢神宮をも遙に凌ぐ、貴族層の信仰を集めた。
熊野山は、早くから金峯山・大峰山に次いで、修験者の道場となり、その修験者の活動によるところ大きいが、本地垂跡思想に基く神仏習合が、当時の信仰を盛んならしめた。
熊野三山、即ち、本宮家津美御子大神は阿弥陀如来の垂跡、新宮中御御子速玉之神は薬師如来、那智熊野牟須美大神は千手観音と唱え、一大霊場となる基礎をつくりあげたことである。
かくして、院政時代、法皇・上皇の熊野参詣は、空前の回数に及び、女院や公卿の熊野参詣もまた同様であった。
永観2年(984)成立の『三宝絵詞』に、紀伊国は南海のきは、熊野郷は奥郡村也、山かさなり、河多してゆくみちはるかなり、(以下略)

と見える僻遠難路。その熊野路の嘘を冒して、皇族・貴族の参詣が極めて多かったのは、熊野修験者の活動が奏効の結果である。熊野参詣の功徳を説いて参詣者誘致に尽力した熊野宣伝係修験者は、即ち、先達・御師であった。この道者達は、経済力豊な貴族階級の間を説いて廻ったからであるが、そこには、もとより熊野信仰を受容する地盤が用意されていた。即ち、平安後期における浄土信仰の発展である。この浄土信仰の思想が、熊野は弥陀・観音の浄土とする考え方と融合して、古代末期以降における熊野信仰は、殊の外、盛んとなったといえるであろう。そして、後生安楽を願い
「奉寄所所領田畑、偏為永年御供養」(前掲古文書)という篤志に達し得るのである。平安時代後期、斯の如くして荘園寄進が主として、法皇・上皇・その他宮廷貴族の間で行なわれた(児玉洋一氏『熊野三山経済史』)。
冒頭に掲載した尊勝院文書は、いみじくも、如上の事情を物語る好適史料である。

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7、古寺追想



1  平安仏の遺存


有田郡市内には、平安時代以前の創建と目される古寺、または古寺址が多い。そして、平安時代以前に遡る古い仏像の遺存は、全く驚く程多数に及ぶ。わが広川町内においてもそれが幾体か知られている。例えば山本光明寺の薬師如来立像、西広手眼寺の十一面千手観音立像、上中野明王院の阿弥陀如来坐像と薬師如来坐像などである。
右の諸仏像は最初から、前記それぞれの寺院に安置されるために造顕されたという証拠があれば、甚だ好都合であるが、殆んどそれがない。ただ手眼寺観音像にだけは縁起書があるが、これとても本当の造顕年代を伝えるものでない。かつまた、長い歴史の途中でいろんな資料が煙滅して、いま、われわれの眼に触れるのは、僅にその一部分に過ぎない。
しかし、前記の諸寺はいづれも、かつては、隆盛を極めた古刹との伝承がある。そこで、その伝承は事実を伝えたものであるか、否かを検討すると共に、この仏教文化の織りなした過去の広川文化を探ねて見たい。
ところで、拠りどころとなる古文献がある訳でないから、どうしても歴史考古学的立場から、また地名考証から試みる外ない。普通、寺院に関する考古学的資料としては、古瓦が最も重要である。だが、残念ながら前記3ヶ寺にはそれの出土を見ていないので、創建年代推定には極めて困難なものを予想するが、順次試みて見よう。

2  光明寺



広川町において上代仏の遺存は、前記したように、山本の光明寺、西広の手眼寺、上中野の明王院である。
王院は広八幡神社の別当寺であった仙光寺塔頭の1つであり、同寺の中で最後まで残った寺である。

右3寺院のうち、先づ、光明寺から見ていこう。同寺は山本台地の東端に近く位置し、池ノ上古墳群のすぐ東側の地点である。そこは地名を薬師堂と称する。そして、その東側に続く地名を堂ノ垣内と呼び、南側は赤井段(関伽井段。仏に供水する井戸か泉のあった段の意)という。明らかに古い寺域を思わしめる地名が遺る。
「紀伊続風土記』は、「村中にあり往古は伽藍地なりしに天正の兵火に焚すという」と記しているが、同書編纂当時、同寺の衰退を天正の兵火に帰する伝承があったらしい。これが単に伝承でなく、事実であったか否かについては、慎重な考察が必要と思う。
それはさておき、同寺は薬師如来を本尊とする相当の古刹であった模様。そして、続風土記が記す如く、かなりの伽藍地をなしていたこと、前記地名から、ほぼ想像できる。
まづ、同寺について考える場合、仏像・地名の外、注意に上るのは、板碑と経塚である。板碑は現境内現存のものは、鎌倉時代の作例としては古い方である。旧境内に遺存のものは鎌倉末期か南北朝時代の作品と思う。経塚は、同寺の南方程近い丘陵が経塚山と称し、附近の地名も経塚であって、頂上に遺跡があった。古くから掘れば、祟りがあると伝えられて来た場所であるが、僅に樹木が残っているのみで、その跡は明らかでない。既に周 周囲が開墾が行われているので、破壊の厄に会ったとも思われる。附近からは、鎌倉時代の様式をもつ五輪石塔幾基かが発見されている。
さて、最初に戻って、仏像から観ていこう。薬師如来立像は高さ154・5れでかなり大きい。地方作らしい木造彫刻であるが、時代は平安後期の作。脇待日光・月光菩薩も同時代の作と思われる。薬師堂の地名が遺り、いまその地の薬師堂内に安置されているが、昔はもっと、大きくて立派な堂の本尊であったであろう。
板碑は前記した如く、鎌倉時代遺品中古作に属し、おそらく、県下でも余り比類多くない古さを有する。しかるにこの板碑に「三界万霊等、元禄拾4年巳7月15日、延空大長代」と後刻され、僅に、弥陀の種子梵字キークのみ、もとの刻字が窺えるだけである。他の1基は近くの田圃の岸にあり、種子の梵字はバイで、薬師を現すほか、刻銘は見当らない。前者に比してやや年代が下ると見られるが、前記の如く鎌倉末期か南北朝時代の石造遺品である。共に昔の同寺を幾分物語るものといい得よう。
地名については、改めて説明の要はないが、薬師堂・堂垣内・赤井段(病伽井段)、この3地名の占める地域が、かなりの広袤を有する。これが、旧寺域であったとすれば、広大な寺院境内であったとせなければならない。従って、そこに建立されていたであろう伽藍も、かなりの規模を有していたことであろう。
次ぎに経塚である。経塚とは、平安時代末期から行われ、鎌倉時代に最も盛行した埋経遺跡である。そして、室町時代ようやく衰微し、やがて終止した。末法思想から行われた仏教遺跡で、将来に備えて経典を埋蔵し保存を図ったことに始まる。
ところで、山本経塚山の経塚は、いったい、何時代の遺跡であろうか。前記した如く、同遺跡からは鎌倉時代様式の五輪石塔が発見されている。これをもって、この経塚の年代推定資料として、おそらく、大過ないであろう。
右の如き次第で、光明寺の盛時は、けだし鎌倉時代 およびその前後であったと推想される。おそらく創建は、薬師堂本尊が示すように、平安時代後期を降るものであるまい。
ところで、この光明寺は、現代浄土宗西山派に属する。上中野法蔵寺末となったのは、何時の頃からか、確かな資料はないが、おそらく近世に至ってであろう。同寺は創建時から現在の宗派に転宗するまでは真言宗であったとの説がある。その頃の同寺に関係ありとされる1・2の事柄を、左に叙述してみよう。けだし、同寺の隆盛期を想わせるものがある。

池ノ上地区の水田は、殆んど溜池から灌漑用水を仰いでいる。そのうちで、最も主要な溜池は、光明寺池である。
池ノ上水田の大半はこの溜池によって養なわれてきた。
この光明寺池なる名称は、いうまでもなく、前記光明寺の寺名を移したものである。同寺の住僧が勧進して造った池か、或は池ノ上地区が、同寺寺領ででもあって、その頃、同寺によって造られた池か、いづれにしても、この池の造成には、間違いなく隆盛期の光明寺が関係していたと見てよいであろう。
この池ノ上地区は、古墳時代からの集落地である。水田もその頃から確に開かれていたであろう。その頃は専ら、明神山から流れ来る水や雨水を直接田に引いたに相違ない。それが、やがて溜池造成技術が進んで光明寺池の造成となったと思われるが、その時代については少くとも中世前半か、古代末期であったであろう。とにかく、山本光明寺創建後であったことは間違いない事実としてよい。
ところで、現在の池ノ上は、どう見ても、池ノ上なる名称に合致する地でない。幾つか現存する池は、殆んど集落より高所に位置する。だが、この不思議な呼び方は、決して、不思議でない時代があった。それは、何時の時代までか、この集落は、或る池の上手に位置を占めていたのである。その池の跡を、いまなお、大池と呼んでいる。池ノ上と西広との境に近い一劃であり、西広田圃灌漑用の溜池が、かつて、そこに所在していたので、正式な小字地名は下代であるが、一般に大池で通っている。その大池が何時の頃にか埋立てられて水田に変えられたのである。代りに西広の北谷に新たな溜池が造られたという。
さて、この事業を行ったのは、誰か、そして、何時の時代であったか。これが、山本光明寺に関係する事柄として、次の如き伝承がある。
大昔のこと、山本の光明寺は、下代の大池を埋立て、そこに田圃を造った。その代り、西広北谷に、いまの北谷池を造って、西広水田用の池とした。そして、田圃に変えた大池の跡は長く光明寺領であった。それで、いまでも、山本の飛地である。そのため区費や水利費は山本区に納めることになっている。
右の伝承では、光明寺が大池を埋立てしたのは、単に大昔しというだけで、時代が明確でない。だが、近世でないことは確である。近世においては同寺もそれ程の事業を遂行するほどの勢力は有しておらなかったと思われるからである。すると、その盛時を謳った中世以前ということになるのであるまいか。
とにかく、光明寺はその盛時、前記した如く、広大な寺域を擁して、そこに相当な伽藍配置を有した大寺であったことが想像される。その頃は、池ノ上・山本地区は、同寺の寺領であったとの口碑も残り、さらに、西広地区までそれが及んでいたのであったかも知れない。
右に述べた如き、大土木事業を実施したとすれば、相当な経済力と、それを可能にした所領的条件が備わっていたと解される。
ところで、それ程の大寺が、何故、現在の如き小寺院に衰退したのであろうか。この原因については、最初に挙げた『紀伊続風土記』の記事も、全く事実無根と、軽々しく1蹴してしまう訳にもゆかないと思う。最近、同寺境内の墓所整備中、地下から火災に罹った、中世の古瓦が発見されている。同古瓦は創建時を示唆するものでないが、或る時期の火災を如実に物語るものである。
天正13年(1585)豊臣秀吉は兵を動かして、紀州の中世的旧勢力打倒を行った。根来寺や太田城はじめ、有田地方では、岩室城、鳥屋城、その他有力社寺も、その軍に、或は陥され、或は焼かれている。広川地方においても土豪湯川氏や能仁寺、広八幡、そして、この光明寺が兵火にかけられ、灰燼したと伝えがある。能仁寺は寺領40町を有した地方の大寺院であり、光明寺もその頃まだ相当な寺領を有して勢力を保っていたのであろう。

ところで、同寺の創建にはこの地方の豪族が背景となっていたこと想像に難くないが、それが6・7世紀ごろ、池ノ上に古墳群を形成した豪族達の後裔かはたまたこれに代って新たな勢力者が存在していたか。とにかく、旧光明寺はかなりの規模を有した古刹である。その背後には、相当有力な地方豪族が存在したこと、また念頭に浮ぶ1つである。と云っても具体的な人物像として、それが浮ばない程資料に欠けている。
同寺は、昔の寺領の一部であろうか、極めて最近まで、寺田や寺山を所有していた。寺山は殆んど蜜柑畑に開墾されていたから、敗戦後の農地改革で、田と共に小作人の手に渡ってしまった。

3  手眼寺



かつて、西広の観音さんで知られた手眼寺は、現在浄土宗西山派に属するが、無住寺院となり荒廃ひとしおである。小堂と庫裡各1宇のみ僅に残る有様だが、小堂内に安置の十一面千手観音立像(像高121)は平安時代後期の様式を伝える古作である。
ありし時代には遠近善男善女の厚い信仰を集めたこの古仏も、いまは在所の篤信家によってささやかな供養を受けているに過ぎない。しかも、近世末期の大補修で長い歴史の経過も新しい金箔の蔭に埋没して、詳細を知る由もない。
ところで、この観音像とこれを本尊とする手眼寺について、1巻の縁起書が現在西広の法昌寺に所蔵している。
だが同書も近世の大補修と同様、真相を覆い隠している部分が多く、これをもって直ちに本当の沿革を知るという正確な史料となし得ない。
縁起書の内容については後述で若干触れるが、そのまえに同寺所在地、大字西広小字寺谷に関する伝承を挙げておこう。
現在の西広集落は、海岸に近い沖積平地に集中しており、その中心部附近に浄土宗西山派の法昌寺がある。この法昌寺がもと現在の手眼寺のあたりに所在し、寺谷の地名はそこから起ったと地元の云い伝えがある。その真疑についてはにわかに明確な答を出し得ないが、手眼寺は最初から此処にあった寺院でないこと、次の理由から推想できる。
同寺の山号を「独開山」と称する。この山号は同寺の旧所在地名から名付けられたものであること、以下の叙述において明らかになるであろう。
西広寺谷の西南方に小字地名独開と呼ぶ土地がある。南は山で、その山麓台地とその奥に続く谷間がこの地名を持つ。紀勢線がそこを通っているが、鉄道線路の附近に夏みかん畑があって、この1劃が今もなお昔の寺跡という伝えがある。それを立証するかの如く、中世の五輪石塔や板碑が出土し瓦器も発見されている。手眼寺が寺谷の地に移建される以前、この独開に所在していたと縁起書にも見えるが、この点は事実を伝えていると思う。
手眼寺の山号「独開山」は間違いなくこの地名に由来する。なお、さらに、この地域が旧寺城であったことを物語るのは、独開の奥地に「とうのたに」と呼ぶところがあることだ。即ち「塔の谷」で、かつて塔のあったことを立証するものとして甚だ注意を惹く。
もう1つ、この地域が古い伝承の地である1事を挙げよう。この西広に旧家谷氏があるが、同家は往昔独開にあり、別当を職とした家柄であると伝える。いまもその屋敷跡と称する場所が遺っている。往古、手眼寺が独開に所在したころ、この寺院の別当職にあったが、同寺衰退後、その職を退いて帰農し、屋敷も現在の場所に移転したという。別当とは大寺におかれた寺務統轄の僧官で、天平勝宝4年(752)良弁が東大寺別当になったのがその最初である。それより諸大寺に別当職が置かれたが、手眼寺においても古い時代には寺務統轄のため別当を置いたのであろう。同寺はかつて別当職を必要とする程の大寺院であったことが窺えるのでなかろうか。
更にもう1つ書き添えておきたいのは、独開の旧寺域内に古くは楠の大樹があった。その大樹の下に小祠が長く残っていたというが、この小祠が手眼寺の鎮守であったと想像される。
ところで、同寺創建の時代については確なことは判らない。だが、現在の手眼寺に遺存する十一面千手観音の造顕年代から推測するなれば、平安時代後期を降るまいと思われる。仏像は移動可能の物体であり、ただこれのみに拠る訳にはゆかないが、前記した事柄などをも併せ勘考するとき、右の推定は、必ずしも失当とはいい得ない。とにかく、前述の山本光明寺と共に当地方古代寺院の1つである。
ところで、手眼寺縁起によると、同寺の観音像は奈良時代後期の名僧行基の作だと伝える。これは有名な行基の名を借りて勿体を付けた伝承に相違ないが、参考までにその概略を記すと次のとおりである。
西広の海上に夜々光るものがあった。それは海中の瀬に懸る巨大なムロの木で、これに触れるとたちまち病を得た。時に行基の巡錫があり、この事を伝え聞き、この名僧は1刀3礼をもって、海中にあったムロの巨木で千手観音像を刻んだ。そして、独開の地に安置したのが手眼寺の本尊である。山号を独開山と云い、寺号を手眼寺と称して奈良時代の開基である。
無論右の伝承は後世の作為であるが、現在の同寺本尊は、この伝説を生む程見事な作であったことが窺える。
先記した如く、甚しい補修が加えられ、金箔も置き替えられて一見往昔の優れた尊容が全く影をひそめたといえるが、よく拝観するとやはり見事な古代仏像であることが認められる。
ついでに記すと、手眼寺観音像縁起に似た伝説は、湯浅町青木の興福寺本尊阿弥陀如来像に関する云い伝えである。海中に夜々光を放つものがあり、そのため湯浅沖では全く漁獲がなくなった。困った湯浅の漁民達がその光る物体に舟を榜ぎ進めてよく見ると、1本の巨木であった。それをもって刻んだのが今もなお興福寺に安置する阿弥陀如来像である。これより湯浅沖での漁獲はもとに復したという。ここでは、仏像の作者を行基とも空海ともいっていないが、海中で光る巨木で刻んだ仏像であると伝えるのは同様である。この他にも同巧異曲の伝説が甚だ多い。因に記すと青木の興福寺阿弥陀如来坐像も藤原仏である。
ところで、独開から現在の寺谷に移したのは、室町時代末期か桃山時代、唐尾の旧家栗原氏の祖先が寺谷に寺地を寄進して、そこに移し興隆を図ったと、縁起書に見える。この時代には既に同寺も往昔の隆盛はなく、相当衰退し、建築物も昔の姿を殆んど留めないまでに朽損していたか、崩壊していたのであろう。同寺はもと真言宗であったと云い、明秀が上中野に法蔵寺を開基して、その後、この地方に浄土宗西山派が拡まると、この寺も改宗して法蔵寺の末寺となったと伝える。因に記すと手眼寺の縁起書は江戸時代の作である。同縁起書に云う程、時代の遡る古刹でなかろうが、平安時代創建の寺院であったことは想像に難くない。

4  仙光寺


広八幡神社の北側に、小さな堂が1宇残っている。この小堂も今は廃堂寸前の状態である。これが、かつて隆盛を誇った明王院の現状かと、いささか感に堪えない。
明王院は、広八幡神社の別当仙光寺6院中の1院であった。6院というのは、明王院、薬師院、不動院、千光院、弁財天院、花王院の6院をいった。近世末期までは、このうち明王院と薬師院が残っていたが、明治初期の神仏分離によって、広八幡神社の別当職を離れたこの2院は、特定の檀家を持たなかったために、急激な衰微が訪づれた。そして、薬師院が逸早く廃頼し、残る明王院も寺領からの年貢で、ようやく維持してきたが、次ぎ次ぎ建物や寺宝什器の類は散逸し、現在、建造物では、上記の1宇のみとなった。この小堂は、同寺の護摩堂であったという。いま堂内に、室町時代の十一面観音立像を安置している。
ところで、明王院の仏像・仏画と称されて、現在知見に上り得るのは、重要文化財指定を受けている木造阿弥陀如来坐像・同じく木造薬師如来坐像の2船と指定外の木造大日如来座像・同持国天像・多聞天像の以上5体、大阪四天王寺宝物館に出陳のもの。この外、広安楽寺に保管を依頼している若干の仏像と仏画、それに大般若経6百巻等である。このうち、重文の木造阿弥陀如来坐像は、定朝様の作品で藤原仏と観られており、同じく重文の木造薬師如来坐像は、地方作であるが藤原中期の作風を伝える古仏といわれる。そして、上記天部の諸像は鎌倉時代の作。その外安楽寺保管に関る遺品の数々は鎌倉時代から江戸時代のそれにわたっている。
近世末期作成の同寺目録には夥しい品名が記載されている。今その一部が遺存し、前記の場所に保存されている訳であるが、その中で阿弥陀・薬師両像は、仙光寺創建と深く関係を有する仏像と看做すべき遺品であろうか。
阿弥陀如来像は、仙光寺本地堂の本尊として、薬師如来像は、薬師院の本尊として、それぞれ安置されていた仏像であったに相違ない。明王院は何明王を本尊としたか定かでないが、木像・画像の不動明王が遺る。旧不動院遺物か、明王院のそれか。その他様ざまな夥しい寺宝什器の類が前記目録に挙げているが、その当時既に廃絶した仙光寺・諸塔頭遺品で、明王院所有となっていたものが少くないであろう。
さて、現在知見し得る明王院遺品から仙光寺創建を推測するなれば、どうしても、前記重文の2仏像の造顕年代との関連性が問題となる。既に述べた如く、薬師如来像は地方作ながら藤原も中頃の作、阿弥陀如来像は定朝様の藤原時代作、いづれも鎌倉時代より遡る時代の作品。仙光寺の創建と上記尊像の造顕と関係ありと観るなれば、必然的に同寺の成立は平安時代後期と看做されるであろう。
しかし、この問題は、そのように至極簡単に片付く問題でなさそうである。
仙光寺は広八幡神社の別当寺であったこと前述の如くである。神社の別当寺とは、社務を統轄する僧職の住する寺院のことで、中世以降珍らしいことでなかった。それは本地垂跡説に基づく神仏習合思想に由来し、特に密教の金剛界・胎蔵界の両部曼茶羅にそれがよく表徴されている。この本地垂跡説を判り易くいうと、日本の神々は仏・菩薩の権現。衆生済度のために仏・菩薩が姿を変えて日本に現われたのが日本の諸神という説である。そして、八幡神は阿弥陀如来の垂跡としている。従って、広八幡神社の別当仙光寺の本尊は阿弥陀如来であった筈である。いま明王院遺仏と伝えられ、大阪四天王寺宝物館に出陳の前記阿弥陀如来坐像こそ、かつての仙光寺本尊であったに相違ない。
この仙光寺、その盛時には塔頭6院に及んだこと、さきにも述べたが、薬師院・明王院の外は早く廃絶し、近代初期、神仏分離政策に会って薬師院が廃退し、残る明王院も廃寺同然。別当仙光寺の盛時景観は今知る由もない有様である。
ところで、別当仙光寺に関する限り、その成立年代(特に別当寺として)については、後述の広八幡神社創建推定年代との関連性を考慮する場合、まことにむつかしい問題が介在する。
仏教界、特に真言密教においては、平安時代中期から本地垂跡説をしきりに唱えているが、広く両部神道の行われるようになるのは鎌倉時代からである。それ以後室町時代には一層盛んとなり、近世江戸時代まで続いてきた。かく観るとき、仙光寺は広八幡神社別当寺として最初から建立されたか否か、特に前記2?の藤原仏は、この問題を非常に難解なものにする。もっとも、広八幡縁起所説の如く、同神社の勧請は遠く古代に遡ると素直に受け入れる場合、早く平安時代から神仏習合思想に基く別当寺建立もあり得たかも知れない。しかし、後章において考察を加える如く、広八幡神社の創建は、おそらく鎌倉時代初期より遡らないと推測されるのである。従って、仙光寺が同八幡神社の別当寺となるのも、この時代を越えては考えられない。
参考に記すなれば、熊野三山の如く非常に早くからそれが行われている例もあるが、前記した如く両部神道の盛んに行われるのは鎌倉時代からであり、そのうち特に八幡宮が神仏習合思想の摂取に積極的であった。後述で若干触れるが、当町前田の津木八幡、上津木中村の老賀八幡にもそれぞれ神宮寺または別当寺がかつて存在した。
さて、別当寺としての仙光寺の成立が、鎌倉時代と看做すとすれば、今は明王院仏像と称されている弥陀・薬師2体の藤原仏の遺存と、仙光寺の創建とどのように結び付けて考えてよいのであろうか。もっとも都合よい解釈をすれば、仙光寺の草創と上記両仏像の造顕年代の一致である。すると、広八幡神社創建以前から、あの森の附近に仙光寺が建立されていたという解釈も成り立つ。だが、この解釈だけが唯一のものでない。鎌倉時代に仙光寺建立に際して、堂ごと、或は仏像だけ何処かの古寺から移されたと想像することもまた可能である。もっとも、重文以外の木造大日如来像や同持国天・多聞天像(重文の弥陀・薬師2像と共に現在大阪四天王寺宝蔵内に保管)は鎌倉時代作であり、その他にも鎌倉期以降の諸像がかなり現存するが、これらの仏像は最初から別当仙光寺およびその塔頭寺院に安置を目的として造顕されたと見て誤りないであろう。
右2とおりの観方が、果して何れが史実に合致しているか、この判断は現在筆者には全く自信がない。だが、仮りに仙光寺が平安時代創建の寺院と見るなれば、それにはそれだけの土地柄というか、文化的条件というか、そのようなものが存在していたかに推想される。特に仙光寺平安時代創建説を支持するという意味でなく、参考として左に略記したい。

既に述べたことであるが、あの附近は、縄文・弥生・古墳時代へと続く、原始・古代遺跡である。なお、出土する須恵器片から奈良・平安に続く遺跡地であり、広八幡丘陵南隣り水田地下から平安時代と推定される古い形式の碗型瓦器が発見されている。とにかく鎌倉時代以前から随分古い文化の跡を遺した地域である。そして、この八幡丘陵の森中に「旭姫の塚」と呼ばれている少し土の盛り上げられた遺構が存在する。小さな円形古塚かと想像されるが、附近に小型五輪石塔が並べられているところから、中世の経塚であるかも知れない。とにかく、どちらが造られても決して不思議の地でない。それはさておき、この長期にわたる古文化遺跡地には、平安時代に寺院建立を志した土豪もいたかも知れない。或は湯浅氏の祖が、広庄にも勢力を伸していた時代の建立でないかとの想像も及ぶところであるが、これなども単なる空想に過ぎない。
なお、ついでに一言付け加えるなれば、この丘陵は古代から附近集落民の神祭祀の森であったとの想像もまた可能である。その丘陵に、鎌倉時代新たに八幡神社が創建され、それに伴って仙光寺が別当時として社務を執り、両々相まって近世初頭まで隆盛を見たのであった。それが現在、仙光寺およびその塔頭6院は見る影もなく廃退し、昔を想像するにも困難な状態である。天正13年(1585)3月、豊臣秀吉の紀州征伐の兵火にかけられ殆んど灰燼したとのことである。
なお、もう1つ記して参考に供したいのは、水原堯栄氏著『高野版之研究』に応永8年(1401)広庄において開板の経巻あること載せているという。その経巻とは、金剛三昧院蔵の8名普密陀羅経、宝蔵院蔵の阿弥陀経の2種である。その奥書に「執筆明尊、願主金剛仏子円位、応永8年卯月於広庄開板」とある由、応永8年頃に広庄において版木が起されたとすれば、仙光寺が最も有力な該当寺院と看做されてよいのではなかろうか。同寺の外にも山本光明寺、名島能仁寺なども当時は、広庄内における有力寺院であったが、やはり、前記2経版木は仙光寺にておこされたものと想像されるのである。

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